小,中,高校時代(その1)
私の高校時代以前というともう40年くらいも昔になります。
大学入学を境として価値観が全くひっくり返ったわけですから,その頃の生き方は肯定できないところが多いですが,まあ私の半生の一部であることには違いありません。
大学入学以前の話は既に時効と思うので学校名まで実名で書いてみます。
中学までは親(教育パパの父親)の言うがまま,学校の成績が全てでした。
玉島市立長尾小学校(現,倉敷市立玉島長尾小学校)では,1クラス50人の2クラスで1学年だった,と記憶していますが,成績は体育を除けばオール5で6年間全て学年トップでした。
そして,とんでもなく恥ずかしいことに小6当時の将来の夢として先生に提出したものが,親父に書かされたのだろうとは思いますが,「T大法学部を出て総理大臣になる。」というものでしたから,今思うと呆れた話です。
というわけで,恥ずかしがりやで人前に立つのは嫌でしたし,自分から率先して発言するのも得意でなかったにも関わらず,その頃は成績トップの生徒がやると決まっていたらしい学級委員長という,いわゆるクラスの会議の議長のようなことを常にやらされていました。
結局,卒業式には答辞というのを,父親が書いた原稿そのままに読むという羽目になりました。(ここら辺,ちょっと記憶が定かではなく,5年生のときの送辞だったかもしれません。)
ペーパーテストは100点を取るのが当たり前のようで,ちょっと難しいテストのときでも90点はありました。
体育でも音楽でも図工でもペーパーテストならトップでした。
別に,ガリ勉だったわけではありません。
何もしなくても,なぜか授業さえ聞いていれば点は取れたのです。まあ,上には上がいることなどまだ何も知らない田舎の優等生だったわけです。
体育については,そもそも早生まれの上に虚弱体質で,おまけにあがり症だったので,近所の遊びでの駆けっこならそこそこ勝てるのに,体育の時間に先生にヨーイドンとやられると,下には下がいるもので短距離走ではビリではなかったけど大体ビリから2番目でした。
胃腸が弱く,朝礼の途中でも吐きそうになってしゃがむこともあるという体質だったので,体育の時間は見学だけのことも多かったようです。
体力がない上に,コツもつかめない,運痴というのか,鉄棒の坂上がりもできず,勇気がなかったためか,跳び箱もできませんでした。ですから,そういうことのお祭りである「体育祭=運動会」は大体嫌いでした。
球技も,ソフトボールでピッチャーをやるのだけはなぜか得意でしたが,バッターは三振か内野ゴロばかり,素手でやる守備もだめでした。
ドッヂボールももちろん下手でしたが,それでも休み時間は結構元気に遊んでいたようです。
自転車も3年生くらいまでには普通に乗れるようになっていました。
体育だけは5段階評価の3が普通で,ときには2のこともありましたが,冬,3学期だけは4でした。
それは「長距離=マラソン」(といっても小学校では1~2kmくらい)だけはトップクラスだったからです。
実は先天性の不整脈なので脈拍数が何故か他人よりも少ないと勘違いしてスポーツ心臓か?と思っていたこともあり,本当はどうだかわからなかったのですが,変に自信を持ったせいか?持久走だけは得意だったのです。
ゲームでも,クラスで流行った「五目ならべ」や将棋は大体ビリから2番目でしたし,将棋は今思うと大して強くもない親父に勝てなかったので,からっきし下手だったのでしょう。
図工も,絵はまあまあか少し上手かな?という程度でしたが,工作はからきし下手でした。でも,嫌いというわけではなかったです。
要するに手先は不器用で,しかも運痴に近かったのですが,将棋も弱いのですか,ら本当は頭もいいわけではなかったのです。
しかし,後に高校の卓球部では平均より上だったと思いますし,社会人で本格的に始めた将棋もそこそこでそこまで弱くはないと思います。
私の場合,成績がよかったのも先生が授業中に話すことを集中して聞いていたからに過ぎなかっただけでしょう。
つまり,興味を持って訓練したものに限っては他人より上達する傾向があったというのが真実でしょう。結局,興味があると集中心が偏執的になるのかな?
音楽は何故か幼児のころ親がハーモニカを買ってくれて,自然と覚えたので実技も得意でした。
スペリオパイプの時間も私だけはハーモニカでいい,という音楽の先生の特別扱いを受けていましたが,おかげでスペリオパイプを覚えるのは他人より遅れてしまいました。
音楽の先生だけが担任とは違う,女の先生でした。
「赤面症=赤面恐怖症」,つまりガキのころから自意識過剰で色情狂であったため,教室で教科書を読まされるのにも赤面して汗をかいていたのですが,それでも自己顕示欲には勝てず,皆が答えない問題にも手を挙げていました。
そういうわけで,音楽で歌を歌うのも赤くはなりましたが,音程ははずさなかったようです。もちろん当時は「ボーイソプラノ」でした。
5年生のときには,何故か,6年の女子ばかりの合唱団に3人の5年生の男子が入るという構成の男子の1人に選ばれて,市のコンクールで「不思議な泉」という題目の合唱での独唱部分を歌いましたが賞はもらえませんでした。
6年生のときには,今度は独唱の方で唯一の小学校代表として「おぼろ月夜」という曲を小学校講堂で披露した後に,市のコンクールに出ました。
コンクールの当日は,生憎風邪を引いていましたが,一応歌い切りました,そして銀賞をもらったと記憶しています。金賞なら県大会に出られたらしいです。
6年生の後半は金光学園という私立中学の入試を受けるため,夜9時頃まで小学校で補習を受けて,帰宅時には長兄が迎えに来たこともしばしばありました。
しかし,お迎えが来るとき以外は友達と夜道を歩いて帰るのも楽しく,また自分が夜に学校にいるという状況も,近くに厳格な父がいないという理由もあって,なぜか楽しくてワクワクしていたという記憶がありますね。
私立金光学園中学に入ったときには,男子は国語,算数,理科,社会の400点満点のうち最低320点あればいいということで,近隣や県外の小学校から男女220人が合格しました。
後で聞くと全体で9番の成績で合格したらしいです。小学校の音楽の先生には「勉強もできたのね。」と言われました。
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