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2006年6月14日 (水)

ガードマンの時代

 1992年の11月末に42歳で2つ目の会社をクビになって,プータローになりましたが,やめてから1ヶ月分の給料は保証されていたので,12月分の最後の給料は銀行に振り込まれていました。

 それから210日(7ヶ月)は就職活動をしていたけど決まらないまま,15年間働いた分の失業保険,毎月約26万円也をもらって食いつないでいました。

 ただ,豊洲にある自宅3DKマンションのローンがあり,普段の月は約8万円でいいのですが,6月と12月のボーナス月は約8万円に加えて余分に約28万円を払う必要がありましたから,これでは足りません。

 例えば,3,4年前に秋葉原で冬のボーナスで買っていた約100万円のアキュフェーズのプリとパワーのセパレートアンプに20万円前後で買っていたマランツのCDプレイヤーを付けてオーディオ下取り店で40万円余りで売ったり,それまで入っていた生命保険を解約したりして,なんとかやりくりしていました。

 しかし,失業保険が切れて夏になっても,依然として就職は決まらないので何とかする必要があり,アルバイトニュースで探して,新富町の「新帝国警備保障」という会社で花火大会用の夜勤ガードマンのアルバイトを日給1万1千円で募集していたをのに応募して採用されました。1993年7月上旬,43歳の頃でした。

 そして,最初は電車で都営新宿線の本八幡駅まで行き,そこの小学校で着替えて夜になり,花火客の群集をグループに分けて前と後でサンドイッチにしてゆっくり進んでいくように規制をしました。

 石段を登ったり降りたりもあったので結構危険できつい仕事でしたが何とか無事終わりました。もちろん花火など見る余裕は全くありませんでした。

 何年か前のニュースですが,関西のどこかでこうした花火客の列で将棋倒しで死亡事故があったというのを見たことがありますから,やはり危険な仕事だったのかもしれません。

 それから,2,3回都内や千葉県の花火大会で同じような規制をやりましたが,その時期が終わっても,やめる気はなかったので,結局夜間の工事現場の交通警備ガードマンになりました。

 その頃,ここのアルバイトは7割が大学生で3割が社会人という感じでしたが,夜勤は日給1万1千円で日勤は8千円でしたし,夏でもあったのでもちろん夜勤を選びました。

 一応,定時の勤務は夜7時から朝5時ですが,勤務予定日の午後1時半頃に会社に電話して勤務先を指定してもらう必要があり,しかも早い者順で良い勤務先が決まるので,寝る時間が少なく結構大変でした。

 ただ,何故か社会人のほうが優先されていたようなので,毎日仕事にあぶれることはなかったです。

 一応,月から金の5日なのですが土曜日も出ると,その週の1日当たり千円増,土日も出ると1日当たり2千円増,つまり週給にして6千円増えたり1万2千円増えるというスタイルになっていました。

 しかし,あまり無理はできませんから,1ヶ月当たり最大28万円前後をもらう程度で満足していました。

 主に仕事についたのは都営12号線(現大江戸線)地下鉄建設の月島駅付近の工事現場で,工事用車両の搬出入と一般車両の車線変更および通行人の安全確保,バス停の確保等でした。

 最初はやさしい場所から入り,次第にむずかしい仕事をやりました。

 交通量は夜中でも多く,ときには誘導が下手で一般のダンプが動けなくなり,「何やってるんだ?」と運転手に怒鳴られたりしました。

 正社員は50前後の無口な隊長と30代前半の副隊長と60近いベテランの人の3人で残り12人くらいのアルバイトという構成でした。

 私は副隊長の組に入ると何故か,副隊長に色々と「いちゃもん」をつけられてイジメ抜かれました。

 この副隊長は,よく「俺は新潟で新幹線の工事現場にもいた」などと自慢していました。まあ,少々のイジメは経験済みだったので,給料のために黙って耐えましたが確かに辛かったのも事実です。

 だいたい,夜中の12時か1時には1時間の食事休憩があり,最初に着替えをしたプレハブ小屋で休憩するのですが,あるとき,一人で工事車両以外通行止めをするのために暗い路地で立っているだけ,という楽な仕事をしていたときに,2時を過ぎても交代が来ないので,持ち場を離れて「休憩はまだか?」と副隊長に聞きに行きました。

 このときは「持ち場を離れちゃダメじゃないか。今行くところだった。」とひどく叱責されました。まあ,交代が来ないのに持ち場を離れたのは,自分が悪かったのですが。。。

 いずれにしろ,実際に工事をしている人は,現場での飲食も含め,座って休んだりするのも比較的自由だし,仕事もほとんど機械の操作を大勢でやってるのでそれほどきついようには見えませんでした。

 われわれガードマンは制服を来ており,人目があるので,すぐそばにある自動販売機でも利用できないし,もちろん「もんじゃ焼き」などを食べるのは無理で,飲食するのも座るのもプレハブの中に入らないと駄目でしたから,結構大変でしたね。

 その年は冷夏で地肌に直接薄い制服を着ていただけなので,にわか雨のあとなどの朝方は夏なのに寒くて震えていたことも多かったです。ただ,雨がやまないことがわかると工事は延期になるので早く終わりました。

 また,予定より工程が早く進んだときも2時や3時頃に終わります。

 最初は電車を利用していたので,仕事が早く終わっても5時頃まで待つしかなかったのですが,そのうち自転車で通うようになりました。

 自転車で帰って,帰りに駅の近くの吉野家で納豆や焼き魚の朝定食を食べるのは楽しみでしたね。 

 逆に朝5時を過ぎると残業代が付きましたが,いい仕事というのはもう22時くらいには終わってしまうような工事についたときです。

 とにかく早く終わろうがどうしようが最低基本の日給は入るのですから,早く終わるに越したことはありません。

 また,台風のときも,ただプレハブ小屋で待機していて,ラジオで情報を聞き飲食自由であり,風雨の中で工事現場をときどき見回るという屋内守衛ガードマンのような楽な仕事でした。

 これにありつけるのはアルバイトでは,ほんの2,3人で,こうしたときには,一緒にいてもなぜか副隊長に怒られませんでした。

 また,収入面でおいしいのは,公園などの監視で,このときも屋内なので飲み物,食べ物は自由でした。 

 葛西臨海公園で2人でガードマンボックスにすわって1時間置きに花火など火遊びを取り締まったりする仕事は長時間ですが1万5千円くらい稼げました。

 ただ,駐車場内に夜間に自転車やバイクが入ってくるのを防止するのを注意するのは殴られるなどの身の危険があり,朝の報告があるのですが,注意しなくても注意したと報告せざるを得ないこともありました。

 同じようですが金町の公園では子供達のキャンプの監視なので,こちらは1万7千円程度の仕事でさらに長時間でしたが,おいしいものでした。どちらも蚊に刺されるのが一番困りましたね。

 9月末頃までは,月島が主でしたが,10月に入って,市川や行徳の工事現場に回されました。それでも自転車で行きましたが,初めて行く場所は現場を探すのもひと苦労なので,1時間くらいは早めに出かけて行く必要がありました。

 月島時代に仲のよかった50歳くらいの先輩に軽い気持ちで「あなたが月島現場で車両の誘導をしていた際に,一度ダンプの車輪がコーンを引いて,それがつぶれたのを見たことがある。」という話をしたら,彼はひどく怒って「なんでそんなウソをつくのか?あなたはいい人だと思っていたのに,私はウソツキは嫌いだ。」と言って,それ以後口を聞いてもらえなかったという悲しい記憶もあります。

 彼は,誘導に夢中でコーンが引かれたのに気づいていなかったようだったけれど,私はその現場を通りすがりに本当に見たのですが,これは言ってはいけなかったことなのでしょうね。

 いずれにしろ,そうした千葉県での工事は少なくとも,夜中の12時前後には終わりました。

 そして一番最後にした仕事は鹿島建設の道路工事現場の仕事で,大体毎日22時頃終わり,ときには自転車で40分くらいの道を急いで帰り,あわててテレビをつけてサッカー:ワールドカップ・アメリカ大会のアジア予選を見たものでした。そしてこのときに「ドーハの悲劇」も見ました。

 結局,もう夜勤ガードマンは寒くなるのでやめようという気になり,10月末でやめました。

 それからも就職を探しましたが年齢制限もあって全然決まりません。その上私は国や公的機関から「お墨付き」を頂く,という資格というものが大嫌いですから,そうしたものとしては学校の卒業証書くらいしかないわけで,しかも独身でしたから,そういう意味でも職に有りつくのはむずかしい状況でした。

 私が探していたのは主に単純労働でした。生活のための金をもらうのに頭を使うのはなぜか嫌だったし,実際,そういう仕事で私にできるものは少なかったからです。

  まあ,実際,最初の会社の会社員の3年目くらいのときもアルバイトに任せればいいはずの仕事である福島県の全ての自動車用道路の座標,車線数,幅員,長さなどを全部,約1年間かかって地図から定規やキルビメーターで拾う,という単純作業を自ら好んで一人でコツコツやりました。

 なぜかこうした給料に見合わぬ仕事をしていても上司からクレームが付かなかったわけで,のんびりした時代だったのかもしれません。

 しかし,仕事は選べないので,そのガードマンを辞めたばかりの時期は,行徳で大学入学資格検定をめざしている不登校生たちのケアを兼ねた中高生の塾で講師見習いなどをしました。

 塾長がいい人で,見習いにもかかわらず1日1万円くれましたが,結局,向いてないことがわかり,6日通っただけで私から断わることになりました。

 それから後は,御茶ノ水のMアカデミー予備校講師時代へと続きます。やがて,本当にこれ以上ローンを払えなくなって,豊洲から巣鴨に移りました。

http://fphys.nifty.com/(ニフティ「物理フォーラム」サブマネージャー)                                                  TOSHI

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