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2006年4月

2006年4月30日 (日)

ヨイトマケとオーラ

 今日も巣鴨界隈で3軒はしごをして今帰ってきたところです。自分ながらよく続くものです。

 3軒目でふと唄いたくなって,カラオケで美輪明宏(当時は丸山明宏)のヨイトマケの唄を唄ったのですが,「母ちゃんの働くとこを見た」というところで感情移入のあまり涙が出てきて唄えなくなってしまいました。

 「俺にもまだ人間の心が残っていたのだなあ」と感じたものです。それにしても,この唄を淡々と最後まで唄う美輪明宏って,ある意味で大したものだと思います。

 美輪明宏といえば,最近国分太一や江原何某という人といっしょにTV朝日で「オーラの泉」という番組をやっていますね。

 1軒目の巣鴨1丁目の「チャンティー」という店で,「俺も1度でいいからオーラというのを見たいもんだ。」と言ったら,そこのママがオーラの見方を教えてくれました。

 ママが言うには,「背景が黒一色のところで指をそろえて片手の手首をかざし,その指先の付近をじっと見つめていればいい」とのことです。

 実際にやってみたら,最初は何も見えなかったのですが,そのうち気のせいかほんのりと赤い色が見えてきました。

 「そりゃそうだ,人間の体は手も含めて発熱しているのだから,少なくとも赤外線は出ているはずだ。赤外線は人間の目には見えないけれど,その付近の波長の可視光である赤い光も一緒に出ているはずだから,それが見えてもおかしくないわけだ。」と納得しました。

 青系統の色も見えないかと聞かれましたが,残念ながらその場では見えませんでした。

  少なくとも,人間の体は温度を持つ生物体ですから,黒体と相似な発熱体の輻射現象により,赤外線も含めたあらゆる波長の「電磁波=光」を輻射しているはずですから,青い光が見えても決しておかしくはないと思います。

 こういうことを「非科学的だ」の一言で否定する人もいますが,オーラで人の運命を占えるかどうかはともかく,オーラのようなものが見えても決しておかしくはないと思います。

 こうした種類のことを頭から否定する人というのは,むしろ自然科学に疎い人が多く,現代の科学を金科玉条のごとく完全に「信仰」している人々ではないでしょうか?

 むしろ科学の専門家に近い人は,あるがままを謙虚に受け入れる柔軟な精神を持っていると感じます。

 気功というものもあれば,病気を治してくれるロシアの少女もいるらしいです。

 現代の科学水準というのは全体を100として,せいぜい,その5か10を解明したに過ぎず,正に氷山の一角しか解明されてないのでないかと思うことがあります。

 現代科学で説明がつかないからといって,いちがいに迷信であるとかオカルトであるとか決め付けて,直ちに何でもインチキだと思ってはならない,と深く肝に銘じた次第です。

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2006年4月28日 (金)

トンデモ理論について思うこと

 常日頃から不思議に思っていることの一つに,「相対性理論は間違っている」という趣旨の,世にいうトンデモ理論はたくさんあるのに,「量子力学は間違っている」という趣旨のそれはほとんどないということがあります。

 常識から大きくはずれているということからすると,量子力学も相対性理論に負けず,劣らずと思われるのにも関わらず,相対性理論ばかりが一方的に攻撃されることが多いようです。

 その理由というのは恐らく次のようなことでしょう。

 すなわち,相対性理論は量子力学に比べてより人口に膾炙していることです。平たくいえば,世間一般の人(特に日本人)に名前だけでもよく知られているということですね。

 そして,相対性理論は微分や積分などを必要としない中学生の数学レベルで説明が可能であるということ,つまり敷居が低いことも大きな要因だと思われます。

 ヒョッとしたら,これらを利用してトンデモ理論の出版でベストセラーを狙っている某徳間書店などの陰謀?がからんでいるのかなとか考えたりします。

  それにしても,そうしたトンデモ学者の攻撃というのが,相対性理論を理解せずに,というか相対性理論を誤解し,その誤解した結果を攻撃して「間違っている」などというものが多いのに驚きます。

 また,本人のほんの思い付きで単に自分の常識と相容れないという理由から,歴史的経緯を経て淘汰された確固たる理論を攻撃しているものが多いと感じます。

 「自分がそれを理解することができないから,それは間違っているはずだ。」という自信に基づいて攻撃するのだとしたら,私にはそうした自信があることこそもっと理解できない話です。

  物理学を含む自然科学は人類100万年の歴史と比較すると,ヨーロッパルネッサンス期にその科学精神の萌芽が形成されてから,ほんの400~500年くらいで歴史があるとはいえない短いものですが,その間に爆発的に発展してきています。

 その現在までの400~500年を自然科学の有史時代と呼び,それ以前を有史以前と呼ぶことにしましょう。(もちろん,ヨーロッパにそうした萌芽をもたらしたのは東洋も含め,全世界の歴史による帰結でもありますが。。。。)

 有史以前は,「中世暗黒時代=キリスト教専制時代」や,もっと前は比較的自由だったと思われていますが実は奴隷などがいて本当に自由なわけではなかったらしいギリシャ古典自然哲学の時代などがありました。

 そうした時代には自然のしくみでさえ,「純粋思惟=座して単に沈思黙考」をすることのみで理解できる,あるいは神の御技であるとされていて,その結果,せいぜい地球上の自分の身近な経験から物事を神秘的に解釈して満足するような時代でした。

 そこでは自然哲学をも形而上学と考え,実験してデータを検証したりすることも無く,もちろん過去の歴史を受け継ぐことも無くて,検証されないので諸説が単に現われては消えていくということを繰り返していたわけです。

 それ故,天動説から地動説への変遷に典型的に見られるように,ガリレイが断罪されたり,また以前の理論が完全に間違っているということもしばしば起こったわけです。

 これに対して,有史時代以後は実験とは直接は関わらない数学という論理構造もはるかに整備されました。特に近代的な数式の記法が発明されたために以前の時代よりはるかに豊かな表現が可能になりました。

 さらに,前の時代の知見が様々な経験と実験とに裏打ちされながら,近代的で合理的な理論を付与されて淘汰されて行き,それらは懐疑され批判されるだけでなく,正しく選別され謙虚に次の時代へと継承されていったのです。

 有史時代の全ての実験や理論を,現代の人それぞれが全くの赤ん坊の状態から全部,追体験かつ追実験しなければならないとしたらいくら寿命があっても足りません。

 現代の技術環境は過去を懐疑して最初から全部確認し直すことでは得られず,過去を検証し確認しながら受け継ぐことによって得られたのです。

 もしも,過去と同じことを繰り返すだけであれば,親から子へ世代が変わるたびに後戻りすることの繰り返しで先に進むのは困難だったでしょう。

 こうした歴史の継承による進展は,現在ほどではないにろ,丁度当時印刷という技術が発明されて本という形で過去の発明発見を知ることが比較的容易になったということとも無縁ではないと思います。

 一人の400歳か500歳の天才がいたとしても,過去の全部のことを成し遂げることができないのは明白です。

 有史時代の歴史はたとえ短い400年か500年の間といえども,一人ではなく末端まで含め莫大な人々が関わり,淘汰されてきた結果なのです。

 それを単に身近な常識と矛盾するというような理由だけで理解もしないで,完全に間違っているなどと軽々しく述べることはできないのでは?と思うのは私だけでしょうか。。。。

 別に私は「定説科学教」というような宗教に染まっているわけではなく,柔軟な考え方もできるつもりの人間なのですが,それでもそうした批判を実行するほど自分の常識に自信はありません。

 政治や経済,思想や哲学なら,人間の関わっていることでもあり,議論で決着がついたり,ときには水掛け論になることもあるでしょう。

 しかし,数学や自然科学は単なる議論で決着することも,水掛け論になることもなく黒白がはっきりと決まるものだと思っています。

 そうしたものの真偽は多数決で決まるのではなくて,見る人が見ればトンデモかそうでないかをはっきりと判別できると思っています。

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2006年4月27日 (木)

シスター・コンプレックス

 自分の恥を書くようですが,そもそも日記(ブログ)だったら恥ずかしいことを全部書いてもいいわけだ。

  私は実の姉が好きだったというシスター・コンプレックスがある。56歳にもなっていまさらという気もするが,姉は吉永小百合と同い年で5月で61歳になるはずだ。

 5つも上なので幼い頃はよく私のお守りをして,僕はおぶってもらったり,抱いてもらったりしていた。姉の首に手でぶらさがって「足のぼる」とかいって,姉の身体をのぼっていったりしていたという記憶がある。

  姉が高校生で私が中学生か小学生の高学年の頃は,逆に姉のほうが私を隣において外出するのが気に入っていたような記憶がある。姉は弟として私を連れていて「まんざらでもない」と思っていたのではないかと思ったりする。

  そういうコンプレックスが長じて,私は女性というもの全体にコンプレックスを感じるようになってしまった。言い換えると無類の女好きになってしまったのである。それが私がある種の変態である原因だろう。

 女性は全てきれいなもの神聖なもので動物的な汚い行為をするはずがないと考えて,その結果,女性が汚らしい本性をあらわすのを見たいという欲求がときどき起きるという性向を持ってしまった。

 とにかく私は姉には会いたいけど,彼女は関西に住んでいて10年くらい会っていない。私は非常に醜い存在だけど,これからも異性=女性が好きで好きでたまらない,という気持ちは変わらない。

 神によって与えられた男性というホルモンのなせるわざかもしれないが,ときどき男という衝動が起きるのは,とても困ったものである。

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2006年4月26日 (水)

「インテリ=裏切り者」のルーツ

 インテリという言葉は非常に嫌な響きを持っていると感じる。

 特に,インテリとは裏切り者の代名詞である,と思っている人は多いと思うが,そのルーツ(起源)はどこにあるのだろうか。

 このことについて,いつかどこかで聞いたか読んだかしたことを思い出すと,本当かどうか知らないがその答えは新約聖書の中にあるということであった。

 つまり,聖書によると,イエスの12使徒の中には,そのころのヘブライ人にはありふれていたと思われるユダという名前の人物が二人いた。ベッサイダのユダとイスカリオテのユダである。

 後者は12使徒の中で最もインテリであり,イエスや使徒といえども生活のために貨幣を使っていてその財布を任されていた人物であったのだが,その才覚のため,結局は「イエスが十字架で処刑されることに加担した=イエスを売った」とされており,それが「インテリ=裏切り者」のルーツらしいというのである。

 その話の真偽はともかく,私もインテリというのは嫌いだ。最初,ニフティサーブの「FSCI=サイエンスフォーラム」その後に「FPHYS=物理フォーラム」に入ったのであるが,その中にはいわゆるインテリがうじゃうじゃいるのではないかという危惧を感じ,つきあっていけるのかどうか不安であった。

  こうしたフォーラムの会議室(今でいう「掲示板」)で発言をするのは,何か博識であるとか頭がいいとかを一生懸命自慢しているようであり,そのフォーラムというのはそういう人たちのサロンではないか,というイメージがずっと抜けなかった。

 実際,自分達の科学的知識をパロディー化したような話題もときどき現われて,そこにコンプレックスのようなものを感じたものである。

 しかし,よく考えるとインテリに限らず,プロやセミプロといわれる人々は実際に自分の特技,得意な分野を生かし,さらに努力して伸ばしてきたわけだから別に自慢してもいいではないかと思うようになってきた。

 たとえ学と名がつく分野でも,得意とするものについて自己主張することで,自己の実存を得たり,生活の糧を得たりしているのだから,「自慢=自己主張」であると考えて肯定的に捉えてもいいのではないかという考え方に次第に変わってきたものである。

 とはいえ,インテリという言葉は使いたくないという気持ちに変わりはない。何かいやらしい響きを感じてしまう。やはり聖書の中のユダのせいだろうか?

 インテリジェンスのある人と言えば少しはやわらかくなるが,博識とかいっても「たかだか知ってるか知らないかの違いではないか」と思ってしまうのは私だけかなあ。。

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2006年4月24日 (月)

関口勝雄六段のこと

 昔,S計画という会社のクラブ活動で将棋部にいたころ,将棋連盟準棋士で現在は連盟職員の,関口勝雄先生に教えていただいていました。

 最初は,多面指しで2枚落ちでも歯が立たなかったのですが,負け越したまま,つぎに飛香落ち,飛車落ちまで進みました。しかし正直言って多面指しでもまともに勝った記憶はほとんどありません。でも,少しは進歩したかもしれないと今は思います。

 関口先生は故花村元司九段の門下で,奨励会の三段リーグで当時の東西決戦まで行ったのですが,惜しくも当時の規定である30歳四段に届かず,準棋士の道を選ばれました。

 奨励会同期には元女流名人の蛸島先生がおられ,弟弟子には森下卓九段がおられます。

 そのおかげで,連盟で花村先生の指導を受ける機会があり,多面指しですが,当時奨励会三段であった森下先生に2枚落ちで指導いただいたのですが惜しくも破れてしまった記憶があります。

 また,女流とも親しいらしく,当時,19歳か20歳の長野県出身の長沢千和子(ちかこ)女流二段(当時)に教えていただき(角落ちだったかな?)下手勝ちまして,その後で,みんなで神楽坂のスナックに飲みに行き,カラオケでデュエットしてもらった思い出がありますね。

 その頃は合宿と称して,伊豆箱根近辺や,ときには竜王戦観戦を兼ねて天童までも行き,将棋も指しましたが温泉や宴会も楽しみました。そういうときはいつも関口先生に同道していただきました。

 だいたい,毎月の会社での例会が終わったあとも土曜日の夜でもあり,みんなと一緒にお酒につきあっていただいていました。

 関口先生は人はいいのですが,口が悪くて,そのためにかえってフランクにつきあいやすい方ですね。 

 「また,飛車切り,角切り,バンバンバンかぁ」とか「桂馬が4つもあって余計だぁ」とかのたまわれるのが口癖でしたね。変に人望があって,関口会と称して関口先生を囲む会があるそうです。

 また,当時はニフティの将棋フォーラム,今の「将棋チェスネット」(http://www.shogi-chess.net/)の会員で沖縄名人のやまさんことアマの山田五段」東京は日暮里道場に出没しているらしい)のお師匠さんでもあるとチャットでやまさんに聞きました。

 私も年に何回か,千駄ヶ谷の連盟道場に行くのですが,売店や道場でお会いして気さくにお話ができる間柄となっています。

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2006年4月23日 (日)

くりこみ回避のアイデア

 3/20の記事「私のライフワーク」でも述べましたが,私が理論物理学の素粒子論の研究で主たる目的としているのは次のようなことです。

 まず,ファインマン(Feynman),朝永,シュヴィンガー(Schwinger)からダイソン(Dyson)に始まるくりこみ理論における発散の正則化という手続きを何とかうまく解釈,または計算して,発散の困難を除去できる,あるいはくりこみを回避できるようにしたい,ということです。

 そして,さらに重力場を量子化して一般相対論と量子論を融合した後に真の統一理論を完成させたいということが究極の目的ですから,ある意味ではとても大それたことですね。

 これらは微妙にからみあっており,両者を同時に解決できる試みとして今注目しているのは,超弦理論(超ひも理論)です。

 これは,最初強い相互作用のs-チャンネルとt-チャンネルの交叉対称性や高エネルギー極限での挙動などに着目して,これらに対するS行列理論やレッジェ軌跡(Regge)の理論を説明するために考案されたヴェネツィアノによる双対(そうつい)共鳴模型に始まるものです。

 今では,この理論は強い相互作用だけではなく,全ての素粒子基本相互作用を巻き込む大統一理論の資格を持つ可能性があるとされ,ボソンとフェルミオンの超対称性などを加味して,最後には第2量子化して弦の場の理論として定式化されるものです。

 超弦理論は,まだまだ,発展の余地があるらしいですが,今のところ,これを実験的に検証することは不可能な理論ですね。

  私はといえば,現在は理論の研究とはおこがましく,1999年から仕事の合間にGreen,Schwarz,Witten著の「Superstring theoryⅠ,Ⅱ」を細々と読んでいて,それが終わったらポルチンスキー(Polchinski)を読む予定の段階に過ぎず,まだまだ気の長い話です。

 超弦理論については,トポロジーや群の表現論など色々と私には不明,知見不十分な部分を学びながら読んでいるのでなかなか進みません。まあ,そろそろ勉強と研究を並行してやらないと残りの自分の寿命も怪しくなってきました。

   ともあれ,くりこみの回避,あるいは発散の除去について学生時代に考えていたアイデアの1つは,摂動論におけるくりこみ級数というのは,べき級数展開の中心の取り方がおかしいのではないかというものでした。

 すなわち,ベキ級数の計算対象の点が収束半径の中に入ってないから発散するのであって,くりこむという操作は解析接続によってベキ展開の中心をずらすことに相当するのではないかと考えました。

 簡単にいうと次のようなことです。

 例えば複素数zのべき級数においてzの絶対値が1より小さいとき,つまり|z|<1のときには∑n=1+z+z2+z3+...=1/(1-z)となり,左辺の無限級数は実際に右辺に収束します。

 しかし,例えばこの等式でz=2とすれば左辺は発散するのに対し,右辺の方はちゃんと存在して-1になります。

 もちろん,z=2は条件|z|<1を満たさないので,上の級数和の等式はz=2では成立しないのですが,それは細かく見るとz=2が原点が中心のベキ級数の収束半径である半径1の円の中にないことが原因です。

 したがって,zをz → (z-5/2)として右辺=1/(1-z)を示すべき級数の中心を 0 ではなく 5/2 に変更して,zの代わりに(z-5/2)のベキ級数展開にすることを考えれば解決されます。

 すなわち,1/(1-z)=-1/{3/2-(5/2-z)}=(-2/3)[1/{1-(5/3-2z/3)]と変形すれば, u≡5/3-2z/3=(-2/3)(z-5/2)と置くことにより,z=2のときu の絶対値が1より小さくなってz=2はuのベキ級数の収束半径の中に入ります。

 つまり,この変数変換でzが|z|<1の範囲に入っていなくても,1/(1-z)=(-2/3)(1+u+u2+u3+...)とべき級数展開できるようになります。この式では z=2のとき,u=1/3となって確かに (-2/3){1/(1-u)}=-1となります。

 こうした手続きを函数論(複素関数論)では解析接続と呼びます。

   だから,ゼータ函数の表現などでよくやるように,1+z+z2+z3+...=1/(1-z)にz=2を代入して形式的に,1+2+4+8+16+...=-1などと書いたりすることがありますが,この式自体は左辺が発散するので成立しません。

 これはもちろん正しい等式ではありませんが,くりこみをしたという意味に取るなら,あながち間違いではない表現であると言うこともできます。

 しかし,よく考えてみると,摂動のくりこみ級数の場合は第1項の1はさておき,第2項からは各項自体がそれぞれ全て無限大に発散してしまいますから,摂動級数の中心をずらすというアイデアではダメだということがすぐにわかります。

 ところが,運動量切断や正則子(regulator)の方法でのファインマン積分のフーリエ積分におけるカットオフ(切断周波数),つまりエネルギーや運動量の上限をΛとしたとき,もしも散乱振幅の摂動展開級数が切断Λのべき級数として,1-Λ+Λ2/2!-Λ3/3!+Λ4/4!-...=∑(-Λ)n/n!と表わされるなら,切断Λが有限の下で散乱振幅の近似値はexp(-Λ)となります。

 この場合は切断ΛがΛ→ ∞ のとき,級数の第2項以後の項は各々が全て発散するにも関わらず,散乱振幅を与える総和exp(-Λ)はむしろゼロに収束して有限値になることがわかります。

 このことから摂動級数の中心をずらすのではなく,級数展開を考えずに直接,総和としての散乱振幅の値を求める方法を考えた方がいいのではないかという着想も当時思い付きました。

 これは,くりこみという操作が必要な高エネルギー極限の紫外発散の問題に対しても,無限個のゼロエネルギー光子(赤外光子)に対して生ずる低エネルギー極限での赤外発散を処理する方法が適用できるのではないか?と考えた結果です。

 赤外発散の場合はゼロエネルギーの実光子の寄与もゼロエネルギーの仮想光子の寄与も共に無限大に発散するのですが,それらは符号が正反対なので相殺することで困難が解消されるのですね。

 もう1つのアイディアは,紫外発散が生じる原因はエネルギー運動量の極限である切断Λが無限大になることに起因しますから,運動量切断Λを有限に保てば発散は除去されることに着目します。

 運動量空間は座標空間に対し,固体物理学でいう結晶格子空間の逆格子空間,つまり座標格子の逆数で作られる空間に相当しているので,これを利用することを考えるものです。

 つまり,粒子のド・ブロイ波長をλとすると,運動量pはp=h/λと書けることや,ハイゼンベルクの不確定性原理:ΔpΔx ~ h/2を考えれば,運動量pが座標 x と互いに相補的な量であるということがわかります。

 このことから,運動量の上限(p≦Λ)を与える切断Λが有限なことΛ<∞ は,ゼロでない臨界波長,または切断波長λc≡h/Λが存在して,λ≧λc>0 が成立することを意味することがわかります。

 これは座標空間が,実はこれ以上分割不可能な格子間距離の限界Δx ~λc を持つ格子で形成される格子空間であり,粒子が存在可能なのはその格子点のみである,と仮定することに相当します。

 これが真であれば運動量空間での"フーリエ積分=ファインマン積分"は,その積分の上境界が有限なので有限な台を持つ積分となります。

 一方,この運動量表示の計算の逆変換である座標空間での位置表示での積分は連続的なフーリエ積分ではなくて離散的な格子点についての和であるフーリエ級数になります。

 つまり,この場合には座標空間は可分なだけではなく,格子空間のように,粒子が存在できる点がデジタルで離散的であるとする必要があります。

 しかし,こうした格子空間を想定することは基本的に空間の一様性を維持しますが,座標系の方向を制限するため空間の等方性を破ってしまいます。逆に等方性を維持しようとすると,一様性が犠牲になるという困難を導きます。

 つまり,普遍的な法則であるエネルギー・運動量保存則か角運動量保存則のいずれかが破れることになって,単純な方法では不都合が生じるのですね。

 そこで,必然的に"第3量子化",つまり座標空間の量子化というアイデアに到達します。

 つまり,エネルギー量子としてプランク定数hがあるように,これ以上は粒子が接近不可能な臨界距離を位置間隔の量子のようなもの考えて,空間の一様性も等方性も期待値としては維持できるランダムな格子点位置を与えるある種の確率波の理論に到達します。

 これに関するものとしては,既に湯川秀樹や片山泰久の素領域理論など非局所場の理論があり,また中野董夫の素粒子の剛体模型などとも通じるところがありますが,非局所場は相対論的な微視的因果律の問題との整合性がきわめてむずかしい問題です。

 もっとも,先に私が現在勉強中であることを述べた,今流行の?超弦理論(超ひも理論)はこれらの因果律の問題を完全にクリアできているらしいです。

 しかも「ひも=弦」というのは点ではなくて元々長さを持つ模型,つまりある種の非局所場の模型としても注目すべきもので,これは上述のように有限な切断に相応しますから紫外発散の問題もクリアされることが期待されます。

  次にもう1つ考えたのは,重力場によってくりこみを回避することです。

 古典論の1つ一般相対論によれば,例えば電子は質量があるのに大きさはゼロ,つまり点粒子ですから,明らかにシュヴァルツシルト半径( シュワルツシルト半径)は電子半径よりも大きいです。

 したがって,電子に限らず構造を持たない素粒子であれば,これらは古典的意味では全てブラックホールになってしまいます。

 これを回避するには量子論に頼るしかないわけで,一応ド・ブロイ波長程度の大きさがあれば,粒子は古典的意味でのブラックホールにはなりません。

 しかし,運動量がその切断Λに近いほどの高エネルギー極限,あるいはこれに相応するシュヴァルツシルト半径よりもはるかに小さいような近距離極限では,非常に弱い力であるとはいえ重力の影響を無視することはできないだろうと考えられます。

 ,つまり素粒子自身の非常な高エネルギーによる空間の曲がり等は無視できないだろうと考えられます。こうした"空間の曲がり=計量(metric)"の効果によって発散が回避できる可能性を考えたわけです。

 これは,プランクエネルギー(プランク距離)程度では古典論たる一般相対論ではなくて,量子論を考える必要があるだろうという現在の見解に一致していると思われます。

 学生時代は色々と考えても,それを理論展開して発展させようというほどの基礎的素養や時間的余裕もなく,結局,これらは単なるアイデアとしてあっただけで,就職と共に忘れて埋もれていきました。

 もっとも,実質的にはほとんどオリジナルな要素などなくて,ただ単に他人のアイデアを自分のそれと勘違いしていただけかもしれませんが,いずれにしろ,問題は未だ明確な解決を見ていないので,結局,様々な可能性を求めて今は超弦理論(超ひも理論)に集中しています。

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2006年4月22日 (土)

音楽(+オーディオ)遍歴

 私が大学に入学した1969年から70年の頃には,下宿にステレオを持っている同級生が結構いて,音楽をオーディオで再生して聴くという趣味の学生がかなりいましたが,私などは貧乏でしたので聞かせてもらって喜んでいたという思い出があります。

 私がオーディオ再生による音楽鑑賞に目覚めたのは恐らくその頃です。

 隣の下宿にいた2年先輩の奥野さんの部屋で,オープンリールのテープデッキにアンプとスピーカーのついている一体型のテープレコーダーで,アイザック・スターン演奏のベートーベン作曲の「ヴァイオリンコンチェルト(ヴァイオリン協奏曲)」を聞かせてもらって感激したのが最初ではなかったかと思います。

 それから,友人や先輩のところで当時学生の間で流行っていた浅川マキや岡林信康などを聞いたり,少しマイナーですがカルメンマキの好きだった曲「あなたがほしい」などを聞いて,いいなあと思ったりしました。(ずっと後だけど,山崎ハコの唄も珠玉です。)

 それからずっと経って就職して後レコードプレイヤーも持ってないのに,大学生時代に友人が持っていてその迫力に圧倒された記憶のある,エマーソン・レイク&パーマーの「タルカス」のLPを買ってきて,会社の後輩にカセットテープに録音してもらい,当時私が唯一持っていたオーディオであるラジカセで聞いて楽しんだりしていました。

(↓ ※E.L.P.の「タルカス」)

 1985年35歳のときにローンで江東区に3DKの分譲マンションの1室を買って住んだのがきっかけでリビングルームにステレオセットを置きたいと思ったのが,AV(オーディオ・ヴィジュアル)に目覚めた最初でしょう。

 まずは,29インチの大型テレビとサンスイのミニコンポセットを買ったのが間違いのもとでした。

 それからは,縮小再生産を繰り返してバラコンポの世界に迷い込み,分は弁えていましたが,そこそこの高級CDプレイヤー,高級セパレートアンプ,大型や中型の高級スピーカーを揃えました。

 そして,ドルビーサラウンドのプロセッサ-にセンターやリアスピーカー,果ては高級ケーブルやアース,振動防止器具にまで凝るようになってしまった時代もありました。

 しかし,自分は別に純粋に「いい音,生の音」を追求するサウンドマニアではなく,「いい音楽」が耳に心地よく聴けさえすればそれでいい,というのがオーディオ趣味の主眼でした。

 それとオーディオを極めるというのはもしかしたら同じことなのかもしれませんが,私は程ほどのオーディオで満足して,むしろいい音楽ソフトを聴くことの方が大切なタイプであると思うようになりました。

 所詮高望みで,どうがんばってみても到底かないそうもないときに.自分を誤魔化す合理化かな?

 特に,一時は何故かチャイコフスキーに入れ上げていて,彼の有名な「ピアノコンチェルト(ピアノ協奏曲)1番」と「ヴァイオリンコンチェルト(ヴァイオリン協奏曲)」については,それぞれ十枚以上も演奏者の違うCDを買ってきて聞き比べたりしていたものでした。

 (何にしろ,私は興味を持つとややマニアックなところはあるようです。)

 もっと若い頃は,ビリーホリディやチャーリー・パーカーなどに心酔したりして,むしろジャズ系の音楽が主体でしたが歳をとるにつれてクラシックにのめるようになっていきました。といっても大したことはなく浅いものですが。。

 特に今のところ歌曲で好きなのは,オペラ「カルメン」の中で恋人のドン・ホセを慕って歌う「ミカエラのアリア」とペールギュントでやはり恋人を想う「ソルヴェイグの歌」です。

(↓ ※ ソルヴェイグの歌)

 それに最近,フィギュアスケートの影響で見たDVDのオペラ「トゥーランドット」の中のテノールで「誰も寝てはならぬ」というのも素晴らしかったですね。

 あとロック系ですが,ジャニス・ジョプリンの「サマータイム」は絶品で「ミー・アンド・ボビーマギー」も「ナッシング・トゥ・ルース(失うものは何もない)」というフレーズを淡々と歌っているところでは,よく涙が出てきます。

 ジャズのバラードではローズマリ・ークルーニーの「シングズ・バラード(特に『いそしぎ』と『酒とバラの日々』」やリンダ・ロンシュタットの「フォー・センチメンタル・リーズンズ(For Sentimental  Reasons)」,「星に願いを(When You Wish Upon a Star」のカバーなどは今も気に入っています。

 まだいろいろありますが,今日は週末でお酒を飲みに出かけたくなったので終わります。

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2006年4月21日 (金)

パチンコ玉でわかる弾性衝突

 パチンコの玉というのは,とても硬くて反発係数がほぼ1(完全弾性衝突に近い)なので,衝突によって運動量だけでなくエネルギーもほぼ保存されるという性質があります。

 そこで机の上などに静止している1個のパチンコ球に同じパチンコ玉を1個転がして衝突させると,衝突した方の球が止まり,衝突された方の球が同じスピードで転がり出します。

 このことから,非常に多くのことがわかります。

 例えば,2個の球が接して止まっているときに,その右から1個の球を衝突させると,左側の1個だけが最初の衝突球と同じ速さで動き出し衝突した方の球は衝突と同時に右側の方の球にくっついたままでそれら2つの球は共に静止すると予想されます。

 頭の中だけで考えて,これが何故そうなるか?がわかりますか?

 もしも,接して静止していた標的の2個の球を少しだけ離して並べて置いたならどうなるかを考えると,誰でもこの答えがわかります。

 まず,右から1個の球を左に転がして右側の標的球に衝突させると,最初に述べた話から衝突させた球は止まって,衝突された方の1個だけが同じスピードで左に転がり出します。

 そして,新しく転がり出した球はすぐに,少し離れたもう1個の球に衝突して,再び衝突した方は止まって,衝突された方の最後の1個の標的球が同じスピードで転がり出すだろうことが容易に想像できるでしょう。

 最初の2個の標的球の間隔を,いくらでもゼロに近づけたとしても結果は全く同じはずなので最初に考えていた予想が説明できるのですね。

 このことから,仮に1個の標的が止まっているとき,接触した2個の球を転がして衝突させて,全部で3個になる場合も,衝突後は左側の2個だけがくっついたまま元の2個の球と同じ速さで転がり,右側に衝突した1個は急停止することになると予想されます。

 これも,衝突させる方の2個の球が少し離れていて1つずつ衝突すると想定すれば理解できるでしょう。

 このことを応用すれば,例えば3個の球が静止しているときに5個の球を衝突させると,球は入れ替わりますが5個が運動して3個が静止するという状態は変わらないだろう,ということまで予想できます。

 ことほど左様に,「物理学」というのは単に式を使って計算しなくても,頭で考えるだけで,色々なことがわかるという話を題材にした学問であるということが理解頂けると思います。

 ここまで予想した後に実際に実験で確かめてみるのも面白いでしょうね。

 ただ,ここで前提とした反発係数が1(完全弾性衝突)のときの1個と1個の衝突結果を式を使わずに説明するのはむずかしいでしょうね。

 (衝突結果は1通りしかなくて,前提とする衝突結果では確かに運動量もエネルギーも保存する完全弾性衝突になっているという程度でもいいですが。。。)

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2006年4月20日 (木)

エゴ,自己中(ジコチュウ)と個人主義

 昨日,仕事場で友人(と私は思っている)のKさんと話をしました。彼は「最近の若者の中には迷惑をかけなければ何をしてもいいという人がたくさんいて困ったものだ」と言います。

 例えば電車の中で平気で化粧をする女子高生とかOLや,携帯で電話するなどはもってのほか,メールやゲームなどをして傍若無人,つまり,自分の部屋の中であるかのごとく,恥も外聞もない様子で行動をするのは許せない云々,という趣旨の話でありました。

 まあ,「最近の若者は」とか,「近頃の若い者は」とかいうのは,昔から繰り返される言葉でありまして,私はあまり使いたくない部類の言葉ですが,それはさておき,前半の言動にはあきらかに矛盾があります。

  「迷惑をかけなければ何をしても」という内容をさらに聞くと,「共同生活をしているのだから」ということですが,そも「迷惑をかけなければ共同生活に迷惑をかけないわけだから問題ない。」ということになるので,私などは別にいいじゃないか,と思うわけです。

 ということは,化粧をする,携帯を使う,などの行動を実は彼は迷惑だと感じていることになるのではないでしょうか。

 化粧はともかく電車内での携帯の使用は一応一般には禁じられています。

 心臓ペースメーカーや補聴器などに対して,微弱ですがごく近くで発生するこうしたものによる電磁波が,それらの機器の誤作動の原因となるということはかなり信憑性が高い話です。

 満員に近い状況での携帯の使用は確かに誰かの命に関わる可能性があることは事実ですから,差し控えるべきである,というのはよくわかります。

 しかし,彼の反対する理由はそうしたものではなく,例えば公共の場での個人的な電話の話し声などは耳障りで不快だというのです。

 それなら,まあ暴論を承知で「ヘッドホンステレオなどで耳をふさいで音楽でも聴いたらどうだ。」と言うと,「そういう行為も困ったものだ。」と言います。

 私自身も昔はシャカシャカという音が漏れているのを聞いて確かに不快なこともありましたが,最近はオープンエアでも密閉型でもあまり音が漏れている様子はないと思うのです。

 私自身が公共の場所でヘッドホンステレオを聞く際には,あまり他人を気にしないので,まあ私の場合は自分中心で勝手なものです。

 彼の場合,たとえ音が聞こえなくても「その行動自体を不快と感じる。」と言うのですからもう少し複雑な理由でしょう。

 私などは,出勤前に急いでいてヒゲを剃り忘れたりすると,途中,電車が混んでいなければ車中で携帯用電気カミソリで平気で剃ったりするし,ヘッドホンステレオもときどき使用していますが,彼は私の行為も「とにかくもってのほかだ。」と言いました。

  確かに,公共の場であろうと,喫煙などは私自身もかなりのヘビースモーカーですが,吸っている本人が肺ガンになろうと胃潰瘍になろうと別段,自己責任で自業自得でしょうが,タバコの副流煙を吸わされる他人にとってはたまったものではないでしょう。

 それが健康にとって有害なのは,疑いないことですから,それなら迷惑だというのはよく理解できます。

 しかし,電車内で化粧,読書,新聞を読む,ことから,電車内やホームの床にすわりこむ,ことまで含めて彼が不快と感じることは,私なら満員でなければ別に無視すれば何も感じないことです。

 そうした人たちは「彼,彼女自身のエゴのテリトリー」の中で自分の部屋のごとく振舞っているだけのことで,「他人のエゴのテリトリー」を侵さない限りは,全くかまわないことだと私は思うのですが,いかがなものでしょうか?

 前にも言ったように,人間はみんな多かれ少なかれエゴイストであり,自分のエゴが他人のエゴとぶつかってフラストレーションを生じることを極力避けている限り,それは「たちのいいエゴ」であり,「自己中(ジコチュー)と呼ばれるたちの悪いエゴ」とは異なるものだと思っています。

 若者の傍若無人を不快と感じて注意したいと感じるのは,昔懐かしい隣近所にあった家族意識の名残りでもあり,Kさんは私などと違って2人か3人かは聞いてませんが人の子の父親ですからそれなりの責任もあって,気持ちはよくわかる面もあります。

 しかし,一面,日本社会では大都会と呼ばれる場所においてさえ,「個人主義」がまだまだ未成熟だな,という感覚を受けました。

 私自身が「価値自由の原理」などという"モットーもどき"を持っているからそう思うのでしょうか。

 確かに理屈っぽい頭では上記のように考え分析するのですが,私自身も「個人主義」に染まっているわけではなく,意識下にはアメリカ,またはヨーロッパナイズされない「日本的なもの」を持っていて,傍若無人を完全に無視できないという気持ちもあります。

 今はそうではないですが,以前は接客業でもない職場で香水のにおいをプンプンさせていたK氏のことを不快と感じていた人もいただろうし,焼き鳥屋やすし屋などではもってのほかだろうと思います。

 世間にはコーヒーのにおいでさえ悪臭と感じる人もいると聞いているし,個人の趣味や嗜好が思わぬところで他人に不快感を与え,迷惑をかけているかもしれないので,一概に「たちのいいエゴ」と「自己中」の間に線引きすることはできません。

 ただ,私自身は若干大げさですが,K氏を中心とした父親世代の不快感の原因の意味するところは個人主義の未成熟にその一端があるのではないかと思ったわけです。

 「近頃の若い者は」という言い方については,私は誰であろうと自分より年下の世代に対する責任はその前の世代に多大なものがあると思うので,自分自身に非難としてはね返ってくるのではないでしょうか。

 われわれの世代でいえば,マスコミのいういわゆる「全共闘世代の挫折」から,所詮何をやってもダメという「シラケ世代」が生まれたという歴史があるという考え方もありますしね。

 自己中といえば,若者よりも,「オバタリアン(死語か?)」の方に思い当たる節があります。

 私の住んでいる巣鴨は「ジジババの原宿」と言われているようですが,大勢が1列に並んで電車の切符を買っているのに,販売機の前に到達した時点で初めてオモムロに案内板で行き先までの電車賃を調べ,ユックリとハンドバッグの中を探がし財布を取り出して,という姿をよく見かけます。

 これなどは正に自己中の傍若無人(カタハラニヒトナキガゴトシ)で私はとてもイライラします。

 まあ,私の母くらいの世代は,恐らく女性はそうあるのが女性らしいという社会共通の価値観に縛られざるを得なかったのでしょう。

 結婚後は家庭に閉じ込められて社会性とは全く無縁の生活を強いられて来た多くの女性にとっては「悲惨な時代」であったこともあるでしょうし,またお産(「産褥」ともいわれた)を経験したために,恥も外聞もなく逞しくなったせいかもしれません。

 電車内の携帯については,私自身もよく電源を切るのを忘れたりしますし,また,最近ではその使用を注意したために逆恨みされて痴漢にでもされてはたまらないというのもありますが,他人に注意したことはありません。

 むしろ,痴漢願望なら未だにありますがね。肉体的に健康な男性ならむしろそうした願望がいくらかでもあるほうが普通で,それを実行するかどうかで一線が引かれているのだと思います。

 アリャリャ,また自分の趣味嗜好の方に脱線しそうになったので,今日はここらでやめます。

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2006年4月19日 (水)

春雷

         「春雷」

  錯綜した感情のほとばしりを

  暗闇の中でじっと抑えている。

  雷鳴轟く春の兆しも僕の心をなごませることはない。

  いつになったらあなたは振り向いてくれるだろうか。

  共に暮らしたい,この世の幾漠かのときを。

  もう,二度と明かすことのない僕の本心を

  この胸に秘めているだけでは我慢できない。

  ああ,

  何を恨むことももうやめよう。

  他人のそしりも気にすまい。

    がらんとした心の空洞を

    すぐにでも埋めてしまうものがほしい。

  気が狂うほど心は渇(かつ)えている。

  出会いという神々のいたづらに踊らされているのだろうか。

  好きだという思いに逆らえない,炎のような僕がいる。

 

   実は,これは20年以上も昔に作った,語呂合わせの陳腐な恋愛詩です。

 でも当時は真剣で自殺未遂のようなこともしました。

 出だしをひらがな一文字にすると、

 「 さ く ら い と も こ あ な た が す き で す 」

 となります。

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マイナスイオン

   最近の家電製品,特に空気清浄機とかエアコンなどで,よく「マイナスイオンが出るから健康によい」というような宣伝文句が使われている。

 これまでも「売らんかな」というメーカーの思惑からインチキ臭いキャッチコピーがよく出され,「XX大学の○○博士も推奨している云々」と企業御用学者などが後押しをするという構図がよくある。

 そもそも常に「マイナスイオン」という言い方をしているけれど,イオンというのは日本語の科学用語では「陽イオン(positive ion)」,「陰イオン(negative ion)」と呼ぶのが普通なのであり,ことさらに「陰イオン(ネガティブイオン)」を「マイナスイオン」と呼ぶのは何か抵抗を感じる。

 一般にイオンには,いろいろな種類の物質イオンが無数に存在し,有害なもの,無害なものの両方が存在しているのであるから,何という物質の陰イオンであるかを明確に述べないのは何かいかがわしいにおいがある。

 もっとおかしいのは,「マイナス電子」などといううたい文句もあるらしいことである,そもそも,われわれの宇宙では電子の反粒子である陽電子は宇宙線の中などにごくまれにしか発見されないものですから,電子というのは99%以上マイナス電荷のものしかないわけです。

 そこで,電子のことをわざわざ陰電子などとは呼ばないので,マイナス電子というのはマイナスのマイナス電子と呼んでいるようなものだ。

 まあ,単位体積の中に数万個のマイナスイオンがあるなどという実験例も示されているようですから,何か空気とか水滴に関わる陰イオンなのだろう。

 昔,よくオゾン発生器などというものが売られ,森林の中などにはオゾンがたくさんあって空気がきれいで清清しいが,それを家庭で味わえる,などというような宣伝がなされていたこともあるので,何か,酸素を電離して酸素の陰イオンを発生させるようなものかもしれない。

 しかし,それらを発生させるには高圧放電などのかなり高いエネルギーを必要とし,それは企業のコストに見合うものであるか?,また空気清浄機程度の機器に果たしてそうした機能を組み込むことが可能なのか?も疑わしい。

 しかも,もし仮にオゾンとか酸素イオンのようなものとしても,それは光化学スモッグなどの環境汚染と関係し,また塩素と同じく漂白作用があるようなもので,必ずしも健康にいいとは限らず,むしろある濃度以上では有害なものである。

 それは例えば健康にいいとうたわれているラドン温泉の中などにある放射性物質ラドンも,微量ならある種の効能があるのだろうが,ラドンはいわゆる放射能のある放射性物質であり,建造住宅の中にある場合には厳しく規制されているようなものである。

 まあ,インチキかどうか,最終判断はできないが,科学的内容を明確に述べないで素人をだますようなにおいのするマイナスイオンなどというものは,私としてはオカルトの全部を否定することはできないが,,ある種オカルトめいた印象があるので,そうした宣伝文句がある家電製品にはかえって近づかないようにしている。

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2006年4月18日 (火)

基礎物理学講義⑤(力と運動3)

⑦いろいろな位置エネルギー

 

(ⅰ)重力の位置エネルギー

 

 鉛直上向きをz軸の正の向きとすると,質量mの物体に働く重力はz軸成分のみを持ち,それをFと書くとF=-mgである。ただしgは重力の加速度である。

 そこで,z=0 を地上として,それを重力の位置エネルギーの原点に取ると,重力の位置エネルギーはzの関数として(z)=-F(z-0)=mgzとなる。

 

 つまり,高さがhの位置での質量mの物体の有する重力の位置エネルギーはmghである。

(ⅱ)弾性力(ばね)の位置エネルギー

 ばねの伸びの向きをx軸の正の向きに取り,xだけ伸びたときに受ける力をFとすると,フックの法則(Hooke's law)によりF=-kxなる式が成立する。比例定数kは,ばね定数(弾性定数)と呼ばれる。

 

 そこで,ばねがxだけ伸びたときの位置エネルギーをU(x)とすると,-F=kxをx=0 を基準としてxまで積分した結果として(x)=(1/2)kx2なる。

 

 負の伸び(x<0),つまり縮みの場合でもxの長さが同じなら位置エネルギーは同じである。

(ⅲ)万有引力の位置エネルギー

 r=∞を基準として,万有引力:F=-GMm/r2に抵抗する斥力Fを位置rまで積分すると万有引力の位置エネルギーとして,(r)=-GMm/rが得られる。

 一般に宇宙の何もない空間の位置エネルギーはどこもゼロで,とこどころに星があると,そこだけ穴が開いたように引力のせいで位置ネルギーが負の値に落ち込んで谷のようになっている。

⑧いろいろな運動

 

(ⅰ)水平投射と斜方投射

 

  質量mの物体に外力として重力のみが働くとき,その物体が従う運動方程式は=mである。これはxを水平方向,yを鉛直方向で上向きを正とすると,成分表示でmax=0,may=-mgとなる。

 

 そこで,加速度は,水平方向がax=0,鉛直方向がay=-gであるから,物体の運動は水平方向には等速度運動,鉛直方向には等加速度運動である。

 

 水平方向から仰角θの方向に大きさv0の初速度0で物体が斜方に投射されたとすると,0=(v0cosθ,v0sinθ)である。

 投射された初期時刻をt=0 とすると,速度に対する時刻tにおける運動方程式の解は,速度の水平成分,鉛直成分についてそれぞれvx=v0cosθ,vy=v0sinθ-gtとなる。

 

 さら,投射された初期時刻t=0 における位置を(x,y)=(x0,y0)とすると,軌道に対する解,つまり時刻tにおける運動物体の位置座標はx=x0+vcosθt,y=y0+v0sinθt-(1/2)t2となる。

 

 ただし,θ=0 の斜方投射は特に水平投射である。これは,水平な地上付近ではy0>0 の高さのある場所から投げなければ不可能である。

 

 一方,時刻t=0 に地上y0=0 からものを投げ上げて,再びy=y0=0 の地上に落下する時刻はt=2v0sinθであり,物体の到達距離はx-x0=2v02sinθcosθ=2v02sin(2θ)となる。

 

 それ故,遠投では仰角θ=45度で投げたときに最も遠くへ届く。

(ⅱ)斜面上にある物体の運動

 

  質量mの物体が水平と角度θをなす斜面に置かれている場合には,重力mgと垂直効力Nの合力が,物体を斜面に平行にすべり落とす力に等しい。

 

 その力Fの大きさはmgsinθであり,また抗力Nの値はN=mgcosθである。もしも,摩擦があればその大きさはμNに等しい。

(ⅲ)等速円運動

 

 質量mの物体に長さrの糸をつけ,糸の他端0を中心として円運動させる。1秒間にωラジアンだけ回転するとき角速度がωであるという。

 

 このときの速さはv=rωである。等速円運動ではvは一定であるがその向きは1秒間にωだけ変わる。

 

 したがって,加速度の大きさはゼロではなくa=vωである。

 

 つまりa=rωであるから,等速円運動中の物体が受ける力は物体から中心0の向きを持ち,大きさはF=ma=maω2である。

 

 この力を,回転運動における向心力という。

(ⅳ)惑星の運動

 

 1610年ごろケプラーはティコ・ブラーエ(Tycho Brahe)の長年にわる観測結果から,ケプラーの法則(Kepler's law)を発見した。

 Ⅰ.惑星の軌道は太陽を1つの頂点とする楕円である。

 Ⅱ.惑星と太陽を結ぶ線分が一定時間に通過する面積(面積速度)

 は一定である。

 Ⅲ.惑星の公転周期の2乗は、楕円軌道の長半径の3乗に比例する。

これは,ニュートンの万有引力と上で示した等速円運動の向心力が等しいと置けば導かれる法則である。(ただし,簡単のため,法則Ⅰにおいて一般の楕円軌道ではなくて特に円軌道を仮定した。)

(ⅴ)単振動

 

 半径Aの等速円運動をしている点QにX方向から平行光線を送り,Y軸上に射影してできる点Pの軌跡はY軸上の往復運動になる。

 Qの角速度をωとし,投射点Pは時刻t=0に原点からスタートしたとすればPの軌跡はy=Asin(ωt)となる。

 

 このように,変位yと時間tの関係がsin関数,またはcos関数になる運動を振動という。

 

 この運動でのPの速度はv=Aωcos(ωt)である。

 

 円運動の加速度は-Aω2であるが,単振動は円運動の射影なのでその加速度は-ω2y=-Aω2sin(ωt)である。

 

 よって,質量mの点Pの受ける力はF=-mω2yとなる。

 

 これは,ばねに結ばれた質量mの質点の受ける力Fに対して成立するフックの法則F=-kyに従う,質点の振動が速度ωの単振動に一致することを示している。

 

 ma=F=-ky=-mω2yより,k=mω2であり振動の周期Tは円運動の周期(2π/ω)に等しいので,T=2π√(m/k)である。

(ⅵ)みかけの力=慣性力,特に遠心力

 

 これについては省略する。あとで機会があればくわしく説明したい。

⑨剛体や流体に働く力

 

(ⅰ)剛体に働く力

 

 N個の質点からなる質点系の運動は,1つの質点の座標(位置ベクル)が3個の数で表されるので,3N個の質量×加速度を3N個の力と結びつける3N個の運動方程式で表わされる。

しかし,大体1gの固体物質は約1023個の莫大な個数の分子で構成されており,またそれらの間に働く力(基本的には電気的力)の性質もはっきりしてはいない。

 

1gでさえN~ 1023なので,一般に3Nというのは巨大な数となってまって,これらの運動方程式系を解くことはきわめてむずかしい。

 一方,剛体とは押しても引いても決して形が変形しない物体のことであり,それらを構成している質点系の2点間の距離はどんなに運動しても変化しないものである。

この性質のため,剛体の中の異なる2点の運動さえわかれば,残りのすべての点の運動は完全に決まってしまう。

 

つまり,運動を完全に記述するのに3N個の運動方程式は必要ではなく,6個の運動方程式がありさえすれば十分となる。

 

このように,多粒子から構成される力学系の運動を完全に記述するのに必要な運動方程式の数:3Nとか6をその系の自由度という。

 そこで,特に剛体の重心というものを定義してその運動のみを考えるとそれは3個の運動方程式となる。

 

 剛体ではあと3個の運動方程式は回転運動に関するものである。

 

 x,y,z軸のそれぞれのまわりの回転の角速度を自由度に選ぶことにより3の運動方程式が得られる。

 I=Σmi(xi2+yi2)をz軸のまわりの慣性モーメントという。(iは剛体を質点系と考えたときの各質点の番号である。)

 

 たとえば,z軸のまわりの回転の角速度をωとすると,(dω/dt)=(z軸のまわりの力のモーメント)という運動方程式が成り立つ。

よって,重心に働く力=(外力の合力)がゼロで,力のモーメントもゼロなら剛体系はつりあいの状態にあるといえる。

 

つりあいとは静止していることではなく,重心が一定速度で等速運動し,また地球のように剛体が一定角速度で回転するである。

ア)重心とは?

 

 N個の質点がそれぞれ質量mと位置ベクトルiを持つとき,質量をM=Σmiとして,重心の位置ベクトル:=(∑mii)/Mで定義する。

 

 特に重力mgのみがかかる状態では,重力による力のモーメントを求めることによって重心の位置を求めることができる。

(問)半径aの均質な円板がある。これから,円板の半径の中点を中心とする半径a/2の円板を切り取った残りの板の重心の位置を求めよ。

イ)力のモーメントとは?

 

   剛体のある支点からrの距離にある点に力が働くとき,その力のベクトルの腕となす向きの角度がθであるなら,l=rsinθとしてFl=Frsinθをその支点のまわりの力のモーメントという。

(ⅱ)圧力と浮力,および流体

 

 全ての物体は弾性(押したり引いたりする力に反発する性質)を持っている。その力:2つの物体の一方が他方に与える単位面積あたりの力を応力という。

応力には,"面に垂直にかかる力=法線応力(圧力,張力)"と"面に平行にかかる力=接線応力(せん断応力 or ずり(ずれ)応力)とにベクトル的には2種類に分けられる。

特に,ここでは圧力だけを考える。

 

面を垂直に押す力をF,その面の面積をSとすると,圧力PはP=F/Sで定義される。

 

圧力の単位は,Pa(パスカル)である。ただしPa=N/m2である。100Paのことを1hPa(ヘクトパスカル)ともいう。

流体とは,静止状態では圧力以外に応力を持たない連続体のことである。流体内では,接線応力を持つ性質のことを粘性というが,これは摩擦のことである。

 

つまり,この応力を粘性力というが,これは摩擦力のことである。

静止状態で,もし摩擦があると必ず流れ出してしまうので流体は静止状態では"摩擦=粘性"はない。しかし,運動中では一般に流体は"粘性=摩擦"を持っている。

 

運動中でも粘性がない理想的流体を完全流体(理想流体)いう。

ふつうの粘性のある流体のことは粘性流体という。

 

また圧力を受けても縮まない理想的な流体のことを非圧縮性流体という。地球上では水がその代表的な例である。

 

一方,圧力を受けて縮むふつうの流体のことを圧縮性流体という。

a)重力による大気の圧力,水の圧力

 

 地球上の空気は"地球の引力=重力"によって地球上に押さえつけられている。空気の地球表面付近の重さが大気圧,または単気圧である。

1気圧とは,たまたまトリチェリーが水銀柱の高さで気圧を測定したときにその高さが76cm=760mmであったので,そのときの気圧の大きさを1気圧と定めたものである。

 

1気圧は760mmHgであるともいわれるが,その大きさはHgの度が13.6g/cm3,あるいは13.6×103kg/m3なので,重力加速度g=9.8m/s2を考慮して13.6×103×0.76×9.8=約1013hPaとなる。

一方,1気圧は一般には1033.6g重/cm2であって1cm2の面積に約1kg重の力がかかると考えてよい。

水や油は,その密度ρが一定の近似的に非圧縮性流体である。

 

特に水は密度がρ=1g/cm3,海水は密度がρ=1.03g/cm3である。

 

面積S深さhの直方体の体積はV­=Shであり,その非圧縮性流体の重さはF=ρVg=ρShgであるから,深さhでのそれによる圧力はP=F/S=ρghである。これが水や油の重力による圧力である。

  水の場合,深さ10mの位置の水圧は1×103×10×9.8=980hPaである,つまり約1気圧に相当する。

 

 海水でもだいたい同じである。

 

 そこで深さ10mの海中にいる場合,受ける圧力は"気圧+水圧=約2気圧"で空気中にいるよりも2倍の圧力を受けることになる。

b)パスカルの原理

 

 これは水や油の深さが同じ位置では同じ圧力であるという性質を述べた原理であり,単にF=PSであるというのがその内容である。

 

 つまり,圧力Pが一定なら受ける力Fは面積の大きさに比例するということである。

c)浮力

 

 浮力は,物体が流体中にある場合,その上面に受ける圧力より深い位置にある下面に受ける圧力の方が大きいため,総体として上向きに力を受けるその力のことをいう。

別の言葉でいうなら,流体中で物体の部分をくり抜いて,そこに同じ形の流体を流し込んだ場合でも,残りの流体はそれを支えて静止したまま動かないはずなので,元の物体があっても残りの流体は丁度そこに流し込んだ仮想流体を支えるのと同じ上向きの力を及ぼしていると考えられることで説明できる。

 結論として,物体はそれと同じ体積の流体の重さと同じだけの浮力を受けるということになる。これをアルキメデスの原理(Archimedes principle)という。

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2006年4月17日 (月)

基礎物理学講義④(力と運動2)

②重力と万有引力

(ⅰ)運動方程式 

 加速度を質量と力で表わした式を運動方程式という。つまり,mである。

(ⅱ)万有引力の法則 

 あらゆる物体間には,その互いの質量の積に比例し,その間の距離の2乗に反比例する引力が働く。

 これをニュートンの発見した万有引力の法則という。

 接触していない2つの物体の間に力が働くというのは驚くべきことである。

 電気力や磁気力なども万有引力よりはるかに大きい力としてこうした遠隔作用をおよぼす。

 これらの力の原因は,現時点では,もう少し常識的に理解しやすい近接作用と解釈されている。

 万有引力の法則を式であらわすと,F=GMm/r2である。

 ただし,m,Mは2つの物体の質量(kg),rはその距離(m),Gはその比例定数で万有引力定数と呼ばれる。

 Gは,およそ6.673×10-11Nm2/kg2である。

(ⅲ)重力とは?

 地球の半径をR(m)とする。

 地上付近の物体は,まるで地球の全質量がその中心の一点に集まったかのような引力を中心に向かって受ける。

 この地上付近の物体が受ける万有引力を重力という。地上の場合,この力は地球の中心に向かっている。

 力の大きさは,F=GMm/R2だから運動方程式は,ma=GMm/R2でありGM/R2をgとおくと,落下の加速度aが,a=gとなるので,この加速度 g(m/s2)を重力の加速度という。

 地球が平らに思えるほど地球半径Rに比べて低い高さの地上付近では,重力落下の加速度gはほとんど一定と近似してよく,だいたい9,8m/s2である。

③ばねの力

 ばねを引っ張って伸ばすと,その力に比例してばねが伸びる。

 一方が固定されたばねを押すと,その力に比例してばねがちぢむ。

 このとき,ばねが手を引いたり押したりする力をとすると,それは手がばねに加える力と向きが反対である。つまり手の作用に対する反作用である。

 そこで,ばねの伸びる向きを伸びxの正の向きにとると,ばねが手におよぼす力の向きはxとは逆向きである。

 それ故,比例定数をkとして F=-kxと書ける。これをフック(Hook)の法則という。

 kをばね定数,または,ばねの力が弾性力であることから弾性定数という。

④運動方程式の解としての直線運動

(ⅰ)運動方程式とは?

 既に述べたように質量がmの質点の運動方程式は/m または,mである。

 あるいは微小時間Δtの間の速度の微小変化をΔとするとΔ/Δt=/m,これが運動方程式である。

(ⅱ)地球重力と落体の運動

 ア)自由落下運動

 ma=mgより,a=gである。

 t=0で,初速度vが v=v0=0で,初期の鉛直下向きの位置座標がz=0 であったとすると,時刻 t では,v=gt ,z=(1/2)gt2 ,v2=2gz となる。イ)真上への投げ上げ運動 ma=-mg t=0 ,で地面z=0から初速v=v0で真上に投げ上げたときの運動 v=v0-gt,z=v0t-(1/2)gt2である。

(ⅲ)摩擦(まさつ)と運動

 ア)静止摩擦力 

 物体が水平な机上に静かにおかれているとき,物体は静止しつづける。

 物体には重力と"机からの反作用=垂直抗力"Nが働いてつりあっている。

 これに水平な(横向きの)力 f を加えてみる。

 それでも物体が動かない場合これには机から物体に逆向きの水平な打ち消す力:F=- f が働いているにちがいない。この力Fを静止摩擦力という。

  f を次第に大きくしていっても摩擦力Fの大きさは決して f より大きくなることはなくいつも f と同じ大きさである。これが摩擦力の特徴である。

 しかし f がある値を越えると急に物体は動き出す。このときの f の大きさをF0と書く。この摩擦力を最大静止摩擦力という。

 F0は机に押しつける力の大きさ,つまり,"机から受ける力=垂直抗力"Nに比例する。これの比例定数をμと書き静止摩擦係数という。

 これには単位はない。比の値だからである。そして,F0=μNである。

イ) 動摩擦力(運動摩擦力)

 運動しているときにも,物体にはほぼ一定の摩擦力F’が働く。これを動摩擦力という。

 F’も垂直抗力Nに比例し,その比例定数μ’は動摩擦係数とよばれる。F’=μ’Nである。

 常にμ’<μである。逆ならおかしな矛盾がおきます。考えてみてください。

⑤運動量

(ⅰ)力積と運動量

 ニュートン(Newton)の運動の第2法則:ma=Fを書き下すと,Δt のあいだに力Fが働いて速度が v1からv2になった場合は,m(v2-v1)/Δt=F と近似的に書き表わせる。つまり,mv2-mv1=FΔt である。

 質量と速度ベクトルの積 mv をその物質の持つ運動量という。

 運動量は観測者によって,いろいろと異なる量である。

 たとえば旅客機の中で歩いている人の運動量は旅客機の中の人が観測すると小さいが,地上の人が観測すると非常に大きい。これは後に説明するエネルギーについても同じである。

 ある時刻からある時刻までの間の力Fは,その間に時刻ごとに変わる。

 時刻を t として力はF( t )という関数として書いてよい。

 このとき,力積とはその時間の力と時刻の積和である。すなわち,力積=ΣF( t )Δt,つまり,厳密には積分∫F( t )d t のことを力積というのである。

 先の運動の第2法則を書きなおすと,m22-m11=ΣFΔtとなる。ここでは,質量も時刻と共にm1からm2に変化すると想定している。(これが正しい第2法則である。)

 そして,(運動量の増加分)=(その間に受けた力積)である。特に力Fが時刻 t1から t2の間一定ならば,(受けた力積)=F(t2-t1)となる。

(ⅱ)運動量保存の法則

 ニュートンの運動の第3法則(作用・反作用の法則)によると,衝突した2つの物体は衝突しているごく短い時間ではあるが,互いに働く力は大きさ等しく向きが反対である。

 2つの物体1と2が衝突するとする。その質量を,それぞれm1,m2とし,衝突前の速度を v1,v2, 衝突後の速度をv1’,v2’とする。

 衝突時間をΔt とし,その間に1が2におよぼす力をF12,2が1におよぼす力をF21とする。作用反作用の法則によって,F21=-F12である。

 一方,1,2のそれぞれについてm11’-m11=F21Δt , m22’-m22=F12Δt である。21Δt+F12Δt=0 なので両方の式を加えるとm11’-m11+m22’-m22=0 となる。

 移項すると,結局,m11+m22=m11’+m22’が得られる。

 これが運動量保存の法則である。

⑥力学的エネルギーとその保存法則

(ⅰ)仕事 

 物体に一定の力を加えて,そののかかる向きに距離xだけ移動させたとき,この力は物体にW=Fx だけの仕事(力学的仕事)をしたという。

 1Nの力で1m移動したとき1J(1ジュール)の仕事をしたという。つまりJ=Nmである。

 の力を加えても移動方向xがの向きとθだけの角度をなすときは,仕事はW=Fxcosθとなる。摩擦力は必ず負の仕事をする。それはなぜか?

(ⅱ)仕事率 単位時間(1秒間)にする仕事の割合を仕事率という。

(ⅲ)運動エネルギー 

 止まっていた物体が速度になったとき,摩擦などの抵抗がないなら,それまでにされた総仕事量を物体が今持っている運動エネルギーであるという。

 つまり,加速度が になるように =mの力を受けながら距離 x を運動しその間に速度が 0 から まで変化したとすると,v2-0=2ax であるから,(1/2)mv2=max=Fx である。

 よって速度 ,質量mの物体の持つ運動エネルギーは(1/2)mv2 である。

 定義から, (運動エネルギーの増加分)=(加えられた仕事量)が成り立つ。

つまり,座標x1からx2まで移動する間に力 =m を受けて速度が 1から 2 に変化したとすると v22-v12=2a (x2-x1)であるから (1/2) mv22-(1/2) mv12=F(x2-x1)が成立する。

(ⅳ)位置エネルギーと力学的エネルギーの保存法則

 ある物体を,ある特定の固定した位置 xからある位置 x まで(速度ゼロのままでゆっくりと)持ってこようとしたとき,そのために必要な仕事をその物体の x における位置エネルギーという。

 この物体を速度ゼロで x0から x までもってくるとき加えるべき力を(-)とすると,その位置エネルギーはが一定なら,(-F) (x-x0) である。

 なぜ,でなく(-)かというと,はほっておいても自然に物体にかかる力で,(-)は,それの速度ゼロにしておこうとする力だからである。

 位置エネルギーは,U(x)=(-F)(x-x0)と表されるから,(1/2)mv22-(1/2)mv12=U(x1)-U(x2),つまり,(1/2)mv12+U(x1)=(1/2)mv22+U(x2)である。

 言い換えると,(運動エネルギー)+(位置エネルギー)=(常に一定)となる。

(ⅴ)力学的エネルギーが保存しない場合

 基準点,OからPまで物体を自然に働く力に抵抗してゆっくりと運んだときに,OQPという道筋とOQ’Pという異なる道筋で必要な仕事が異なる場合には点Pの位置エネルギーがPの位置だけで決まらず道筋で変わることになるので,位置エネルギーというものが存在できない。

 このような場合には,もちろん力学的エネルギーは保存しない。

 つまり,OQPQOと1回転して元のOに戻ったときに要した仕事量がゼロでない場合は位置エネルギーは定義できないし,力学的エネルギーは保存しない。

 たとえば道筋のどこかで摩擦力が働く場所が少しでもあれば摩擦力は必ず運動の向きと逆向きに働くから,負の仕事しかしないのでどちら向きに回転しても仕事はゼロにはならず,この場合力学的エネルギーは保存しない。

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2006年4月16日 (日)

会社員新人時代の思い出

 はじめて東京に来たのは1977年,27歳の春でした。あれから30年近くも経ちましたね。浪人や大学を留年したり,大学院に行き,また浪人などで長い学生生活をやっと終え,他人よりもずいぶん遅い就職でした。

  就職難の時代だったのですが,小さいながらも,いわゆる優良企業らしい環境アセスメント部門と出版社の在庫管理などの部門とに分かれた会社に入りました。

 そして東京は杉並区新高円寺駅の近くの6畳間に,それから8年間暮らしました。(その後に江東区豊洲のマンションをローンで買って9年間過ごすことになるのですが。。。)

  当時,新入社員は男が8名,女が7名でした。僕より年上の男が1名いましたが,だいたい他の同期は男は5つ,女は7つ下でした。そして,よく同期会と称してお酒の飲み会を開いていたのはいい思い出ですね。

 私の大学生時代は,物理学科ではまだコンピュータ実習など1週間くらいで,機械語を使ってアルファベットで名前を10回書かせるくらいのことしかしていなかったので,会社で2ヶ月くらい受けた大型コンピュータでのアセンブラ,コボル,フォートランなどの高級言語によるプログラミングの研修は,初めてのことだらけで新鮮でしたが,それなりに理解はできました。

 もちろん,パソコン時代はまだ先の先で,コンピュータは端末からではなく80カラムの紙のカードにキーパンチでプログラムを打ち込む時代でした。

 (余談ですがパソコン(PC)との付き合いは最初の会社をやめた1990年(40歳)のときに退職金でNECのパソコンを買ったところから始まりました。当時はベーシックだけから,丁度OSとしてMS-DOSができた時代に移ったところでした。

 翌年には,パソコン通信:ニフティサーブに入ったのですが,パソコンには大型コンピュータで得ていた知識や経験は全く役に立たず,また手さぐりの状態から始めたわけで,通信の方も初心のころはドキドキでした。)

 新人研修の終わった5月の下旬頃でしたか,環境アセスメント部門のS部のY課長の下に配属され,それから40歳の3月に依願退職するまで,いわゆるシステムアナリストのような感じで13年間勤務しました。したがって,この期間のプログラム言語としてはフォートラン(Fortran)を常時使用していました。

 新入社員から2年くらいは,私の場合は他の人とは異なり,ほとんどプログラマーらしいことはやらず,本を読んでいることが多かったです。

 というのも窒素酸化物の自動車からの拡散による新しい濃度計算式を開発する,というのがメインの仕事でしたので,まずは拡散方程式という偏微分方程式をコンピュータに頼ることなく解析的にに解くことが上司から求められた課題でしたからね。

 もちろん,Y課長と一緒にやったからこそできたのですが,運良く新拡散計算モデル式を発見できました。

 その後は,式とトレーサー実験での実測との比較から,そのモデル式での計算に必要なパラメータを多次元の非線形最小二乗法に加速係数を加えた方法で最適化して決める,ということを,大型コンピュータとフォートランで求め,さらにそのパラメータが各実験時点での風速や日射量などとどういう関係にあるか,ということを決める作業をしていました。

 新人1年目のS部の忘年会の2次会で,Y課長とその同期のS課長と同席で飲んでいて,勤務態度云々で2人に「いちゃもん」をつけられたと感じました。

 そのとき,つい普段から思っていた思想的なこと=「私は拷問に堪えられない実体だ」と述べたのを,おそらく仕事が拷問だなどと誤解されたのでしょうか,ますます険悪になって,私が「表へ出ろ」といって切れたのですが,2人が表へ出なかったので,結局私自身が席を立って帰り,翌日,S次長に辞表を出して慰留されたというのも,今となってはなつかしい思い出ですね。

 「私は拷問に耐えられない実体だ」というのは,まさか,たかが仕事を拷問だなどと思うはずもなく,一般に他人はどうか知らないけれど,私は正直な話,拷問された場合,おそらく最愛の人をも売るだろう弱い卑怯者である,という意味で言ったのです。

 例えば,指を折られ,目をつぶされ,耳や鼻をそがれ,歯を抜かれ,性器をそがれるという人間でなくなる肉体的拷問を受けたとき,舌を噛み切る勇気がないだろう私は,それらに堪えられないで卑怯者になるだろうという,自分を卑下した考えを述べたのですが,たかが上司とのけんかくらいで,なぜそんなことまで言ったのか,今は覚えていません。

 「絶対に拷問などに屈しない」とキレイゴトを言ってもしょうがなくて,裏切り者の汚名を着て生きながらえても非難されて針のムシロでしょうが,そういう自分が同じような他人がいたとしても非難できるはずがないという悲壮感のようなものでしょうか。。

  とりあえず,覚えている印象的なことどもを書いてみました。

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2006年4月15日 (土)

基礎物理学講義③(力と運動1)

1.運動学と力学

 運動学とは物体の変位と速度と加速度,運動方向などを調べるものである。つまり,物体の運動する道筋を時間の関数として幾何学的に表わす方法で,言わば数学的なものである。

 一方,力学とは,物体の運動と"外部環境=力"との関係を調べるものである。つまり"数学的軌道=幾何学的な運動学"を現実の物理的作用と関連付けるものである。

(1)運動学

①変位-物体がある位置からある位置への運動をするときの移動経路を変位という。

ⅰ)位置(空間の点)は,われわれの3次元空間では3つの数字で決めることができる。それを座標という。

 たとえば(1,-2,7)とかが位置を示す点の座標である。この場合,1,-2,7を,それぞれx座標,y座標,z座標という。

 特に,座標(0,0,0)で与えられる点を原点という。ただし原点は宇宙空間のどこにとってもよい。(空間の一様性)

 また,xyz座標軸は右手系の3つの直交軸であれば,これらをどの向きに回転された方向にとろうと自由である。(空間の等方性)

ⅱ)変位は,実際にはある時間のあいだに起こる。

 時間を小さくきざんでいくと経路は非常に短い直線分を結んだ折れ線とみなすことができる。 そして,ある1つの小さい直線分をABと書いたとする。

 Aの座標が(xA,yA,zA)でありBの座標が(xB,yB,zB)のとき,この変位を(xB-xA,yB-yA,zB-zA)で表わしてこれをABとベクトル記号で表わす。

②速度-速さとその向きを総称して速度という。

ⅰ)平均速度とはある地点Aからある地点Bまでの直線変位をその移動にかかった時間で割ったものである。

 (平均速度)=AB/(移動時間)である。ただし,ベクトルABを時間Δtで割るとは,新しいベクトル=(vx,vy,vz)=((xB-xA)/Δt,(yB-yA)/Δt,(zB-zA)/Δt)をつくることを意味する。

ⅱ)Δtを無限に小さくしてゼロに近づけて極限を取ることを"微分する"というが,このときの速度のことをその瞬間の速度または単に速度という。

③加速度-速度の変化率のこと

 変位がベクトルなので,それを時間で微分した速度もベクトルである。その速度ベクトルも一般には一定ではなくある時間のうちには変化する。

 ある時間Δtの間の速度の変化分ΔをΔtで割ったもの=Δ/Δtを平均加速度という。

 Δt を ゼロ にしたときの=Δ/Δtを速度の微分係数といい(瞬間)加速度と呼ぶ。加速度もベクトルである。

(2)力学

①運動の法則(ニュートンの運動の3法則)

ⅰ)第1法則(慣性の法則)

 "物体Aがあらゆる他の物体から無限に離れていて全く影響を受けない場合,その物体Aは等速度運動(等速直線運動)をする。"

 これは実は奥が深い

ⅱ)第2法則(運動の法則)

 "物体の加速度 は受ける力 に比例し質量mに反比例する。"

 すなわち,=k/m,あるいは =k'm, ただしk,k'は比例定数である。

 ただし,の単位をN(ニュートン;Newton)=kgm/s2に取ればkもk’も1になるので記号k,k'は不要である。

 この法則(ⅱ)によれば,=0 は =0 を意味するため,自動的に法則(ⅰ)が得られるので,(ⅰ)は不要であるように見えるが果たしてそうだろうか?

 ⅲ)第3法則(作用・反作用の法則)

 "2つの物体A,Bがあるとき,AがBから力を受けたとき,逆にBはAによって大きさが等しく向きが正反対の力を受ける。"

 実は,法則(ⅱ)と(ⅲ)を一緒にして初めて質量mの定義が可能となる。

 力とは何か? ←  これが不明なまま法則が先にできてしまった。

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2006年4月13日 (木)

愛国心雑感

  政府=自民党が教育方針などとして,愛国心を高めようという意図をもって,愛国心の定義というのを指針として与えたようだ。

 戦前でもあるまいし,性教育と同じようなもので,「愛国心=国を愛する心」などを,教育として押し付けられたらたまったものではない,そういうものは成長とともに自然に育つものだ。

 もっとも「国家=国家権力」を愛するというナショナリズム的な気持ちは私は持っていない,私は国を愛する心ではなく,故郷(くに)を愛する心なら持ち合わせている。

 だからこそ,オリンピックやWカップなどで,日本を応援する気持ちがある,それは高校野球などで生まれ故郷の岡山県の高校を応援するようなものだ。愛国心でなく愛郷心と書いて「あいこくしん」と読ませるなら,それは一興であると思うのだが。。。

 ジョン・レノン(John Lennon)の「イマジン(imagine)」ではないが,「国境などない」のである,国などは消えてほしいものの一つである。

 「それは理想論だ。夢だ。」といわれるかもしれない。だが,理想を語って何が悪いのか,とも強く言いたいと思う。

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重力場(ファインマン)つづき,その2

 昨日,わからなかった部分は真夜中まで考えて,自分の中では解決しました。

 本文には作用の値の符号が変わると力の向きが変わると書いてありますが,これは一般の古典ラグランジアン:L=T-VのポテンシャルVの符号が変われば引力ならば斥力に変わり逆も成り立つことから想像できます。

 一方,電磁気力では電磁カレントをJμ,"光=電磁場"をAμとし相互作用ラグランジアン密度をL intで表わすとLint=-JA=-ρφ+JAとなります。ただし太字の部分は空間成分(3次元ベクトル)です。

 真空中の電磁波,すなわちρ=0 でクーロンゲージ(Coulomb gauge)を取る場合,つまり∇A=0 の場合にはAμの横波成分(もちろん空間成分)のみが残って,LintJAとなります。

 これのアナロジーで,重力では物質エネルギー運動量テンソルをTμν,重力場をhμνとすると相互作用ラグランジアン密度はLint=-Th → -Thとなります。

 やはり太字は空間成分(3×3テンソル)を意味します。

 こうして相互作用Sint=(Lintの4次元積分)はカレントが質量ゼロのベクトル場(スピン1;spin1)と相互作用する場合と質量ゼロのテンソル場と相互作用する場合で符号が異なることがわかります。

 したがって,「静場=時間成分」で考えたときにはポテンシャルVの符号が逆になり,電気力で斥力なら重力では引力になると結論されます。

 こうした考察から,奇数スピンと偶数スピンのゲージボソン(gauge Boson)の交換で,同符号の粒子間に働く力の向きは反対であることが帰納できます。

 という風に考えて納得しました。前回の文章では失礼しました。

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2006年4月12日 (水)

重力場(ファインマン)つづき

 ども,TOSHIです。

>そして電気力が引力と斥力の両方あるのは"媒介粒子=光(photon)"のスピンが1であって奇数だからということ,重力の場合は重力子のスピンが2であって偶数である故に引力のみであるという論理も目新しいものでした。

   と,偉そうに書きましたが,実は何故そうなるのかについて,はっきり言って読んでもその理由がわかりませんでした。

 おそらく,電気力では同種電荷間の場合,光子(光波)のスピンが奇数なので斥力ですが,重力では質量 or エネルギーというのはもともと同種に決まっていて重力子(重力波)のスピンが偶数だから引力だ,ということを説明していると思われる部分ですが,そもそも,電気力は同種電荷で引力,異種電荷で斥力である,などと誤訳ではないかと思われる文章もあるので,ここらへんは翻訳の正確さにも疑問を持っています。

 一応,引き続き考えてみます。おわかりの方がおられたら,ご教授願いたいところですが。。。。。

(追伸:「superstringⅠ」という本で確認しましたが,グラヴィテーノのスピンはゼロではなくて,3/2のようですね。失礼しました。。。)

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2006年4月11日 (火)

経済制裁

 国際犯罪を起こした国に対して,国家が経済制裁を発動することに,全く反対というわけではないが,その国というのは非常に貧しい国であり,一般庶民は困窮しているし,飢餓に苦しんでいる。

 経済制裁すれば支配者も困るだろうが,大多数の庶民は,より困るだろう,長い目でみればその結果として望ましい"体制崩壊"が起こるかもしれないが,とりあえずのこととして,私としては見るに忍びない。

 (新約聖書にも,「犬(=異邦人)であっても主人のこぼしたパンくずを食べることはできる。」という異邦人の信仰の厚さの話が確かあったと思う。。。

(ユダヤ人以外の異民族を犬と呼ぶのはひどいけれど,文脈はユダヤの民ではなくても主あるいは救世主の恩恵のおこぼれには預かれるはず,という意味だったと記憶しています。) 

 現状ではわが国からの支援は金正日を含むわずかな人間が独占しているとしても,私は彼らのこぼす「パンくず」の行方の方が心配です。

 私は短期間の痛みを我慢して,長期展望をする,などということには結構裏切られているし,むしろ,現実的な短い目しか持っていない。

 民族主義者ではないから,かの国の人々より日本の人々が特に大事という感覚もない。もちろん近親者のほうに親密感を感じるというのは普通ですから,そうした感覚が皆無ではないが,できれば経済制裁以外の方法を取りたいと感じる。

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2006年4月10日 (月)

重力場(ファインマン)

  ニュースグループfj.sci.physicsで「琉球大学の河野さんの記事」を読んで,元々は「本の山古墳」の中に積ん読状態で沈んでいて最近トランクルームに引越ししていた「ファインマン講義,重力の理論」を取り出して読んでみました。

 今のところ,まだ全体の1/3足らずしか読んでないのですが。。。

  元々は,「高速度で走る宇宙船などに乗った観測者から見ると,星は自分とは逆向きに高速度で運動しているから,"質量=相対論的質量"は莫大になり,万有引力は互いの質量(というかエネルギー)の積に比例するのだから,観測者のいる座標系が変わると引力が莫大になるのではないか?」

 などというおバカな質問などを受けたりするものですから,電磁気学での"クーロン力(Coulomb)=静電気力"は系の運動速度が高速になるほど小さくなり,元の静電気力は高速運動系では電荷の運動の電流による磁気力に転化するという例え話をして,重力も同じようなものだなどという説明でお茶を濁したりしていました。

 その関連で当該記事の"磁気的重力"なる概念にも前から少なからず興味を抱いていたので,ファインマン(R/P/Feynman)著の重力の本でも読んでみようという気になったのです。

 いやあ,いろいろと目からうろこが取れるようなことが書いてありましたね。

 例えば,素粒子を仲介する媒介粒子がボーズ粒子(Boson)なのは,素粒子が1個の媒介粒子の交換によって2次の相互作用をするとき,相互作用頂点でフェルミ粒子(Fermion)はフェルミ粒子のまま,ボーズ粒子はボーズ粒子のままキープされるためであることも,私は今までは気が付いていなかったのです。

 そして電気力が引力と斥力の両方あるのは,"媒介粒子=光(photon)"のスピンが1であって奇数だからということ,一方,重力の場合には媒介粒子が重力子で,そのスピンは2であって偶数である故に引力のみであるという論理もちょっと目新しいものでした。

 (グラヴィテイーノ(重力微子:gravitino)のスピンも確かゼロで偶数ですよね)。

 しかし,最も興味深かったのは次のことです。

 すなわち,電気力の場合,そのソース(力の源)は電荷であって,それの媒介粒子は仮想光子ですが,光子は電荷を持たないので電気力は”ソース=電荷”について線形です。

 それに対して,重力のソースは質量というよりエネルギーで,その媒介粒子は質量はゼロでもエネルギーはゼロではないため,それ自身も重力のソースとなります。そのために,重力の場合は力の形態が2次以上,つまりソースについて非線形になります。

 それ故,重力場の方程式は必然的に非線形方程式になるだろう,ということが興味深かったのでした。

  でも,ということは量子色力学で,結合のソースが,"カラー=色"であるならカラー的に無色の素粒子を媒介する粒子も無色でなければ線形になれないはずですが,一般にグルオン(gluon:ニカワ粒子)は色を持っています。

 でも,ハドロンは無色ですが,クォークは色を持っていて,グルオンはクォーク間を媒介するものだから,色を持っていてもいいのか?などと勝手に色々想像したりしてしまいました。

 引き続き仕事の合間に読んでみます。

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基礎物理学講義②(波と音と光)

 「波,特に音と光」

 (1)波(wave)とは? 

 流れのない池に小石を投げ込むと,小石が落ちた点を中心として波紋が周囲に広がってゆく。

 しかし,このとき水面に浮かんでいた木の葉があったとしてもそれはその場所で上下に振動するだけで波紋とともに移動することはない。

 つまり,この波紋は水そのものが広がっているのではなく単に水の振動が伝わって広がっていることがわかる。

 このように振動などが周囲に伝わっていく現象を波または波動という。

 波の数学的定義は次のとおりである。

 ある時刻 t=0 に y= f (x)という形の曲線で表わされるパルスがあったとして,このパルスが時刻 t には元の位置よりも右にvtだけ平行移動されたとすると,その関数形は y=f (x-vt)となる。

 このように,速度vで形が伝わってゆく現象を波というのである。

 特に,(x-vt) を波の位相と呼び,v を位相速度という。

 また,この曲線形を波形と呼ぶ。

 波には力学的な波(たとえば音)と力学的でない波(たとえば光=電磁波)がある。

 その大きな違いは,力学的な波というのは必ず媒質が必要であるが,"電磁波=光波"は真空中でも存在し,媒質は必要ないことである。

 かつては「電磁波=光波」も力学で説明しようとしたため,媒質としてエーテルという架空の物質を想定していた。

 力学的な波は"媒質の圧力によって伝わる波=縦波"と媒質のずれ応力=まさつで伝わる波=横波"とこれらの組み合わせによる波があり,圧力やまさつ応力などの弾性により媒質が振動することによって伝わってゆくので弾性波とも呼ばれる。

 したがって,「力学的な波=弾性波」の一定の位相速度 v とは媒質に対する相対速度であり,観測者に対して媒質の風が吹いていれば,観測者にとっての位相速度は媒質に対する位相速度に風速を代数的に加えたものとなる。

 これに対して媒質のない光の位相速度は媒質とは無関係な各観測者に対する速度である。

(2)正弦波と波長,振動数、波数

 特に波の形が,正弦関数 y=f (x)=Asinkxの形をしている場合:y=f (x-vt)=Asin{k(x-vt)} を正弦波という。

 このとき波の隣り合う山と山の距離を波長(wave length)といいλで表わす。これはkλ=2πであることを示しているのでk=2π/λである。kあるいは1/λを波数(wave number)という。

 また,ある座標がxの固定位置で,1秒間に(山+谷)が現われる回数を振動数(frequency)といい f で表わす。

 たとえば,x=0 では y=-Asinkvt となり,周期をTとすると kvT=2πで, f =1/Tなので, f =kv/(2π)=v/λと書ける。

 そこでy = sin {2π( x /λ-f t)} と書ける。

(3)波の干渉とうなり,重ね合わせの原理

 通常のバラバラに移動している波でも,それらがある点をある時刻に通過するとき,全体として合成された波は結局それらを単にベクトル的に加えたものとなる。これを「重ね合わせの原理」という。

 一般に,バラバラに移動している波を合成してもそれらは振動する向きも進行方向もバラバラであるから目立った現象は見られない。

 これに対して,進行方向も振動する方向も同じであるが位相だけが違うような波達を合成すると,例えば振幅が同一である2つの波が半波長だけ位相がずれていれば完全に波は打ち消しあってしまう。

 つまり,光なら真っ暗になり音なら無音になる。

 逆に位相がまったくずれていないなら,振幅が2倍に強調される。光なら明るくなり,音なら2倍の音量になる。

 こうした現象を波の干渉という。

 干渉する波同士を"コヒーレント=可干渉"な波といい,そうでない波をインコヒーレントな波という。

 通常の飛んでいる光達はほとんどインコヒーレントで,だからこそ,影がない限り明るさはどこでも同じであって,まばらにはならないのである。

 もしも,部屋の中の光達の位相が,完全に統計的に逆相関,すなわち,相関係数が-1 なら,元々バラバラの光達なので部屋は真っ暗になるが,そうはならないのは統計的に無相関(相関係数がゼロ)がほぼ成り立っているためである。

 一方,1つの光源から出た2つ以上の光線などは,コヒーレントであって干渉しやすい。

 干渉を数式で表わすと次のようになる。

 y1=Asin(kx-ωt+α)で表わされる波と,y2=Asin(kx-ωt+β)で表わされる波とを重ね合わせると,y1 + y2=2Acos{(α-β)/2}sin{kx-ωt+(α+β)/2}となるので,たとえばα=βなら振幅は2Aになり,α-β=±πなら振幅はゼロになる。

 一方,振動数 f1 と f2 がわずかに異なる2つの波,つまり角振動数ω1とω2がわずかに異なる場合には,y1=Asin(kx-ω1t+α)で表わされる波とy2=Asin(kx-ω2t+β)で表わされる波とを重ね合わせることになり,これは干渉ではなく,うなりという現象になる。

 y1 + y2=2Acos{(ω1-ω2) t/2+(α-β)/2}sin{kx-(ω1+ω2)t/2+(α+β)/2}となって,Δf≡f1-f2 とおけば振幅項が 2Acos{πΔf t +(α-β)/2}となるので,振幅の絶対値が周期 (1/Δf ) で振動することになる。

 これをうなりという。

 つまり,うなりの振動数は元の2つの波の振動数の差に等しい。

 電波で信号を送るときには信号が低周波のうなりに相当し,高周波の方は搬送波と呼ばれる。

 合成波の中から"うなり成分=信号"を取り出して,不要な搬送波を取り除くことを検波という。

(4)ホイヘンスの原理

 波の山同士など、位相が同じ点をすべてつないでできる面を波面という。波面が平面である波を平面波といい球面である波を球面波という。

 点から発生した波は,その位相速度があらゆる方向について同一であるから球面波となるはずである。これに対して大きさのある物体から出た波は,いろいろな波面を持つことになる。

 理想的に無限大の面から出た波が平面波になる考えられる。

 ホイヘンス(Huygence)は空間を伝わる波を次のように説明した。

 波が波面を形成したのち次の波面を形成するには,"今の波面の各点から無数の微小球面波が出てそれを素元波と呼び,それらの重なったものつまり包絡面が新しい波面となってゆく"というシステムになっている,としたのである。これを「ホイヘンスの原理」という。

(5)波の反射と屈折

 「ホイヘンスの原理」から,波が媒質Ⅰから媒質Ⅱに入射するとき,その境界面で発生した素元波がⅠの側に進むものを反射波,Ⅱの側に進むものを屈折波といいこれらの現象を反射,屈折という。

 一般に,媒質Ⅰと媒質Ⅱでは波の位相速度は異なると考えられるが,ⅠとⅡで異なるのは空間の性質であって時間が異なるわけではない。

 そこで速度の異なる原因は振動数ではなく波長である。異なるのは波長であって振動数は屈折によっては変化しない。

 反射では速度,波長も変化しないので「入射角=反射角」である。これを反射の法則という。 

 一方,屈折では入射角をi,屈折角をrとしⅠ,Ⅱでの波の位相速度を,それぞれv1,v2とすると,n=sini/sinr=v1/v2=λ12=n12と書ける。

    

 このn≡n12を媒質Ⅰに対する媒質Ⅱの(相対)屈折率という。そしてn=sini/sinrという性質を「スネル(Snell)の屈折の法則」という。

(6)音のドプラー効果(Doppler effect)

 静止している観測者に近づいてくる電車の警笛は電車自身の警笛よりも高い音(振動数の大きい音)に聞こえ通過して遠ざかる電車の警笛は逆に低い音(振動数の小さい音)に聞こえる。

 これを音のドプラー効果という。これは次のように説明できる。

 音の周期を T=1/f, 音速をcとする。さらにある時刻に音源と静止観測者の距離をLとし,近づく音源の速さをvとすると,その時刻に発せられた音の山はL/cの後に観測者に届き,次の山は T+(L-vT)/cの後に観測者に届く。

 よって観測者の感じる周期はT'=T-(vT/c)=[(c-v)/c]Tとなり,その振動数は, f'=(1/T')=f[c/(c-v)] となる。さらに観測者も速度uで音源に近づくならば,分子の音速の方が(c+u)となるので,振動数は f"=f[(c+u)/(c-v)] となるのである。

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2006年4月 9日 (日)

昼まで飲んでました。

 今,お昼12時の20分前です。 

 この前,心配していただいたK原さん,ごめんなさい。日曜日の前ということもあって,土曜日の夜10時から,日曜日の12時までやはり「けやき」で飲んで,20分間ふらつきながら,地蔵通りを歩いて,今自宅に帰ったところです。

 またもや「すっかんぴん(死語か?)」です。ホームレスになる日も近いようですね。。。。

  道すがら,何か祭りでもあるのか,化粧をしたり,着物を着た子どもをたくさん見ました。(追伸:実は"花祭り=お釈迦様の誕生日?"でした。)

 マルドロールという悪魔を崇拝しているのにも関わらず,心ならずも子どもを見るたびに「なんて可愛いんだろう」と思ってしまいました。

 私は悪魔失格ですね。。。

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2006年4月 8日 (土)

基礎物理学講義①(温度と熱)

 私の池袋での専門学校での講義録です。


 (※平成8年度から6年間,約50名のクラス3つで,毎週各1コマ

 90分の専門学校レベルの教養の物理を講義していました。)

 
  「温度と熱」


 (1)はじめに。。。 

 
 本講のテーマとしては、熱とは何か?,そして温度とは何か?ということ

 を中心に考えていく。


 (2)熱平衡と経験温度

 
 物体Aと物体Bを長時間接触しておくと,これらはやがて熱的に同じ一定

 の状態に落ち着く。この状態に落ち着くことを熱平衡という。

 
 AとBが熱平衡にあり,BとCが熱平衡にあるならば,AとCも熱平衡にある。

 これを熱力学第0法則という。

 

 熱平衡にあるかどうかを決める指標が温度,すなわち経験温度である。

 
 温度計は温度と物体の膨張が比例するという性質と熱力学第0法則

 を利用している。


 つまり,Bという温度計をAとCにそれぞれ長時間接触することにより,

 AとCを直接接触することなく,AとCが熱平衡にあることを知るのである。


 経験温度を決めるには,まず,1気圧中での"水の融点(氷点,または凝固点

 ともいう)=氷と水の境目の温度"を0 ℃とする。


 次に,1気圧中での水の沸点,つまり,水が気化して水と水蒸気が共存

 するとき,"飽和水蒸気圧がちょうど周囲の1気圧と一致するようになる

 境目=沸騰する状態"を水の沸点と呼び,このときの温度を100℃とする。


 そして,アルコールや水銀などの温度計の内部物体の,水の氷点と沸点

 の間の膨張長さを100等分して目盛で表わしたものを摂氏(Celsius)温度

 という。


 (3)熱膨張と絶対温度


 ①固体と液体の熱膨張


 これは熱のせいで,固体や液体を構成している"分子の運動=特に振動

 などの往復運動"が激しくなり,構成分子間の平均距離が増大する結果

 として体積が増加する現象のことをいう。


 一般に近似的に体積Vの固体,液体の体積増加分ΔVはその温度上昇分

 Δt に比例する。その比例定数βを体膨脹率という。


 つまりΔV=βVΔtであってV+ΔV=V(1+βΔt)である。


  固体や線状の容器に入った液体の体積膨脹による長さの変化を

  特に線膨脹という。

 
 長さLの物体の膨脹した長さをΔL,線膨脹率をαとすると

  ΔL=αLΔtでありL+ΔL=L(1+αΔt)である。


  このときβ=3αが成り立つ。
その証明は次のとおりである。


  (証明) 縦,横,高さが全てLである物体の体積はV=L3で,

  V+ΔV=(L+ΔL)3であるから,1+βΔt=(1+αΔt)3

  =1+3αΔt+3α2(Δt)2+α3Δ(Δt)3である。


  ところがαは非常に小さいので,Δtが小さいとき3α2(Δt)2

  α3(Δt)33αΔtに比べてはるかに小さくて無視できる。

  そこで近似的に1+βΔt=1+3αΔt,,またはβ=3αである

  としてよい。  (証明終わり)


 ②気体の熱膨張 


 これは気体を構成する気体分子が熱によって激しく運動し,その平均

 分子行路が長くなることで体積が増加する現象を意味する。


 一般に,一定の体積の容器に入れておくと温度上昇と共に体積変化

 はしない。その代わりに圧力が増加するので圧力を熱膨張前と同じ

 にするには体積を増加させた容器に入れ換えなければならない。


 しかし,一定の気圧のもとで自由に容器の大きさが変動するようにして

 おけば体積は自由に膨脹することができる。


 一般に希薄気体の熱膨張率は 0 ℃では気圧によらず,また気体の

 種類にもよらず,常にβ=1/273.15であることがわかっている。

 つまり,V+ΔV=V(1+βΔt)=V(1+Δt/273.15)

 =V(273.15+Δt)/273.15である。


  0 ℃での気体の体積VをV0としt℃での体積V+ΔVを単にVと書くと,

  V0/273.15=V/(273.15+t)となる。


  そこで,摂氏温度が t℃のとき,T≡273.15+t を絶対温度と呼べば,

   0 ℃では絶対温度をT0≡273.15として,V0/T0=V/Tが成り立つ。
  気体の体積は一定気圧のもとでは絶対温度に比例するといえる。


  このことは,T=0 絶対零度ではV=0 となって気体の体積は理論

  上ゼロになることになる。


 もちろん実在気体ではそのような温度ではもはや気体ではなく固体

 や液体になっているので,そうした体積と温度の比例関係はもはや

 成り立たない。


 しかし,そうした相の転移を無視した理想的な気体を想定すると,

 温度は"絶対零度=-273.15℃"が最低温度で,通常の現象では理論

 的にそれより下の温度は存在しないことになる。


  一方,温度は上の方には限界はない。なお,絶対温度の単位は

 K(ケルヴィン;Kelvin)とする。


 (4)熱,熱量,比熱 


 ①熱の本質,熱量と熱の仕事当量


 熱とは何か?。。。
大昔は火を起こすには木を木でこする摩擦に

 頼っていた。

 
  火がつくには,現在ではその木がある発火温度に達すればよいことが

 わかっている。そして温度が上がるということは,その物体が熱を持つ

 ということで達せられる。

 
 しかし,19世紀には熱がある物体からある物体に移るのは熱素という

 物質が移動するとか,物が燃えるのは"フロギストン(phlogiston)=燃素"

 によるという思想があり,また熱が伝わるのは,その熱素が流れるから

 だと考えられた時期もあった。

 
 しかし,そうした熱素なるものが存在するとしても,それは保存しないで

 摩擦などによって発生したり,自然に冷えて消滅したりすることになる。

 
 そうしたことから,むしろ熱というのは何らかの力学的仕事によって生起

 する実体ではないか?と考えられるようになり,そうした得体の知れない

 熱素などというものの存在を仮定する必要はないと考えられるようにな

 った。


 そうした時期にジュール(Joule)は水の入った容器と攪拌する装置を

 使って水をかき混ぜる仕事量に等しいだけ水が熱をもらって温度が

 上がるのだと仮定して熱の仕事当量というものを測定した。これを

 ジュールの実験という。


 すなわち,1気圧の下で水1gが14.5℃から15.5℃まで1度上がるとき

 に受け熱,これを熱量という言葉で表わし,その熱量を1cal(カロリー)

 というが,これが仕事でいえば4.19J(ジュール)に相当することを測定し

 たのである。

 
 この4.19J/calのことを熱の仕事当量という。

 
 以後,この仮定に基づいて,力学的仕事,つまり摩擦などによって失

 われる力学的エネルギー損失が全て熱に変わるとすれば,依然と

 して(総エネルギー)=(熱エネルギー+力学的エネルギー)が保存

 するという法則,"総エネルギーは保存する"という法則の成立が

 確認された。


 そのため,熱の本質はエネルギーそのものであると考えられるよう

 になり,それから後に,何の矛盾も見つかっていない。

 
 しかし,仕事は全部100%が熱に変わることが可能なことはジュールの

 実験以来の事実であるが,熱の方は100%が仕事に変わるわけではなく

 その一部は捨てられなければならない。

 
  これは,もちろん1サイクル(cycle)での話であり,サイクルでないなら

 100%仕事に変わることはある。 (※サイクルとは系がある熱と仕事

 を受ける過程を経た後,結局,自身と周囲に何の変化も起こさない元

 の状態に戻るような熱力学過程でのことである。)


このことから考えて,熱には熱としての特有の意味があり,単純に画一化して

エネルギーというだけでは割り切れないところがある。


②熱量の保存,比熱,熱容量

 
 ある物理的過程で力学的仕事が関係することなく,「全体として

 熱エネルギーが逃げることがない=断熱されている」なら,熱量

 はその過程で保存される。

 
 そして,たとえば高温の物体Aと低温の物体Bを断熱された環境の

 中で接触させておくと,やがてAとBは熱平衡に達してある一定の温度

 に落ち着く。

 
  このとき,全体の「熱量=熱エネルギー」は保存されるので,

 「Aの失った熱量=Bのもらった熱量」という法則が成り立つ。

 
 これを熱量の保存の法則という。
また熱エネルギーの保存の法則

 ともいう。

 
 具体的には熱量1calは「水の1gの温度1度の上昇」で定義されて

 いるので,水以外の物質については1gを1度上げるのに必要な熱量

 が水に比較してどのくらいかを調べる必要がある。

 
 その意味で物質1gについて温度を1度上げるのに必要な熱量

 のことを比熱というが,比とはいうものの単なる数値ではなくcal/(g℃)

 という単位を持っている。そして,比熱は普通cという文字で記述される。

 
 一般に金属の比熱は水に比べてかなり小さく,金属は小さい熱を

 与えてもすぐに温度が上がるのが特徴である。

 
 また,「質量m(g)の物体を1度上げるのに必要な熱量

 =w(cal/℃)その物体の持つ熱容量という。w=mcであること

 は明らかである。

このwは,その物体が熱的には水のw(g)に相当することを

表わしている。

 
たとえば,炭素なら12g,水素なら2gの物質量は共に

アボガドロ数(Avogadro-number)と呼ばれる 6.02×1023個の

分子(炭素ならC,水素ならH2)から成り立っている。

 
このアボガドロ数個の分子からできている物体量を1グラム

分子,または1モル(mol)と呼ぶ。そして特に1モルの物質の

熱容量をモル比熱と呼ぶ。

 
通常の金属固体のモル比熱は金属の種類によらず,3R

=約25(J/mol・K)=約6(cal/mol・K)である。

 

これは実験でも確かめられているが理論的に求めることもできる。

 すなわち,Dulog-Petit(デュロン・プティ)の法則として知られている。

 R~8.31(J/mol・K)は気体定数である。


 (5)理想気体のボイル・シャルルの法則と気体の分子運動論

 
 ①ボイルの法則(Boyle)


 希薄気体では一定温度で気体の体積は圧力の大きさに反比例する。

 つまり,温度一定のもとでは圧力Pが2倍になると体積Vは半分=1/2

 になる。。PV=一定である。これをボイルの法則という。

 ②シャルル(ゲイリュサック)の法則(Charles(Gay-Lussac)


 希薄気体では,一定圧力の場合気体の体積は絶対温度に比例する。

 つまり圧力一定のもとでは温度(絶対温度)Tが2倍になると体積Vも

 2倍になる。

 すなわち, V/T=一定である。

 これをシャルル(ゲイリュサック)の法則という。


③ボイル・シャルル(ボイル・ゲイリュサック)の法則と理想気体


 ボイルの法則とシャルルの法則を合わせてボイル・シャルルの法則

 という。 これは,PV/T=一定という形に書くことができる。

 
 現実の気体は,この法則とは微妙にずれているが,特にこの法則に従う

 気体を理想気体という。

 このときのPV/Tの一定値は気体定数と呼ばれ,Rであらわされる。

 この気体定数の値はR=8.3145(J/mol・K)である。

 
 つまり1モルの気体に対してはPV/T=RあるいはPV=RTと書ける。

 
 しかし,一般に容器に入っている気体は1モルとは限らないので,

 その気体がnモルであるとすると,その体積Vのnモルの気体の

 1モル当たりの体積はV/nとなる。

 よって,PV/n=RTであるから,PV=nRTと書くことができる。

 
 このように圧力と体積とを温度と結びつける式のことを

 状態方程式といい,特に,PV=nRTを理想気体の状態方程式

 という。

 
④気体分子運動論による理想気体の状態方程式の解釈 

 
 理想気体はたくさんの分子が摩擦熱を失うことなく反発係数1

 で分子同士や容器の壁と完全弾性衝突をしながら,ばらばらに

 運動している状態と考えることができる。

 
 そこで,壁に及ぼす圧力は気体分子が壁に衝突することによる壁に

 与える力積の総和であると考えることができる。 

 
 模型として1辺の長さLの立方体容器:体積V=L3の中にN個の

 気体分子がある場合を考える。

 気体分子1個の質量をmとし,その速度を=(v,vy,vz)とすると,

 x方向に垂直な片方の壁に分子1個が1回の完全弾性衝突で与える

 力積は2mvxである。

 1個の分子は1秒間に, v/(2L)回衝突するから,"全N分子の1秒

 当たりの壁に与える力積=壁に与える力"は,Nmvx2/Lとなる。

 圧力Pは,単位面積当たりの"壁に与える力"であるから,壁の面積

 S=L2で割ってP=Nmvx2/L3=Nmvx2/Vと表わせる。

 つまり,PV=Nmvx2である。

 
 ところで分子1個の速さは, 2=vx2+vy2+vz2と三平方の定理で

 表わされ,3つの方向は対等であるから、速さの2乗の全分子の

 平均を<v2>で表わすと,x方向の平均は<vx2>=(1/3)<v2

 と考えてよい。

 したがって,PV=Nmvx2とは,実はPV=Nm<vx2=(1/3)Nm<v2>,

 結局,PV=(2/3)N<(1/2)mv2> と書き直すことができる。

<(1/2)mv2>は分子1個のエネルギー,つまり,この場合は位置

 エネルギーはゼロなので運動エネルギーである。

 PV=(2/3)N<(1/2)mv2>=nRTであるから,

 <(1/2)mv2>=(3/2)nRT/Nである。

 

特に,アボガドロ数をN0とするとN=nN0より,<(1/2)mv2

=(3/2)(R/N0)Tとなる。

そこで,分子1個当たりの気体定数をR/N0=kBと書くことにして,これを

ボルツマン定数(Boltzmann constant)と呼べば,<(1/2)mv2>=(3/2)kB

と表わすことができる。


こうして,気体分子運動論によれば,理想気体は気体の種類によらず

分子1個の運動エネルギーが(3/2)kBTであると解釈される。


(※しかし,正しくは後述するように圧力Pに寄与するのは,分子の全運動

エネルギーではなくて,内部の回転や振動のエネルギーを除く並進運動

(重心運動)のエネルギーだけである。)


(※なお,理想気体は力を受けず自由に運動するという近似なので粒子間

の位置エネルギーはゼロである。

後述する内部エネルギーは分子の(運動エネルギー+位置エネルギー)

であるが,この位置エネルギーは分子間の外力のそれではなく,分子内

原子などの内部構成粒子の内力の位置エネルギーなので原子間の振動

のように,理想気体でも存在する。)


(6)熱力学第1法則=エネルギー保存の法則

①内部エネルギー 


物体を構成する全分子の持つ
"力学的エネルギー

=(運動エネルギー+位置エネルギー)"の総和をその物体の持つ

内部エネルギーという。

内部エネルギーの大きさは,一般に物体の絶対温度Tに比例する。


単原子分子理想気体では並進運動の自由度3しかないため,nモル

持つ内部エネルギーUは気体定数をRとしてU=(3/2)nRTである。

また,2原子分子理想気体では,軸を持つ回転運動の自由度2が

加わるため,U=(5/2)nRTである。


理想気体というのは,ボイル・シャルルの法則と同時に等温で体積

変化による内部エネルギーの変化がないという法則,


すなわち,内部エネルギーがTだけの関数であるという法則を満足

する。 


また,固体では位置エネルギーもあるため,U=3nRTである。

位置エネルギーがある場合には,内部エネルギーはTだけでなく

体積Vにもよる場合がある。

②熱力学第1法則


特別なことがない限り,物体を加熱したり,圧縮したりすれば,その

内部エネルギーは増加する。


熱力学第1法則とは,物体の内部エネルギーUの増加分ΔUが,
外部

から与えられた熱量Qと外部から加えられた仕事Wの和に等しいと

いう法則である。すなわち,ΔU=Q+Wである。


気体の場合,体積がΔVだけ増加するような仕事は,気体自身の

圧力Pが外部に対してなす仕事なので,気体の方が外部によって

なされる仕事は,W=-PΔVとなる。故にΔU=Q-PΔVである。


③気体の熱力学変化と比熱


a)等温変化

 
温度が変化しない理想気体の熱力学過程を等温変化という。


 等温変化では,PV=一定の変化であり,Tが変化しないので

 ΔU=0 である。

 つまり,Q+W=0 であるから,Q=-Wである。等温,つまりΔT=0 な

 ので比熱Q/ΔTは無限大である。


b)定積変化 


体積が変化しない,ΔV=0 の理想気体の過程を定積変化という。

W=-PΔV=0  なので,ΔU=Qである。


単原子分子理想気体では,ΔTの変化に対してQ=ΔU=(3/2)nRΔT

なので,定積比熱は(3/2)nRであり定積モル比熱はCv=(3/2)Rである。

2原子分子理想気体では,定積モル比熱はCv=(5/2)Rである。


c)定圧変化


 圧力一定のもとでの理想気体の過程を定圧変化という。

ΔU=Q+W=Q-PΔVであり,PV=nRTであってPが一定だから,

PΔV=nRΔTである。


故に定圧変化では,TのΔTの上昇に対して,Q=ΔU+PΔV

=ΔU+nRΔTである。ΔU=nCvΔTなので,Q=n(Cv+R)ΔT

となる。 


定圧モル比熱をCpとすればQ=nCpΔTであるから
p=Cv+R

(マイヤー(Mayer)の法則)が成立する。γ≡Cp/Cvを比熱比という。


d) 断熱変化

外界と熱の出入りがまったくない過程を断熱変化という。


Q= 0 なのでΔU=W=-PΔVである。


もちろん,この場合もPV=nRTの法則は成立しているが,これ以外に

PVγ=一定,あるいはTVγ-1=一定というポアソン(Poisson)の法則

も成り立つ。


(証明) ΔU=-PΔVは,nCvΔT=-PΔVを意味する。


 PV=nRTなのでP=nRT/Vより,CvΔT/T+RΔV/V= 0 となる。

 これを積分すると,CvlogT+RlogV=一定: TVR/Cv=一定となる。

そして,R/Cv=(Cp-Cv)/Cv=γ-1により,これはTVγ-1=一定である。

さらに,T=PV/(nR)であるから,PVγ=一定とも書ける。(証明終わり)


①サイクル(cycle)


 サイクルとは最初と最後で自分自身に何の物理的変化も残さない過程,

 またはその過程を行なわせる機関をいう。


②トムソン(Thomson)の原理


一様温度の1つの熱源から熱を奪って,それに等しい仕事をするサイクル

は存在しない。


③クラウジウス(Clausius)の原理


低温の物体から,高温の物体に熱を移動するだけのサイクルは存在しない。


④トムソンの原理とクラウジウスの原理は全く等価である。 


すなわち,もし②が誤りなら高熱源1からQ1なる熱量を奪って,それに

等しいWの仕事をするサイクルC1がある。


一方,その仕事W=Q1によって低熱源2からQ2の熱を奪って

高熱源1にQ2+W=Q2+Q1の熱を与えるサイクルC2が存在する

から,サイクルC1+C2は結局低熱源2から高熱源1にQ2なる熱を与

える以外何の変化もない1つのサイクルである。


これは③が誤りであるという結論に導く。


同様に③が誤りなら②が誤りということも示すことができる。


⑤ 熱力学第2法則


②と③の原理を熱力学第2法則,または第2種永久機関を作ることが

不可能である法則という。 


⑥カルノーサイクル(Carnot-cycle)とエントロピー


nモルの理想気体を温度T1の高熱源に接触させながら体積V1

からV2に等温膨脹させ,次にV2からV3に断熱膨張させる。

低温T2になったところで,熱源に接触させてV3からV4まで等温圧縮

最後にV4からV1まで断熱圧縮させる。

このサイクルをカルノーサイクルという。


このとき外界は最初,熱Q1=-W1=nRT1log (V2/V1)を獲得し,

次にはQ2=0 で,かつ -W2=nR(T1-T2)の仕事をされる。


次に,-Q3=W3=nRT2log (V4/V3)の熱を獲得し,最後にQ4=0

でW4=nR(T1-T2)の仕事を受ける。

12γ-1=T23γ-1,かつT11γ-1=T24γ-1に注意すれば,

このサイクルで系が外界にした仕事の合計は,W=-W1-W3

=nR(T1-T2)log (V2/V1)であることがわかる。


他方,"はじめに外界が系からもらった熱量=高温熱源が失った

熱量"はQ1=nRT1log (V2/V1)である。


そこで,効率はη=W/Q1=(T1-T2)/T1であることになる。

このように,熱Q1をもらっても,そのうちQ3の分は捨てられなければ

ならない。これが第2法則の本質である。

η=(Q1-Q3)/Q1=(T1-T2)/T1であるから,結局,カルノーサイクル

では1/T1=Q3/T2であることがわかる。


もし,カルノーでないサイクルで高温からQ1を取って低温にQ3を移し

仕事Wをしても,W=Q1-Q3である。


しかし,このときカルノー逆サイクルで低温からQ3を取ってこれを

高温移すとしたときに必要な仕事をW'とすれば,高温はQ'=Q3+W'

の熱をもらう。


すると,結局,高温が失った熱はQ1-Q'=W-W'である。

このW-W'はサイクルで熱が全て仕事に変わった場合だから,

トムソンの原理によればこれは決して正ではない。


つまりW-W'≦0 である。

故に,Q1≦Q'( W≦W' )であり,効率η'=W'/Q'については

η=W/Q1より,必ずη≦η'であることになる。

これは,η=1-Q3/Q1でη'=1-Q3/Q'で,Q1≦Q'であるからである。


つまり,カルノーサイクルのような可逆サイクルでは効率が最大になる。


こうして,カルノーサイクルにより,温度の定義が,1つには最大効率の

熱量比という形で明らかとなったわけである。

そして,一般に可逆サイクルではQ1/T1-Q3/T3=0 であるから,常に

もらう熱量Qを正とし,失う熱量を負とすればサイクル全体では

ΣQ/T=0 となることがわかる。


これを,細分化すれば,可逆過程ではΔS=ΔQ/Tなる式で定義

されるSはサイクルで保存する量で,これはエントロピーと名付けて

定義できる。


もしも,不可逆サイクルなら,サイクル合計ではΣΔQ/T<0 となる

からサイクルでない微小過程で考えると,ΔQ/T<ΔSとなる。


また,もし考えている系が孤立系:つまり断熱で外界と熱も仕事も

やりとりしないならばΔQ=0 であるから,0=ΔQ/T≦ΔSより

一般にΔS≧0 となる。


すなわち「孤立系ではエントロピーは減少することはない。」という法則

が成り立つ。これをエントロピー増大の法則という。

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きっこのブログ

 いやあ,ブログ始めてから知ったのですが,有名な「きっこのブログ」をときどき読みにいってますけど,お世辞じゃなくて,まだかけだしの私のブログとは月とスッポンですね。。。

 読みでがあって,内容もすこぶる面白い。。私のような愚痴や机上の空論ではなく現実に即していて,時事ネタを小気味よく切って切って切りまくりという感じですね。一度ならず,ご覧になってはいかがでしょうか。。。。

  下記のブログランキングのHPからも行けるはずです。

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2006年4月 7日 (金)

朝まで飲んでました。

  今,朝8時半,東京は巣鴨地蔵通り,巣鴨郵便局近くの「けやき」という店で今まで飲んで帰ってきたところです。財布はすっからかんです。もちろん,いくら飲んでも酔ったりすることはありませんが。。。。。

 ああ,自分は醜い,とつくづく思います,うそにも良い嘘と悪い嘘がありますが,自分は悪い嘘を平気で言います。自分を良くみせたいという願望があるからでしょう。

 でも,どうして自分を良くみせたいのかなあ。他人がどう思おうとどうでもいい,という感覚があるのに。。。

 とりとめもなく次から次へと頭に思い付きが浮かんできます。

 いろんな欲,本能的な欲の他にも金銭欲,名誉欲などがあります。それらは人がいずれは死んでしまうということを意識下で,つまり無意識の内に本能的に感じているからではないかと思うことがよくあります。

 人間に食欲,性欲,睡眠欲など本能五欲以外の欲があるのは,全て「死ぬのが怖い」ためであり,金や名誉が欲しい,それがあればいずれ必ず来る死を忘れられるとか,「大金持ちになったら死なないのじゃないか,総理大臣,大統領になったら死なないで済むのじゃないか」という幻想を無意識の内に感じているのじゃないだろうかというのが.私の持論=汎死論です。まあ,これはフロイトの汎性論にちなんで考えた名称ですが。。。。

  でも新約聖書(だったかな?)にありましたね。富を得たばかりの人に「愚か者よ,おまえは今夜,召される」と,また「神と富(マモン)の両方に仕えることはできない」とも。。。

 まあ,酔ったりすることはないなどと自分から言うのは,実は酔っているからかもしれませんね。私は醜いなあ。

 私はモットーなど持ちたくないと思っていますが,強いて持っているとすれば「汎死論」と「価値自由の原理」というのが私のモットーですかね。後者は,「人がどんな価値観を持とうが自由である。それを他人が非難,批判する権利など全くない。」という原理ですね。

 つまり,他人がカニバリズムなどのように,どんな極端な趣味や性癖を持っていようと,それを実行して他者に危害をおよぼすことがなければ,全く自由だと考えることです。

 そうした趣味,性癖があるという理由でその他人を嫌いになることは自分はないと思っています。まあ,現在では,これは普通の考え方で特に個性的であるとは思っていません。

 人生は子供を残さない自分のような,非社会的な人間にとっては,単なるひまつぶしです。真面目に生きている人には申し訳ないとは思いますが私はそういういいかげんな奴なんです。

 でも私が一番重要だと思っている価値観は美です。善とか悪とかはどうでもいいけれど,とにかく美しいか醜いかという価値観だけは特別なものです。

 もちろん,美醜の判断には個人の好き嫌いの感情が入りますが,「私にとって美しい」ということが,あらゆる場合において私には絶対的な意味を持ちます。

 「物理学をなぜやるのか?」といえば,その理論体系が美しいからです。それで収入を得るいうことは,負け惜しみではなく邪道だと思っています。趣味であることが最高なのです。これも自分自身を正当化する嘘かもしれませんがね。

 ただ美しいもの,美しいことのみを追求していきたい。これが自分の実存でありイデーです。

 でも,その裏では「そんなものを追求するのは金持ちの道楽だ。世界には生きていくことにせいいっぱいな人達がたくさんいるのに」という気持ちも共存しています。

 実存を取るか?,社会的存在を取るか?というジレンマを抱えながら,非常に複雑な,実は全く単細胞な自分の存在があります。ある意味,贅沢な話ですね。

 ところで,先日から私自身の自慢のためではなく,物理フォーラムの宣伝のために,「物理フォーラムサブマネージャー」というフッターをつけています。ニフティ物理フォーラムも興味おありの方は下のURLをクリックしてご覧ください。

  また,酔っ払いのたわごとを書きなぐってしまいました。でも後悔しません。

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2006年4月 6日 (木)

自己韜晦(じことうかい)

 私は,ときどき「自己を韜晦(とうかい)している」という意味のことを他人から言われることがあります。

 (実はこの言葉は大学生時代に隣の下宿にいた2年先輩の奥野さんに言われて知ったのです。ということはその頃既にそうだったのかなあ。。)

 つまり,自分自身が自分自身に対してもいわゆる「心に仮面をかぶっている」と言われるのです。自己を隠そうとする傾向があるのです。たとえ一人でいるときでさえ,腹の底から喜怒哀楽を示すことができないのです。

  例えば,ストレス解消のためでしょうが,ときどきスナックに一人でお酒を飲みに行きます。そして,とにかく長尻酒なのです。閉店までいて,気が向けば初めて行った店でさえ,そしてたとえ他に誰も客がいなくても,平気でカラオケを何曲も唄ったりします。さらに大抵は2件目,3件目とはしごをします。とは言ってもお金があればですが。。。

 私の場合,酔っ払いの相手を長々としていても全然気になりません,というかむしろ好きなんです。他人のケンカを見るのも大好きという悪趣味です。好事魔というか平穏よりも常に変事を求めて自分の心が動くことを期待しているからでしょうね。

 むしろ,飲みに行ってストレスをため,素面でストレスを解消するといった面もありますから,私にとって飲酒とはなんなんでしょうか。とにかく,自宅ではまず酒は飲みませんし何十年も,"ひとり者”なので,酒場は色々な他人とコミュニケーションを図る大切な社交場という意味があるといえます。

 唯我独尊で自身だけで閉じていて何も受け付けない頑固者であれば,そもそも社交など不要なのでしょうが,私は恐らく正反対の性格でしょう。

 私は気ままなのですが,決して自分を忘れるような酔い方はしない,酔わないというより酔えないのです。もちろん,酔うため酔うことが主目的で飲みに行っているに違いないのに決して他人に心の内を見せないように,心が仮面をかぶっているのです。

 そのため先にママやマスターのほうがつぶれてしまい,「なぜ酔わないの,このバカ」などと怒られたこともよくありました。自分でも「酔わないのは困ったもんだ」と思っています。

 恐らく自分をさらけだすことが怖いのだと思います。本気で笑ったことも怒ったこともここ30年くらいはありません。悲しいですね。せいぜい,人の見ていないところで人知れず大声で泣くことがあるくらいですかね。

 「自分は醜い。見かけも醜いのだけれど心の中はもっと醜い,醜い。」と心で叫びながら泣きます。何かこれも自慢しているようでやはり醜いなあ。。。

 鬱々とした気分になって「自己嫌悪」の感情がときたま,心を覆ってしまいます。酒はこれを解消するものではありません。過去のトラウマから友人をつくること,ましてや親友をつくることができません。

 20代前半のころつらいイジメを受けていて耐えていた頃,いちばん,つらかったのが友達と思っていた人に裏切られることで,これほどつらいことはなかったという思いがあるからかもしれません。

 今日はなんとなく,自分の弱さを書いてしまいました。いわゆる愚痴ですね。きっと他人になぐさめてもらうことを期待している自分がいるのでしょう。醜いですね。ブログを書くこと自体もやや,醜い行為に見えてしまいます。今の気分を書きました。ごめんなさい。

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2006年4月 5日 (水)

サルにもわかる相対性理論⑥

 コーヒー・ブレイクとして関連する話題を述べます。

①粒子と波

 高速走行している電車の内部で前方へボールを投げるのを,電車の外で静止している観測者が見ると,そのボールの1秒間の走行距離は,(電車の走行距離)+(ボール単独の走行距離)となるため,観測されるボールの速さは(電車の速さ)+(電車内でのボールの速さ)となります。

 ところが,その電車が前から秒速340mの音速で警笛を鳴らしたとしても,その音の速さは電車の外で空気中に静止している観測者にとって,やはり秒速340mのままで電車の速さにはまったく関係ありません。(風速ゼロと仮定)

 これがボールのような粒子と音のような波の1つの大きな違いです。

 では秒速340mという音の速さは,測る人によって違わないのでしょうか?

 それは,もちろん違います。

 これについては粒子でも波でもまったく同じで,飛んでくるものを追いかけるときは速さは小さく,飛んでくるものに向かっていくときは速さは大きくなります。

 (例外は光,電波です。)

 では測る人には関係ない値,例えば音速が秒速340mというのは何に対する速さなんでしょうか?

 これは実は音の波というのは媒質(電車の警笛の場合は空気)の振動が,それの弾性(圧力,粘性力など)によって伝わっていくものですから,「媒質=空気に対して静止している人の測る音波の速さ」ということになります。

 風が吹くと媒質が運動するので,観測者が風に関係なく止まっていると,観測される音速は「秒速340mに風速を代数的に加えたもの」となります。

(ただし,音速340m/sは摂氏15度での静止空気中でのおおよその値です。)

 これに対し,"光=電波"も波なのですが,これは電気振動で具体的に何か空気のような媒質が振動するわけではないのです。

 昔の人は無理に振動する”媒質=エーテル”というものがあると考えて,光という波の振動の媒質を説明しようとして苦労しています。

 もちろん,真空の宇宙空間に"エーテル"があったとしても別にかまいませんが,電気振動はそれとは無関係です。

 光というものは媒質を持たず真空中を伝わる波であるわけです。

 では,光速が秒速30万kmであるといわれていますが,これが媒質に対する速さでないのなら何に対する速さなんだろうか?という疑問がおきます。

 これは,アインシュタインの相対性理論とは何なのかということを知っている人にはすでに答は明らかです。

②地球と空気

 地球は秒速約500mで自転しています。

 もしも地球上の空気が自転する地球地面とすれちがうだけで,地球に引きずられないなら,いつも風速500mくらいの風が吹いてて立ってることもできません。

 でも幸いなことに,地球の地面にぴったり付いている空気は,ほとんど自転する地球と同じスピードで運動しているので,風が吹いたとしても普通はせいぜい秒速10m以内なのですね。

 これは地球と風のあいだに大きな摩擦が働いている結果です。地球は空気の層をひきずって運動しているのです。

 また,空気はどうして,地球表面から逃げずいつまでも留まっているのでしょう。

 それは地球に引力(重力)があるからです。

 重力はわたしたちが地上で浮きあがらずに立ったり,歩いたりできる原因ですが,空気も実は重力があるから地上にへばりついているわけです。

 重力がなくなったら体が浮いていいな。とか思っていると空気もなくなってしまいますから大変です。

 地面に近い方が空気が濃くて,高い山の上にいくと空気が薄くなるのは,空気の層が地球に引かれて上から下に重しのように重なっていて下の方にいくほど圧縮されているからです。

 月でも,地球の6分の1の引力があるのに,空気がないのは,単に地球と異なり偶然にでも大量の空気と遭遇することがなかったためでしょう。

 もし,仮に月に空気があったとしても,引力が地球よりはるかに小さいので,その層はかなり薄いものにはなるでしょうが。。。。

 ③ドプラー効果

 電車が警笛を鳴らしながら自分に近づいてくるときには音が高くなり,遠ざかっていくときには音が低くなるというのは経験したことがあるでしょう。

 これは近づくときには,音の振動数が大きくなり(同時に波長は小さくなり)遠ざかるときには音の振動数が小さくなる(同時に波長は大きくなる)ことを意味し,ドプラー効果という現象として良く知られています。

 これに対し光にももちろんドプラー効果は観測されています。

 光については,遠くの星から飛んでくる光は,その星が自分自身で独立に運動する速さが比較的大きくない限り,

 星は宇宙の膨張と共に地球から遠ざかっていくため,波長が長くなり振動数が小さくなって人の目には「光の波長が長い方にかたよる赤方偏移」を起こすことが観測され,ドプラー効果がその原因として知られています。

 赤方偏移といっても「光が赤くなる」と誤解しないようにしてください。

 たとえば「もともと青色の光であったものが黄色に観測される」というような現象のことです。

 光速は不変であるならドプラー効果は起こらないから光速不変は誤りという誤解もありますが,ドプラー効果は光源の速度には関係しますが観測する光速の大きさには関係ありません。

ここで音のドプラー現象について簡単に説明しましょう。

 ある音源があって,それがある一定の周期T秒で1回ずつ,音を発するとします。

 そして媒質に対する一定の音速をcとします。また,その音を発する音源は,ある速さvで自分のほうに近づいてくるとします。

 1回音がしてそれが速さcで観測者に聞こえたとします。

 次にT秒の後に2番目の音が発せられます。

 最初に観測者が音を聞いて,やはりcの速度で届く2番目の音を聞くまでの時間はT秒より長いでしょうか,それとも短いでしょうか?

 答えは「T秒より短い」ですね。なぜなら音の走る距離は最初の音より2番目の音のほうが短いからです。

 というわけで,近づいてくる音はその1回あたりの周期が短くなります。つまり振動数が大きくなるということです。

 波長は音速を振動数で割ったものですが,音速は音源の近づく速さに関係なく同じですから波長は短くなります。

 音源が遠ざかるときはこの逆です。

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2006年4月 4日 (火)

ネット将棋

 以前は,ニフティのパソコン通信「FSHOGI=将棋フォーラム」でやはり,TOSHIのハンドルでRT(チャット(real time))将棋を楽しんでいましたが,今は「将棋倶楽部24=インターネット将棋道場」でTOSHI2というハンドルで指しています。

 そもそも,ニフティサーブに入った目的が,全国の人と将棋を指すことで,1991年の 41 歳のとき,ゴールデンウィークに入会したのでした。

 現在はニフティサーブという通信方式そのものが,もうありませんが,現在もニフティとは離れてホームページで「将棋チェスネット」という名前で浜崎氏が主催で活動を継続しておられます。

 私の場合は現在も「将棋チェスネット」の会員ですが,年に1回,7月中旬から下旬に行われるお泊りオフの「湯河原対局オフ」にのみ参加しております。

(PS:現在は隔年で湯河原とそれ以外の各地で開催されています。)

 宣伝させてもらうと,以前は山田久美女流,最近は蛸島彰子女流と北島忠雄6段や「西田スペシャル=ミレニアム」の創始者"だにいさん"や柿木義一氏などが毎年1泊2日で,参加されて将棋大会と宴会,温泉などを楽しんでいます。

 元々,パソコン通信時代にはメール将棋,とボード将棋がメインでした。

 当時,リアルタイム(RT)で通信で将棋を指すのは通信費,電話代が馬鹿にならないオーダーでしたからね。

 RT対局用のソフトは安価だったのですが,通信しながらその使用法を体得するのは,OSのメインがWINDOWSより前のMSDOSだったこともあり,

 今のWINDOWSやMACの上のJAVAによる将棋とは比較にならないほど操作が面倒だったためか,一部の人しか参加しないという状況でした。

  「FSHOGI=将棋フォーラム」の初代のマネージャーは「柿木将棋」の作者:柿木義一氏でした。

 FSHOGIはFGAMEから派生したこともあり,当時のスタッフの一人Alaya氏が「dharma(ダルマ=法?)」という将棋ソフト,「女王様とおよび」というチェスソフト,

 そして「しすの楽園=しすぱら」というバックギャモンのソフトのセット(全てシェアウェア)を「日本語Mind」というマイナー?な言語で作成され,それらの普及を始められていた頃に,私はこのフォーラムに入会したのでした。

  そういうわけで,WINDOWS95が出る前の時代はリアルタイム(RT)よりメール将棋がメインでしたが,現在の「将棋チェスネット」でもノスタルジックで実は奥が深いらしいメール将棋を好む方が多く,

 そのスタイルはあまり変わってないようなので,短気な私は湯河原の合宿のみに参加している次第です。

 パソコン通信時代の当時には歌人の俵万智さんのお父様の俵好夫さん(五段)や森田将棋の作者:moritanさんなど,その筋では著名な方もおられました。

 俵さんとmoritanさんは同じ五段でも,私は俵さんとはいい勝負で,moritanさんには,全く歯が立ちませんでしたね。

 プロでは宮田利男さん".淡路仁茂=futoh"さんなども来られました。

 また,「実在OLとゴキちゃん」の漫画で有名だった漫画家の"けつちゃん=須賀原洋行さん"なんかと将棋以外の話題でも盛り上がったことが多々ありました。

  私が,実際の将棋盤でやっていた将棋といえば,就職で東京に来たばかりの20代から,最初の会社をやめる40歳までは自分の会社の将棋クラブに属して先輩,同僚,後輩と指したりプロの先生に教わったりしていました。

 当初はアマ初段くらいでしたね。

 そして,たまには町道場で遊んでいましたが,最後に通っていたのは高田馬場道場でしたね。

 この道場は今は存在しませんが,当時の席主の小野さんや,もう名前も覚えていないご高齢だった(田中?)先生がなつかしいです。

 そこでは,確か二段で12連勝して規定で参段に認定されたのが,通っていた最後の頃でした。

 また,棋力認定が甘いと評判で,ごくたまにしか行かなかった新宿二上道場では四段に認定されていました。

 その後,色々と生活に忙殺されるようになり,また趣味も将棋だけでなく分散していって,いつからか町道場には全く行かなくなったのですが,

 将棋人口の減少?ネット将棋の普及,不景気などのせいか,久しぶりに町道場を訪ねてみると小さい道場はもう無くなって他の店舗,事務所に変わっていました。

 高田馬場道場の他にも,秋葉原の新興だった「竜門」や,結構最近まであった昭和通りの老舗の秋葉原道場なども消えましたね。

 結局,1990年代後半には出来たばかりの「将棋倶楽部24=インターネット将棋道場」に,レーティング1500点(1級)で入会登録して,最初の数年はその当たりの点数でせいぜい1200点(4級)までをウロウロしていました。

 しかし,10年くらいも経過した今の段階ではレーティング600点から650点をうろうろしています。

 先週は750から800くらいでした。急降下ですね。。歳かな?

 まあ,睡眠不足でないときで対局に応じてくれる相手さえいれば300点くらいは,すぐに上がれることもありますけど,下がる方がはるかに早いですね。

 最近は,1局目は必ず負けて負けだしても勝ちだしても対局を続ける気があるときはなかなか止まりません。

 しかし,今は1つ勝つと,とたんに対局をやる気がなくなることが多く,負け続けて1つ勝ってやめるの繰り返しですね。

 一応,1100に戻ったら,やめようかなと思っているのですが,2年ほど前に1050前後に盛り返したのが最高で,最近では1月頃の950前後が最高ですね。

 これまでの最低は410くらいでしょうか,今のtころは900から400くらいの結構大きな幅を往復しています。

 ほとんど自分からは申し込まず,観戦しながら挑戦を待っているので,自分より下の点数の人との対局がほとんどです。

 点数がいくら離れていても居眠りしてるか,急用がない限り,決して断わりません。また,挑戦される場合,自分はただの待にしていますが,15分,早指し,長考なんでもござれです。

 できれば早指し歓迎です。

 申し込む場合,相手のいやがる時間制では申し込みません。ただし,退場するまでに同じ人に申し込まれた場合,気がつかない場合を除いて,1回目に負けていようが勝っていよとうが,2回目はほとんどお断りしています。

 相手は大勢いるのに,なぜ同じ人と短時間の間に2回以上も対局しなきゃならないのか?と私的には疑問に思うからです。

 先日は自分が700点くらいのときだと思いますが,はじめて 0 点の人と指しました,序盤,角の素抜きで相手が投了されました。ちょっと,かわいそうでしたね。

 ただし,あまりにも点が下がり続けたり,挑戦がぜんぜん来ないと,300点や400点上の人に挑戦して,点数をかせぐことにしているので,

 そのときは自分からも挑戦します。

 点数が上の人,下の人に関係なく,なぜか勝率はだいたい 5 割くらいなものですから,点を上げるには最適ですからね。

 でもあまり上の人は挑戦を受けてくださらないので対局すること自体大変です。

 先日は550点くらいのとき,運よく1300点くらいの人に挑戦を受けていただき勝たせてもらったのですが,

 相手が「ソフトだろう?」というので,「何のことか?」と聞いたらノータイムだし,「ソフトが指しているのだろう」と言われました。 

 そもそも「ソフトを使って指すやり方」を知りません。

 自分はアマ参段くらい云々を述べて納得していただきましたが,「それがどうして550点なんだ?」とおっしゃるのです。

 でも本当のことだから仕方ないです。そもそも1500点からスタートしたのですから1300点の人に勝っても,自分の中では全然不思議ではないのですが。。

 まあ,点差が400以上なら点数は31しか上がりも下がりもしないので,700や800点差の相手でも勝って上がる点数は400点差と同じですが,勝てば点差が大きい方が気分がいいですね。

 一応,すべて「ノータイム指し」でフィーリングで指しております。

 勝ち負けは棋力や持ち時間の長短によるのではなく,そのときの体の調子と精神,心理状態次第で決まるみたいです。。

 ネットの将棋では自分が恥としていることは,今は将棋の指し手を考えることなので,手詰まりになったら互角でも投了することが多いです。

 将棋を指すのに指し手を考えることが恥ずかしいというのは何かネット将棋のときだけ「ウツ状態」になっているではないか?と思うことがありますが自分のそうした思いはもはやコントロールできません。

 考えることが恥なのですから「時間切れ負け」は最も恥とするところです。

 そこで時間が切れそうになったら,あわてて投了します。それでも優勢なときに限って「時間切れ負け」がほんのときたまあって恥ずかしいですね。

 なぜ,ノータイムかそれに近いかというと,いつもどういうわけなのかイライラしているからです。だから,長考されたときは相手には失礼ですが,TVを見たり,何か飲食をしたりしています。

 別のホームページやワードなどで作業をやっていて指した音を聞いて盤面に返るということもあります。

  マナーという言葉は嫌いなのですが,それでも一応マナーは守ります。

 「王様をワザと取られる」という作法はやりません。ワザとでなくうっかりや,マウスミスならありますがご容赦ください。

 また,自分の番でなければ決して投了しません。

 そもそも自分の手番でなければ投了の権利はないはずなので,投了できるのがおかしいわけで,手番以外で投了されると少し腹が立ちますね。

 (PS:最近は短気が亢進したせいか,相手の指し手があまり来ないときは相手の存在を確認してから手番でなくても切れて投了するようになりました。)

  そもそもノイローゼのときに「逃避の一手段」として将棋を始めたので,将棋が好きなわけではなく,だから将棋で考えるのは嫌いなんです。

 それなのに,なぜやるのかというと人間に勝つということが好きなんですね。

 裏返せば負けるのが嫌いということになりますが,不思議と将棋に負けても,あまりくやしくありません。

 いつも負けると「相手が強かったなあ」とひとりごとをつぶやいてるようです。(これは負け惜しみでしょうね。。)

 くやしくないので勝てないのかな?でも負けたときだけ,また1局やりたくなるのでやはりくやしいのでしょうね。

 だから,「機械=ソフト」とはやりたくないし,実際今はやりませんね。

  ぶつぶつと,とりとめもなくひとりごとを書いてしまいました。。。。

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2006年4月 2日 (日)

サルにもわかる相対性理論⑤

 順番は前後するのですが①の概要の続きです。

 (4)収縮の相対性,時間の遅れの相対性,双子のパラドックス

 AがBに対して速度vで運動していると,Bは「Aが収縮している」と観ます。

 常識では,BからみてAがちぢんでるのだから,Aからみると「Bは伸びている」はずでしょう。

 ところが,BはAに対して向きは反対だが,同じ大きさvの速度で運動しているので,Aからみても「Bは収縮している」のです。

 同じようなことが時間についても起こります。Bからすると「Aの持つ時計は遅れる」のですが,Aからすると「Bの持つ時計は遅れる」のです。

 こんなことがあるのでしょうか?

 でも,「公式」によるとまったく矛盾なく真実なのだからしかたがありません。 

 たとえとして,幅は一定ですが曲がりくねっている川に2本の同じ長さの橋がかかっているというものを考えてみましょう。

 一方の橋の上には太郎君,もう一方の橋には花子さんがいるとします。

 川は曲がりくねっているため,2つの橋は平行ではないので,2人はお互いに斜めの方向から橋を見ることになります。

 ですから太郎君が花子さんの橋を見ると本当の長さより収縮しています。つまり実際の長さより短かく見えるます。

 だからといって花子さんから見て太郎君の橋が自分より長く見えるのでなく,まったく同じように本当の長さよりちぢんで見えるのは言うまでもありません。 

 そして,相手の橋が短く見えるのはなぜでしょうか?

 それは相手の橋のかかっている向きが自分の橋の下の川の流れる向きに対して垂直ではなく傾いているからです。

 

 これと同じように,一定速度vで走るということが,実は自分に対して川のように流れていく時間に対して傾いているということでこれを理解します。

 つまり,ふつう傾いているというのは,ある直線がある直線と平行でなく一定の傾きを持っていることです。

 一定の速度で運動していることは,運動するものの座標が時間に対してある一定の傾きを持つこと,移動する距離が時間に比例することを意味します。

 もし太郎君と花子さんが時間について同じように流れている。

 つまり,共に止まっているか,同じ速度で同じ向きに走っていれば彼らの関係は2人のいる橋が時間の流れに対して,共に垂直であり,傾いていないことを意味します。

 つまり,流れは互いに平行なので,橋の幅はたがいにちぢんだりしません。

 しかし,花子さんが太郎君に対して運動していれば,流れの向きが傾いて花子さんの橋はちぢんでおり,花子さんからみても太郎君の橋がちぢんでいます。

 結局,こういうことになるのは,たがいの時間軸が平行でないからです。

 そして,橋と川の関係を逆転します。

 つまり,座標軸と時間軸を交代させると,こんどは運動がたがいの座標軸を傾かせるので,たがいに時間が遅れることになるのがイメージできると思います。

 しかし,2人の時計がどちらも相手より遅れるとしても,全く同じ場所で出会って時計を見比べることができない限り,深刻な矛盾はおこりません。

 ここで,「双子のパラドックス」というものを考えてみましょう。

 たとえば,共に15歳の双子の兄Aと弟Bがいて,Aのほうが地球から「光が地球の時間で10年かかる距離=10光年」の距離にある星まで,光速の80%,秒速24万kmで旅行して,すぐに折り返して地球に帰って2人が再会したとします。,

 このとき,2人の年齢がどうなっているか?を考えたとき,「矛盾があるのではないか?との疑い」のことを「双子のパラドックス」といいます。。

 これは,いったん別れた人が再び出会ってお互いの時計を見合わせることができる例になっています。

 光速の80%で,光が往復20年かかる距離を飛ぶのですからその宇宙船は25年で往復します。

 弟Bは兄が帰ってきたとき,15+25=40歳になってるはずです。

 ところが,兄Aの方はBからみてその時間が遅れています。

 計算によると,片道7年半,往復で15年しか年をとらないので,弟Bと再会したとき,15+15=30歳にしかなっていません。

 その結果として兄と弟の歳が違ってしまい,兄の方が若いことになります。

 これを「双子のパラドックス」と呼ぶ人もおられますが,ここまではパラドックスでもなんでもありません。

 これは,「ローレンツ変換の公式」をふつうに使って計算できる,まったく正しい結果でしかないからです。

 ところが,運動は相対的で,どちらかが止まっていて,どちらかが運動しているという違いがないことを知っています。

 そこで兄の方からみると,すなわち兄の宇宙船の方が止まっているという見方をすれば,逆に弟の方が兄の宇宙船に対して逆向きに光速の80%で飛んで往復したことになります。

 そこで,兄Aにとって15年がたつうちに,弟の方は25年ではなく,たった9年しか年をとらないということになります。

 こんどは弟のほうが兄より若いという逆の結果になります。

 2人は同じ地球で再会するわけですから,見方によって年齢が逆転するのは深刻な矛盾ではないか?というのが「双子のパラドックス」です。

 これも,実は,矛盾でもなんでもなく,兄の運動を止まっている弟が見るという立場では運動しているのは兄の宇宙船だけですが,

 止まっている兄という立場から弟をみる場合は,弟や地球だけでなく宇宙全体が反対向きにすごいスピードで運動していることになり,

 「2つの立場は必ずしも対等ではない」といえます。

 また,実は兄は地球に帰るときに必ず方向転換しなければならず,前の計算では,その方向転換の時間まで考えていなくて,経過時間ゼロで直ちに宇宙船を正反対向きの同じ速さにできると仮定しています。

 理想的には無限大のすごい加速,減速をおこなって速度の向きを逆転しなければならず,このため兄は莫大な「重力=G」を感じるはずです。

 実はそのような,「大きい重力の下では時間は極端に遅れる」のに対して,弟のほうはせいぜい「地球の引力による小さい重力」くらいしか感じないので時間はほぼふつうに進むことから矛盾は解消される,という見方もできます。

 「重力が大きい場合,その重力の底のほうでは時間の進みが遅れ,無重力では進みがふつうで時計の進みは重力の底より速い」ということが言えます。

 これは,「一定スピードで走る人の立場でみる"ふつうの相対性理論=特殊相対性理論"」ではなく,「曲がったり加速,減速運動している人がみても自然現象は同じというより複雑な相対性理論=一般相対性理論」にもとづく話です。

 だからといって,特殊相対性理論は,一定速度で運動しているものしか説明できないというわけではなく,観測する者が一定速度で運動してるだけです。

 加速運動しているものをも,もちろん説明できる理論です。 

(※これについては,加速運動を扱うには特殊相対論ではダメで一般相対論が必要であると誤解してる人が,かなりいたと思います。)

 (5)相対論的力学等は紹介しない。

 いままでの課題は,すべて空間の軌道だけを対象にした運動学の話です。

 空間の位置と速度加速度,および軌道だけを考える運動学だけでなく,質量や力などが軌道にどう関係してくるのか?というような「物理学法則」が入ってくる力学の話をするつもりなら,

 アインシュタインの相対論的力学以前にニュートン力学の初歩から説明する必要があるでしょう。

 力学まで考えれば,たとえば「エネルギーと質量の等価性」の問題,有名なE=mc2という式,それに原子核の質量の欠損から原水爆や原子力発電所のような莫大なエネルギーが得られることなども説明することができます。

 しかし,これら力学に属する話は割愛することにします。

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戦争,テロ,内政干渉

 9.11テロを聞いたとき,複雑な感情をおぼえた。

 心の中で,初めてアメリカ本土に爆撃を加えるのに成功した。日本はハワイの真珠湾止まりだったのに。やったという快哉!の気持ちだった。

 私には,もちろんニューヨークの「貿易センタービル」にいるような肉親も親しい知己もいないので,当然「対岸の火事」だ。

 そうしたことを考えた私は人非人とそしられるべきかもしれない。

 どうせ「貿易センタービル」にいた人間なんて,日本人も含めてエリートばかりじゃないか。。

 中には"便所掃除のおばさん"のような人たちもいたかもしれないが,そもそもアメリカ本土じゃ,ホームレスだって,飢え死にするどころではないエリートだ,

 と思った。

 攻撃した側は,日々食べていくのにも窮していて,今にも飢え死にしそうな悲惨な人間たち,を代表しているのではないか。。と当時は思った。

 その後,テロ撲滅という名目でアメリカがアフガン,ついでイラクと「世界の警察」として,報復を始めた。

 「われわれの攻撃はテロではないから民間人は攻撃しない。」そうだ。。

 そうか,昔ヒロシマやナガサキで十数万人,原爆で殺したのも民間人ではなかったんだな?

 それに対して日本は報復どころか降伏してしまった。

 まあ,日本もベトナムもアフガンもイラクもワスプ(WASP=white angrosaxon protestant)から見れば,そこの住民は「人間ではない」のだから,何をやってもいいのだろう。。。

 

 

 今はどうかわからないが,かつてはテロはゲリラとも呼ばれた奇襲手段のひとつで,貧しい者が大国,大権力者に有効な打撃を与える戦争の1手段だった。

 私は戦争にはルールなどないと思っている。

 テロが起こるのは,その国または地域と戦争状態にあるからだ。

 テロも戦争のうちなのだ。日本も,また私も含めて,テロられるべきなのだ。

 テロ撲滅の「警察」に支援を送るくらいなら,テロのほうに「義勇軍」を送るべきなのだとさえ思っている。

 そうでなければ,他国の政治体制に干渉するのは,いわゆる「内政干渉」だ。

 日本の江戸時代に民主的ではないからという理由ではないが,黒船で土足で上がってきた国は,今はイラクの江戸時代をも土足で踏みにじった。

 そして,こうした侵略の本当の原因は実は「死の商人」などのエゴに基づく「下部構造=経済構造=エゴ構造」にあるのだろう。

 エゴといえば「利己主義=エゴイズム」と「自己中心主義=エゴティズム」があるが,人間とはすべてエゴイストなので,それはそれでしようがない,

 ただ「たちの悪いエゴイスト」とそうではないエゴイストがいるだけだ。

 「自分はエゴイストではない。」という人がいれば,それは「私は神である。」と言っているのと同じことではないかな。

 仏教の観点では生き物に優劣はないから,われわれもまた弱肉強食の環の中にいるのだからね。

 たとえ,ベジタリアンであってもその環の中から逃げることはできない。

 手を汚さない文明環境の中にいるから,自分自身の罪を意識していないだけだと思う。

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