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2006年5月15日 (月)

学生運動の時代

 かつては,正義漢を気取って大学生という恵まれた身分のくせに一人前に社会運動などをしていたこともありました。

   最初は小田実(おだまこと)の「ベトナムに平和を市民連合」,いわゆるベ平連から入りましたが,そのうちヘルメットをかぶってノンセクトだけれども新左翼と呼ばれるグループにのめりこんでいきました。

 当時の学生はみんながゲバ棒を持ってそういう運動をしていたと思われ勝ちですが,実はほとんどの学生はむしろ暴力反対を叫ぶ「日本共産党系=民青系=民主主義青年同盟系(代々木系)」でした。

 我々の側は「反代々木系」とか「反日共系」と呼ばれていましたが,私のいた大学理学部の物理学科のクラス40人余りの中でも,私を含めて5 ~ 6 名しか同志はいませんでした。

 したがって,クラスでも大勢を相手に過激な議論をするという状態がほとんどだったので,今でいうディベートのようなもので,そのせいで相手を完全に論破するコツのようなものが自然と身についたような気がします。

 民青は裏では暴力沙汰を起こしていて暴力革命を否定しなかったくせに,表面上は暴力反対をとなえて一般学生を取り込んでいきました。だから我々は大抵は200人くらいの相手に30人くらいで突っ込んでいった,ほんの一握りの少数派であったというのが真実です。

  米軍の北富士演習場に行ったときには,山梨県の忍野村(おしのむら)というところで「忍草(しもくさ)母の会」と一緒に,入会地での米軍の実弾演習の中で実弾を浴びるという名目で演習場内に入っていった同志を支援するためにピケを張っていた山梨県警の機動隊に突進していきました。

 北富士には都合2回行きました。夜は全員が土間でざこ寝したのですが,10月の末でも北山梨は寒くて最初のときは寝袋がない私は寒くて眠れませんでした。それに懲りて2回目はちゃんと寝袋を持っていきました。

 そして石を投げて機動隊に1km以上追いかけられて追い抜かれたりもしたのですが,田んぼの中に逃げてつかまりはしませんでした。

 ポケットの中の石を捨てるのを忘れて逃げたので,もしつかまっていたら凶器準備集合罪の証拠品を身に付けていたわけで,後とから考えるとヤバイことをしていました。

 実は彼ら機動隊員の目的は"女=女子学生"だったらしく,私などは眼中になかったようです。

 深追いしてくる機動隊員は重い装備を付けて走って疲れていて一人孤立するので,普通はゲバ棒を持った奴らが袋叩きにするはずなのに,だらしのないことに奴ら先導者たちもちりぢりに逃げてしまったらしく,そのときは女子を中心に数人が逮捕されたことを後で聞きました。

 1kmくらいも全力で逃げたので,胃腸の弱かった私は気分が悪くなってうずくまっていたところへ,三多摩反戦の女子を後に乗せたバイクが1台通りかかり,結局,3人乗りで走って,背中をずっとさすってくれた彼女のヘルメットの中にゲロを吐いてしまいました。

 折りしも「忍草母の会」の車が通りがかり,私はその車で"公民館=宿舎"まで連れて帰ってもらいました。でも,また30分くらい後には,演習場にピケを張った山梨の機動隊に向かって突進していったものでした。

   成田の「三里塚芝山連合空港反対同盟」の支援に行ったときは,3月でひと月くらい滞在したのですが,その間に大学の「憲法」の追試験を受けなかったために,結局,教員の免許は取らずじまいになりました。

 まあ,これはどうでもいいことですが。。。。

 三里塚に行ったときは,「いいだもも」氏主宰の「共産主義労働者党」の学生組織であった民学同左派から生まれたプロ学同のさらに下部の組織である「赤色戦線(せきしょくせんせん)」の一員として行きました。

 やはり宿舎は公民館でした。このときもざこ寝でしたが畳の上で夜露はしのげたので寒さに震えることはありませんでした。

 食事は,朝昼兼用と夜の2食で調理は「江坂書記長の奥さん」の担当で,ご飯は各人どんぶり一杯あるのですが,おかずはいつもさつまいもの切り身の入ったみそ汁だけでした。

 ぜいたくは言えません。毎日,交代で2人が「ドカチン」に行き,2人で1日約4千円なりを稼いできていただけでそれが全員の食費なのですから。。。

  私も2回ドカチンに行きました。

 最初は「松本の屋根屋さん」という,とび職の人に連れられて成田のボウリング場の建設現場に行きました。

 土方といってもコンクリートのこびりついた釘をダイスできれいにするだけなので全然辛くはありませんでした。土方仲間は東北からの出稼ぎがほとんどで,一人のにいちゃんに「土方はそんなに一所懸命にやるもんじゃない,適当に息抜きしないと持たないぞ」とやさしい言葉をかけてもらったものでした。

 そして夜帰るときには,松本のオヤジ(車の運転をしてましたが)にワンカップを一杯ごちそうになりました。

  2回目は何の木だったか(イチョウ?),畑に2人で千本の苗木を植えるという仕事で,これはかなり体にこたえました。

 そうこうしてるうちに,ときたま空き缶をたたく音がカンカンカンカンと鳴ります。これは「強制代執行」が始まるという合図で,これを聞くと我々は農民と一緒に無免許運転のトラックの荷台に乗って,「すわりこみ」のために現場に行きます。

 途中で有名な「長谷川タケばあさん」も拾って,ショベルカーでこわされる穴の中にいる同志のために,農民に化けて「すわりこみ」をやりました。機動隊が2,3人がかりで,一人ずつ退去させられたのですが,学生であることがばれると逮捕されます。

 ズボンに落書きをしていて「おまえ学生だろう」と言われてしきりに否定していた馬鹿な奴もいれば,あばれて肩を脱臼した奴もいました。

  あとで,「革共同中核派」の機関紙である「前進」の一面に,「闘う農民達」という題名で我々と農民のすわりこみの全体の写真が載っていたのを見たときには少しばかり笑ってしまいました。

 公民館には当然,農民もいます。

 彼らと我々がなぜ空港建設に反対したかといえば,農民が長年かかって不毛な火山灰だらけのシラス台地を開墾してスイカや落花生,イモなどの取れる畑を作ってきたのに,その農民の命ともいうべき農地を「公共の利益」の名のもとに取り上げるというのは暴挙だと思ったからです。

 当時は少数だった海外旅行をするような一部のお金持ちのための国際空港なるものを作るため,苦労して開墾した農地を強制的に取り上げるという権力の横暴が許せなかったからです。「条件派」のようにお金や代替地をもらって満足できるはずはありません。

 そうしたことの意味を,年端も行かない「三里塚少年行動隊」の連中が完全に理解しているのには驚きました。

 これこそ,教育なんだ,教師なんていらない,自己による自己自身の教育,これこそが教育のあるべき姿,理想の姿なんだと感じたものでした。

  公民館に寝泊り,するだけではなくて,「援農」といって農家に寝泊りして畑仕事も手伝いました。私は「松本の屋根屋さん」のうちに居候してイモ堀りとか落花生の皮剥きとかいろいろやりました。もしかしたら邪魔をしただけで迷惑だったのかもしれませんが。。。。

 そこの奥さんは,30代前半だったでしょうか,快活な人で,私が風呂をいただいていたときに,いきなり戸を開けてきて「湯加減どうだかね」と言われたときは,まだ純(うぶ)だった私は動転してしまいましたが,それを感じてケラケラと笑われたこともなつかしい思い出です。

 食事のおかずは無茶苦茶しょっぱいお新香の山盛りとみそ汁だけでしたが,それでも公民館の食事よりはましでした。トイレは家の外の小屋にあって,夜は少しばかり怖かったです。しかも,大きいほうをしたとき,お尻を拭くのは新聞紙と縄だったので少し痛かったですね。

 まあ,まだいろいろあるけれど,このくらいにしときます。ただ,私は多くのその時代の人々が言うように"若気の至りだった"などとは言いたくありません。

 (だから,ばんばひろふみ氏は嫌いじゃないけど,今でも「いちご白書をもう一度」という歌をカラオケで誰かに歌われたら,口には出さないけどちょっとイヤなんです。) 

 「理想を求めて何が悪いんだ」,と今も思っている私は,現在は自分自身も貧乏ですが,せいぜい,悲惨な生活を強いられている人々に対してささやかな募金をするくらいのことしかしていないので,口先だけで何も大きなことは言えませんが。。。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

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