小,中,高校時代(その2)
最近は自然科学以外のブログネタには結構困っています。まさか盗作はしませんが,まだ死ぬわけじゃないのになぜかこのところ,回顧録のようなものばかり書いている気がします。
この年になって,いまさら学生,生徒時代の学業の成績がどうのこうの,というこだわりは持っていないつもりですが,なにしろ当時はそれが生活の大部分を占めていたのは事実でした。
私立の金光学園中学に入学したのが1962年のことでした。
当時はラーメン一杯や素うどん一杯,コカコーラ一本がそれぞれ30円くらいで,国立大学の授業料が1ヶ月千円くらいという時代でしたが,金光学園中学や高校の授業料は月2~3千円であったと記憶しています。
(実は,この時代の授業料は親か兄に封筒に入れてもらった金を学校に届けただけでその中身も見てないので,本当のところはよく知りません。)
高校の小学区制が厳しくて,越境入学はしづらい時代で,岡山市の公立高校は結構レベルが高かったけれど,倉敷市以西の公立高校では東大や京大に入るのがむずかしい時代でした。
金光学園高校は当時,330人前後の卒業生のうち,岡山大学に70人以上合格し,東大,京大,阪大合わせて10人?程度の合格者があって,県内西部では唯一結構,レベルの高い私立高校だったので,親の勧めもあって,その6年制の学校の中学部に入学したわけです。
小学校の頃は子供の足で10分程度の公立小学校に徒歩で通っていたので,2つ西の駅まで,僅か7~8分程度ですが毎日7時半頃の電車に乗って通学するのは初めの内は新鮮でした。
もっとも自宅から玉島駅(現新倉敷駅)まで15分くらい歩き,また金光駅についてからも田舎道を10分前後歩く必要がありました。
中学に入ってからも厳格な父のせいで,クラブ活動など許されなかったため,ひたすら勉強するしかなかったという日々でした。
まあ,あまり学校での授業以外に勉強しなくても,成績は学年で3番くらいの中には常に入っていましたが。。。
もっとも,記憶しなければいけないことが増えたので,記憶中心の科目では,試験の前に一夜づけしてもいました。
そして,3年のときの2学期末試験だったか?で1度だけ学年トップになったことがありました。
中学は1クラスが55人の4クラスで各クラスはだいたい男子が40人で女子が15人の共学でした。
そして,中学の卒業式前後に父が肝硬変で倒れ,岡山の「済生会病院」に入院しました。当時は,むしろ厳格な父が自宅にいないので春休みは自由にTVが見れたりして少し喜んでいました。
そして,丁度,父の母校の岡山東商が平松を擁して春の選抜高校野球で岡山県の高校としては,後にも先にもない優勝をした日の1965年(昭和40年)4月1日に父は46歳で亡くなりました。
「酒もタバコもやらないのに働き過ぎで肝臓で死ぬなんて」というのが以後私の反面教師ともなりました。
もっとも戦時中に沖縄へ行く途中の護衛艦から肝臓病(姉の話では足のケガ)で松山で降ろされたため,父は生き延びて結果的に私が生まれたわけですから,肝臓病(足のケガ)がなければ,私はこの世にはいないわけですが。。。
2年2ヶ月年上の次兄は「自分が大学に行けなくなるのでは?」と心配していましたが,私は当時はまだ,そういうことを考えるほど成長していなかったので,むしろこれ幸いと高校に入ってすぐに卓球部に入り,羽を延ばすことを考えていました。
金銭的には母子家庭ということで高校入学後には月3千円の特別奨学金をもらっていました。
中学3年の220人はエスカレーター式で高校に入れるけど,高校では新たに110人を補充選抜して合計330人の6クラスにするために実施される"高校の入学試験=1次試験"は我々には高みの見物でした。
その頃は高1のカリキュラムを中3のときに終わるという授業のシステムになっていたので,補充の110人は,春休み返上で入学前の1ヶ月ほどの補習で我々に追いつく必要がありました。
その後,入学式直前に英数国の3科目での2次試験がクラス分けのために行われました。
そのときの学内に張り出された試験結果では,私はM君(後に京大電子工学科に現役で合格)に順位で負けただけで,330人中2番の成績でした。
中学で158cmまで伸びていた身長は高校卒業までに今の身長の176cmまで伸びて,最終的には当時の男子高校生としては身長が高い方になりましたが,体重は中学のときは35kg 前後で,小学生の頃の虚弱体質よりはましでしたが,ガリガリにやせていました。
しかし,高校では卓球部に入り1年から3年の8月の国体予選で敗れて,引退し学業に専念するまでは,1年に4日しか練習に休みはないというハードな状態の生活でした。
(※確か正月1日にも朝4時に自転車等で集まり,全員で高さ400mくらいの遥照山に駆けのぼって初日の出を見ながら素振りをし,さらに気合を入れるという名目でキャプテンとビンタをし合うという具合でした。)
毎日,まず学校の周囲 800m を2周走り,次に400mずつ,左右の片足で走り,さらに200mうさぎ跳びをしたのちに,体育館で腕立て伏せと腹筋を30回ずつ,そして素振り500回をするのが練習前の日課でした。
自宅でも毎日20kgのバーベルを20回上げるなどのトレーニングをしているうち,卒業時には体重は55kgくらいになりました。
金光学園は,当時は一応進学校で大体あまり強いスポーツのクラブはなかったのですが,中学校からやっていたこともあり,剣道部と卓球部は団体で県のベスト4かベスト8に入れるこらいのレベルの特別なクラブでした。
私は中学からのメンバーに追いつくことはできず,団体戦メンバーには最後まで入れませんでした。それでも勉強以上に夢中になり頑張りました。
けれども,大体12人くらいいた男子部員の中で6番目くらいの強さでしたから,団体戦メンバーは無理でした。
手首が弱いので親指付近の手首の骨を曲げて,無理やり固定する握り方をして,ペンホルダーグリップのドライブマンでしたね。
個人戦では一年生のときから常に出場しましたが,大体あがり症なので試合に出ても早々と負けるケースが多かったです。
しかし,当時まだ許されていたぶっつけサーブという特殊なサーブをマスターしたこともあり,玉島近郷卓球大会ではベスト16まで行ってさらに対戦した相手にフルセットで,19対14で負けていたのに7本連続でポイントを取って逆転勝ちしベスト8まで行ったことがあります。
(※準々決勝では,金光学園中学から外部(玉島高校?)に進学した旧友の守谷君に惜しくも敗けました。)
また,2年のときの県の新人戦では,大体県全体で 800人くらいの選手が参加していましたが,5回戦で関西高校の1年生で第3シードの「新谷(にいや)君」にフルセットで負けるところまで行って,ベスト64まで行ったのは最高でした。
私の試合は当日の最後の試合となり,大勢に注目されましたが,私はあがり過ぎが昂じて却って調子に乗ってしまったようです。
もしもこれに勝ってれば,後日山陽総合体育館で行われたベスト32が出られる大会にも出ることができて,当時人気だった水泳の,「木原美智子」を生で見られるはずでしたが,第3シードから1セットを取ったことに満足してしまい,最終セットはズルズルと負けてしまいました。
結局,勉強と両立などできるはずもなく,学業成績は学年で10番前後まで下がってしまいました。
3年のときは,理科系2クラス,文科系4クラスに分かれていて,進路指導の先生は私には東大理科1類か京大工学部を受けることを勧めました。
しかし,中学の後半「数式を使わない物理学入門」というブルーバックスを読んで物理にめざめていた私は,ノーベル賞の湯川にあこがれて京大の理学部を受けて失敗しました。
東大は嫌いだったので最初から眼中にありませんでした。
その当時は,東大理科1類を受けていても京大理学部より試験はやさしかったはずと思っていましたが,受けても合格できた保証はありません。(← これ,単なる強がりかも。。。)
しかし,ともかく我が校の学業成績トップクラスは何故か東大よりも京大を好んでいたようです。理科系でトップであったM君は京大工学部電子工学科,2番のE君は京大理学部に入りました。
東大に入ったのは理科系ではN君,文科系ではO君とあと1名は誰だったか覚えていませんが,とにかく成績はトップ5より下だったような?。
数学が全校でトップだったK.M田君は神戸大経済に入りました。
女子で国立で一番レベルの高い大学への合格者は,一時東京に転居して都立西校に転校し帰ってきてお茶大に入ったC.Mさんかな?
早稲田とか慶応とかには,それぞれ延べで20名くらい合格しました。
例えば,同じ卓球部に少しだけいて中学時代は卓球が県ベスト4で生徒会長もやった文武両道のK君は慶応の経済に入りましたが,同窓会名簿によれば親の跡を継いで,地元で金物店をやっているらしいです。
いずれにしろ,親が貧乏というか母子家庭だった私には授業料の高い私立大学という選択は無いのでこれは関係ない話でした。
京大入試の場合,合否に関わらず,得点は後日学校に知らされます。
私は900点満点の549点で,工学部なら約半分の学科に入れる成績でしたが,理学部なので34点足りず,涙を飲んだわけです。
(※京大工学部は学科により最低点にかなりバラつきがあり点が悪ければ第2志望の学科まで許されたはずです。例えば電気系に落ちても機械系や石油系,金属系には入れるとか。。)
私の点数内訳は国語86/200 英語105/200 数学135/200 理科146/200 社会77/100でした。
(※↑イヤ,執念深くよく覚えているもんです。まだ未練があるのでしょうか?)
そこで,もしも国語が6割の120点もあったなら合格できたことになります。
当時,私が模試で最も得意だったのが国語(特に漢文)で次に得意だったのが化学でしたからくやしい結果でした。
当時の京大の国語にはよそと違って作文があり,その当時国語の普通の問題は大得意だったのに,読書は結構していましたが作文は苦手だった私は結局これで失敗してしまいました。
(※今だったら,どこの入試でも「小論文」というのもあるらしいので,受験のために作文の訓練もしていたかもしれません。)
一応,3月後半に二期校のS大理学部物理学科を受けて合格しましたが,既に浪人することを決めていたので,入学手続きをしなかったら入学手続き締切日にS大から「本当に来ないのですか?」と自宅に電話がありました。
その後,浪人時代は,400人くらいの生徒がいた「福山英数学館」という広島県福山市の予備校に通って,一応高校よりレベルの高い授業に集中したため成績はどんどん上がりました。
予備校なのでクラブ活動もなく,より自由を感じた私は野原を駆けまわり,とても楽しい日々を過ごしました。
模擬テストは「広島英数学館」の500人?をも加えた全員で毎月模擬テストを受け,入試直前に4番になった以外,常に成績は900人?全体でトップでした。
特に1回だけ阪大模試を受けたときには,試験官の阪大女子学生が気になって気が散ってしょうがなかったのに,全国で6番の成績でしたし,得意でもなかった物理が科目別で単独トップだった記憶があります。
理系の阪大模試結果の名簿で私の6位より上位に載っていたのは,第一志望が阪大医学部か京大の生徒だけでした。
一方,何回か受けた京大模試はあまり上位に入った記憶はありません。。(当時,阪大なら,ちょろかった,ということだったのかな?)
夢精などで精通は既にしていたとは思いますが,この時代に初めてオナニーを覚えてヤリだしたらしいですからずいぶん奥手でしたね。
インキンの治療で夜中に自分で患部にオロナイン軟膏を塗っていたら,つい勃起して気持ちよくなり,先っちょから白いものが勢いよく飛び出して,とてもびっくりして,あわててちり紙でふいて処理したのが,最初だったと記憶しています。
それからはオナニーを覚えて,ときたまふとんの中でパンツの中に精液を出し,ゴワゴワのそれを母親に洗濯させていたわけでしだから,当然母には気付かれていたのでしょうが,母親も知らぬふりをしていてくれたようでした。
しかし,結局,それに夢中になって勉強が疎かになるというほどでもありませんでした。
(※高校卒業後,直ちにまだ売春OKだった沖縄に買春旅行に行ったという同窓生のM君は,今思えばそういう点では進んでいましたネ。)
パチンコやたばこも,この浪人時代に初めて覚えたものです。
この年(1969年)の入試は生憎く,安田講堂騒ぎで東大が入試中止になり,ほとんどの東大志望生が京大入試に流れて来ました。
さらに,京大の入試問題はいつもと異なり,何故か東大の1次試験のような内容で問題がやさしかったです。
そして一緒に京大理学部を受けるはずだった予備校同窓生のK君は,京大封鎖中のため,京都工繊大で行われた京大入試の当日,私との待ち合わせに現れず,後日,阪大を受けて合格したことがわかりました。
私はといえば,やはり頑固に京大理学部にこだわり,もちろん問題は例年よりやさしかったので,得点は前年より100点以上高かったけど,受験には失敗しました。
結局,再び国立二期校のS大理学部物理学科を受けて合格しました。
まあ,こうしたわけで少しばかり挫折を感じながら,1969年(昭和44年)3月をもって多感でしたが優等生的価値観の時代は終わったわけです。
http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー) TOSHI
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