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2006年3月

2006年3月30日 (木)

物理学史覚え書き

 これは私が池袋の電子専門学校で物理学の講師をしていたときの講義録

 の一つです。

  表題「物理学とその歴史」

学問には科学的なものと非科学的なものがある。

 非科学的なものの例 → 文学,音楽,美術など

 

 科学とは?=いくつかの仮説,あるいは公理にしたがって論理的

 な方法論で実証的体系的に論じた知識。

 自然科学と社会科学がある。

1.科学の歴史

ギリシャ時代=自由な発想の時代 → 中世暗黒時代

(キリスト教会専制)=アリストテレスの世界観が支配(形而上学

=不可知論)

 形而上学とは?=現象を超越しその背後にあるものの真の本質,

存在の根本原理,存在そのものを純粋思惟あるいは直感によって研究

しようとする学問。神,世界,霊魂などがその主要問題。

(広辞苑による) → 必然的に不可知論におちいる。

 

 不可知論とは?=意識に与えられる感覚的経験の背後にある実在

は論理的には認識できないという説。

 → これらは信仰には向いている。

中世暗黒時代の終わり(← ペストの大流行)→ 宗教改革,

ルネッサンス→ 懐疑論の流行→ 科学のギリシャ時代以来の復権

→ 産業革命(1760年代)

2.物理学の歴史

 物理学と数学はなぜ密接な関係にあるのだろうか?

 ギリシャの自然哲学=ゼノンの背理,デモクリトスの原子論,

  ピタゴラス,アルキメデス 

 ソクラテスとプラトン→ アリストテレスの世界観

  =物体は押したり引いたり力を加えていなければ止まってしまう。

 → これを否定したのが,ガリレイ,ニュートンの力学的世界観

 =因果律の悪魔­=ラプラスの悪魔 ――→ 量子力学によって完全に

  否定される。
 

 力学的世界観 → 熱も電気も力学で説明しようとしたが失敗した。

 力学的世界観によると"波動­=振動"は媒質がないと伝わらない

  → "媒質のない波=電()波=()"の存在

  → マッハ原理アインシュタインの相対性原理,

  ここまでが古典物理学

 現代物理学の夜明け=量子論の始まりと古典論からそれへの移行

3.問題

(1)1/30.333333…….である。では 1=0.9999999….は正しいか?

(2)死刑囚A,B,Cがいて3人のうち2人は明日処刑され残り

1人は死刑を免除されることが決まっているがそれが誰かは看守

しか知らない。

 この時点でAは自分が処刑される確率は2/3 であると思った。

 そこでAは看守に自分のことは教えてもらえないだろうが他の

人のことならかまわないだろうと言って看守にB,Cのどちらが

処刑されるのかとたずねたところBだと答えられた。

 この時点で明日処刑される残りはA,Cのどちらかであり,確率

  は 1/2 に減ったとAは思って喜んだ。さてこのAの思惑は正しい

  のだろうか?

(3)ジェット機で世界一周しても中は無重力でないのに,なぜ

  地球周回のシャトルでは中は無重力なのだろうか?

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算数の問題(エレガントな解答を求む)

 頭の体操として1つ算数の問題を出しますね。

でたらめな形の四角形が1つあるとします。

 

その4つの辺を,それぞれ3等分してその向かい合う点同士を直線で結ぶとやはりでたらめな形の9つの小さい四角形ができます。

 このとき真ん中にできる小四角形の面積は,元の四角形の面積のちょうど1/9 になることを証明しなさい。

 以上です。小学生(中学生かな)程度の知識だけで解けるはずです。

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2006年3月29日 (水)

淡い初恋

 現在,50代独身の私にも,もちろん初恋というものがありました。

 それが,初恋だったのかどうか,小学校1年のとき,法事かなにかがあったからでしょうか,大阪から小学校3年のイトコのえっちゃんが倉敷市玉島長尾(当時,玉島市長尾)の田舎の自宅に,伯母といっしょにやって来ました。

 やはり小学校3年の次兄や,近所の友達なんかといっしょに,「おにごっこ」かなにかをして自宅の裏庭で遊びました。

 当時,末っ子の私は,2つ上の次兄に,いつも金魚のフンのようにくっついていたんですね。

 「インジャン・インジャン・ホーホイナ」,今でも覚えています。ジャンケンのことをインジャンというのですね。そのときはじめて知りました。

 何か,新鮮なものをおぼえて,彼女の顔をみつめて,幼い胸がしめつけられるようなせつない思いをしました。

 それから,しばらくは彼女の名前は悦子っていうんだろうと勝手に思ってましたが,大きくなって本名は幸恵と書いて「ゆきえ」と呼ぶのだと知りました。

 何で「えっちゃん」っていうのか?は,きっと最後の「え」だけをそう呼んだんだろうとしかわかりませんが,今でも身内の間では「えっちゃん」と呼んでいます。

 何と現在は,あの次兄の嫁になっています。

 実は血はつながってないのだということも,「おとな」になってから知りました。

 子供がなかった伯母の養女だったんですね。

 感性がすっかり衰えた今でも鮮明に思い出せる,あれは本当に初恋だったんでしょうか。。?

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2006年3月27日 (月)

サルにもわかる相対性理論④

 2.もしスピードに限界があったら

 前節では有限のスピードあるいは無限大のスピードで走っているもののスピードを,止まっている人と走っている人がはかったらそれぞれどうなるか?というお話をしました。

 でも無限大のスピードって不自然だとは思いませんか?

 アメリカの西海岸と日本のたとえば東京を結ぶ,非常に硬いがとても軽くて動きやすい棒があったとして,アメリカの西海岸で棒の端を押すと,まったく同時に東京にあるほうの棒の端も押されて動く。

 こんなことが可能なら,これはとても便利な通信方法になりますね。なんせ通信スピードが無限大なんですからね。

 現実には現在もっとも速い通信方法は無線電波をとばして行なうもので,その最大スピードは約秒速30万kmであることが知られています。

 光も電波と同じスピードなので,結局光は電波の一種ではないかという推測がなされ,現在ではその通りであるということがわかっています。

 では,ものが伝わったり運動するスピードには限界があるのでしょうか?

 まあ,いままでの話や常識を考慮するかぎり限界スピードがあるとするほうが自然ですね。

 では,限界スピードがあってそのスピードは秒速30万kmであるとしましょう。これは光のスピードですね。

 もちろん,限界スピードというのは実際に観測者が測ったときの最大値であるという意味ですから,あるスタートラインから同時に反対向きに光が進んだとき1秒後には60万kmはなれている。

 2つの光の先頭が1秒間に60万kmはなれるから,これは秒速60万kmじゃないか,限界を超えているよ。というようなものを否定するわけではありません。

 でもこれは何かが伝わったり,運動したりするスピードですか?

 そうじゃなくて,いわゆる「絵に描いたもち」のようなもので,実際に世の中に存在するものの,伝達スピードや,走るスピードではないですね。

 これこそ算数の上でのスピードでしかありませんから,わたしたちの物理で考える限界スピードが秒速30万kmであるというのとは無関係ですね。。

 そういう頭の中でやる算数のような話とははなれて,実際にものが走るスピードが限界速度に等しいとしたら,どうなるかという話にもどりましょう。

 まず,限界速度というのは先に述べた無限大のスピードとまったく同じ性質を持つものでなければならない,ということがいえます。

 なぜなら,C君が限界スピード秒速30万kmで走っていて秒速10万kmで走っているB君とすれちがったら,常識ではB君の測るC君のスピードは秒速40万kmになるはずですが,

 これはすでに限界速度である秒速30万kmを超えるスピードになっていますから,秒速30万kmが限界であるということに矛盾しています。

 だから,ここは,常識の方を忘れて,この場合でもB君のはかるC君のスピードは限界の秒速30万kmのままであるとします。

 つまり限界スピードにどんなスピードを足しても限界スピードのままである,という無限大スピードの性質が成り立つと考えるのです。

 さらに拡大解釈して,スピードの引き算についても限界スピードには無限大スピードの性質が成り立つということも仮定することにしましょう。

 でも,これはどういうことでしょうか?

 止まっていたA君の時計が1秒きざむうちに,C君は確かにスタートラインより後ろに30万kmのところに到達しており,同時にB君はスタートラインより前に10万kmのところに到達しているので,A君にとって1秒後に2人は40万kmはなれています。

 なんで,秒速40万kmではなく秒速30万kmなんでしょう?

 ということは,「B君にとっては,2人の距離が40万kmより小さい」のか?,あるいは「B君の時計はA君の時計が1秒きざむあいだに,もっと速く進んで1秒より大きかった」のか? 

 実は,どちらでもないということがわかります。

 というのは,B君は同じようにスタートラインから秒速10万kmで進むとして,C君の方が,こんどはB君と同じ向きに限界スピード秒速30万kmで走る場合を考えてみればおかしなことに気がつくからです。

 この場合もB君の測るC君のスピードは秒速20万kmではなくて,限界速度の足し算,引き算の法則によって限界スピードは変わらない,つまり秒速30万kmでなければなりません。

 限界スピードはだれが測っても同じで,それは走る向きによって変わるようなものであってはいけませんからね。

 おかしいですね。

 B君の時計が1秒きざむ間にC君は確かにB君よりちょうど20万km前にいるはずですからね。

 なんで秒速20万kmでなく秒速30万kmなんでしょう?

 それじゃ,こんどはB君にとっては2人の距離が20万kmより大きい」のか? それとも「A君の時計が1秒きざむうちに,B君の時計はもっと遅れて1秒より小さかった」のか?のどちらかでしょうか?

 ちょっとまてよ,C君がどちら向きに走ったとしても,B君は関係なく同じ向きに同じスピードで走っているのですから,A君の時計が1秒きざむうちに一方では進んで一方では遅れるって,そんなことは絶対にありえませんね。

 では,B君がC君のスピードを測るというのは実際にはどうするのでしょうか?

 その前に,A君がC君のスピードを測るといっても,実はA君は止まっているんだから,1秒後に30万kmはなれたところでストップウォッチを押すのはA君じゃなく,A君と同じように止まっているA君から30万kmはなれた誰か別のD君が彼の時計でやるんですよね。

 そして,D君の時計があらかじめA君と同じに合わされてるなら確かにC君のスピードを正確に測ることができるでしょう。

 B君が測る場合も,時計と距離を同時に見るのはB君ではないですね。

 B君は実は,B君の両側に50万km,長さ100万kmの電車に乗っていて,その電車はB君を乗せて秒速10万kmで走っていると考えます。

 この電車の中ではB君はその中央で止まっています。

 でも,A君からはB君が秒速10万kmで走っていると見えます。そしてこの電車にはもちろん窓があって外でC君が走っているのも見えます。

 そして,電車のかべにはB君のいる電車中央からの距離がいたるところ目盛りで書いてあり,また,あらかじめB君の時計に合わせた時計を持った人がかべの目盛りごとに張りついて,ずらりと並んで電車に乗っています。

 A君,B君,C君がスタートラインに並んだ瞬間を時刻 0 秒とします。

 このときは,A君とB君の時計はともに 0 秒で確かに同時です。

 そしてA君の時計が1秒を指した瞬間には,C君と並んだD君(A君から30万kmはなれていて時計は1秒を指している)と,同時に目盛かべに並んでいる電車内のE君がC君とも並んでいて距離と時計を同時に見るのです。

 これがB君にとってのC君のスピードを正確に測る方法ですね。

 では結果はどうなんでしょうか?

 まず,A君とD君にとってはC君は1秒後にA君から30万kmのD君のところにいてその速さは秒速30万kmです。

 しかし,B君とE君にとっては,結論からいうとつぎのようになります。

 おおよそですが,スタートラインでB君とC君が逆向きにすれちがう場合には,B君と同期したE君の時計は1秒ではなく1.4秒,電車内の距離は40万kmではなく42万kmを示しています。

 だからB君の測るC君のスピードはやはり秒速30万kmなのです。

 また,B君と同じ向きにC君が走ってB君(B君の電車)が追いかける形のときには,E君の時計は0.7秒を指していて距離は20万kmではなく21万kmを示しており,

 やはりC君のスピードは秒速30万kmです。 不思議ですね。

 どういう計算をしたのでしょうか?

 この計算は,実はどんな運動をしていても限界スピードは秒速30万kmが変わらないということをもとにしたら,どうしても測る人によって距離も時間も変わってしまうという「公式=ローレンツ変換」が出てくるので,

 それにしたがって計算しました。

 この「公式」をみなさんにやさしく説明するのは私の力ではむずかしく,残念ながらいまのところは結果がそうなるということしか述べることができません。

 では,この「公式」にしたがってB君の時計はA君の1秒後に,何秒を指しているかを計算してみると,0.94秒と遅れていることもわかります。

 いままでのことから,止まっているA君とD君にとっての1秒後の同時がB君の乗っている電車では同時でないことがわかります。

 A君の両側30万kmでの1秒後の同時が実は1.4秒後と0.7秒後という別の時刻に変わってしまいました。B君の時刻も0.94秒と遅れています。

 このことを「同時刻の相対性」といいます。

 時刻というのは場所によってちがうので場所を決めてやらないと時計の進み方も違うということです。

 でも,もちろん,A君とD君や,B君とE君のように,同じ電車に乗っている人については1秒は1秒であり,誰にとっても同じです。

 さっきの例で,B君の時計が0.94秒,B君の時計が1.4秒や0.7秒でちがっていたのはその時刻がB君の乗っている電車の上での同時ではなく,A君の乗っている電車(地球)の上での同時(1秒後)だったからです。

 B君の電車の中での42万kmがA君からみると40万kmにちぢみ,21万kmが20万kmにちぢんでいることを「運動物体のローレンツ収縮」といいます。

 つまり運動している物体を静止している人がみると実際の長さよりもちぢんでいるのです。

 また,A君の時計が1秒きざむあいだにB君の時計は0.94秒しか進んでいません。これを「運動物体の時間の遅れ」といいます。

 運動している物体では静止しているときよりも時間の進み方が遅いのです。

 でも,これらはB君にはわかりません。

 なぜなら,B君の電車の中の目盛り,ものさしもA君から見て同じようにちぢみ,電車の中の時計も同じように進み方が遅れて自分では気がつかないからですね。

(「サルにもわかる相対性理論⑤」につづく)

※(追記):ここでの記事は,"サル”でもわかる範囲の話が対象で,むずかしい公式などは抜きで,定性的な話題に終始して少しでも興味を持ってもらえたらという入門紹介文を目指したわけです。

 興味がお有りなら,少しだけ先走った記事として,後の2006年10/19の記事「同時刻の相対性」からの抜粋を紹介しておきます。

(※)一定速度で走っている電車のある列車の中央に爆弾があって,爆弾の両側にはある特定波長の光を感知するセンサーがあるとします。

 

リモコンでテレビのスイッチを入れるような要領で列車の両側から爆弾の方へと特定波長のレーザー光を同時に発射します。

 

列車中央にある爆弾の両側のセンサーが同時に光が到達したと感知したときに限って爆弾が爆発する,という仮想実験を考えます。

 列車の中で列車の両端から同時に光線を発すれば爆弾は中央にあるのですから,それは確かに爆発します。

 

これを外の例えばプラットホームに静止している観測者が通過する電車の中の実験として観測したとしても,爆弾が爆発するという同じ事象が観測者によって異なることは有り得ないので,やはり爆弾は爆発すると観測するはずです。

 しかし,静止観測者にとっては光線が到達するまでの間に中央の爆弾も列車と共に前に移動してるのですから,もしも両端からの光の発射時刻が本当に同時なら,前の方からの光が先に届き後ろの方からの光は後から届くことになるので爆弾は爆発しないことになります。

 

これは何か変ですね。

 理論の帰結としてこういうことが生じるのであれば,これは"パラドックス=矛盾"であり,理論自体がおかしいという結論になります。

 

ところが,実は静止観測者からみれば列車両端からのレーザー光の発射は同時でなく,前からのレーザー光発射の方が後ろからの発射よりも後であるというのが正解です。

 

光はやはり同時に爆弾に届くので矛盾はないことになります。

 これを計算で確かめるため,走っている列車の長さをL,列車の速さをvとし列車の進行方向を静止系Sのx軸,かつ列車と共にvで走る慣性系S'のx'軸の共通の正の向きとします。

  

そして,列車中央の爆弾はS'系の原点x'=0 にあるとします。

また,γ≡1/(1-v2/c2)1/2と定義しておきます。

 列車内では両側からの光が中央の爆弾に届いて,それが爆発するのは両側から光を発射した同時刻からL/(2c)だけ経過した時刻であり,確かに同時刻です。

 しかし,列車内の時刻をt',静止観測者の同じ時刻をtとすると列車内の座標x'ではLorentz変換によってt=γ(t'+x'v/c2)となります。

 

そこで,列車内での光の同時発射時刻をt'とすると静止観測者の系での光の発射時刻は前端ではt1=γ[t'+Lv/(2c2)],後端ではt2=γ[t'-Lv/(2c2)]となります。

 

したがって,前端での発射時刻t1が後端での発射時刻t2より後になっています。t1-t2=γLv/c2>0 ですね。

 

つまり,この列車内での同時刻が静止観測者にとっては同時刻ではないのですね。こうしたことを"同時刻の相対性"といいます。

  

そして,外の静止観測者にとって光が爆弾まで走る時間をΔtとすると,その間に爆弾はvΔtだけ前に移動しています。

   

爆弾がvΔtだけ移動する前の元の中央の位置に静止していたとして,両側からの光がそこに到達するのに要する時間をΔt0とします。

 

光の走る距離は,前からの距離が中心よりvΔtだけ短く,後ろからの距離がvΔtだけ長いので,両側からの光が爆弾まで届く時刻が同時刻になるためにはt1+Δt0-vΔt/c=t2+Δt0+vΔt/cが必要です。

 

左辺から右辺を引き算してΔt0を消去すると,c(t1-t2)= 2vΔtとなります。

 

前に計算したt1,t2から,c(t1-t2)=γLv/cですから

Δt=γL/(2c)ですね。

 

一方列車内では,光が爆弾まで走る時間はΔt'=L/(2c)ですから,

Δt'=Δt/γ=Δt(1-v2/c2)1/2です。

 

"外部静止系の経過時間Δtよりもvで走る列車内の経過時間Δt'の方が遅い"ということで有名な"相対論における時間の遅れ"が存在することを意味しています。

 

列車の長さについては,静止系でみるとLorentz収縮してL/γ=L(1-v2/c2)1/2であるはずなのに,この計算では逆にγLとなって伸びているように見えて変だと感じるかもしれません。

 

しかし,そもそもLorentz収縮するのは,両端を静止系の同時刻で見たときの運動系の長さです。

 

今の場合は,列車の方のS'系の時刻が同時刻t'であり列車からみると静止系の方が(-v)で運動しているのですから,

 

列車のS系での長さはγLなのに,それをS'系から見るとγL/γ=LにLorentz収縮していると見るのが正しいのです。

 

 もしも,静止系で列車の両端をその同時刻tで見ると,Lorentz変換は座標(x,t)と(x',t')の間で,

  

 x=γ(x'+vt'),t=γ(t'+x'v/c2) で与えられます。

 

 前端の座標はx1=γ(L/2+vt1'),後端の座標はx2=γ(-L/2+vt2')であり,

 

 また,同時刻tはt=γ[t1'+Lv/(2c2)]=γ[t2'-Lv/(2c2)]という変換性を持ちます。

 

 したがって,静止系で見た列車の長さは,

 

 x1-x2=γL+γv(t1'-t2')=γL-γLv2/c2

 =γL(1-v2/c2)=γL/γ2=L/γ=L(1ーv2/c2)1/2

 

 となって,確かにLorentz収縮した長さ:L/γ=L(1ーv2/c2)1/2が実現していることがわかります。(※)

 

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2006年3月26日 (日)

サルにもわかる相対性理論③

1.無限大と有限(無限大のスピードとは?)

 わたしたちは,ものの個数を1個,2個,3個・・・と数えてゆきます。ものの数を数えていくと,必ず終わりがありますね。終わりのある数のことは有限の数であるといいます。

 では,終わりがない数,有限でない数とはどういうものでしょうか?そんなものはこの世の中に存在しないのでしょうか?

 ここで頭をやわらかくして,わたしたちは終わりがない有限ではないという不思議な数:無限大というものがあると想像してみましょう。

 無限大など実際には存在しないのでしょうか?

 でも,たとえばすべての整数には終わりがないので,その数は無限大であるとか,両端のある直線でもその中にある点の個数は無限大であるということを否定はしないでしょう。

 それは算数や数学の中だけの話でしょうとあなたは言うかもしれません。

 あるいは,宇宙にははてがないので,その大きさは無限大である,あるいは,宇宙には,はじまりがないので無限大の過去があるのか?というような疑問はわいてきませんか?

 実は,もっとみじかなところで,わたしたちは意識しないで無限大というものを認めてしまっているかもしれませんよ。

 あなたは無意識のうちに世の中の自然におこることの一部は無限大のスピードで伝わるということを認めているかもしれません。

 無限大のスピードというのは,言ってみれば一方の端で起こったことが他方の端に一瞬で,すぐに 0 秒で,伝わることを意味します。

 アメリカの西海岸で起こった大地震によって,すぐに日本の太平洋岸に津波が起こるかといわれれば,答えはノーですね。

 日本の海岸で津波が起こるにしても,それはアメリカ西海岸で地震が起こってからかなりの時間の後のことです。

 地震による海の波の伝わる速さは無限大ではないからです。

 また,日の出が観測されるのは実際に太陽が見える位置にきてから,約8分後のことです。

 このことは,1億4800万km離れた太陽から地球まで光がとどくのには約8分かかることを意味します。

 つまり光のスピードも無限大ではなく秒速約30万kmという有限の大きさでしかないわけです。

 おそらく,太陽が急になくなったとしても,それが地球にいるわたしたちに影響するのは約8分後のことでしょう。

 しかし,硬い金属などの棒の一方の端を押すとその反対側の端はすぐに押されたことを感じて少しでも動くと思っていませんか?

 もし,それはあたりまえだと感じて認めているなら,やはり無限大のスピードを無意識のうちにでも認めていることになりますよ。

 ここで,話題を少し変えて,無限大という数があるとしてその数の不思議な性質を考えてみましょう。

 120とか,340とか,あるいは30万とか,100兆とかにしても,有限の数というのは,それに有限の数を足したり,それから有限の数を引いたりするとその値が変わるのはもちろんですね。120+10=130,120-10=110とかですよね。。。。。

 では無限大という数はどうでしょうか。。。想像してみてください。

 無限大に有限の数10とか100とかを足したり引いたりしても,無限大は無限大ですね。たとえ1兆を引いても有限にはなりません,無限大のままです。これは無限大のいちじるしい特徴です。

 また無限大に無限大を足したとしても,そして無限大の2倍といっても無限大のままです。

 ただし無限大から無限大を引いたら,それは有限になるかもしれないし無限大のままかもしれないしよくわかりません。

 無限大には,このほかにも掛け算や割り算などいろいろな性質がありますが,わたしたちの以下の話ではこの足し算と引き算の性質だけで十分です。

 次に,また,ものや人などが運動する速さ,スピードについて考えてみましょう。

 常識で考えると有限のスピードで走っているC君のスピードを有限のスピードで追いかけているB君が測ったときには,止まって見ているA君の測ったC君のスピードよりも小さい値になるでしょう。

 たとえばC君は100mを10秒の速さで一直線に走っていてB君は100mを20秒の速さで同じ向きに一直線を走ってC君を追いかけており,A君はそれを止まって見ているとしましょう。

 このとき,A君がC君のスピードをはかると1秒間に10mずつ進んでいると観測するでしょう。つまり秒速10mですね。

 また,A君がB君のスピードをはかると,1秒間に5mずつ進んでいると観測します。つまり秒速5mですね。

 ではB君のはかるC君のスピードはどうでしょうか?

 仮に,C君とB君は同じスタートラインから同時にヨーイドンで走り始めたとしましょう。1秒後にはスタートラインからC君は10m,B君は5m前に進んでいますから,B君にとってはC君は1秒間に5mだけ自分より前に進んでいることになります。

 だから,B君の測るC君のスピードは秒速5mになります。え?スピードがはかる人によってちがうの?って。。スピードって止まっている人がはかるものしかないでしょ?ですって。。

 "はじめに"で述べたでしょ?

 A君は自分が止まっていると思っているけど,実は地球だって動いているから,実際には電車に乗っているときのように自分のいる地面そのものがすごいスピードで動いてるかもしれないってことをね。

 だから当然,「だれがはかるか?によってスピードはちがう。」というのがいわゆる常識というやつですね。

 それはまわりの景色は変わっていくけれども,もしB君がC君をまったく同じスピードで追いかけると,B君のはかったC君のスピードはゼロです。だから,C君は止まっているんだ。

 実際は走っているのに止まっているのはおかしい?

 じゃ,C君,B君2人とも,秒速10mで走る同じ電車にいて,A君が駅のホームにいて,その電車が通過するのを見ているとしたらどうかな?

 A君は,電車といっしょにC君,B君ともに秒速10mで動いていると観測するだろうけれど,B君は,C君を止まっているとしか,つまり秒速 0 mとしか観測しないと思うよ。

 それに,B君やC君にとっては,走っているのはホームにいるA君やまわりの景色のほうで電車は止まっているんだ。

 こんどは,B君がC君を追いかけるんじゃなくて,C君が自分のほうに向かって走ってきてやがてはすれちがう場合を考えてみよう。

 やはり,C君は秒速10m,B君は秒速5mとしよう。

 すれちがった瞬間の位置をスタートラインとすると,すれちがってから1秒後にはC君はスタートラインより10m後ろにいて,B君はスタートラインより5m前にいるから,結局,1秒間にC君はB君より15mはなれてしまうことになる。

 つまり,B 君がはかるC君のスピードはさっきと向きは反対だけど秒速10m+5m=15mとなって,やはり止まっているA君のはかるC君のスピード,秒速10mとはちがっていて,こんどは増えているんだね、

 ところが,もしC君のスピードが有限ではなく無限大であったらどうでしょうか?

 C君のスピードが無限大であると仮定してみましょう。

 無限大のスピードで人間が走れるわけないじゃないかというのは,今,考えなくていいですよ。

 C君はすごいスピードで走れる車を運転していると考えればいいです。その車のスピードが無限大だというのは,あくまで仮定の話です。

 仮定なら何でも許されますよね。

 こんどはB君がどんなスピードで追いかけたり,すれちがったりしようと,B君のスピードも無限大でないかぎり,C君のスピードをはかったら,やはり無限大で,止まっているA君のはかるスピードと同じです。

 これは,さきに無限大の性質を説明したと思いますが,無限大に有限値を足しても引いても,無限大に変わりはないということの反映です。

 また,すれちがう向きにC君,B君が走っているときには,ともに無限大スピードであったとすると,B君のはかるC君のスピードは「無限大+無限大=無限大」ですね。

 世の中に無限大スピードが存在するとして,これを常識で考えたらこういうことになります。(つづく)

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2006年3月24日 (金)

サルにもわかる相対性理論②

                  はじめに

  みなさんは,この地球上でおこるさまざまな自然の現象,たとえば物が落下すること,お湯が沸くこと,電灯がともることなどが,自分のいる地球とはずっと離れた宇宙の果てに近いところでも同じように起こるのかどうか?という疑問を持ったことはありませんか?

  もちろん,宇宙の果てにも同じような太陽や地球があると仮定してのお話なんですがね。。。

 わたしたちが道にたたずんでいるときなどに,電車とか車などが走っているのが見えますね。

 でもちょっと考えてみると地球は1周の長さが4万kmもあり,それが1日24時間で自転しています。

 それは時速にすると約1700kmです。秒速だと約500mですね。

 そんなすごいスピードで地面が動いているということを,おそらくあなたは,ふだん感じないですごしているかもしれません。

 しかも,その自転している地球は1年間で9億3000万kmの距離を公転しています。時速は約11万km,秒速約30kmです。

 さらにわれわれの太陽系は銀河系の端の方にあって銀河系もすごいスピードで自転しているといわれています。

 それなら,今,わたしたちが見ている電車や車は,本当のところ,どんなスピードで走っているのか,それとも静止しているのか,不思議に思いませんか?

 こう考えると,宇宙の果てにある同じような太陽や地球はわれわれの太陽や地球とは全くちがうスピードで,全然、ちがう軌道で運動していることはまちがいないと思えます。

 でもその上でも,電車や車やわたしたちがいるとするなら,同じように走っていたり止まっていると感じられるはずです。

 高速で飛んでいるジェット旅客機の中や,高速走行の新幹線の列車の中でも,それらが一定スピードでいるときには,その中で物を落としても真下に落ちることをわたしたちは経験から知っています。

 だから想像をたくましくすると,宇宙の果てでもさまざまな自然現象は,全くこの地球上と同じように起こっていると思えるのではないでしょうか。。。

  物理学,その中でも特に相対性理論はそのあたりの不思議なことをあきらかにしてくれます。

 むしろ,相対性理論のもとになる相対性原理というのは,「どこにいようと自然現象はまったく同じように起きる。」ということを述べたものであるといえます。

 また,結論からいうと「どんなことをしても,物が走っているのか止まっているのかを決定することができない。」ということを述べたものが相対性理論です。

 では,これから,こうした不思議なことをあきらかにしてくれる物理というものを体験してみることにしましょう。

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ダイエットと飢餓(くそくらえ)

 ちょっとニュースを見たら,一方でダイエットのコマーシャル,一方では飢餓に苦しむ民のニュース。。。。。どうかしている。。。。

 ダイエットなんかくそくらえ。。。

 俺自身は見てくれとか清潔さ,とかには全く無頓着だ。

 きっと周りの人は臭くて迷惑しているかもしれない,健康とかもまったく気にしないのになぜか生きてる。

 清潔なんてくそくらえ。。。。落ちたリンゴを拾って食えなくて捨てるようなもったいないことをする文明なんてくそくらえ。。。。。

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インモラルと人間の解放

 今日は,人間の解放とか倫理,モラルなどについて書きたい放題に書こうかなと思います。

 私が大嫌いな価値観(言葉)のひとつにモラルというものがあります。私自身はこのことに関連しては,自分は反社会的人間ではなく非社会的人間であると思っています。

 思えば,自分は,ものごころついてから高校卒業まで,あるいは浪人までは,子供であったせいもありますが,現状の社会の価値観を意識的にも無意識的にも自動的に受け入れ,自慢ですが体育の実技以外のペーパーテストでは,いつも成績トップクラスでした。

 そして,当時ではそういう子供がやるのが当然の学級委員などを毎回やる,世間でいわゆるところの優等生であり,性格なのかわかりませんが無口でもあったため,「おとなしいいい子ね。」とほめられて喜ぶ今思えば「やな奴」でした。

 たまたま,大学入学前後の時代が東大安田講堂攻防戦などもあって,大学に入っても学内は封鎖中であったり,スト決行中であったりして,学生運動や当時の学生の流行でもあったマルキシズムの洗礼を受けたのが結果的には現在の「価値観=思想」の形成を決定づけた主要な原因になったと思います。

 まあ,時代のイデオロギーや環境にあまり影響を受けず自分を貫くような人もいるだろうことは否定はできませんが,私自身はモロに影響を受けました。そもそも唯物論を示す有名な言葉「存在が意識を規定する」とマルクス自身が言っているではありませんか。

 「国際勝共連合=統一教会」の歌に「人は決して物じゃないトコトットット云々」というのがあったと思いますが,唯物論は決して物質(至上)主義ではありません。

 極端な話,ユングやフロイトなどにはじまる心理学ですら,「ア・プリオリ(先験的)な意識があって,存在(あり方)を規定している。」とするわけではなく,「彼にそういう心理が生じたのは,実は何らかの"原因=事件"があったからである。」ということを追求する学問であると思っていますが,それは科学であるし近代的な唯物論そのものですよね。

  ともかく,そうした運動にまきこまれた結果,無口な性格,優等生的価値観はガタガタとくずれていきました。

 今ではそれでよかったと思います,後悔はしていません。むしろ,そのまま上を向いて生きていったとしたら,と思うとゾッとします。

 無口ではなく,しゃべること,自慢もふくめて自己主張することは決して悪いことではない,純粋にアメリカ的個人主義というわけではないけれど,どんどんしゃべるようになりました。

 そう,今は,むしろ,おしゃべりですね。自分としては耳が悪いわけではなくて「聞かれて困るようなことなんか何もないから声が大きいんだ,コソコソ小声でやってたら,むしろ陰口でも言ってるのじゃないかと思われるじゃないか。」というのが口癖になりました。

 もっとも,スパイだの秘密諜報員だのをやってるんだったら,おしゃべりだの声が大きいだのは,それこそ聞かれると困るわけですから駄目なんですけどね。それに「口外しないでくれ」と頼まれれば,もちろん,しゃべりません。

 TPOはあります。学生運動,社会運動などでも官憲に聞かれて困ることは多いので,やはり,のべつまくなしにしゃべるのはどうかなと少し反省することもありました。

 まあ,そのほかにも,余談ですが同じ下宿にいた人でT大の理系を1年で中退して私の入っていた大学の哲学科に入学し直したという奥野さん,という変人の先輩と仲良くなり卒業してからもつきあっていて,しゃべるとか自己主張する,とかいう意味ではずいぶん,影響を受け,お世話にもなりました。

 今は会いたいけれど,どこでどうしているか知らないし,音信不通です。

  「沈黙は金なり」,「口は災いのもと」,「無口なのが男らしい」(「男は黙って○○ビール」)などというのは,そればかりではないですが,すべて当時の権力者,為政者が,庶民には忍従していてもらいたい,何か批判や主張を声高に演説などされてはたまらない,ということの現われだと思っています。

 西洋ではキリスト教などの,忍従してなんでも甘受する宗教がローマ帝国以来保護,優遇されていったのもそういうことでしょう。

 ニーチェの「道徳の系譜」ではないですが,その時代の支配的イデオロギーはその時代の為政者に都合のいいものが淘汰されて残り流行していく,というわけですね。

 もっとも,自分はニーチェの「英雄道徳」ではなくてショーペンハウアーの「同情道徳」のほうが好きですが。。。

  同情とか慈善とかいうと「上に立っている,見下している」,「慈善=偽善」ということだからやらないほうがいい,卑近な話,電車の中で老人などがすわっている席の前に立っていても席を譲ってあげるのは偽善だ,「席を譲るという行為で快感を感じたと同時に,既に報いを受けている。」と思っていました。

 若い頃は敢えてそうした行為をした直後にも,その頃の若さに特有な恥ずかしさと同時に後ろめたさをも感じていたものでした。

 しかし,今となっては,「たとえ偽善でもそれは偽善という名前の善には違いない,やらないよりまし」と思うようになりました。

 金持ちのはした金,あるいは売名行為とも思える庶民には多額の寄付金と,子供などがコツコツと貯金した金をふんだくる某テレビ局などの「慈善」とを,比べて,子供の寄付金のほうが多額の慈善より上だ,なんて思っても,現実の話,受ける側にとっては多額のほうがいいに決まっているのですよねえ。悲しい。。。

  いずれにしても,そうしたことも含めて,「上を向いていく=上昇志向する,出世したい,金持ちになりたい,名誉が欲しい」という生き方を否定し,「下を向いていく、下には下がある,世界には飢え死にしそうな人たち,先進国のエゴのために,戦場と化し悲惨な状況にある人を見て,微々たる力でもたまたま帝国主義本国に生まれてきたという理由だけで,幸福を享受している我が身を役立てたられたらいいな。」という生き方をめざすようになったわけです。

 私は,過去にやったことを"若気の至り"とかいって言い訳はしません。

 それはともかく,善悪というのは普遍的倫理でも何でもなく単なる一つの相対的な価値観に過ぎないですから,ときたま「性善説」とか「性悪説」などという言葉を説明用の術語ではなく真面目に論じている大人がいたりすると,本気で言ってるのか,と首をかしげることが多いです。

 善悪というのはイデオロギーであり,国によっても地域によっても,時代によっても違うものです。極端な話,人殺しは絶対悪かというと,戦場では敵である人をたくさん殺すと英雄になったりもするし,肉親を惨殺された人が報復として殺すことが本当に悪なんでしょうか。

 ただ,私自身,愛するものを理不尽に殺されたりしたことがないのでこれらのことは他人事ではありますが,権力によって代わって報復してもらうのは正直言ってイヤですね。私であれば自分でカタキをうちたいです。

 「ペストなどの疫病が流行ったり,戦争が起こったり,ホモ,レズが増えたりするのは,人が多くなりすぎて地球全体の生態系がこわれるのを防ぐ,"神の摂理"が働いている。」のだとすると,せいぜい法律とそれを支える罰則とか,"拘束力=暴力装置"としての国家だとか,による善悪の判断などは,結局,人間のサル知恵で考える相対的なものでしかないでしょう。

  これで,表題のモラルという話に戻るわけですが,どこかの教授ではないですけど「下半身には人格がない」ですね.

のぞきとか盗撮とか痴漢とかもあるわけですが,私自身も変態なのでそうした欲望はあります。写真とかビデオとかでそういうものを見て楽しんでもいますが,話によると実行したほうがより大きい快楽が得られるそうです。

 まあ,おそらく実行することはないと思いますが,実行した人がつかまって,家宅捜索でいろいろな変態的写真などが見つかって社会的に非難されていることがよくあります。

 しかし,そもそもそうしたものを個人で楽しむ分には何を言われる覚えもないでしょう。

 のぞき,盗撮にしても,それを受けた当人が気づかなくて社会的影響などの意味も含めて実害を全くこうむらないのであればアリだと思います。

 昔,感動を受けた題名には平岡正明 著の「すべての犯罪は革命的である」というのがありました。「造反有理」に通じるものを感じたからかもしれません。

 そもそも,人間はサルの一種なんです,真に解放されるには毛皮がないサルにはむずかしいけど,衣服を脱ぐ必要があります。

 変態の私は最高に解放されるということは男ですから最高に勃起する,最高の射精をする,ということでもあります。もっとも,歳のせいか,弱くて困ります。

 ところで,ある人に「俺はプライドなんか持ってない」と言ったら,「プライドのない人間なんかいるはずがない」と言われました。

 「そりゃそうだな,俺はプライドなんか持ってないというプライドをちゃんと持っているんだ。」ということに気づきました。。。。

 ということで脱線しそうだからやめますが,ライヒではないですが「インモラルは解放への最大の道だ」と断言して終わります。

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2006年3月23日 (木)

サルにもわかる相対性理論①

 思うところあって,初歩的な相対性理論の入門を連載しようと思います。

 まずは,テーマと概要について。。。。。。

 1.テーマ

 一般には難しいと思われている相対性理論をやさしく解説する。

 数字や概念は説明して使うが,数式,グラフ,図は極力使用しない。

 2.概要

 (1)はじめに

 われわれのまわりの自然現象が,宇宙のどこでもどんな速さでどのように運動していても同じように起こるだろう,ということの不思議を問いかける。

 地球の自転や公転,銀河系の公転などから,われわれが静止していると思っていても実は高速で運動しているかもしれない,という問題意識を提示する。

 相対性理論がそれらの疑問の解決を与えることを紹介する。

2)限界速度は光速であって無限大速度は存在しないということ

 "無限大+有限(無限大)=無限大","無限大―有限=無限大"であることを説明する。

 ある長さの硬い棒の一方を押すと即座に他の端が押されるように認識しているが,これは実は無限大の速さを無意識に認めていることになる。

 しかし物体を押すということは必ずその弾性を利用している。

 "はねかえる力=弾性力"が伝わるのであるから,それが伝わる速さはせいぜい弾性波の速さであり,つまりその中を音が伝わる速さでしかない。

 音は真空中では伝わらず媒質が必要であり,"硬いもの=弾性力が大きいもの"の中ほど速く伝わる。

 具体的には音速は媒質の弾性力の平方根に比例する。

 "無限に硬いもの=剛体"の存在を認めるなら,それは無限大速度の存在を認めるのと同じである。「アインシュタインの相対性理論」はそれを否定する。

 「ニュートン,ガリレイの相対性原理」は最大速度が無限大であることを前提にしている。

 ニュートン,ガリレイは力学的方法(物を投げる,落とすなど)によっては,"動いているか止まっているか?を決めることができないこと"を示した。これが「ガリレイの相対性原理」である。

 一方,アインシュタインは電気磁気的方法(電波や光など)によっても"動いているか止まっているか決定できないこと"を示し,ひいては力学,電気磁気,熱その他どんな方法を用いても"運動か静止かを決定できないこと"を主張した。

 これに基づくのが「アインシュタインの相対性原理」である。だから,どんな運動をしていようと,あらゆる自然現象はどこでも自分が止まっているかのように起こるのである。

 電磁気を考慮すると普遍定数として"電磁波=電波"の速さcが出てくる。

 これが測る観測者によって違うとすると,例えば住んでいる星によって電波の速さが違うということは,その星々によって電気・磁気の法則が違うことになる。

 逆に電気・磁気の法則がどこでも同じとするとニュートンの法則がまちがっていることになる。

 アインシュタインはニュートンの法則を捨てて,電気・磁気の法則の方を正しい法則として採用した。

 そして,「アインシュタインの相対性理論」は"限界速度が有限であること"を前提としている。

 これがニュートン,ガリレイとの決定的違いである。

 もし有限な限界速度が存在すれば,それは誰にとっても同じであるということから,"限界速度不変の原理"が成立する。現在「光速度不変の原理」として知られている。

 それに対してトンデモ学者の「相対性理論は間違っている」という主張は,ほとんどが光速度を測定する実験がおかしいので,実は"真空中の光速度は不変ではないということ"が論拠になっている。

 もちろん真空中の光速度はこの100年間,そして現在もなお100年前とは比べものにならない精度で本質的には疑り深い実験物理学者等によって,地球上のみならず,宇宙空間,シャトルの中,さらには複雑屈折するがゆえに光速が遅くなる光ファイバの中においても幾度となく測定され,"真空中では光速は不変であること"はまちがいないことが検証されている。

 しかも,もともと軍事目的で開発され現在ではカーナビとして広く利用されているGPSはその精度がピンポイント的に優れているのは,"電磁波=光"の速度が一定であるという「アインシュタインの相対性原理」のおかげである。

 百歩譲って,"真空中の光速は不変ではないこと"がわかったとしても,"限界速度が無限大ではないということ"さえ真実ならば「アインシュタインの相対性理論」は輝きを失うものではない。

 話はそれたが,限界速度があればそれはどんな運動をしているかによらず同じであるということ,つまり無限大と同じ性質をもつことから運動座標系のあいだの"ローレンツ変換"という「公式」が出てくる。これを平易に説明することは私にはやや困難であるけれども。。。。。

 (3)同時ということの相対性,時間の遅れ,ローレンツ収縮

 "限界速度一定の原理"を認めると,止まっている人にとっての違う場所での同時が運動している人での同時と違うということが必然的にわかるので,それを説明する。

 また,いわゆる「公式」が成立するので運動している横に長さを持った物体を静止している観測者がみると,ちぢんでいると観測する。

 これを発見した人の名前を取って「運動物体のローレンツ(フィッツジェラルド)収縮」という。

 また,運動している物体の感じる時間間隔は止まっている観測者の時間に比べて進み方が遅い,つまり時刻が遅れていく。

 これを"運動物体の時間の遅れ"という。

 極端な話,限界速度で走る物体である光はわれわれから見るとまったく年をとらないということができる。だから数億年前に消滅した星の光もそのままで届くともいえるのである。

 もちろん,運動している当人にとっては顔が平べったくなったり(ペンローズによればそうではないらしいが),時間が遅れているなんてまったく気が付かない彼にとっては物はちぢんではいないし時間もふつうに進むのである。

(↑自分自身での時間のことを固有時間という。)

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2006年3月21日 (火)

棄権権行使のすすめ(選挙)

 今日は選挙,特に国政選挙について語ります。

 その昔は,日本でも選挙権を得ることが人民の一つの目標であった時代もありました。今は日本国籍を持つ日本人はある年齢になると自動的に選挙権を得ることができますが,それはそれで喜ばしいことです。

 ただ,日本に長年いながらも選挙権を持たない在日外国人もいます。

 私自身は別にそういう外国人ではないですが,彼らがもしもいらないというのなら,それはそれで自由ですが,普通なら彼らにも自動的に選挙権が与えられて当然である,と思っています。一方の義務である,納税の方はしっかりと課せられているわけなんですからね。

 ところで,選挙権というのは権利ではあるけれど,義務ではないということは幸せなことですね。

 選挙に行かなければ日本では一般に非難されることが多いけど,逮捕されたり罰金を取られたりすることがないことも,これはこれで重要な意味を持っています。

 ということは,投票しない,棄権する,というのも立派な権利なんですよね,タイトルにも書いたけれど棄権権というのはそういう意味なんです。

 でも棄権ていうのはちょっと消極的でいやな気分がします,これはスポーツなんかでケガなどで出場しないというときに使われる言葉ですからね。

 それはさておき,何故,私が選挙で「棄権する=行かない,投票しない」ことを推奨するかという理由ですが,もちろん推奨であり投票なさるのは自由です。

 例えば支持する政党も候補者もいない場合,自分が候補者になれるならなるというのも一つの選択肢ですが,普通は選挙制度,代議員制度を認めておられる方なら白票を投票することを選ばれると思います。

 ですが,たとえ白票であろうと,投票した以上,その当該選挙で支持していない政党なり候補者なりが,誰かが当選することは当然初めからわかっています。

 それに投票した人は,たとえ白票でもその選挙に参加したのですから,結果を当然認めざるを得ないし,彼の当選に対して責任の一端を担っています。,しいては彼の選ぶ首長や,または賛成,反対した結果として成立する政策に対しても,それらを甘んじて受けざるを得ないことになるだろうと思います。

  もっとも,経歴詐称などの理由でリコールする権利とか,投票理由と直接関係のある不祥事について,それを追求する権利というようなものは棄権者には全くありませんけどね。。。。

 当選した人が選挙事由と無関係な不祥事を起こした場合,やはり選挙に参加した人は少しなら追求はできても,結局,自分たちにも責任はありますよね。

 それに対して,棄権権を行使した人は,一面では「ずるい」という見方もあるでしょうが,彼の当選に対しても,また彼らのつくる政策に対しても,甘受するには及ばない,むしろ,いくらでも非難,批判する権利を持っている,と言えるのではないか,というのが,私が棄権権行使を推奨する主な理由です。

 本質的に「小ブルジョア」であるマスコミも含めて,世間では一般に正反対のことがよく言われます。「選挙にも行かないものが代議員のする政治・政策等に対して意見をいう権利は全くない。」とね。

 でも,私の主張はこれとは全く逆です。しかし,これ以上は「水掛け論」になるでしょうから,やめておきましょう。

 そもそも,私自身が生まれてくる前から,代議員制度も選挙制度もありました。

 まあ,選挙権があるだけでも幸せだという意味もありますが,私が求めてそうした制度作りに参加したわけでもない制度です。

 たかだか1名の当選者に対して十万票分の1とか数万票分の1の価値しか持たない1票の投票で政治に参加したという幻想を抱かせるような制度を甘受する必要はないだろうと私は思います。

 一般に,棄権した人々を政治に無関心であるとか消極的な意味でしか捉えない向きもありますが,積極的な意味で棄権権を行使する人々もいるのじゃないか,いや,いて欲しい,と思います。

 政治とは何年に1回かある選挙に参加することだけではない。まあ,もっといえば政治は上部構造ですから,ホリエモンではないですが,下部構造である人間本来の経済活動を云々したほうが選挙での1票より,はるかに効果的だと思います。

 直接関係はないですが,アメリカが戦争をしたがるのも兵器や石油などの産業の利権をめぐる経済活動がその下部を支える原因でしょう。

  ところで,政治とか政策とかについて批判はするけれども,全く具体的な活動をしない人々をよく見掛けます。他人のことは言えなくて私自身も「自慢」ではないけれど学生時代はさておき,今は何もしていません。

 でも,それでは駄目だろうということで微々たるものですが地震や台風などの災害や,戦争などで飢餓に苦しむ子供たちなどの募金にたまには協力するようにしています。

 もっとも,アメリカや日本などではホームレスでさえ,飢え死にはしません。天災でなくなることはあるでしょうがね。

 私自身いつホームレスになるかも知れない状態で募金しているので誰かさんのように金持ちの慈善とかいう道楽ではありません。( ← 他人にかこつけて開き直るなよな!。。)

 したがって,主に,飢え死にする可能性のある発展途上国向けに募金するというのが精一杯です。一応,ナショナリスト(民族(愛国?)主義者)ではなく,グローバリスト(地球人?)をめざしています。

 まだまだ,言いたいことあるけど脱線しそうなので今回はここまでにします。

                                      TOSHI

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2006年3月20日 (月)

私のライフワーク

 私(TOSHI)のライフワークの1つは,素粒子論における究極の基本理論を見つけることにあります。

 30年くらい前の学生時代の専門はQED (量子電磁力学)におけるトライアングル・アノマリー(triangle-anomaly)の研究でありました。

 でも,当時の主要論文は仕方なく書いたもので,"カラー・クォークの分子模型による群論的な考察=カラーによるエキゾチック粒子(exotic particles)の存在しない理由"を書いたもの,「カラーとして"1重項=無色"のハドロンしか観測されないのは何故か?」(投稿名は「quark molecule」)でした。

 不本意でしたが,それが大学院の修了論文でした。

 実際の専門では,もしも,カイラルバーテックス(chiral vertex)が1つある三角ループに量子アノマリーがなかったなら,中性π中間子が2つのγ(光子)に崩壊する確率はゼロなのですが,量子アノマリーが存在するためにシグマモデルによる計算で正しい崩壊寿命が計算可能になるというようなお話でした。

 当時は,「Brandeis Lecture」という論文集でS.Adler の論文を読んで感心し,こうしたことで,「くりこみ」における発散の困難が解消できるのではないかという期待を持ちましたが,今となっては幻想だったようです。

 単にγ5を含むカイラルカレントの共変的)なくりこみへの影響,あるいはγ5に伴う経路積分のヤコビアンなどによって,アノマリーは生じるとういうことを後に理解しました。

 最近になって,「くりこみ」というのは実数だと収束しないべき級数を2次元複素平面へと次元を増やして,うまく複素数にして,まわりこむ経路をつくって解析接続し収束させるようにする,ということに似ているなあ,と再認識しました。

  重力の共変的量子化の話も含めて,「くりこみ」などのいわゆる技巧に走らずに発散を除去できる,おそらく超対称性(susy)を持ったゲージ場,ひも(string:弦),ツイスター(twistar)などを包摂した統一場の理論を作ることがライフワーフだと言ったら,やはり,その筋の人なら,こいつは誇大妄想狂だと思われることでしょうね。

 もう,そういうことをやるには老い先短いし,「かなわない夢というのは夢ではない」(イヤ,逆かな?)と言われる人もおられるそうです。

 しかし,私にとっては,「結局は生きてるうちにはかなわないだろうなあ。」と思いながらも,現在ただいま,その夢を目指して微々たる努力をしている状態にあること自体にかなりの満足をおぼえています。

 むしろ,「神の領域」に近いことを目指している,という意味で,大きいということだけなら誰にも負けないくらい大きい夢だろうということが1つの自慢です。

 これが私の「夢=ライフワーク」です。

 ノーベル賞程度クラスの単なるシングルヒットではなくて一遍に,ホームラン,さらには逆転満塁ホームランを打つことを目指しています。なので最近は小さな論文も全然書いていません。というかモチベーションが湧いてきません。

 現在はとりあえず超弦理論(超ひも理論)を理解しようとして,グリーン,シュバルツ,ウィッテン(Green,Schwarz,Witten)の「superstring」やポルチンスキーの本を読んでいる段階です。

   まあ,単なる「ひとりごと」ですから大言壮語も許してください。

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トトと競馬

 借金がかさんで苦労していますが,マネーゲームは嫌いなので株などには手を出さないし出すつもりもありません。
 
 ただ,ギャンブルは男の本能ですね。やめられないなあ。。。

 趣味の1つである将棋は今でも賭け事だろう,という方が大勢おられますが,私も含めてアマチュアはせいぜい段とかレーティングとかを楽しむだけで,お金は賭けませんよね。

 まあ,最近はネットでもトトや競馬ができるので,登録して投票しています。

 競馬は 28 歳のときにビギナーズラックで当時の有馬記念で年が 28 なので 2-8 を1000円分買って,7320円の穴が当たり7万円ほどもうけました。当時は給料の手取りが10万円くらいだったので,大変うれしかったですね。

 でも,40歳くらいで失業してやらなくなってからずいぶん経ちます。

 そろそろ,何かやろうかと思って競馬はネットで投票できるようにしたのですが,まだやっていません

 トトはすぐ登録できて投票も簡単だったのでとりあえず,ミニトトを2種類千円ずつ買いましたが引き分けのところが当たらず,ビギナーズラックはありませんでした。  

 あーあですね。。。。。。。( → totoオフィシャルサイト )  

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靖国問題

  最近のアジア外交について特に靖国問題について小泉君に言いたいことをつぶやこう。

 首相あるいは公人という立場で堂々と靖国神社に参拝して「個人が何を信仰して何を拝もうと信教の自由である,日本のために亡くなった英霊を拝んでいるのだ,韓国や中国などにそれを批判されても見当違いである云々」なる意趣の発言をされている,とマスメディアの報道で聞き及んでいます。

 一国の首相ともあろう人が「信仰の自由」を履き違えておられる。まことに残念なことです。

  極端に言えば「信仰の自由だからオウム真理教であろうと統一教会であろうと信仰は自由である,たとえ麻原という殺人容疑者の集団の長を拝もうと,それは自由である。」ということを述べているのと同義ですね。

 なるほど,私のような私人がオウム信者になってもそれは自由なのはもちろんですが,一国の首相がそれではどうでしょうか。

 東条英機などを祭っている神社を拝む。

 ドイツならヒトラーを拝むようなもんですね。実際ネオナチなどもいるし,ヒトラーを拝んだとしても個人としては,それは自由です。

 「英霊」は日本人のために死んだ人です。

 だけどアメリカや西欧と戦って死んだ人はまだしも中国,アジアを侵略して亡くなった英霊もいます。

 日本人のために死んだ英霊だから,日本人が批判をする理由はあまりないでしょうが,中国人,韓国人が批判をする権利があるのは当事者としてむしろ当然ではないでしょうか。

 「信教の自由」から連想して「言論の自由」についても,デンマークだったかイスラム教の預言者を風刺して問題になっているそうです。

 「表現の自由」なんだそうな。。。

 自由だから公然と誹謗,中傷をしてもいい,堂々と差別発言をしてもそれは自由だ,という意味なんだろうなあ。。。

 公人や公共のメディアが「信教の自由」や「表現の自由」を盾にしたい放題して,批判されても開き直るだけ,と思うのは私だけでしょうか。。。。

 まあ,他人の批判ができるほど私自身聖人君子ではないし,私自身も隠然と他人の誹謗中傷を陰口するのは,むしろ趣味ですからそんなもんかね。。

  

   ↑ 靖国神社(Wikiより)

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自己紹介

 はじめまして。。。TOSHIと申します。

 現在56歳,物理学(特に素粒子論)と将棋が趣味で独身の変な(変態?)オジサンです。

 ニフティ,物理フォーラムのサブマネージャーをしていますが,インテリと思われたり言われたりするのは大嫌いです。

 (※まあ,実際インテリジェンスなど,かけらも感じられないと思うので,そう呼ぶ人いないかも知れないのに,無用な気使いかも。。。)

 ニフティには前身のパソコン通信(TTY)時代に1991年から将棋,サイエンス、後の物理フォーラムetc.に参加していました。

 ホームページの時代となり,あまり活動はしていませんでしたが思うところあって,ブログでも書こうと思い,ココログに到着しました。

 URLのマルドロール-デュカス(maldoror-ducasse)は,大好きなフランスの詩人「ロートレアモン(イジドール・デュカス)」から取りました。

           

 とりあえず,簡単に自己紹介まで。。。。

                                TOSHI

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