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2006年5月18日 (木)

塾,予備校,専門学校講師

   地方の国立二期のS大学に入学して下宿するために3万円余りを持って岡山県の故郷を出て,まず机や椅子,本箱などを買いました。ふとんは故郷の母が送ってくれていました。

 父は中学3年のとき肝硬変で亡くなっており,母子家庭でもあるので当時は毎月8千円の特別奨学金をもらいました。

 もちろん,留年したので,そのときは奨学金をもらえませんでしたが,その町ではその頃は共同風呂つきの4畳半の下宿(つまり,トイレも風呂も無しの4畳半の部屋)は下宿代が5千円くらいで,食費も生協の学食を利用すれば月6~7千円で足りるという時代でした。

 私の長兄は8つ年上で,彼が大学に行っていたころは,まだ親父は健在でそれなりの収入もあったことから既に就職していた長兄に,ときどき5千円を仕送りしてもらいましたが,それでは足りないので,すぐにアルバイトを探す必要がありました。

  まずは,同じ下宿の友人の関係で7月から,人文学部の先生の紹介により済生会病院の医者の息子,中2と小5を週3回で1回2時間,月7千円で,2人まとめて教えるという家庭教師をすることになり,これが人生最初のアルバイトとなりました。

 これが私が子供を教えるという経験の最初のことでした。

   まあ,弟のほうが頭がいいというかのみこみが早くて,自分が答えがわかっていても質問してきて,兄から私を取り上げたいというくらい,なつかれてしまったのですが,結局は私には教えるという才能などほとんどないということが次第にわかってきました。

 つまり,のみこみが早い生徒にしか私の言うことは理解されないようだと感じてきました。私が教えるのではなく相手が勝手に理解するだけなんですね。

 一応,音楽,図工も含めて全ての科目を教えました。体育としては家の隣に空き地があって,サッカーなどをして過ごしました。さらには夏休みの宿題などの絵や作文も手伝って,その結果,あるときには子供が賞をもらってきたりしたので,さすがにこれはまずいと思って,直接手を貸すのはやめました。

 私の家庭教師のせいかどうかはともかく,2年後に弟はS大学の付属中に入学し,兄も私立ですがそれなりの高校に入ったということで,私の最初の家庭教師体験は終わりました。

 私は教育者には向いてないという自覚ができたので,それからは長崎屋の棚卸とかコカコーラの使用済みボトルの掃除とか,白蟻の駆除とか高速道路のパーキングのガードマンとか,短期の肉体労働的アルバイトに切り替えて数十種類のアルバイトをしましたが,人と接触する仕事だけは苦手だったので,接客業はさけていました。

 そして金があるうちはゴロゴロし,無くなると飯代と交通費を借りてバイトにいく,という自転車操業的な生活を大学時代最後まで続けました。こうした行き当たりばったり的な生き方は結局今も変わってないと思いますね。

 関西の大学院に入った当時,私は阪急の西灘駅(現,王子公園駅)付近に住んでいました。

 当初は,まだノイローゼで仕事ができる状態ではなかったのですが,やがて東大から来ていた田中さんという1年先輩に,2つ隣の御影という駅の近くに住んでいる,東大合格者が多いことで有名な灘高の1年生を紹介してもらいました。

 相手は住友重機の重役の男のお子さんで,彼が苦手という数学と物理を週1回,2時間,月3万円で教えるという家庭教師の仕事を得ました。

 この生徒はテニス部に入っているので勉強がおろそかになるという理由だけで家庭教師を付けたということで,元々灘高生で頭のいい生徒だったので,問題を出して解く競走をするというスタイルだけで,とても楽でした。

 ときには,やはり頭脳明晰と思えた彼の妹も教えましたが,丁度3年間教えて,私が東京に就職が決まったたときには,灘高生の彼も東大理科1類に合格して,礼金をいくらかいただきました。

   会社に就職後に,社内でこの話をしたら,灘高から東大に行ったという先輩(M前さん)から,「灘高生は家庭教師など付けない。」と激高した様子で反論されましたが,何と言われようとこれは事実なのですから仕方ありません。

 大学院時代は,下宿代はずっと9千円で奨学金も正規の学生だった2年間は月3万円前後もらっていました。

 それでも,1つのアルバイトだけでは足りず,芦屋のマンションで宝塚歌劇にあこがれていた2人の甲南女子中の中学生を教えたり,逆瀬川で報徳学園の高校生男子1人を教えたりしましたが,やはり教え方がまずいのか長続きはしませんでした。

 そうした間にも,立聖館予備校やYMCA予備校などで講師をしたりしていました。とにかく,講師の時給は今と同じくらいの額でとてもよかったですね。

 夏期講習では姫路のYMCAにも行きました。そこでは中学生を教えましたが女子が多く,当時は芸能界で「中3三人娘」などがもてはやされていたので,そうした話題で盛り上がりました。

 例によって私の講義は無難なもので,わからない生徒については,何がわからないのかが理解できない,という失格教師だったと思います。

   就職して,40歳になった2月に,ちょっと会社で私が上司とのイザコザで頭にきたことがあり,しかも人を使う管理職へと仕事を変えられそうだったので,自分から3月に依願退職しました。

 わずかな退職金を元手に,10歳年下で酒場で知り合って5年くらい付き合っていたO崎という神田のS学園の化学の高校教師を9年ほどやってやめたばかりの人と共同経営で4月から西巣鴨に「理進ゼミ」という理科系志望専門の現役高校生相手の塾を開きました。

 O崎氏が3年生と2年生合わせて20人余りのS学園の男子高校生を連れてきたので,最初のうちは経営はうまくいっていました。彼が3年の数学と化学,私が2年の数学と物理を受け持ち,英語の先生を1人やといました。

 結局は1年で3年生がいなくなると,家賃を払うのがやっとという状態になり,私は,元々嘱託社員として他にも塾より収入の多い仕事があったし,O崎氏も昼間は正業があったということもあって,いいかげんな経営は1年限りで終わりました。

 私は,結局,嘱託をしている会社に正社員として入り,それから1年後くらいにはバブルも終わって,プー太郎になりました。

 そして,今ある「都営大江戸線」を作るための月島工事現場などでガードマンをしたりしながら,食いつないでいたのですが,その頃住んでいた木場(豊洲)の3DKのマンションのローンが払えなくなり,売っぱらってしまいました。

 まだ,バブル崩壊中半だったので,マンション購買額2千万円弱の1.7倍くらいで売れましたし,頭金も含めて9年間の支払いで多少は元金も減少していたので差額で安いワンルームマンションを,より都心の巣鴨に買って,その余った金で1年くらいは優雅に暮らしました。

 本当に行き当たりばったりですねえ。

 そのころ,御茶ノ水の湯島聖堂近くのMアカデミーという現役専門の予備校に応募して,非常勤講師として採用されました。教壇に上がって講師をすることもありましたが,主にRQC(ランダムクエスチョンコーナー)と個人教授の講師として働きました。

 RQCには,毎日のように数学の難問を10問前後持ってきて先生に聞く女子高生(K野さん)がいました。どうも,そこの専任講師(H田先生)に個人指導されていて,いつも宿題として持たされていたようですが自力では解けないらしくRQCに持ち込んでいたようです。

 しかし,RQCには私のように40代中半(当時)の比較的経験豊富な講師はいなくて,他はほとんどアルバイト学生ですから,偏差値のいい大学の学生ばかりとはいっても,なかなか対応できませんでした。

 そこで教師である大学生の方に私が外の廊下でこっそりアドバイスをするということも結構あり,結局,彼女は私が個人指導することになりました。聞けば,文科系志望で数学は共通1次だけだというので,何であんな指導をしていたのか疑問でしたね。(イジめていたとしか思えません。)

 結局,入試直前まで,共通1次の過去問を片っ端から解いて練習をすることを繰り返しましたけれど,第一志望の国立の千葉大教育学部には落ちて,私立の明大に入りましたから,結局,数学の勉強は大学入学の役には立たなかったということになりますね。

  とにかく,ここの予備校のモットーは「わかるとできるは違う。(わかってもできなければしょうがない)」というものでしたから,私の方針とは正反対でした。

 私は「たとえ,入試などのクイズのような問題は解けなくても,わかるということこそが大切なんだ。」と思っていましたからね。

 もっとも「わからなければできないだろう。」と言われればその通りで,「わかってしかもできる。」ことを求めるならその方がいいのですが。。

 例えば私は別に「公文式」に偏見は持ってはいないつもりですが,「公文式」のように原理,理屈はわからなくても計算方法がわかっていれば自動的に「条件反射」のような感じで問題の解答ができるという手法は私の思想からは対極にあるものです。

 結局,この予備校は学生アルバイトを主体にして年寄りは切る,という方針になり,数年でやめることになりました。しかし,その間に後にそこの専任の数学と物理の講師になったS田先生の紹介で池袋の専門学校の非常勤講師の職にありつきました。

 そして,専門学校では平成8年度から13年度まで主に教養としての物理学を教えました。予備校をクビになるまでは,専門学校と予備校の両方で教えていました。

 しかし,入試ではなく資格を取ることが目的の専門学校の生徒にとって資格と関係ない教養科目の講義というのは,特にモチベーションがないので,授業はしらけて私の声のみがむなしく響くということも多く,ときには孤立感覚に陥って背筋が寒くなるようなこともありました。

 そうした経験から,生徒に無関係に私の話したいことをできるだけ大声でヒステリックにしゃべることでしらけるのを防ぐようにするようになりました。

 それでも,比較的出来のよい入試で選抜された生徒のクラスよりも,何か遊び人タイプの生徒の多い,いわゆる不良生徒のクラスの方がなぜか受けが良く,質問もたくさん出て教えていて嬉しかった,という記憶があります。

 (たとえ答えるのがむずかしい質問であっても,講師にとっては質問を受けるとか生徒の反応があるだけでも嬉しいものです。それで時間を食ってしまっても,うまくノルマを果たすくらいの技術はありました。)

 もちろん,勉強以外の話にも花が咲くのが私の授業の特徴でありました。

 ある年には,数学で微積分だけを教えてくれと言われましたが,それでは面白くないだろうと思った私は「実数の連続性」など大学数学科の3年で教えるような専門レベルの話を多くしました。

 比較的女子が多かった病院などで採血や検査などをする臨床検査技師養成クラスの数学が担当で,かなり受けは良かったのですが,何故かそうした講義内容が教科主任にバレて,他の専任講師からクレームがきました。

 「積分や微分の計算方法だけを教えてくれ」というわけです。結局,これも1年で降ろされました。

 専門学校最後の契約の年度には,パソコンのワード,エクセルなどを,週1回180分で教えるという仕事もありましたが,大体は私自身本質的には素人なので,その種の本で予習しては,それをそのまま教えていたものです。

 むしろ,生徒は何かとんでもない操作をしているらしくて,ウィンドウズそのものがフリーズしたりとか,別のトラブルの方が多く発生し,見たこともないエラーなどを出されたりで,その面倒を見ることの方に窮々としていました。しかし,こうした経験は今の私自身のパソコンの趣味には役立っています。

 ここでは,半数が女子だったのですが,寝転んで携帯をする子,勝手に、トイレに行くとか言っていつまでも帰ってこない子,しきりに甘える子,毎回遅刻しては「下痢で遅れた。」とか若い女性らしくない言い訳をする子とか色々でした。

 男の子の方は油断すると,家から持ってきたCDを入れてゲームをやったり,お絵かきソフトで漫画を描いていたりという具合で,まあ,小中学校ではないけれど「学級崩壊状態」でした。

 しかし,私は怒れない性格だし,いい大人に義務教育でもないのに勉強以外の情操教育をする気にもなれませんでしたので,一応注意はしたけれど放任していました。

 ここでも私の趣味でエクセルで2の平方根やπを計算させるとかもしましたが,評判はいまいちでした。彼ら,彼女らは放射線技師の卵とかで,ブラインドタッチ(blind touch)を教えることも要求されました。

 しかし,私自身大型コンピュータのカードのキーパンチ時代の昔からずっと中指1本でキイを叩いてきたものですから,これはごまかしてやらせるしかなかったのですが,結局,「手本を見せてくれ。」などと言われて,ごまかし切れませんでしたが,それでも何とかなりました。

 極め付けしては,竹ノ塚の小中学塾で,優秀な中3のクラスで男子ばかり15人くらいに対して,数学の時間にピンク映画の講義をして,後でまじめな生徒の密告があったためか,クビになった,ということもありました。

 私本人はいたって真面目で,そのころの日本映画の斜陽について述べ,今見る価値があるのは日本映画では時代劇と喜劇とポルノだけだ,という自説を中学生相手に主張しただけです。

 当時の日活ロマンポルノの藤田敏八や,神代辰巳,今村昌平,若松孝二らの監督した映画がいい,という話をしたんですが,やはり数学の時間にするべきことではなくて,私が「失格教師」である,ということが明らかになりました。

 今日はここまでにします。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

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