« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »

2006年6月

2006年6月30日 (金)

慣性力の反作用

   丁度今,@nifty物理フォーラムで問題になっている話題について論じたいと思います。

 地球の周りをまわっている人工衛星は,互いに力を及ぼしている"万有引力=重力"のおかげで.それを向心力(求心力)として”円運動=周回運動"をしており,"地球によって人工衛星にかかる引力=重力"の反作用は"人工衛星によって地球にかかる引力=重力"であることは言うまでもありません。

 さて人工衛星が静止しているという座標系で見ると静止しているのにもかかわらず人工衛星自身には遠心力というみかけの力なるものが働いていますが,これに対する反作用としての力は何にかかっているのか?というのはちょっと不思議に思える問題です。

 もちろん,遠心力を受けているのに静止しているのは,別に地球から万有引力を受けていて,それとの合力がゼロ だから,釣り合っているというわけです。

 逆に,地球は人工衛星から万有引力を受けながら衛星のまわりを周回しており,もちろん釣り合っておらず運動しているのだから,こちらは合力がゼロである必要はありません。

 慣性力である遠心力はみかけの力だから反作用なんて考える必要はないじゃないか,と言われるかもしれませんが,一般相対性理論の等価原理では慣性力も,れっきとした重力であり,"みかけの重力=非永久重力"か本当の意味の"重力=永久重力"であるかは,結局はその座標空間の曲率がゼロであるかどうか,で区別はできるものの本質においては,その区別は重要ではありません。

 確かにミンコフスキー時空という特殊相対論の慣性系の空間も一様加速系から見ると,一様加速度運動をするリンドラー時空というものになりますが,そのメトリック(計量=2点間の距離を与える指標)はもちろん平坦なミンコフスキーメトリックとは違います。

 ですから,この時空はもはやミンコフスキー時空ではない,と考えるという人もいるかも知れません。

 しかし,ちょっと座標変換をすれば元の平坦計量に戻るわけで,時空多様体という幾何学的見地からすると.座標変換で座標というラベルがいろいろと変わろうと,その幾何学的実体としての時空は同じですから,リンドラー時空をもミンコフスキー時空と呼ぶことに私はあまり抵抗を感じません。

 ちょっと脱線しましたが,加速度αで運動している一様加速系を静止系としたリンドラー時空の中の質量 m の物体は,すべて-mαという,"慣性力=加速度が-αの一様重力"を受けます。

 "重力は外力だから1体問題であり,その反作用なんて考えなくてもいいだろう。"と言う方もおられるでしょう。

 しかし,地球表面上での mgという加速度が g の一様重力も実は地球がその物体に及ぼしているわけで,地球にとっては微々たるものでも,その反作用-mgは逆に物体が地球を引っ張る万有引力として作用しているわけです。

 そこで,慣性力という重力にもそれを及ぼしている実体があると考えるのが自然で2体以上の内力に関わる反作用を考えることもできると思います。

 (もっとも”重力とは時空の曲がりそのものであって,そもそも力ではない”という考えもありますが。。。)

 遠心力やコリオリ力という回転系を基にして生じる力については,マッハ原理で有名なニュートンのバケツ,つまり「水の入ったバケツをひもで吊るして回転(自転)させると真ん中の部分がへこむ,これは普通は慣性力によるものだと考えますが,もし遠方の星がまったくなかったらバケツの水の真ん中がへこむことはないだろう。」という考え方が典型的なものです。

 これは遠心力など回転に基づく力についても,例えば自転している地球などにいる人が自分は止まっているとすると,その受ける遠心力,コリオリ力という'重力'は逆に宇宙全体が回転しているから回転している宇宙の遠方の星が及ぼす重力に起因する,という考え方です。

 実際,ティリングとレンズ(H.Thirring  and J.Lens)の二人は回転宇宙の遠心力への寄与を計算し,宇宙全体の球殻の質量Mをうまく選べば,その力の値がうまく遠心力に一致する,というところまで計算しています。

 ですから,もしも遠心力が回転宇宙の星によるものであるならば,その反作用の力は回転宇宙の星にかかっているとしてよいでしょう。

 もっとも,自転系を静止系にとると宇宙全体がどんな距離でも同一の角速度で回転していることになり,どこか遠方の半径では回転の接線速度が光速に等しくなり,そこでは接線速度方向の長さは自転系の人からみるとローレンツ収縮してゼロになります。

 そこで,多様体の座標系としてみてそこは事象の地平面という特異面でそこから先は不連続で到達できない領域に分割されるしかない,という困難もありますね。

 もっともワイル(Weyl)の「空間・時間・物質」にもありますが慣性系であるか非慣性系であるかは光が通常の光速度で真っ直ぐ進むか否かで判断できる,というのもあります。

 光の運動は"絶対的"であり光線に対して回転しているなら"絶対的に"回転しているというものですが,その系の内部にいる人にとっては,真っ直ぐかどうかということがちゃんと判断できるのか?というのも私には少し疑問に感じることの一つですね。

 そもそも,真っ直ぐな線で進むというのは最短距離を取るという意味ですから,測地線を描いて進むということに過ぎませんからね。もっとも,太陽の引力で光が曲がるというのはちゃんと観測できる現象のようですから私のほうが意味を誤解しているかもしれません。

 フーコーの振り子の回転周期というのも地球が自転していることの証拠である,ということで有名ですが実はある慣性系に対して地球が自転している,ということの証拠であるだけで別に"絶対運動をしている"ことの検証ではないわけです。

 まあ,素朴なマッハ原理,つまり,「どの座標系をとってもよくて運動はまったく相対的である。」かどうか?ということに関する疑問は昔からあって,たとえば数学の完全性,不完全性の定理の証明で有名なゲーデル(Kurt Gödel)の理論的計算による一般相対論に基づいたゲーデル宇宙ではマッハ原理は成立しないそうです。

 回転系ではないリンドラー時空でも全ての宇宙や星が自分にかかる加速度と反対向きの加速度で運動している座標系ですから宇宙全体が自分に慣性力を及ぼしていると考えるのが自然でしょう。

 静止,またはや等速度運動をしている宇宙全体は,その一様性という宇宙原理から,個々の構成物の重力源としの他に,その総体としての一様並進運動が原因で試験物体に重力を及ぼすことはないでしょうが,運動が加速度運動であれば先の遠心力のように物体に及ぼす重力を計算できるでしょう。

 そのときはパラメータとして宇宙全体の一様質量密度を考える必要がありますが,それをうまく調節することにより宇宙全体の物体に及ぼす重力の大きさが物体が当然受ける慣性力の大きさ,と一致するようにできると思います。

 したがって-mαなる慣性力の反作用の力は,やはり宇宙全体にかかるとしてよい,と思います。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月29日 (木)

タキオンと因果律

相対論ではタキオン(超光速粒子)の存在は否定されません。

 

これは虚数の質量を持ち光速より遅い速度では走ることができず,

エネルギーを貰えば貰うほど速度が遅くなるという不思議な粒子

です。

 

これが存在すると,因果律(原因の方が結果より前:という基本法則)

が破られます。

 

因果律が破られる事実は具体的には次のように示されます。

 

まず,ある座標系,これを仮に静止系Sとします。

 

この系に対して,x軸の正の向きに相対的に等速度運動している系S'

考えます。

 

それは宇宙船に固定された系であるとしてもかまいません。

 

ただし,これはタキオンではないのでその速度の大きさvは

光速cより小さいとします。

 

静止系Sと運動系S'の双方の時刻ゼロ(t=t'=0 )に,双方

の座標系の原点が一致する(x=x'=0 となる)ように座標系

を取ります。

 

そして,x 軸の正の向き(=右向き)に運動する系S'の原点に

固定されている宇宙船から,時刻ゼロ(t=t'=0 )に光速より

速いタキオン信号をこの運動系でのx軸であるx'軸の負の向き

に発信します。

 

この信号を原点よりも左遠方のある位置で受け取った静止S系

にいる人が,受け取ったと同時に別のタキオン信号をx軸の正の

向きに返して,最初から静止S系の原点にじっとしていた別の人

が受け取るとします。

 

 

相対論のLorentz変換を使って,これを計算すると,最後に戻した

信号が静止していた原点にいる人に到達する時刻が静止系で負

になります。

 

そこで,じっと原点に静止していた観測者が時刻ゼロにすれ違った

宇宙船が信号を発するよりも前に,戻ってきたタキオン信号を受け

取ることになります。
 
 つまり,信号を発する前に信号が返ってくるという不思議なことに

なりますから,これは未来の情報が過去に伝わるという現象の例に

なっています。

 

これで因果律は破れます。

 

では具体的な計算を見てみましょう。

 

宇宙船の速さをv<c,タキオンの速さをw>cとして2次元

のLorentz変換で計算します。

  

一般的に扱うために宇宙船から発射するタキオン信号の速さを

1,受け取ってから返すタキオン信号の速さをw2とします。

 

ただし,w1,w2>cです。

 

最初にタキオンを発信するときの位置は,原点x=x'=0 で,

そのときの時刻はt=t'=0 です。

 

ただし,前の説明段階でも述べたように,信号を受けて返す人

慣性系(静止系)をS,それに対して速度vで運動し宇宙船が静止

して見える慣性系をS'として,S系の2次元座標を(x,t),

S'系での同じ点の座標を(x',t')としています。

 

そして,宇宙船から発信された最初の信号が左遠方の別の人に届

くまでの時間(届く時刻)を宇宙船S'系の時刻でt1'とします。

 

すると,届いたときの点のx'座標は,明らかにx1'=-w11'

です。

 

このとき,静止している観測者の系からみた位置での時刻は,

1=γ(t1'-vw11'/c2)=γt1'(1-vw1/c2) です。

 

ただし,γ={1-(v/c)2}-1/2です。

 

そして,観測者の系からみた位置座標は,

1=γ(x1'+vt1')=γt1'(v-w1)

です。

 

この時刻1に,位置x1から速度w2で信号を返します。

 

この信号が原点に静止している別のS系の観測者に届く時刻を,

その原点に静止している人の時刻でt2とし,これを求めます。

 

1+w2(t2-t1)=0 (原点)ですから,これに,

1=γt1'(v-w1),t1γt1'(1-vw1/c2)を代入

すると,γt1'(v-w1)+w22-γw21'(1-vw1/c2)=0

となります。

 

これを解けば,t2γt1'{1-vw1/c2+(w1-v)/w2}

を得ます。

 

したがって,例えばw1>c2/vかつw2>(w1-v)であれば,

2<0 ですから,信号を発信した時刻t=0 より前に,まだ発信

してもいない信号が返って来ることになり,これは因果律を破

ってしまいます。

 

もしも,w1=w2=wならt2=γt1'{2-v(w/c2+1/w)}

です。

 

そこで,w>c2(1+1/γ)/vの条件でt2<0 になりますから,

発信信号と返信信号のタキオンの速さが全く同じであるとし

ても因果律を破ることが可能です。

 

w=cの臨界値,つまり信号がタキオンではなくて真空中の光

=電磁波"なら,受けて返した信号が原点に届く時刻は,

2=2γt1'(1-v/c)であり,このt2はv<cなら正,

v=cならゼロです。

 

この例では,光速を超えるだけでは因果律が破られるとは限らず,

もうちょっと大きい速度のタキオンが必要なようです。

(※これはチョッと計算を間違えたかな?)

 

しかし,宇宙船の速度vも光速に近くなれば信号速度が光速を超

えただけで因果律が成立しないことにはなりますね。

 

もしも,どこかに計算間違いありましたら,ご指摘ください。

  

PS:ここで用いたLorentz変換は光速度不変に基づくもので,

相対論的運動学(幾何学)の式です。

 

力学(mechanics or dynamics)を導入せず,運動学(kinematics)

だけの話なら,議論に質量は入ってこないので虚数質量という

問題も生じません。

 

また,S'系のSに対する相対速度の大きさvがv<cを満たす

なら.γ={1-(v/c)2}-1/2も普通の実数です。

 

この例では,信号速度の大きさwについてw>cであっても,

宇宙船の速度の大きさvが超光速,つまり,v>cでない限り

はγが虚数になることはないので普通に計算できて因果律の

議論ができるのですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

ユートピア=幻想か?

  人間百万年,有史以後だと四千年.ルネッサンス以後だと五百年.産業革命以後だと三百年.それで人間の暮らしは昔より豊かになったと思いますか?

 機械化文明,それは何を目的にして発展してきたのでしょうか?

 人間があくせく働かなくても機械が代わってやってくれるコンピュートピア=修正資本主義,ボタンを押すだけでなんでもやってくれるという理想社会=ユートピアをめざして進んできたものではないのでしょうか?

 でも,文明の先進国であるところのこの日本でさえ普通の人は週に五日と週の半分以上もあくせく働いています。3交代制で 24 時間を交代で働いて日曜は休みとしても,それ以外に2日ずつ働けば済むような社会にさえ,まだなっていませんね。

 文明が発達して生活は便利になったようでも,何百年,何千年.何万年前と大した違いもなく毎日働かなくては生活できません。

 それも好きで働く人は非常に少なく,現実には生きるためにやりたくない仕事をイヤイヤやっている人がほとんどだと思います。しかも,そうした仕事さえありつけない人もいっぱいいます。

 ユートピアでは,労働は収入というか暮らしに必要な費用と必ずしも直結してなくて,労働は労働,生活費は生活費というか,そんなものは必要ない世界であるというか,ともかく仕事とは無関係に暮らせる理想社会のことですよね。

 かといって,「共産主義=各人の能力に応じて働き,必要に応じて与えられる。」とかいっても,私有財産がないというのも淋しいなあ。。。

 進歩がないなあ人間って,何とかしたいし何とかして欲しい,と思うのは私だけでしょうかね。

 今日も酔っ払って書いたたわごとですから,変なことを書いてるように見えてもご容赦くださいね。

PS:何か,CPUや通信速度は20年前より格段の進歩してるのに,それで使うソフトが機能の増加を含めて重たくなってイタチごっこをしてるので昔より速くなったと感じないPCと似ている感がありますね。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月28日 (水)

重力波

 水素原子には,古典的には"1個の原子核=陽子の周りを1つの電子が回っている。"というラザフォード模型の描像があります。

 しかし,実は電荷が加速度運動をすると電磁波を放射してエネルギーを損失するため,こうした模型では電子は運動エネルギーを失ってほとんど瞬時に原子核と一体化してしまい,原子は安定には存在できないことになります。

 そこで,水素原子として安定に存在できるためには,電子が原子核からある距離,つまり電子軌道の半径がボーア半径と呼ばれる値 a Bにあれば,もはや"電磁波=光"を放射しない,というような"特別な条件=量子条件"を設けることなどが必要となりました。

 これによって,前期量子論の時代が始まったのでした。

 そして,この模型で原子核の質量をM,電子の質量をmとすると,M>>mなので電子が半径 r にあるときの引力ポテンシャル=位置エネルギーは,陽子の電荷を e>0 (電子のそれは-e ) とし,静電場のクーロンの法則における比例係数を k=1/(4πε0)とすれば, U=-ke2/r となります。

 そこで,相対論を考慮すると水素原子の質量は M+m+U/ c2になると思いがちですが,実はラザフォード模型では遠心力と引力が釣り合っており,そのときの電子の運動エネルギーがちょうど| U |/2 =-U/2 になる(ビリアル定理)ので,これも加えて,水素原子の質量はM+m+(1/2) U/ c2となります。

 まあ,正確には2体問題の質量は換算質量を用いる必要があり電子の回転も陽子=原子核が中心ではなく,そのごく近くの重心の周りの回転になるというのが本当ですが,M が m の1840倍程度もありますから気にする必要はないでしょう。

 そして,U<0 ですから,実際水素原子の質量は M+mよりも小さくなります。

 これと同じことが,地球と月や人工衛星のときの万有引力(重力)にも起きると想像されます。

 万有引力定数をG,地球の質量をM,月や人工衛星の質量をmとすると,やはり M>>mであり,月または人工衛星が地球中心から半径Rのところにあり,引力が遠心力と釣り合って回転しているというのは実は常に自由落下しているわけです。

 ですから,みかけ上は無重力なのですが,そのときの引力の位置エネルギーは U=-GMm/R で"地球+月",または"地球+人工衛星"の総質量はやはり M+m+(1/2) U/ c2 となります。

 重力の量子論はまだできていませんが,古典論では水素原子なら電子が電荷を持って加速度運動するために電磁波を放出して原子核に落ちる,という制動輻射のアナロジーから,

 質量を持って加速度運動している月や人工衛星は重力波を放出して地球に落下するだろうと想像されます。

 しかも,水素原子の系とは異なり,地球と衛星との系の規模は量子論を無視して古典論で評価できる程度に大きいので,量子条件を用いて安定性を保証することはできません。

 ところで,古典論で電子が原子核に落ち込むまでの時間τを計算するとτ=(1/4)(mc)2B3/(ke2)2~ 10-11秒程度です。

 この式から類推すると,重力の場合の月や人工衛星が地球に落ち込むまでの時間はτ=(1/4)(mc)23/(GMm)2程度であろうと推測されます。

 電気力と重力の大きさの比率は大体,重力のほうが40桁も小さいということがわかっています。

 これは大体ke2とGMmを比較したもので,上の式によるとτの比率は,その逆数の2乗に比例すると思われるので,これだけの効果を考えても重力の場合は電気力の場合と比べて,落下までに80桁も長い時間がかかるだろうと予想されます。

 しかも,R3はa B3よりはるかに大きいので月や衛星が重力波のために地球に1cmでも落下して接近するには,1060秒以上,つまり1050年以上もかかることになります。

 これは宇宙の年齢100億年~200億年よりはるかに大きくて,事実上全く落下しないのと同じですから,全く問題になりませんね。

  まあ,電気力と重力では,これ以外にも"電磁波=光"は電荷を持っていませんから,その波自身が光源となってそれからさらに2次の電磁波を発生することはないけれど,重力波はそれ自身がエネルギーεを持っているので,それはε/c2に相当する質量を持ち重力波源になるという違いがありますね。

  重力波が重力波源となって2次の重力波を放射し,さらにそれからまた3次の重力波を放射することになって,重力に関わる現象は非線形で扱いにくい,というのは大きな違いです。

  その他,小石が地面に落下しているときの位置エネルギーや運動エネルギーは小石と,地球,または空間=重力場のどこに属するのかを考察するのも面白いですね。

 また,万有引力の位置エネルギーは2つの質点が一致したとたんに-∞ になるので,合体すると質量が-∞ になるのでしょうか?それとも,その-∞ 分の位置エネルギーが全て+∞ の運動エネルギーに転化されて,熱に変わった結果,相殺されるので問題ないのでしょうか?

 あるいは電子の自己エネルギーと同じく,重力の場合も自己エネルギーをくりこんだのだと考えればよいのか,とかの問題について論じるのも興味深いですが,またの機会にしましょう。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月26日 (月)

空気の重力分離

 さて,本日の話題ですが,そもそも地上の空気はそのほとんどが

 約80%の窒素(分子量28)と約20%の酸素(分子量32)との混合物

 であり,じ温度ではそれぞれにかかる重力はそれぞれの分子量

 に比例するはずです。

 

 ではわれわれが住んでいるこの地上の部屋の中などでは,何故

 軽い窒素が天井の方に向かい重い酸素が床の方に向かって分離

 した形態では存在せず分子量が約28.964でほぼ均一に混合した

 空気として存在しているのでしょうか?

 一酸化炭素も窒素と同じく分子量が28ですが,それが漏れたとき

 の検知装置は軽いという理由で天井に設けられるようです。

 では一酸化炭素の場合と窒素で何が異なるというのでしょうか?

 

 例えば,遠心分離装置においては,中に色々な質量の物質を入れた

 とき,停止しているときには,それらの物質が適当に混ざって存在

 していますが,装置を回転させると遠心力のために重いものは外周

 部へ軽いものは内周部へと分離します。

 

 これは例えば車を急発進させたときに,われわれ人間なら空気より

 重いのでシートに押し付けられますが,空気より軽いヘリウム風船

 なら逆に前方へと飛んでいくというように軽ければ慣性力がむしろ

 浮力として働くことで説明されますね。

 

 重力はこの遠心力,慣性力と等価な力なので(等価原理),混合物の

 うち軽い物質は上方へ重い物質は下方へと重力分離されても不思議

 はないと思えます。

 

 小倉義光 著「一般気象学」(東京大学出版会)によると,米国の

 データだそうですが,空気の分子量は地上 0 kmから80kmまでは

 一定値の28.964という数字が並んでいました。

 

 しかし90kmでは分子量は28.91になり,さらに1000kmまでは次第

 に減少して1000kmでは3.94という値になっていました。

 

 地上から1000kmの上空では,大気はもはや酸素と窒素の混合物と

 いうのではなく,水素やヘリウムがメインの成分になっているの

 でしょう。

 

 われわれの住む局所的な地上のごく薄い層ではなく,大域的な意味

 では,確かに重力のために軽いものは上層に,重いものは下層に成層

 しているようです。

 

 結局,上層には軽い水素やヘリウムしかなく,さらには電離層

 などのプラズマ層を経て,ほぼ真空の宇宙空間へと続いていく

 ようですね。

 気体ではなく水とアルコールや油のような液体の場合には,結構

 はっきりとした重力分離が見られることが多いですが,液体では

 親水性とか界面活性とか気体には無い性質が関わってきます 

 まあ液体は気体よりも平均自由行程がはるかに短かく分子間力も

 大きいので,液体分子は自由粒子とは見なせないでしょうが,気体

 だと分子間力を無視する近似が成立しますね。

 一方,重力とは無関係に孤立系では混合物質は均一になった

 方エントロピーは大きくなり,そういう方向に向かう傾向

 があります。

 例えば極低温では,等方性という対称性が自発的に破れて,

 固体物質の磁場の向きがある特定の向きに揃うというような

 非対称性が生じ,エントロピーの小さい状態になろうとする

 傾向があります。

 常温では,どの方向も同等なので通常は均質で磁場のない

 エントロピーの大きい状態へと向かうのが自然です。

 物質が2種類以上あって,混合し合うのはそのほうが確率的

 に大きい状態に移行する,つまりエントロピーが増加する

 方向であるという意味ですね。

 これは,例えば水に赤インクを落としても自然に全体が赤く

 なっていくという現象です。これを拡散現象と呼んでいます。

 それぞれの流体に"質量保存の方程式=連続の方程式"を考える

 と,それぞれの物質が独立に保存するので,その方程式系のうち

 のある特定の物質に着目すると,それの濃度に対する移流拡散

 方程式が得られるわけです。

 これらのことから,窒素と酸素の混合と分離の関係については

 分子拡散による均一拡散混合傾向と,重力に比例する重力拡散

 流束による重力分離傾向の競合が起こると考えました。

 高度80kmまでは,仮に分子拡散の方が小さいとしても非平衡

 なら流体の運動は非線形で不安定なカオスとなり乱流拡散に移行

 するため,拡散による攪拌の方が重力分離を上回るのではないか

 と思います。

 結局は混合気体の運動は,重力を内部エネルギーに取り込んで計算

 したGibbsの自由エネルギーを最小にする方向に向かうと思います。

拡散方程式は,濃度をcとするとρ(Dc/Dt)=-∇

与えられます。

 ここでD/DtはLagrabge微分です。そして,は拡散流束ベクトル

 を表わしています。

 拡散流束iは濃度勾配と温度勾配に依存しますが,とりあえず

 混合流体の"化学ポテンシャルμ='空気分子'1個当たりの自由

 エネルギーの勾配"にのみ依存し温度勾配はゼロと考えます。

 そうすると,拡散流束は i=-α∇μとなるはずです。

 μはGibbs自由エネルギー Gの濃度による勾配です。

 右辺の(-α∇μ)は平衡状態からのずれの程度を表わしており,

 μが大きい方から小さい方へと拡散すべきことを要求する式に

 なっています。そこで"拡散係数=比例係数"αは正です。

 ところで,

 dμ=(∂μ/∂c)dc+(∂μ/∂T)dT+(∂μ/∂p)dp

 と書くことができます。

 ただし,温度勾配dTの寄与は小さいとしこれを無視すると

 dμ=(∂μ/∂c)dc+(∂μ/∂p)dpです。

 そして静力学平衡の式:dp=-ρgdzを用いると,dpの項,

 つまり"圧力勾配=重力分離項"は,∇p=-ρg

 (は鉛直上向きの単位ベクトル)となります。

そして,元の拡散方程式:ρ(Dc/Dt)=-∇の両辺を流体密度

ρで割ったものをDc/Dt=-∇と書き,改めてj≡(i/ρ)を

拡散流束と考えて,これを拡散方程式と考えます。

主要な拡散係数をK≡(α/ρ)(∂μ/∂c)と置きます。

(∂G/∂p)=Vですから,(∂μ/∂p)=(∂V/∂c)により,

p≡p(∂V/∂c)/(∂μ/∂c)と定義すれば,

=-K{∇c+(kp/p)∇p}となります。

拡散流のうちの右辺の重力項-K(kp/p)∇pの係数:K(kp/p)

の符号を考えます。

まず,K=(α/ρ)(∂μ/∂c)は正と考えます。

p≡p(∂V/∂c)/(∂μ/∂c)は,圧力p一定の下で濃度が上昇

する(∂μ/∂c)ときに,比体積V=1/ρが増える(∂V/∂c>0),

つまり密度が減るなら符号は正,逆に密度が増えれば負です。

ところが窒素濃度を考えた場合,窒素は酸素より軽いため窒素濃度

が増えれば全体としての密度が減るので,この係数K(kp/p)の符号

は正です。

圧力勾配∇pの向きは鉛直下向きなので,の向きは重力項:

-K(kp/p)∇pについては予想通り上向きになります。

(これは浮力です。)

一方,温度,圧力一定のもとでは分子拡散係数は,

K=(α/ρ)(∂μ/∂c)であり,そしてμ=(∂G/∂c)ですが,

平衡状態付近でGは濃度cについて下に凸の関数ですから,Kは

必ず正の値になります。

つまり分子拡散の流れは,常に濃度の大きい方から小さい方へと

流れます。

窒素の場合は,先にも述べた通りその濃度が増えるほど比体積:

V=1/ρは大きくなるので,重力拡散は常に浮力として働きます。

こうして,分子拡散と重力分離が競合することを数式的に説明

することができたと考えれらます。

ここでの化学ポテンシャルμの定義については注意が必要です。

通常は空気を窒素と酸素だけの混合物としてそれぞれの単位質量

当たりの分子数をn1,n2とすると,空気としての分子数は

(n1+n2)です。

そこで,単位体積当たりの自由エネルギーをGとすれば,空気1分子

当たりの自由エネルギーであるG/(n1+n2)を化学ポテンシャルμ

と考えるのが自然です。こう考えたμをμordと表記します。

しかし,ここでは温度,圧力一定のもとで自由エネルギーGを窒素濃度

cで微分したものをμと定義しています。

つまり,μ≡(∂G/∂c)です。これを一応,濃度化学ポテンシャル

とでも呼んでおきます。

通常の定義での窒素,酸素の1分子の化学ポテンシャルを,それぞれ

μ12とするとμ1=(∂G/∂n1),μ2=(∂G/∂n2)であって,

G=μ11+μ22です。

それ故,通常の定義での化学ポテンシャルは,

μord=G/(n1+n2)=μ11/(n1+n2)+μ22/(n1+n2)

です。

ところが,窒素,酸素の1分子の質量をm1,m2とすると,濃度cと

いうのは質量濃度であって,通常の80%とか20%とかいう体積濃度,

c=n1/(n1+n2)ではなくc=n11で与えられます。

したがって,1-c=n22,つまりn11+n22=1が成立しています。

一方,Gibbsの自由エネルギーの方は,

dG=-sdT+Vdp+μ1dn1+μ2dn2ですから,先に定義

した濃度化学ポテンシャルという意味でのμは,

c=n11,1-c=n22より,μ=(∂G/∂c)=μ1/m1-μ2/m2

となります。

それ故,μは通常の化学ポテンシャル

μord={μ1c/m1+μ2(1-c)/m2}/(n1+n2)とは意味が異なる

ようです。

そして,例えばμの表式における右辺がゼロ,すなわち,

μ1/m1-μ2/m2=0 なら温度,圧力一定の下でdG=μdc=0 ,

つまり平衡状態になってGは最小で,もはや物質濃度cに起因する

拡散は起きないというわけです。

(※追伸:最近読んだ北原和夫 著「非平衡統計力学」(岩波書店)

混合物の拡散の項目によれば,この濃度化学ポテンシャルμを

"溶質=窒素"の単位質量当たりの化学ポテンシャルとして採用する

のが正解らしいです。

"溶媒=酸素"の化学ポテンシャルが引き算の項として現われるのは,

溶質と溶媒が独立ではないためである,ということがわかりました。

(2006年7月17日(月)記す。)※)


  

そして,一酸化炭素についてですが,全圧力あるいは全体の密度に

よって重力分離が小さくなる可能性も考えられますが,重力分離

が分圧に依存するわけではありません。

そこで,一酸化炭素濃度も窒素と同等な影響しか受けないという

結果しか得られず,一酸化炭素が窒素と異なる挙動をするとは考

えられません。

したがって,結局天井に検知器を置くのは,この場合一酸化炭素は

燃焼によって生じ,その温度が周辺大気のそれよりも高く大きな

浮力を持つために上昇する。。

つまり何のことはなくて,初期に一酸化炭素のみが熱を持っていて

他より軽いという単純な理由からだという結論になりました。

参考文献;ランダウ=リフシッツ著「流体力学1」(東京図書)

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月25日 (日)

ユダの福音書

 「ユダの福音書」の翻訳,解説のついた本を読み終えました。

 原本のパピルスからは,かなりの部分が欠け落ちて読みにくく,しかもそれ自体は短いものです。ですが,次のような内容は見て取れます。

 ユダは本当の意味での裏切り者ではなくて,むしろ十二使徒の中で彼だけがイエスの「真の理解者」であり,イエスを「神の国バルベーローの住人である。」と見抜いていたのも,彼だけでした。

 ユダはイエスが唯一対等に語りかけることのできる友人であり,特別な存在だったとさえ言えます。十三番目の精霊とも呼ばれているらしいです。

 イスカリオテのユダはイエスの命令によってイエスを裏切ったのです。

 ユダにとって,イエスはこの世界の王ではなくて,天上の王なのですから,この世界での裏切りなど,なんのことはなかったのです。

 原本には,ある「聖なる世代」を重要視しているように見えます。解説によると,それはアベルとカインの後のセツを起源とする世代ということです。

 つまり,アベルやカインの過ちを正された,次の正しい世代を指しているらしいのですが私にはちょっと何のことを述べているのか,よくわかりませんでした。

 かつて,ミュージカル映画「ジーザス・クライスト・スーパースター」をビデオで見たことがありましたが,その中でもイスカリオテのユダが主人公であり,ヒーローでした。

 もっとも,その中での彼はイエスの行動をいくら考えても理解できず,とことんまで悩みぬいて問いかけ続ける,という役どころであったのですが。。。

 もっとも,正統派クリスチャンの間では,マルコ(十二使徒ではないが,最後の晩餐を行った家の持ち主の息子らしいとされ,四福音書の作者の一人)の創作ではないかと言う者もいるらしいですが私はそれは少し矛盾するのではないか,と感じています。

(過去の関連ブログ記事4/26の「インテリ=裏切り者」のルーツ」 5/9日の「ユダはインテリより上だった。」も参照してください。) 

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月24日 (土)

永山則夫「無知の涙」(つづき)

 以前の記事で"彼=永山則夫氏"は生きるために殺したのだ,と私は書いたが,彼の言によると,自殺するために殺したのだとも述べている。"理由なき殺人"にも理由はあったのだ。

 彼は,獄中にあっても,自分を生んだこの社会を特に肉親を憎悪していた。彼が殺した人間は彼と比較して,少しの間でも物質的な幸福を味わう時間を持っていたのだ。

そして精神的な幸福は物質的な幸福なくしては得られない。「衣食足りて礼節を知る。」のである。

 彼の言によると,「凶悪犯には死刑が必至だが,凶悪犯をより凶悪にしないためには死刑は無いほうがいいかもしれない。」と述べている。

 彼は四人殺した(四件の殺人を犯した)が,もしもこの世(日本)に死刑という刑罰が無かったら,後の二件は回避できただろう,と述懐している。

 「どうせ死刑になるのだから」という自棄的な感情が,彼の中に確かに存在したという。

 人間も動物の一種であり,いつかは必ず,死ぬ存在である。

 殺人犯を悪魔と呼ぶ人も大勢いるだろう。しかし,割り切って考えるなら,人間の生命活動も原子から生まれ原子に還る営みの一つである。

 確かに殺人は人間独特のもので肉食動物が弱い動物を殺すのは生きるため,食べるためである。

 人間も食べるために,自分の手は汚さずとも,牛,豚,鶏などを屠殺している。

 そして正義の名のもとに戦争で殺人を犯している。死刑執行人は死刑囚を殺している。殺人でさえも,その正否は相対的なものである。

 現在,山口県光市の母子殺害事件の裁判に関連して,永山則夫氏の事件がまたもや注目を浴びている。

 永山則夫氏が事件を起こしたのは1968年で死刑を執行されたのは1997年である。見方によれば非常に長期間です。

 母子殺害事件では,18歳の少年に母子を殺され死体を犯された夫はどうしても死刑を望むならば,7年も8年もかけて裁判の結果を待つくらいなら,芝居をしてわざと無期懲役刑を確定させ,仮釈放された犯人を自分で殺したほうがベターなのではないだろうか?

 彼にはもはや家族はいないし,殺人犯として3~4年服役すれば済むことだし,全ては自己責任で行えるのだから。。。。

 ただし,上記の幾分無責任なアイデアは私の親友で元漫画家のT氏に聞いて,私も賛同したもので,私のオリジナルのアイデアではない。

 私も彼も死刑廃止論者だが,かたき討ちは肯定している。

 面倒な手続きを踏んで権力に代わってかたきを取ってもらうより,自己責任でやったほうがさっぱりしている。もちろん冤罪ではない,とはっきりしている場合のみであるが。。。

 永山則夫氏の話に戻ると,被害者や遺族には申し訳ないが,彼自身にとっては犯行を犯してよかったという意識があるらしい。

 こうした犯行をしていなければ,彼は自分は牛馬のごとき人生を送っただろうと述べている。

 精神的に生きることが果たして幸福なのかどうかは疑問だが,彼はたとえ死刑になったとしても,犯行を犯したおかげで,文字を学び書物を読みあさり,少しでも無知から逃れ,人間として精神的に生きる悦びを知ったのであろう。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年6月22日 (木)

基礎科学(工学と理学)

 この世の中の学問には,自然科学または単に科学と呼ばれる分野がありますが,例えば物理学で言うなら「エジソン的なもの」,と「ニュートン,アインシュタイン的なもの」の2種類がある,という区別を意識されている方が,どのくらいおられるかは疑問です。

 前者は,いわゆる工学・技術(テクノロジー)という分野で,後者は理学という分野です。前者は実学であるとも言われます。

 後者は基礎科学と呼ぶべきものでしょう。

 もちろん,工学・テクノロジーは基礎科学の理論によって生まれたという見方もあります。実際,現在では理論ができて後に,それを基にしてできた機械という例もたくさんありますから,別に区別する必要はないという考え方もあります。

 しかし,そもそも産業革命で人力以外の機械がはじめてできたとされるワット(Watt)の蒸気機関にしても,理論などはずっと後付けでした。

 それを熱学として理論的に裏付けたのは,今では誤りだとされている「熱は熱素からできている。」という熱素説の信奉者カルノー(Carnot)らでした。ただし,彼の理論のエッセンスは誤りではなく現在も生き残っています。

 このように,"理論=基礎科学"などなくても,テクノロジーだけが独立に発達する,ということもあったわけです。

 静電気などの電気・磁気にしても,ライト兄弟の作った飛行機にしても,原理の方は,後から追いかけていたわけです。

 私が学生時代に物理学を専攻していることを知っていた下宿の大家さんに,「電気器具が故障したので直してくれないか。」と頼まれて,手も足も出なかったという笑い話もあります。

 世間一般の意識なんてそんなものかな?と苦笑したのも,なつかしい思い出話の1つですね。

 @niftyの物理フォーラムやサイエンスフォーラムに参加している人の中にも,子供の頃から機械いじりや,化学など薬を使った実験が好きでたまらなかったり,あるいは天体望遠鏡などで星を眺めたりするのが大好きだ,という方達の方が,むしろ多いかもしれません。

 私は,学生のとき理論物理学が専攻だったのですが,そうした私と同じ専攻の人の中にはテクノロジーも両方ともできるし,興味がある,という人や,そもそもそちらから"理論=基礎科学"に興味を持つに至った,という人もかなりいるようでした。

 私も,そうした種類の人間だと誤解されているかもしれませんが,私は技術の方は,からっきし駄目です。

 私は,むしろ数学的体系を味わうことや,理論,原理を発見する,ことの方に興味があるから,理論物理的なことをやっているわけです。

 なぜかテクノロジーにしても,その原理とか,その技術の一部について新しい発見をする,とかいうことには興味がありますが,実際に実験したり,機械など物を作るとか,発明する,とかいうことにはほとんど興味がありません。

 医学でも,臨床外科医や歯医者などは,むしろ技術屋であって,医学部などの入試のためには数学を必要としたけれど医者,歯医者になってしまえば数学など算数程度しか必要ないし,既に忘れてしまってる,という世界ではないかと思います。

 臨床医は,浪費家で何の業績も残していないと評判の悪い野口英世などで有名な医師免許も持っていない医学博士が結構いるらしい基礎医学分野での研究者とは一線を画しています。

 基礎医学はむしろ理学に属していて,生物学に近いですね。

  まあ,わかる人はわかると思いますが,私が理論物理学を勉強,あるいは研究したいと思うのは,大部分のそうした研究者と同じく,いわゆる芸術家的な興味です。純粋にその理論体系の美しさに魅了されているからです。

 私にとっては「物理学の探求=美の探究」でありまして,唯一普遍的な価値に近いと思っている「美」といういう価値観に基づいて,基礎科学に立ち向かっているわけです。

 しかし,この前にもある飲み屋でそこの主人についほろ酔い気分で自分の夢を語ったら,「それが何の役に立つのか?」と聞かれて「何の役にも立たない」と答えたら,バカにされましたね。

 「それじゃ自己満足なんじゃないの?」とね。でも,そう,その通りなんです。自己満足したいという目的でやっているのです。何せ,その他大勢の人々と同じく私もエゴイストですからね。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月21日 (水)

永山則夫「無知の涙」

 久しぶりに永山則夫氏の「無知の涙」を読んでみた。

 彼は,昭和43年~44年(1968年~1969年)にかけてタクシー運転手などの連続射殺で殺人を犯した。そして,連続射殺魔として19歳で逮捕され,再審請求や嘆願書にも関わらず,ついに1990年代後半に死刑を執行された。

 永山則夫という死刑囚の獄中での手記が,この「無知の涙」の中に凝縮されている。もちろん,彼は無実ではなく,実際に殺人をしたとも述べている。。。

 彼の殺人には,ある意味で動機とか理由とかいうものがない。強いて言えば,彼は生きるために殺したのだ。彼は,北海道か東北だったかの片田舎で人間とは思えないほどの悲惨な青春を送っている。しかし,それが免罪符だと主張しているわけではない。

 彼は,獄中で文字を学び,遅ればせながら学習して誤字だらけの手記が始まる。彼は「資本論」などを読み,マルキシズムに引かれてゆく。後に彼はこうした世界観を事前に知っていたら,殺人を犯すことはなかった。と述懐している。

 しかし当時の学生運動については,彼は「お坊ちゃんのお遊びだ。」と辛辣に批判している。

 彼は詩人でもあり,いろいろと感動的内容の詩も書いている。最後は支援者と獄中結婚し,大勢の嘆願書にもかかわらず,死刑は執行されてしまった。

 正義とか善悪とかというものはまったく相対的のもので,実際の世の中は,「暴れん坊将軍」とか「水戸黄門」とかのように,完全に白黒がはっきりした世界とは対極にあるものだ。

 もちろん,私には彼の心中がわかるわけではないが,この書を名著として推薦したい。というわけで本日は書物の紹介でした。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月20日 (火)

黒体輻射(キルヒホッフの法則)

 ブログネタが枯渇しているので物理ネタばかりで恐縮ですが,今日は黒体輻射に関連した話題を書きます。

 プランク(Planck)の黒体輻射の法則はレーリー・ジーンズ(Rayleigh-Jeans)の法則とウィーン(Wien)の法則の両方を説明するものとして与えられ,ここに量子力学の曙が訪れることにとなったのは有名な話です。

   Planckの法則のグラフ(エネルギー密度u(λ,T)の波長λに対する分布)

      

 しかし,太陽などは黒体でもないし,しかも内部に熱源を持っていて,正確に熱平衡状 態にはないですが,その場合でも,色温度という考え方があります。

 太陽の場合は表面温度はT=6500Kくらいで,分布のピーク波長が可視光線域のスペクトルを放射しています。

 こうした温度Tと放出光の周波数ν(または波長λ)との対応関係が,"熱平衡におけるPlanck分布での絶対温度と,その温度での輻射エネルギー強度uが最大である周波数との対応=Wienの変位則"と,大したずれもなく近似的によく成立することはよく知られています。

 輻射平衡のエネルギー分布が物質に依らないことは実は19世紀にキルヒホッフ(Kirchhoff)が発見したことです。

 温度Tで空洞の壁に向かって,単位時間,単位面積当たりに投射される,周波数がνとν+dνの間にある"電磁波=光"の輻射エネルギーを I(T,ν)dνとします。

 そして,このある物質から構成された空洞壁の吸収率をa(T,ν)とし,同じ壁の表面から単位時間,単位面積当たりに放出される輻射エネルギーをe(T,ν)dνとします。

 Kirchhoffは,"平衡状態では吸収と放出のバランスにより,I(T,ν)a(T,ν)dν=e(T,ν)dνが成立するはずである"という発想から,

 "比:e(T,ν)/a(T,ν)= I(T,ν)が物質の種類によらず温度 T とνだけの関数である"ことを発見したのです。

 そして,特に吸収率が100%,つまり a(T,ν)=1が全てのT,νについて成立する理想的な物体を黒体(black-body)と呼んでいるわけです。

 一般の物体は黒体ではないので,a(T,ν)<1ですが,それでも a(T,ν)が温度 T だけに依存しνによらないことが多いので,輻射強度 e(T,ν)= I(T,ν)a(T,ν)は,Planckの輻射分布から得られる I(T,ν)にほぼ比例します。

 それ故,物体が黒体ではなくても色と温度の関係,つまり最大エネルギー:umaxを与える色(周波数λ)と温度Tの関係はそのまま成立するわけです。

 太陽とか生きているときの人体のように発熱源があるとき,必ずしも熱平衡ではない場合もありますが,それでも近似的に色温度の考えは成立しています。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月19日 (月)

電気伝導(つづき2)(衝突の正体)

 @nifty物理フォーラムで私と一緒にサブマネージャーをやっている高校の先生で友人(と思っている)かんねんさんから,「電子が金属の原子から抵抗を受ける(=衝突する)ことが抵抗の正体であると本には書いてありますが,陽イオンと電子の衝突って,どんな感じなんでしょう? というのは,衝突による斥力的イメージではなく,異符号ゆえの引力的な力を想像してしまいます。これをどう理解したらいいのでしょうか?」

  という質問を受けたのですが,それに対して私が答えたコメントがあまりにも不親切だったのでその内容を大幅に修正したもの,を書きます。

  まず,量子論で電場など外力がない場合に,固体の中の電子は自由電子近似をするとしても,実は弱いイオンの引力によって体積Vの中に閉じ込められており,Vが有限であるために,1つの電子の運動量(したがって速度)はどんな値でも取れるわけではなくある離散的な値しかとれません。

 そしてこれら取り得る準位の1つ1つに「Pauliの原理」とスピン自由度によって下から2つずつ電子を詰めていって丁度,その固体中の電子が全て収まったときの最大のエネルギーを「Fermiエネルギー」といい,この最高準位を「Fermi準位」といいます。

 そして,この電子準位の全体を運動量ベクトル,またはそれをPlanck定数hで割った波数ベクトルの集まった3次元空間で考えると,これは1つの球になりますか。これを「Fermi球」と呼びます。

 そして,球ですから球対称であるが故に,電場のない状態では平均の運動量はゼロです。つまり,電場がなければ自由電子の平均速度はゼロなので電流もゼロだということができます。

 しかし,固体の中での電子を自由電子で近似するのには無理があり,格子構造を持った束縛電子で遮蔽された周期的な陽イオンの引力ポテンシャルを受ける電子波であることを考慮する必要があります。

 周期的引力ポテンシャルの摂動を受けるため,電子の取るエネルギー準位は,その値を取ることが可能な「許容帯」という「エネルギーバンド」の領域と,その値を取ることが不可能な「禁止帯」という小さなギャップ領域の繰り返しという形態をとることになります。

 そうした自由電子に代わる固体の結晶格子中の電子を,その理論を初めて提唱した人の名前にちなんで「Bloch電子」と呼び,こうした理論を「バンド理論」といいます。

 固体内のBloch電子を下の準位から順にFermi準位に達するまで許容帯の中に詰めてゆきます。そうすると1つのケースとしては,いくつかのエネルギーバンドは完全に占有され,他の全ては全く空であるようなそれになることがあります。

 「"占有バンド=充満帯"または価電子帯」の頂点と,すぐ上の電子がまったく空の「非占有バンド」との"エネルギー差=禁止帯の幅"をエネルギーの「バンドギャップ」と呼びます。

 このギャップが絶対温度 T にボルツマン(Boltzmann )係数Bを掛けた値に比べて大きい場合,Fermi準位付近の移動できる電子の運動エネルギーはBT 程度なので,すぐ上の伝導帯までジャンプできませんから,この固体は「絶縁体」となります。

 一方,ギャップが小さいと,ある温度では電子が充満帯から空の許容帯へとジャンプして,その電子は伝導可能となり,他方充満帯のほうではそのジャンプして欠けた電子の孔が正孔という正電荷のキャリアとなる,などのために「(真性)半導体」になります。

 もう一つのケースは,最高準位であるFermi準位が,ある一つの許容帯の途中になる場合で,このときは,その許容帯の占有可能準位のうちの全部の準位が占有されているわけではなく,部分的に占有されていることになります。

 そこで,その中ではその準位付近の電子は自由に動けるので電子による「電気伝導」が可能となります。

 このとき,部分的に占有されている許容帯を「伝導帯」と呼び,こうしたケースの固体を「導体」といいます。金属はこれに相当します。

 バンド理論によると電子の占有を許された全ての準位の数は,どの許容帯でも同一であり,固体中の格子の総数=構成原子の全個数をNとするとスピンの 2つの自由度のため, 結局,1許容帯当たりの占有可能準位数は2N という偶数になります。

 一方,1個の原子当たりの価電子の個数が偶数の元素では,それを2nとすると,価電子数は全体で 2nN となり,総電子数を許容帯の占有可能状態数 2N で割り算すると, n となって余りがゼロなので占有された許容帯には電子が充満して充満帯となり空き準位がないため身動きできません。

 しかも,その上には禁止帯というエネルギーのバンドギャップがあるので,絶縁体になるか半導体になるかのいずれかで,これらは非金属になります。

 しかし,奇数の価電子を持つ場合,一般にこれは金属ですがこの場合は一番上のエネルギーではバンドが充満しないでほぼ半数の空き準位があるという部分的占有状態の伝導帯になり,自由に動けるBloch伝導電子となって金属導体となるわけです。

 このとき,エネルギー値域のバンド化による自由電子からBloch伝導電子への変化は,一見したところ電子の質量mが有効質量*に変わるというような効果だけで,実は周期的Coulombポテンシャルが全く規則的に並んでいてしかも止まっているだけでは,散乱や衝突などは全く起こりません。

 つまり,それだけでは依然として緩和時間τが ∞ のままなので,素朴な古典論で考えたイオン芯と衝突して散乱されるというような描像は誤りなのです。

  つまり,あるエネルギーを持ったBloch電子というのは自由電子とは異なり運動量固有状態ではありませんから,空間的には一定の速度で運動しているわけではありませんが,とにかく定常状態であるということが重要です。

 そこで,古典的に意味のある運動量あるいは速度の期待値は時間的には一定である,というわけです。

 つまり,自由電子と同じように古典的描像ではBloch電子も一定の速度で運動している,というわけですから,古典的「Drudeの理論」のようにイオン,またはその引力ポテンシャルで散乱されるわけではないということになるのです。

  そして,電子質量をmとしたとき自由電子ではエネルギーはE=2/(2m)なのでこれを運動量 で2回微分したときには,(1/m)となりますが,Bloch電子でもそのエネルギーを運動量で2回微分したものを(1/*)と定義して,*を「有効質量」と定義します。

 すると,電場 E があるときの運動方程式は,散乱がないなら (d/dt )(* )=e となり,有効質量は"電子の慣性質量"と同じ役割を果たすという意味があります。

 したがって,例えば"電気伝導度=抵抗率の逆数"を,自由電子近似のσ= ne2τ/mからσ=ne2τ/*に変更する必要があります。

 電場 がかかるとFermi球の原点がずれて,波数について対称でなくなるので電流がゼロでなくなりますが,それは電子の電荷をe とするとΔt の後に運動量としてeΔt だけずれる,という意味です。

 e は負ですから と反対向きにずれるのですが,それだけでは時間 t とともに電子の速度は増加しますから,一様速度にはならず次第に加速されます。

 やはり,速度が一様になるためには何らかの衝突散乱が必要です。

 衝突が起こるというのは,量子論では電子は波で電子波束が一方向に進行している状態ではなくなって,その方向に影響をこうむることを意味します。

 これは,"並んでいる陽イオンが熱などによって振動する=格子振動する",あるいは,"格子欠陥がある=不純物効果がある"というような不規則な変化がある場合で,それがないならBloch電子が散乱されて一様速度の方向が変わるというようなことはありません。

 主に「格子振動=フォノン(phonon:音子)」と衝突するのが散乱の原因ですが,結局,格子にある陽イオンが規則的に並んで止まっているだけではなく,時間的に変動することによってイオンの位置が規則的配列からずれて,その振動により電子が進路を曲げられるということです。

 その効果が引力であるか斥力であるか?ということは,私には今のところよくわかりません。

 電気的に中性の"電磁波=光子=フォトン"と電子が衝突するCompton効果のように,"格子振動という調和振動子を量子化した波動=音子=フォノン"と電子が衝突する,というイメージしか私にはありません。

 (もっともフォノンとの衝突はCompton散乱のような弾性散乱ではなく,エネルギー運動量が保存されない非弾性散乱もありますが。。(ウムクラップ(Umcrap)散乱とかという呼び名だっけ??))

 例えば極低温で電子と電子が引き付けあってCooper対を作り,結果それは電子対共鳴 としてスピンが整数のBose粒子(Boson)になるため「Bose-Eibstein凝縮」を起こして「超伝導状態」になります。

 このときの電子間引力も,静電Coulombの引力,斥力が電荷と電荷がPhoton(光子)(=仮想スカラーフォトン)のキャッチボールをするために生じるのと同じく,電子と電子のPhonon(陽イオンの格子振動)のキャッチボールに起因するというわけです。

 このように,「Phonon=格子振動波」を「Photon=光子=電磁波」のように粒子性を持った量子(quantum)として吸収したり放出したり散乱したりするものとして扱えると考えるのです。

 実際には緩和時間は運動量や温度の関数でもあり,より詳しくは「Boltzmannの輸送方程式」という偏微分方程式の一つの項で緩和時間という量を挿入定義することにしたがって決まります。

 私もまだ数年前「アシュクロフト・マーミン;固体物理学の基礎」(吉岡書店)の 4巻の内2巻目の途中まで読んだところで,途絶えているのでまだ把握していないことが多々あり,この程度の説明しかできません。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月17日 (土)

電気伝導(つづき1)(ジュール熱)

 「オームの法則」を述べたついでに,「電気が熱に変わるのは何故か?」という「ジュール熱の問題」も微視的に考察してみましょう。

 1つの電荷eに対する運動方程式を与えるために位置での電位をV(x)とすると,これは単位電荷当たりのポテンシャルです。一様電場の向きをx 軸に取って問題を1次元,つまり x 座標だけで考えるとE=-dV/dx と書けます。

 したがって,電場Eがあって何の抵抗もないときの運動方程式は電荷の質量をm,速度をvとしてd(mv)/d t =-e vdV/dx となります。つまり抵抗がないと電流を与える電荷の速度は一定ではなくて加速されるのですね。

 そして,この運動方程式の両辺に v=dx/dtを掛け,v(dv/dt)=dv2/dt,およびv(dV/dx)=(dV/dx)(dx/dt)=dV/dtなる等式を用いると ,(d/dt){(1/2)mv2+eV}=0 となり,保存力場に対する通常の力学的エネルギー保存則が得られます。

 これの左辺は,もちろんこの電荷が持っている力学的エネルギーの単位時間当たりの増加分です。このときは抵抗がないため,熱などのエネルギーの散逸はありません。

 しかし,実際は緩和時間をτ(秒)として,抵抗となる金属の中での運動方程式は,d(mv)/dt=-edV/dx - mv/τですから,右辺には位置x によって決まる力だけでなく速度 v に比例する抵抗力の項があります。

 力学的エネルギーの時間変化の方は,やはり両辺に v= dx/dt を掛けて求めるわけですが,(d/dt){(1/2)m2+eV}=-m2/τとなり,例えば平衡状態,すなわち,d(mv)/dt=0 (加速度がゼロで電荷の平均速度vが一定)の状態となっても,(d/dt)(eV)=-m2/τとなります。

 すなわち,電荷の速度が一定に達し,運動エネルギーが一定に保たれる平衡状態でも,いわゆる位置エネルギーは右辺のような項の形で熱として散逸していくことになります。

 つまり,抵抗があるというのは,外力が保存力場どころか位置だけの関数でさえなくて,何らかの原因で電荷がでたらめな方向へと散乱され,その散乱電荷が持去る運動エネルギーの総和という形で力学的エネルギーが損失を蒙ることを意味します。

 そしてそのエネルギー損失を与えるのは速度に比例する抵抗という形で表現され,巨視的にはそれが「ジュール熱」として現われるというわけです。

 そこで,力学的エネルギーのほかに熱エネルギーの存在をも考慮するならば、先述のエネルギーに対する発展方程式は「単位時間当たりの力学的エネルギーの減少分(増加分)が熱エネルギーの増加分(減少分)に等しい。」という「全エネルギーの保存法則(熱力学第一法則)」を表現しています。

 具体的には電位をV(x) =-Ex+(定数)とするならば (d/dt)(eV)=-eEvと書くことができます。したがって,1つの電荷の単位時間当たりのエネルギーの損失の式:(d/dt)(eV)=-m2/τは-eEv=-m2/τと書けます。

 一方,単位体積当たりの物体中の電荷eの個数をnとすると,電流密度J=nevと書けます。

 そこで単位体積当たり,単位時間の損失はnm2/τ=JEとなり,断面積がS長さがLの抵抗なら,その体積であるSLを掛けて電流の定義: I=JS,電圧の定義:V=ELを用いると,IV =Nm2/τという表式になります。 N は抵抗の全体積中の電荷 e の個数です。

 そこで,抵抗内の全電荷をQ=Neと書くならば,全体積中のN個の電荷による単位時間当たりの損失:Nm2/τとして与えられる「ジュール熱,あるいは消費電力」は IV=Qm2/(eτ) なる表式で表現されます。

 ここで両辺の単位は,W(ワット)=(J/sec)です。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月15日 (木)

電気伝導(オームの法則)

  @niftyの物理フォーラム,化学の広場兼用の会議室「小中高の理科質問箱」で電気伝導について泥仕合的な論争が続いているのを傍観していますが,そもそも子供に説明するだけなら以下の程度の説明で十分かと思います。

 まず,電流の定義ですが,「電流とは,電荷を運ぶキャリア(carrier)という実体(電子とか正孔とかイオンとか)の如何によらず,単位時間に断面積を通過する電荷量(単位:A(アンペア)=C/sec(クーロン/秒))のこと」です。

 通常家庭で流れる電流は数アンペアで,このとき電荷達の平均の移動速さは数ミリメートル/秒程度にすぎません。

 それなのに遠くでスイッチを入れてもすぐに近くの電灯が付くのは要するにトコロテン式で遠くの端で電荷が押されると次から次へと押しくらまんじゅうのように押されて,近くでもすぐに同じ速さで電荷が移動するようになるからですね。

 電池などの起電力を持ったポンプを閉じた回路につなぐと金属でできた導線の中にも電場Eが生じます。電場Eがあると 大きさがeの電荷は力F=eEを受けることになります。

 だから質量mの電荷が速度vで運動するとき,その運動は電荷が電場Eの他に何の力も受けていなければ,ニュートンの運動方程式:d(m)/dt= eを満足することになるはずです。

 ところが,普通は金属の内部で移動する電荷というのは金属原子の束縛からはずれたと見なしてよい自由電子です。

 電子の電荷eは負の数で,金属の中では自由電子という名前は付いていますが,実はそんなに自由なわけではなく金属原子の格子振動(量子論的にはフォノンと言います)や不純物などによって散乱を受けます。

  素朴な古典論のドゥルーデモデル(Drude model)では散乱は,イオン芯(原子から自由電子を差し引いた残り)との衝突を意味します。もちろん,電子同士の衝突などは無視できます。

 これらの散乱を受ける"各電子の平均の衝突するまでの時間=緩和時間"をτ(秒:sec)と書いておきますが,これは1個の電子が単位時間(1秒間)に衝突する確率が 1/τであることを意味します。

 1個の電子が散乱を受けると,それはどの方向に散乱を受ける確率もほぼ同じなので,ある向きに進んでいた1個の電子に着目すると,その向きに走る電子に関しては急に消えたのと同じことになります。

 だから,現在の時刻を t として時刻 t + Δt に消えずに残っている確率は (1-Δt/τ)です。そこで,電子の速度を(t)とすると先のニュートンの運動法則は次のように変更しなければなりません。

 つまり ,m(t+Δt)=(1-Δt/τ)[ m(t)+eΔt + O(Δt2)]です。

 そして,これをΔt で割ってΔt→0 の極限をとると,右辺のΔtの2次以上の項は消えて,d(m)/dt=e-m/τと書いてよいことになりますね。

 そして十分長い時間(といってもすぐですが)の後には平衡に達して左辺の加速度はゼロとしてよいですから速度は一定になるはずです。

 このときの,多くの電子の平均の速度もやはり と書くことにします。

 そうすると, 0=e-m/τから, e=m/τより, =eτ/m です。

 単位体積当たりの電子の個数をn とすると,"単位時間に単位断面積を通過する電荷量=電流密度"は=neですから,結局 =(ne2τ/m)となり電流密度は電場に比例しその向きも電場と同じということになります。

  まあ,この =σ (ただし,σ=ne2τ/mは電気伝導度)という形でも既にオームの法則(Ohm's law)と呼びますが,より身近な形に直しておきましょう。

 電荷が流れている場所の金属線(抵抗)の断面積をS,長さをLとします。

 そして,正電荷qが一様電場Eに抵抗して距離Lだけ反対向きに移動するのに必要な仕事=位置エネルギーは,qV=qEL と書けますが,V=ELのことを電圧(単位:V(ボルト)=J/C(ジュール/クーロン))または電位差と呼びます。

 電流はS ですから,先の=σという形の式は,I=σES=(σS/L) V ,あるいは逆に V=I{L/(σS) }という形になります抵抗R をR=L/ (σS) と定義すれば,よく知られたオームの法則の形 V=I R となります。

(参考文献はアシュクロフト・マーミン著「固体物理の基礎」(吉岡書店)」です。)

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (15) | トラックバック (0)

2006年6月14日 (水)

ガードマンの時代

 1992年の11月末に42歳で2つ目の会社をクビになって,プータローになりましたが,やめてから1ヶ月分の給料は保証されていたので,12月分の最後の給料は銀行に振り込まれていました。

 それから210日(7ヶ月)は就職活動をしていたけど決まらないまま,15年間働いた分の失業保険,毎月約26万円也をもらって食いつないでいました。

 ただ,豊洲にある自宅3DKマンションのローンがあり,普段の月は約8万円でいいのですが,6月と12月のボーナス月は約8万円に加えて余分に約28万円を払う必要がありましたから,これでは足りません。

 例えば,3,4年前に秋葉原で冬のボーナスで買っていた約100万円のアキュフェーズのプリとパワーのセパレートアンプに20万円前後で買っていたマランツのCDプレイヤーを付けてオーディオ下取り店で40万円余りで売ったり,それまで入っていた生命保険を解約したりして,なんとかやりくりしていました。

 しかし,失業保険が切れて夏になっても,依然として就職は決まらないので何とかする必要があり,アルバイトニュースで探して,新富町の「新帝国警備保障」という会社で花火大会用の夜勤ガードマンのアルバイトを日給1万1千円で募集していたをのに応募して採用されました。1993年7月上旬,43歳の頃でした。

 そして,最初は電車で都営新宿線の本八幡駅まで行き,そこの小学校で着替えて夜になり,花火客の群集をグループに分けて前と後でサンドイッチにしてゆっくり進んでいくように規制をしました。

 石段を登ったり降りたりもあったので結構危険できつい仕事でしたが何とか無事終わりました。もちろん花火など見る余裕は全くありませんでした。

 何年か前のニュースですが,関西のどこかでこうした花火客の列で将棋倒しで死亡事故があったというのを見たことがありますから,やはり危険な仕事だったのかもしれません。

 それから,2,3回都内や千葉県の花火大会で同じような規制をやりましたが,その時期が終わっても,やめる気はなかったので,結局夜間の工事現場の交通警備ガードマンになりました。

 その頃,ここのアルバイトは7割が大学生で3割が社会人という感じでしたが,夜勤は日給1万1千円で日勤は8千円でしたし,夏でもあったのでもちろん夜勤を選びました。

 一応,定時の勤務は夜7時から朝5時ですが,勤務予定日の午後1時半頃に会社に電話して勤務先を指定してもらう必要があり,しかも早い者順で良い勤務先が決まるので,寝る時間が少なく結構大変でした。

 ただ,何故か社会人のほうが優先されていたようなので,毎日仕事にあぶれることはなかったです。

 一応,月から金の5日なのですが土曜日も出ると,その週の1日当たり千円増,土日も出ると1日当たり2千円増,つまり週給にして6千円増えたり1万2千円増えるというスタイルになっていました。

 しかし,あまり無理はできませんから,1ヶ月当たり最大28万円前後をもらう程度で満足していました。

 主に仕事についたのは都営12号線(現大江戸線)地下鉄建設の月島駅付近の工事現場で,工事用車両の搬出入と一般車両の車線変更および通行人の安全確保,バス停の確保等でした。

 最初はやさしい場所から入り,次第にむずかしい仕事をやりました。

 交通量は夜中でも多く,ときには誘導が下手で一般のダンプが動けなくなり,「何やってるんだ?」と運転手に怒鳴られたりしました。

 正社員は50前後の無口な隊長と30代前半の副隊長と60近いベテランの人の3人で残り12人くらいのアルバイトという構成でした。

 私は副隊長の組に入ると何故か,副隊長に色々と「いちゃもん」をつけられてイジメ抜かれました。

 この副隊長は,よく「俺は新潟で新幹線の工事現場にもいた」などと自慢していました。まあ,少々のイジメは経験済みだったので,給料のために黙って耐えましたが確かに辛かったのも事実です。

 だいたい,夜中の12時か1時には1時間の食事休憩があり,最初に着替えをしたプレハブ小屋で休憩するのですが,あるとき,一人で工事車両以外通行止めをするのために暗い路地で立っているだけ,という楽な仕事をしていたときに,2時を過ぎても交代が来ないので,持ち場を離れて「休憩はまだか?」と副隊長に聞きに行きました。

 このときは「持ち場を離れちゃダメじゃないか。今行くところだった。」とひどく叱責されました。まあ,交代が来ないのに持ち場を離れたのは,自分が悪かったのですが。。。

 いずれにしろ,実際に工事をしている人は,現場での飲食も含め,座って休んだりするのも比較的自由だし,仕事もほとんど機械の操作を大勢でやってるのでそれほどきついようには見えませんでした。

 われわれガードマンは制服を来ており,人目があるので,すぐそばにある自動販売機でも利用できないし,もちろん「もんじゃ焼き」などを食べるのは無理で,飲食するのも座るのもプレハブの中に入らないと駄目でしたから,結構大変でしたね。

 その年は冷夏で地肌に直接薄い制服を着ていただけなので,にわか雨のあとなどの朝方は夏なのに寒くて震えていたことも多かったです。ただ,雨がやまないことがわかると工事は延期になるので早く終わりました。

 また,予定より工程が早く進んだときも2時や3時頃に終わります。

 最初は電車を利用していたので,仕事が早く終わっても5時頃まで待つしかなかったのですが,そのうち自転車で通うようになりました。

 自転車で帰って,帰りに駅の近くの吉野家で納豆や焼き魚の朝定食を食べるのは楽しみでしたね。 

 逆に朝5時を過ぎると残業代が付きましたが,いい仕事というのはもう22時くらいには終わってしまうような工事についたときです。

 とにかく早く終わろうがどうしようが最低基本の日給は入るのですから,早く終わるに越したことはありません。

 また,台風のときも,ただプレハブ小屋で待機していて,ラジオで情報を聞き飲食自由であり,風雨の中で工事現場をときどき見回るという屋内守衛ガードマンのような楽な仕事でした。

 これにありつけるのはアルバイトでは,ほんの2,3人で,こうしたときには,一緒にいてもなぜか副隊長に怒られませんでした。

 また,収入面でおいしいのは,公園などの監視で,このときも屋内なので飲み物,食べ物は自由でした。 

 葛西臨海公園で2人でガードマンボックスにすわって1時間置きに花火など火遊びを取り締まったりする仕事は長時間ですが1万5千円くらい稼げました。

 ただ,駐車場内に夜間に自転車やバイクが入ってくるのを防止するのを注意するのは殴られるなどの身の危険があり,朝の報告があるのですが,注意しなくても注意したと報告せざるを得ないこともありました。

 同じようですが金町の公園では子供達のキャンプの監視なので,こちらは1万7千円程度の仕事でさらに長時間でしたが,おいしいものでした。どちらも蚊に刺されるのが一番困りましたね。

 9月末頃までは,月島が主でしたが,10月に入って,市川や行徳の工事現場に回されました。それでも自転車で行きましたが,初めて行く場所は現場を探すのもひと苦労なので,1時間くらいは早めに出かけて行く必要がありました。

 月島時代に仲のよかった50歳くらいの先輩に軽い気持ちで「あなたが月島現場で車両の誘導をしていた際に,一度ダンプの車輪がコーンを引いて,それがつぶれたのを見たことがある。」という話をしたら,彼はひどく怒って「なんでそんなウソをつくのか?あなたはいい人だと思っていたのに,私はウソツキは嫌いだ。」と言って,それ以後口を聞いてもらえなかったという悲しい記憶もあります。

 彼は,誘導に夢中でコーンが引かれたのに気づいていなかったようだったけれど,私はその現場を通りすがりに本当に見たのですが,これは言ってはいけなかったことなのでしょうね。

 いずれにしろ,そうした千葉県での工事は少なくとも,夜中の12時前後には終わりました。

 そして一番最後にした仕事は鹿島建設の道路工事現場の仕事で,大体毎日22時頃終わり,ときには自転車で40分くらいの道を急いで帰り,あわててテレビをつけてサッカー:ワールドカップ・アメリカ大会のアジア予選を見たものでした。そしてこのときに「ドーハの悲劇」も見ました。

 結局,もう夜勤ガードマンは寒くなるのでやめようという気になり,10月末でやめました。

 それからも就職を探しましたが年齢制限もあって全然決まりません。その上私は国や公的機関から「お墨付き」を頂く,という資格というものが大嫌いですから,そうしたものとしては学校の卒業証書くらいしかないわけで,しかも独身でしたから,そういう意味でも職に有りつくのはむずかしい状況でした。

 私が探していたのは主に単純労働でした。生活のための金をもらうのに頭を使うのはなぜか嫌だったし,実際,そういう仕事で私にできるものは少なかったからです。

  まあ,実際,最初の会社の会社員の3年目くらいのときもアルバイトに任せればいいはずの仕事である福島県の全ての自動車用道路の座標,車線数,幅員,長さなどを全部,約1年間かかって地図から定規やキルビメーターで拾う,という単純作業を自ら好んで一人でコツコツやりました。

 なぜかこうした給料に見合わぬ仕事をしていても上司からクレームが付かなかったわけで,のんびりした時代だったのかもしれません。

 しかし,仕事は選べないので,そのガードマンを辞めたばかりの時期は,行徳で大学入学資格検定をめざしている不登校生たちのケアを兼ねた中高生の塾で講師見習いなどをしました。

 塾長がいい人で,見習いにもかかわらず1日1万円くれましたが,結局,向いてないことがわかり,6日通っただけで私から断わることになりました。

 それから後は,御茶ノ水のMアカデミー予備校講師時代へと続きます。やがて,本当にこれ以上ローンを払えなくなって,豊洲から巣鴨に移りました。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月13日 (火)

ワールドカップ

 昨日はワールドカップサッカーを見ようと思ってワクワクして,ブログを書くのも忘れて楽しみにしていました。

 それだけに,唯一勝てるかもしれないと思っていたオーストラリアに後半あと6分で3発入れられたのを見て頭に来て,そのまま朝まで死んだように眠ってしまいました。

 今朝,セルジオ越後氏が言われてましたが,私もゴールを決められた一瞬は,1993年だったかのドーハの悲劇を思い出しましたね。

 まあ,これで日本の今回のリーグ戦突破は事実上終わりですね。可能性はゼロではないがオーストラリアより強い2チームに1勝1分けというのはマイアミの奇跡なみの話です。

 まあ,サッカーというのは何が起こるかわからないというのと,ブラジルが既に進出を決めて,仲のよいジーコ日本に手を抜いてくれる,ということぐらいしか期待できません。

 普通は,高校野球でもなんでもひいきのチームが負けると,他人を頼りにしても仕方ないな,と考えてネット将棋をして自分でかたきをとるんだけれども,昨日はいつもの負けパターンにあまりにも気が抜けてしまいました。

 その前にゴルフの宮里藍と全仏テニスダブルスの杉山愛がともに優勝を逃し,その後にまたこれですから,ふて寝してしまいました。

 でも,一応,日曜日のクロアチア戦も見るだけは見てみます。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月11日 (日)

拉致問題

 北朝鮮による日本人拉致問題に関して以前経済制裁には反対である旨の発言をしたが,今もその思いは変わっていない,北朝鮮人民のためにも外交努力による解決が望ましいと考えている。

 確かに,拉致というのは国際的な誘拐という犯罪である。しかし通常の誘拐事件と違うのは普通のそれのように身代金目的でもないし,いわゆる殺人にまでは発展していないらしいということだ。

 いろいろと政府の努力はあるようだが,日本の科学力ではばれるのがわかっていて平気で偽の遺骨を送ってくる,というのはまさか日本が本気で偽物だと主張してくるとは思っていなかったということだろう。

 彼らは,こうした茶番でこの問題を終わりにするということが日本政府にとっても悪い選択ではないと考えていたと思う。

 国交回復は小泉も在任中に達成したい課題の一つである。早く国交を回復して経済援助を得たいという北朝鮮首脳部の意図も見えている。

 とにかくこの問題のことを荒立てて北朝鮮を刺激することが得策ではない,と日本政府が考えていると思っているのだろう。まあ,それはある意味で間違ってはいない。

 ただ,日本というのは政府首脳の一存で事が決まる社会ではなく,世論に背を向けることができない社会である,ということが彼らには理解できていない。

 日本の過去の犯罪というのは,北朝鮮のせいぜい数十人の拉致誘拐ではなく,何万人,いや何十万人の誘拐連行であったということを忘れてはならない。

 ある日突然,夕食を用意して帰りを待っていたのに,夫や子供がいつまで待っても全然帰ってこない,実は日本人に強制的に連行されていったのだった,という悲劇が当時の朝鮮のいたるところで起きていたらしい。

 だから,それを思うと彼らにとっては現在の拉致がなんぼのもんじゃい,という思いがあっても不思議はない。

 しかし,過去は過去である。現在拉致されている人の家族の苦しみを思うと私も同情を禁じえないが,おそらく,体制転覆くらいのことがない限り完全な解決はむずかしいだろう。

 私は当事者ではないので,北朝鮮のことになると,拉致よりもむしろ,核問題とか人民の飢餓や虐待などのほうにより強い関心を持っている。

 彼ら人民には革命,クーデターを起こすほどの気力も体力もないと思うが,アメリカや日本などがイラクでやったように内政干渉すべきではないだろう。

 何か,評論家的文章になってしまったが,私としてはそれほどのパトスを感じないのでこのくらいしか書けない。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (15) | トラックバック (0)

2006年6月 9日 (金)

狭山差別裁判

 「狭山事件」は確か40数年以上前のことですが,当時,女子高生を殺した犯人を見つけることができなかった警察が被差別部落民の石川一雄青年(当時)を無理矢理,犯人としてでっちあげ,無期懲役刑とした事件ではなかったかと記憶しています。

 私の学生当時には石川さんが逮捕されてから既に数年たっていましたが,特に身分差別の分野での運動をしていた私は,部落差別と在日朝鮮人差別について「部落の歴史と解放理論」や「朝鮮人強制連行の記録」を読んだり,朝鮮総連に話を聞きにいったりして勉強しながら部落解放運動をも支援していたつもりでした。

 そこで,この事件は社会人になってからもずっと気になっていました。

 数年前に,ビデオで仮釈放中の石川さんの姿を見,肉声を聞いたことがありますが,今も無実を訴えて再審請求をしているらしいです。

 ことの本当の真相はわからないけれど,私は彼を信じたい。世の中には冤罪がたくさんあります。私はそうした意味で死刑廃止論者でもあります。

 例えば,私がかわいい身内を無残に殺されて憤りが抑えられないとしたら,私は権力などに代わって仇討ちをしてもらうくらいなら,みずから真犯人を見つけてかたき討ちをするだろうし,もちろん返り討ちは覚悟の上です。

 権力による死刑などは認めたくありません。世間では容疑者というだけで,真犯人かどうかもわからないうちに被害者は彼を憎む傾向がありますが,冤罪である可能性が意外に高いことは知られていないようです。

 私はまた銃砲などの武器を"権力”が独り占めしているのにも反対です。

 太閤検地と刀狩り以来,権力の暴力装置は一方的に武器を独占してわれわれを骨抜きにしています。

 暴力装置という裏打ちのない法律というのは何の効力もないのは事実ですが,警察や自衛隊などという一番危ない奴らが人殺しの道具を独占しているのですから,こちらも銃くらいで武装したいものです。

 特に,肉体的には弱者である若い女性などは護身用にバッグの中に小型拳銃などを入れててもいいのではないだろうかとさえ思います。

 銃を持てば犯罪が増えるなどというのは私は迷信だと思っています。

 中には車に乗ると人が変わる,というのと同じように,,現在はモデルガンで満足しているが解禁となれば銃を趣味とする「おもちゃ感覚」の人がいて,人間を撃ってみたいと思うようなバカが増えるのではないか,という危惧もあるにはあるけれど。。。。(そもそも,車だって乗るヤツによっては凶器ですね。)

 ともあれ,狭山裁判のようなものは明らかに差別裁判であり,無実を示すさまざまな証拠があったと記憶していますが,何故か再審の証拠として取り上げられないのは残念なことです。

 もうかなりの年齢になっただろう石川一雄さん,頑張ってください。私としては,陰ながら応援するしかないです。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 8日 (木)

気体の浮力(アルキメデスの原理)

 「浮力」というのは小学生など比較的素養が無い人に説明するなら,「上下の圧力差が原因である。」という説明より,次のような説明の方が簡単に理解されると想像されます。

 これは,例えば水中の物体にかかる浮力なら,「もしも物体の水中部分をくり抜いてその部分を全部水に置き換えると,それは周りの水と同じように支えられて全く動かないだろう。」という説明です。

 「浮力=物体が押しのけた流体の重さ」というのが古来からある「アルキメデスの原理」ですが,結局はその浮力の起源は上下の圧力差であるというのが正確な説明であるだろうとは思います。

 空気のような気体で考えると,上下の圧力差というのは,もちろん,下から衝突する空気分子の衝撃のほうが上からのそれより大きいから生ずる,ということになります。

 空気の分子量をM,空気の密度をρとすると,P=ρRT/M というのが気体の状態方程式です。

 しかし,通常,上下に絶対温度 T の差はないわけだし,上からも下からもぶつかる空気分子の速度 v は√Tに比例するのですから,どうして圧力差が起きるのか?不思議です。

 1つの分子の質量は同じであって,1つ当たりのぶつかる速度が上下で同じだというのですから,圧力差があるのは衝突する分子の個数のほうに上下差があるということしか考えられません。そうです,密度ρが上下で違うのですね。

 しかし,一般に重力の効果は∂P/∂z=-ρgという静力学平衡の式が成立しているから,密度一定なら物体の上下で圧力差ΔP があるのはΔP=-ρgΔz という式が成立するからであるということになります。

 この考えでは,密度はほぼ一定であるから押しのけた流体の体積 Vと同じ重さのρgV が浮力であるという話ですから,上述の密度が違うからだ,という考察とは一見矛盾しているように見えます。

 しかし,T が一定であるという仮定のもとで,気体の状態方程式 P =ρRT/M と静力学平衡∂P/∂z=-ρg を連立させると,dρ/dz = ーMgρ/ RT という微分方程式が成立し,これを解くとρ=ρ0 exp(-Mgz / RT)となります。( ただしρ0 を z=0 での空気の密度とします)

 これによると気体の場合にも,密度ρについて上下差Δρ=-ρ0 Mg / RTが生じているので,やはりΔP =ΔρRT/M =-ρ0 g Δzとなります。

 結局はρが ρ0 に変わるだけで,矛盾は生じないということになりますね。つまり,「密度がほぼ一定である」という仮定のほうがおかしかったのです。

 しかし密度がρ=ρ0 というのは地上 z=0 付近の話だけで,気球が飛ぶような高さでは密度差だけでなく,上下の温度差ΔT によって1つの衝突分子の速度 v に差がある,ことも圧力差の原因になります。

 つまりΔP =ΔρRT /M+ ρRΔT/Mですね。

 まあ,結局は∂P/∂z =-ρgで Δz という微小な高低差程度ではρは一定 としてよいのでΔP=-ρgΔz であるとするのが正しいわけです。

 でも,微視的に,つまり分子論的に考察するならば,浮力を生じる圧力の差の要因としては結構いろいろと考えるに足りる内容があるのではないか,ということが言えます。

 水のような液体では理想気体の状態方程式 P=ρRT/M は成立しなくて,ρ=一定としてよいので,∂P/∂z=-ρg からそのままΔP=-ρ gΔzだけで解釈して差し支えないと思います。

 つまり,圧縮性流体と非圧縮性流体で浮力の解釈は違っているのですが,結果的にどちらの解釈でも,圧力差に起因するという説明は同じであって,とにかく共通の法則であるアルキメデスの原理は成立する,ということになります。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 6日 (火)

村上ファンド,ライブドア

 私は株というのはやらない。資本主義は嫌いだし,そのシンボルのような株式というのは嫌いだから,そうしたことに関する私の知識は幼稚園児並みだろう。

 私はギャンブル以外の不労所得は好きではない。もっともマネーゲームもギャンブルだと思っている人もいるだろうが。。。

 しかし,今回の村上ファンドの村上世彰氏の逮捕劇については,どうしてインサイダーなのかがよくわからない。

 ニッポン放送の株式をライブドアが大量に買い占めるという情報を得た,あるいは操作したからといって,その株は必ず上がると予測できるものだろうか?

 未公開株を公開したときはほぼ100%上がるといわれており,株式を公開するという内部情報を得た内部の人間がその株を政治家などに譲った,などというのならば確かにインサイダーの一種だろう。

 しかし,どこから入った情報だろうが,その情報に基づいて株を大量に買うというだけならば,普通の行為であり,得た情報によって自己責任で,下がって紙切れになるかもしれないリスクを犯して利ざやを得ようとするわけだから,そうした行為は単なる仕手戦などの一種ではないのだろうか?

 まあ,村上氏自身が何年もかけて裁判で争う気はない(「金持ちけんかせず」)というのだろうから知ったことではないが,私は徹底抗戦すればインサイダー自体をも立件できるのかどうかも疑問だと思っている。

  ライブドアにしても「風評を流した。」というだけでは株価はどう動くかわからないわけで,それに踊らされる人々はそれぞれ自己責任で株式ゲームをしているだけだから,それが何で法に触れるのかよくわからない。

 ホリエモンにしても粉飾決算以外の罪状については立件できるのかどうか私は疑問に思っている。

 社会が勝ち組に対して嫉妬しているだけではないのだろうか?

 「まじめに額に汗して働いている人をばかにしている。」などと同じ勝ち組の検察が主張するのだとしたら,それこそは単なるきれいごとであり,庶民をばかにしている,と思う。

 つまり,そうであるとしても「あんたらに言われたくない。」のである。

 たとえば野球やサッカーでもトップの人達はその労働に比べて法外な報酬を受けていると私は思うけれど,それは今の社会では不労所得とは言わないだろうし,それに嫉妬しても始まらないことである。

 もっとも,検察を含む官僚社会である日本で,「庶民の労働意欲がそこなわれる。」という危機感を持ち,国策として突出した者達をもぐら叩きしようとするのはきわめて日本的な発想であり,彼らのやりそうなことである。

 日本という国では,子供でも大人でも他人と異なることをする異端児は叩かれるわけで,個性をのばすより一様化という「秩序」を重視する。そしてイジメもその延長上にある。

 女子高生のスカートも一昔前なら短かいと注意を受けたが,今は逆にミニでないとイジメられるらしい。

 という意味では時代の流行(ファッヨン)は徐々に変化するものであるが,急激な変化や個人主義」排斥されるようである。

 私などは,むしろ,法を犯したり秩序を乱すことは「造反有理」に通じるので歓迎したいという感覚を持っている。

 私は別にホリエモンや村上世彰氏を好きではないが,検察とか警察とかいう権力組織のほうがもっと嫌いだから,そのやることをそのまま肯定的に捉えるのは私にとってはとても嫌なことである。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

近頃の殺人事件

 最近,私より若い人達がいろいろな殺人事件を起こしている。ひきこもりの末に人生を降りてしまう。親や家族を殺すことによって結局は自分を殺してしまおうとする,のである。

 秋田の小児殺人事件はどうなのだろうか?自分の娘を殺して警察に捕まり、死刑にでもなって人生を降りたかったのに事故とされてかなわなかった。不幸続きの人生から降りるためにもう一人殺して,どうしても捕まりたいということなのだろうか。

 人生を続けるより,降りるほうがやさしいと感じるときがある。実際,降りたほうが幸福なのかもしれないと考える悲しい人々がいる。自分で始末をつけられなくて他人を殺すことで自殺しようとしている人たちがたくさんいる。

  心の病んだ人を救うのはむずかしい。自分でさえ、病んでいるのだから。。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

納涼おやじギャグの嵐

  このところアカデミックな話ばかりで,少し疲れました。

 6月初めとはいえ,そろそろ暑くなってきたので,思いっ切りくだらない寒(さぶー)い「おやじギャグ」でもかまそうかなと思います。

 ほとんど盗作ですが思い付くまま,書きまくろうと思ったのに,いざ考えてみると意外に少ないということに気がつきました。

 ことわざなどにかこつけて,塾や予備校,専門学校でかましたギャグは,そもそも最近のガキどもが元ネタを知らないので本当に白けたことが多かったですね。

 有名なところでは「猫にこんばんわ」とか「馬の耳に粘土」とか「寝耳にミミズ」とか,ちょっと品がないけど「上様のオナニィー」など,がすぐ浮かびます。

 いろはカルタなら,「犬も歩けば猫も歩く」とか「ロンよりヤス」(ちょっと古いけどロン・レーガン大統領よりも中曽根康弘首相という意味です)とか,これまた下ネタですが,「花より男根」というのもあります。

 最近は少女漫画でよく似た題名ありますが,私のはウン十年前に作ったものですから品はないけどオリジナリティでは上だろうと思っています。

(※漫画の「花より男子」よりも私のダジャレの方がはるかに前です。)

 似たようなパターンでは,「取らぬ狸は歩いてる」,「逃がした魚は泳いでる」,「腐った鯛は食えない」,「石橋を叩いたらこわれた(割れた)」,

 それに,「ちりも積もればゴミだらけ」,「石の上に三人」など,ことわざを素直にとって当たり前の文に変えるというものがありますね。

 駄じゃれなら,まあ平均的な,「駄じゃれを言うのは誰じゃ」から,「憎まれっ子,夜にハバカリ」とか,「うわさをすればハゲとやら」,「トイレにいっといれ」,「対岸の幹事さん」とか,思いっきりさぶーいのがあります。

 非常にくだらないものでは,「猛獣のあいさつはドーモー」というのもありますね。(これもダジャレでしょうか?)

 少し,色っぽい大人の話では,「君子あおむけに近寄らず」と言うと,「毛を見てせざるは勇無きなり」と言い返されたというのがあります。

 まあ,結婚前の乙女だったころの吉永小百合さんも「マツタケけは舐めてくわえてまたしゃぶり」という意味深な川柳をうたっておられたし,ギャグでも18歳未満禁止のモノなら結構ありますね。

 「立ってるモノはムスコでも使え」とか,「穴があったら入れたい」とか,「なめたらイクぜよ」とかがあります。

 未亡人が亡き夫のお墓に参って着物の裾をまくり「お線香(センコウ)の十倍(○コウ)を供えてきた」とか,「かわいい子にはイタズラを」とかって。。

 ん?コラコラコラー。。

 その他,「垢デミックな人」とか,ユーミンの「ハゲリゆくヘヤー」とかって,何だ俺のことかよー。。やーめた。。。。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

   

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 5日 (月)

正則関数(解答)

数日前(5月30日(火))に出題した問題の解答をしておきます。

その問題は,

"ある点Pの座標がわかっていて,ある閉じた図形(たとえば四角形ABCD)の頂点の座標が全てわかっているとき,問題の点Pがその図形の内部にあるか,それとも外側にあるか?を計算によって判断するにはどうすればいいでしょうか?"

というものでした。

答は,

"問題としている点Pを原点として,閉じた図形の境界曲線上の点に向かうベクトルが,その閉じた境界の閉曲線Cを1回転したとき,回転偏角の総計が 2πであれば点Pは閉曲線Cの内部にあり,1回転の偏角合計がゼロであれば点Pは閉曲線Cの外にある。"

というものです。

ただし,点Pがちょうど閉曲線Cの上にあるときは偏角合計はゼロや 2πも含め色々な値を取る可能性があって不定ですから,この方法では判定できません。

その場合は特別な方法を考える必要がありますが,今の問題では,このケースは例外としています。

これは(複素)関数論でコーシー(Cauchy)の積分定理により,

"閉曲線C上の積分∫dz{1/(z-a)}はa が閉曲線Cの外にあればゼロとなり,さもなければ 2πi になる。"

ということをそのまま言い換えたに過ぎません。

つまり,閉曲線C上の積分∫dz{1/(z-a)}は,極形式で,(z-a)=ρexp(iθ)と積分変数をzからθに置換すれば,∫dz{1/(z-a)}=i∫dθとなることから,上述の判定方法が得られるわけです。

これを,コンピュータで計算して判定するには,例えばFortranであれば逆正接関数:ATAN2という関数ルーチンを用いれば可能です。

これは,ある点の座標が(x,y)=x+iyなら,その点の偏角が一般角としてθ=ATAN2(y,x)で与えられるというものです。ただし,これで得られる角度の値は主値で,-πとπの間の値に限られます。

もしも,図形の境界線が四角形ABCDなら,点P=aを原点:(0,0)として,その4つの頂点A,B,C,Dを左まわりに順に( x, y1,( x2, y2,( x3, y3,( x4, y4と置いて,θ=ATAN2( yi+1-y , xi+1-x) ( i=1,2,3,4 )によって回転角θ を求め,和∑θ を取ればいいことになります。ただし,(x5, y5)≡( x, y1) とします。

ここで注意しなければならないのは,ATAN2は-πとπの間の角に限られているということです。

そこで,予め4つの頂点の偏角をφ=ATAN2( y ,x ) ( i=1,2,3,4 )と求めておいて,その差であるところの(φi+1-φi)を計算して後から全部を加えるという方法では.点P= a が図形の内部にあろうが外部にあろうが合計は常にゼロにしかならないということです。

それは,偏角がπを超えるところでは正の回転であるにもかかわらず,突然-π前後の負の偏角の領域に入るからです。

したがって,回転偏角としてθATAN2( yi+1-y , xi+1-xi )という角度で対応し,これらがπを超えるような場合の偏角についてはその都度,正回転か負回転かを注意して考慮する必要があります。

これは一般角をどのように捉えるかということに関して,コンピュータで計算する際に注意すべきことです。人間の頭で考えるだけなら,偏角が正か負かについては疑問の余地はないのですがね。。。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2006年6月 3日 (土)

多世界解釈と超選択則

 量子力学の観測の問題では,状態の収縮という悩ましい話があります。

 こうした観測における収縮のメカニズムなどの合理的解釈が不明であっても,物理学として理論展開したり,工学的に応用するなどについては,量子力学に問題はありません。

 しかし,測定装置と干渉して観測と同時に波動方程式からはずれて固有状態に収縮するという話にはかなり無理があり,"ユニタリ性(unitarity)=連続的時間発展の局所時刻での確率の保存"を破るというのは,いかがなものかとは思います。

  まず,観測と同時に波動関数で記述される純粋アンサンブルの状態から,密度行列でしか記述できない混合アンサンブルの状態に飛躍する,といういわゆるデコヒーレンスの問題があります。

 これは測定装置そのものが莫大な粒子から成る巨視的存在であるという理由から,位相を伴なう部分は激しく振動するためにリーマン・ルベーグの定理により消える,つまり"干渉部分は消え落ちる=デコヒーレンスが起きる"という理論で解決される,という理論がかなりもっともらしいです。

 これは,最近の「並木・町田理論」を例示するまでもなく,かつてのボーム(David Bohm)の標準的著書「量子論」の中に,その思想が見られる興味深い話ではあります。

 しかし,観測によるデコヒーレンスという問題ではなく,実際に観測でただ1つの状態が如何にして選択されるのか?という問題もあります。

 これについては,「数理科学」という雑誌の中の記事で和田純夫氏の報告を読んだだけですが,上記の問題を説明するために多世界解釈という理論があるという話には,かつて私は大いに感銘を受けました。

 つまり,"この世界=宇宙全体を記述する状態ベクトル=波動関数"は観測に関係なく,ホイヘンスの原理のように,あらゆる経路の途中で分岐し,かつ重ねあわされて発展していくというわけです。

 創始者のエヴェレット( Everett )流の素朴な解釈のままでは,幾分SF的な多重宇宙の存在という話になりがちですが,こうした多世界解釈の現代的理解は状態の時間発展を経路積分で定式化したときの物理的イメージと重なるものと考えることができます。

 そもそも,量子論そのものがそういう時間発展形式をしているのですから,"観測行為とは状態を乱すものではなく,状態の経路のうちの1分枝を捉える作業に過ぎず,決して波動関数が収束するわけではない。"という思想はとても素晴らしいと思いました。

 ただ,ロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)氏らの"状態ベクトル,あるいは波動関数そのものが実在(reality)である。"とみなす立場からは,ある物理量,例えばスピンの固有状態,つまり固有値のみが観測され,何故重ね合わせ状態は観測されないのか?という問題は多世界解釈では説明がつかないと主張されています。

 すなわち,多世界解釈では,いわゆる「シュレーディンガーの猫」の生死各々の状態と同じく生と死の重ね合わせ状態も対等に観測可能な状態である,という意味で何の解決にもなっていないではないか?という批判があります。

 実際,物理量の固有値,そして固有状態が何故その固有値をとる状態のみが観測の際に特別視されるのか?,何故,猫の生と死という特別な2つの状態のみが観測において選択されるのか?という問題があります。

 あるいは,スピンなら,何故アップとダウンのみが選択されるのか?,核子なら,何故質量殻上ではアイソスピンのアップ・ダウン固有状態である陽子と中性子のみ選択されて,それら陽子と中性子の重ね合わせの状態は観測されないのか?というような問題もあります。

 これらは,量子力学の観測という狭い論題ではなく,むしろ,人間の脳が生死という択一的な状態しか認識できないという認識能力の問題に抵触する話で,単に物理学だけでは割り切れないデリケートな哲学的問題ではないかと思っています。

 これらは,量子論ではいわゆる超選択則というルールを導入することで簡単に片付けられていますが,観測問題においてはとても悩ましい問題である,と私は感じています。

 これについては,多世界解釈に限らず,現状の如何なる観測解釈でもまだ十分な説明はなされていないでしょう。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

 

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2006年6月 2日 (金)

流体力学の話

 私の学生時代の専門は理論物理学の素粒子論,特にQED(quantum electrodynamics:量子電磁力学)でしたが,第2の専門は最初に就職して15年間以上やった仕事に関連して流体力学でしょうか。

 もちろん,コンピュータによる数値計算もかなり詳しくなりましたけどね。

 今日は,層流や乱流,特に飛行機が飛ぶ場合の翼にかかる力や,その周りの流れについて書いてみます。

 まず,流体の定義ですが,「流体とは静止状態で圧力以外の応力を持たない連続体である。」ということになります。

 もちろん,静止状態以外では実在流体は"粘性=摩擦"がある方が普通ですが,静止状態でもそうした応力があれば必ず流れてしまうので静止状態であることに矛盾してしまいます。

 運動状態でも"粘性=摩擦"の無い理想的な流体を完全流体,または理想流体といいます。

 一般に,飛行機の翼にかかる抗力や揚力を考察する場合,翼を輪切りにした側面を含む平面内の2次元での空気の流れを考え空気を非圧縮の完全(理想)流体,特に渦なしの2次元ポテンシャル流として考えることが多いです。

 こう考えても妥当な理由は次のようなものです。

 まず,空気中を一定速度の高速で走る飛行機を考える際には,飛行機の翼を中心にして考えて,翼の方が静止していて,周りの空気という粘性流体の方が高速で一様に逆向きに流れていると見ます。

 そして,レイノルズ数(Reynolds number)と呼ばれる無次元の数:Re = UL/νが大きい場合には,運動中でも流体の"粘性=摩擦”は存在しないという近似が成立するからですね。

 ただし,Uは流体の代表的な速さ,Lは流体と物体の系における代表的な長さ,νは流体の動粘性係数です。そして,この単位のないレイノルズ数Reに対して比率 1/Reが”粘性=摩擦"の大きさの程度を表わします。

 翼の長さを L ,運動速度の大きさを U とし,νとして空気の分子動粘性係数をとると,Reは非常に大きくなりますから,空気中の飛行機の翼では事実上摩擦のない完全流体と見なせるわけです。

  しかし,実際にはどんな高速な気流でも翼の表面ではそれに完全に粘着する,つまり翼に対する相対速度が表面上では完全に ゼロになる,という性質は決して見逃がすことはできません。

 完全流体ならば翼の表面を滑るだけで粘着しませんが,いかに Reが大きかろうと実在流体なら表面を滑ることはなく必ず粘着します。

 では、これをどのように解釈すればいいのでしょうか?

 実はプラントル(Prandtl)という人が提唱した境界層理論というのがあります。

 翼などの物体表面にはきわめて薄い層があって,その層の外縁では速さが U で外側の速度に一致しますが,層の内側では内縁である翼表面に向かって表面で速さがゼロになるように急激にブレーキがかかっていく,と仮定する理論です。

 これによると,境界層の外縁では気流がx 軸の方向に速さUで運動しますが,内縁,つまり翼の表面では気流の速さはゼロで,この層の中では著しい"粘性=摩擦力"が在って,それによりエネルギーが散逸して熱となって霧消してしまいます。

 これが,たとえ翼が一様速度で飛んでいても抵抗が現われる原因となり,それ故,速度を維持するためには常に推力を必要とするという理由になるわけです。

  一方,境界層の外縁部分では完全流体の境界条件が成立し,完全に外側の速度Uと一致していて,流体は外縁上を滑るだけで層に垂直な成分はゼロということになります。

 そして,速度の垂直成分がない,ということは境界層の内部とのエネルギーのやり取りはない,ということになりますから,境界層の外縁部分を翼の表面と仮想する限り,完全流体の理論,特に渦なしのポテンシャル流の理論を適用してもいい,という結論が得られます。

 そして,そうした完全流体の2次元の理論では複素関数論を用いた「クッタ・ジューコフスキーの定理(Kutta-Joukowski)」という定理の成立がわかっています。

 これによると,物体にかかる抗力,つまり,"x軸の向き=水平方向"に受ける力は物体内部の領域にも流体があると仮定した場合の内部の特異点での吸い込み量の大きさ Q に比例することがわかります。

 一般に,完全流体内の物体というのは同じ大きさの湧き出しと吸い込みの対でつくった双極子と同等であり,それら双極子によって作られる流線のひとつが物体の輪郭に一致するようなものです。

 したがって,湧き出しと吸い込みが相殺して物体内部ではQ = 0 となり,結局,物体は全く抗力を受けることなく,推力なしで流体中をするりとすり抜けて運動していける,ということになります。

 経験では流体中を一様速度で運動しても,常に抵抗を感じるのに,完全流体で計算すると全くその抵抗がない,というパラドックス,いわゆる「ダランベールの背理(D'Alembert)」が成立する,ということになります。

 こうした,完全流体中でももちろん,一様流速ではなく加速度があれば物体が排除した水の分の慣性力を受けるため,この排除分に相当する誘導質量の効果で抵抗を受けますが,加速度の無い一様流速では理論上は全く抵抗を受けません。

 実際には,先に述べたように実在流体は粘性流体であり,レイノルズ数Reがいかに大きくても物体表面には境界層があるため,大きな抵抗を生じるので,これを考慮するなら現実の経験とは矛盾しないという結果になるわけです。

 一方,同じ「クッタ・ジューコフスキーの定理」によると,x 軸の正の向きから反時計回りに 90 度回転した向きをy軸の正の向きにとると,物体は y 軸の向きに物体の周りの流れの循環Γに比例した大きさの力を受けるという性質もあります。

 ただし,Γが負(時計回り)ならその力の向きはy軸の正の向きです。

 通常の翼ではy 軸の正の向きが鉛直上方になりますから,この力を揚力と言います。これが飛行機が上向きの力を受けて飛ぶ理由ですね。

 しかし,こうした力はクッタ・ジューコフスキーというような大げさな理論でなく,完全流体であれば,通常の「ベルヌーイ(Bernoulli)の定理」で説明できます。

 とにかく物体の外部を流れる流体は,境界層内部とはエネルギーのやり取りがないので,大域的には一様速度の流れなのですが,もしも翼の上部の境界層の上の局所流速の方が翼の下部境界層の下の局所流速よりも大きいなら揚力が発生することを説明できます。

 「ベルヌーイの定理」というのは,圧力という位置エネルギーと流れの運動エネルギーの和である力学的エネルギーは翼の上部でも下部でも同じであって差がないというエネルギー保存則です。

 そこで,下部の方が上部より流速が小さいなら,下部の圧力は上部の圧力より大きい,という圧力差を生じるという意味で,"上向きの力=揚力"が生じると言えるわけです。

 こうした場合には,上部から下部に向かって運動エネルギーが輸送されて,圧力に変わるわけですね。

 実際,この場合に翼の周りの循環Γを取ると,流れの向きを上部下部どちらもx軸の正の向きとすると,上部の方が下部より流速が大きいということは反時計回りを正とする循環Γは負になり,結局「クッタ・ジューコフスキーの定理」からの結論と同じになります。

 しかも,境界層はこうした上下向きの力については何の抵抗も示さないので境界層の存在は完全流体の揚力の理論においては何の影響も与えません。

 こういうわけで,完全流体の「クッタ・ジューコフスキーの定理」というのは揚力については,実は「ベルヌーイの定理」とほとんど同じものだと言えます。

 また,野球の変化球のように,ボール自身の"粘性=摩擦"が空気を引っ張って回転させるために生じるボールの曲がりという「マグナス効果(Magnus effect)」の現象についても,やはり「ベルヌーイの定理」で説明できます。

 しかし,飛行機の翼ではどういう理由で翼の上下の速度差が起きるか?を説明できなければ,「ベルヌーイの定理」による解釈もあまり説得力があるとは言えません。

 従来の「誤った定説」は,「翼を囲む流線に着目し翼形状が上部が長く,下部が比較的直線状なので短いということと,閉じた流線の近傍の先端部分を同時に通過した流体粒子は後端にも同時に到達するはずだから,上部の長い距離を通過したほうが流速が大きいはずであろう。」というような偏見的な予断に基づくものでした。

 そもそも,「流線が閉じていて同一の点を通過する。」というはずもなく,同時通過するというのは実験的にも否定されています。

 一般に流れが翼先端から翼後端に向かうとき,最初はレイノルズ数Re=UL/νのLが小さいので境界層は層流境界層ですが,Lが増すにつれReは増大します。

 大体は,流れが後端まで到達する途中でReは臨界レイノルズ数を超えて境界層は乱流境界層に変わり,最後には後端から伴流(ウェーキ)を生じるわけですから,流線が滑らかに後端まで伸びて閉じるというようなものではないですね。

 ところで,Reが大きいと粘着して安定した流れの状態から流体が遊離してゆくという剥離(はがれ)という現象が起きることがあります。

 この剥離が起きると,いわゆる失速という状態になり,伴流が太くなって渦列などが発生しやすく物体は大きな抵抗を受けて揚力も損なわれるということになってしまいます。

 剥離というのは層流境界層よりもむしろ乱流境界層のほうが起きにくい傾向があるので,ゴルフボールの飛距離を伸ばすために剥離を遅らせて抵抗を軽減するために,ボール表面にわざわざディンプルを入れて乱れを大きくして早く乱流境界層にするというような工夫もなされているようです。

  境界層の内部を記述する方程式としては層流境界層では素朴なナビエ・ストークスの方程式です。

 乱流境界層でも完全な計算力学的なシミュレーションが可能なら,同じ方程式でもいいでしょうが,初期条件が全く確率的な統計的分布をしていると仮定して「レイノルズ応力」を導入し,渦粘性係数などの考察を含めてモデル化し修正した「レイノルズ方程式」のような現象論的方程式を用いることが多いです。

  結局は翼の形のために揚力が得られるというよりは,仰え角(むかえかく)を与えれば平板でも揚力が得られる,というところに,むしろ揚力の原因があるのでは?と思います。

 もっとも,平板では前縁で剥離が起きやすく,このため前縁に丸みを与えると「ジューコフスキー翼」,つまり一般の翼の形状になってしまいます。また,迎え角の角度が大き過ぎると,やはり失速してしまいますが。。。

  この他,興味ある話題としては流速が音速を超えた場合の衝撃波という不連続面の発生です。

 つまり,「マッハ数」が1を超えれば,ポテンシャル流におけるポテンシャルの満たす線形近似方程式が"双曲型方程式=波動方程式"になって衝撃波を生じる,という話についても,余裕があるときに,突き詰めて考えてみたいものです。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年6月 1日 (木)

野球(特に長島,高校野球,)とスポーツ観戦

 ものごころついてから,小学1年生のころ,初めてプロ野球をラジオで聞きました。丁度,長島が巨人に入団したころで,ファーストはまだ川上でした。翌年からは王になりましたが,なぜだかすぐに長島選手のファンになってしまいました。

  その頃の巨人といえば,ピッチャーは藤田,別所などいろいろでしたが,キャッチャーは藤尾か森,ファーストは川上から王へ,セカンド土屋,ショート広岡,サード長島,外野はポジションは忘れましたが坂崎,ウェンデイ宮本,与那嶺や国松という布陣でした。

  巨人ファンというわけではなくて長島選手個人のファンでしたから,巨人が勝っていても延長だと打順が回ってくるので同点になって延長になるのを楽しみにしていました。そのくせ巨人が優勝しないと日本シリーズが面白くないので,やはり巨人ファンだったのでしょうね。

 隣の広島はチームがあったから違うのでしょうけど,田舎の岡山ではラジオもテレビも巨人のゲームが多かったので巨人ファンにならざるを得なかったのでしょう。

 いわゆる「巨人,大鵬,玉子焼き」の時代でした。私の部屋には一人暮らしになっても長島のポスターが張ってあり,今日もし4打数4安打で4ホームランなら打率はホームランは打点は?とか架空の計算をしてドキドキしていましたから相当なものです。

 長島選手のファンだったので,その現役時代は,ことごとくタイトルをさらっていく王についてはアンチファンということになりました。何故か明るい長島と比べてストイックな感じの王選手は好きになれませんでした。

 ただ,今となっては王のほうが好きですけど。。。。

 王は結局,成績はすべて長島より上で終わりましたが,トータルとしてエンターティナーとしてはどうしても長島には勝てなかったというところでしょうか。

 私の印象では王は型にはまった打ち方をして「失投」を打つ。しかし長島は村山のフォークボールなど相手の「得意玉=決め球」を打つ。金田の超スローボールを大根切りでもホームランにする。という感じであり,しかも打って欲しいところでは,ほとんど裏切らないというのが魅力でしたね。

 最後は1974年だったかに,まだ大学院生で物理学会で訪れていた千葉工大の食堂のテレビで最後の444号ホームランを見て,私の長島ファンの時代は終わりました。

 長島が監督時代には,既に自然に巨人ファンになっていたので下手くそな監督の長島は大嫌いでした。今も決して好きではありません。今は巨人ファンでもないですしね。

 彼は思想的には右寄りの人でしたし,私はその「動物的な勘」に惚れていただけで,人格を含めた全体に惚れていたわけではなかったのでしょうね。

 まあ,「名選手は名監督にはなれない」を地でいった感じで,野村とは正反対でしょうか。野村といえば私の父は何故か南海ホークスの大ファンで野村が出てくると「寛美,カンビ」と言って藤山寛美と重ねて喜んでいたのが記憶に残っています。

 高校野球も子供の頃から,春と夏は夢中になって甲子園の大会を見たり聞いたりしていて,昭和36年夏に倉敷工が初出場の報徳学園に延長の末7対6で大逆転されたのをテレビで見ていて非常にくやしい思いをしました。

 だから平松を擁して昭和40年春に岡山東商が延長の末2対1で優勝したときはうれしかったのですが,丁度,その日に母校の優勝を知ることなく父が亡くなりました。何か因縁を感じましたね。その後,岡山県は優勝していません。

 現在も,自分自身はスポーツをやりませんが,見るほうは野球,サッカー,バスケット,バレー,テニス,ゴルフ,ラグビー,アメフト,陸上,水泳,卓球,体操,自転車,スキー,スケート,アイスホッケー,カーリング,シンクロ,水球,ボウリング,競馬,モータースポーツetcまで節操もなく何でも関心があります。

 しかし,プロ野球には興味がなくなり,メジャーに関心が移りました。

 サッカーなどもトトはやりますが,海外のほうに関心が移り,国が関係した世界選手権,ワールドカップやオリンピック.ゴルフやテニスの4大大会などのほうが好きになっています。

 高校野球は,岡山より東京のほうに長く住んでいますが,今でもやはり岡山県のチームを応援しています。いつか岡山県の高校が優勝することと,母校の金光学園が甲子園に出ること,を夢に見ています。

  他の面では変なオヤジですが,スポーツ観戦についてはきわめて保守的で普通です。

 高校時代に自分でスポーツ(卓球)をやることに夢中になっていて,県大会の一回戦に勝つのさえむずかしいことを体験しているせいか,日本という一国の代表や,県の代表になるのでさえ,トップになるということが如何に大変なことであるか,を身にしみて感じています。

 だから,日本代表が負けたからといって,評論家的に厳しい批判などできない,という性格になりました。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

http://blog.with2.net/link.php?269343(ブログ・ランキングの投票)

  

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年5月 | トップページ | 2006年7月 »