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2006年7月

2006年7月31日 (月)

水中の物体(重心と浮心)

 一様密度の角材が水に浮かんでいる場合,一般にどのような角度で浮かぶのが安定であるのかを考えてみました。

 浮かぶ場合はもちろん浮力=重力で,しかも静止状態では重心と,"浮心=水没している部分の重心",は鉛直一直線上にあります。

 そして重心にかかる重力は下向き,浮心にかかる浮力は上向きで,どう浮かぼうと水没している部分の体積は浮かび方に依らず同じであり,重心の位置も全く変わりませんが,浮心の位置の方は,水没した部分の形状つまり傾き方によって異なります。

 さらに,浮かんでいる場合には水没している部分の体積が全体の体積より小さいので,鉛直線上で浮心のほうが重心より必ず下にあります。

 そして,その状態からどちらかに傾いた場合には,重心と浮心を結ぶ向きが鉛直線上から,わずかにずれるため,重力と浮力が偶力になって"回転のモーメント=トルク"が発生するでしょうね。

 そして,例えば角材が水平な状態にあったとして,そこから微小な角度だけ左に傾けたとき角材の水没部分は傾いた形になって一般に重心を x 軸(水平軸)の原点とするとき浮心は原点の左右どちらかに移動すると思います。

 左に傾いた状態でも浮心が重心より左に移動するなら復元し,左に傾いたとき重心よりも右側になるなら倒れると思います。

 浮心は重心よりも下にありますが重心と浮心の鉛直距離は棒(角材)が立って浮かんでいる縦状態の方が,棒が寝ていて水平に浮かぶ横状態よりも,もちろん大きいはずです。

 それが縦と横が区別できる所以でもあります。

 それ故,棒を元位置から僅かに左に傾けたとき,傾角が同じなら,そのときには傾ける前の重心真下の元の浮心が移動して来た場所は,"重心=原点"から見て,棒が縦状態であった場合の方が棒が横状態であった場合よりも右側です。

 そこで,僅かに左に傾けたときに,僅かに移動してできた新しい浮心も,棒が縦だった場合には,重心より右のままに残って倒れやすく,棒が横だった場合だと重心より左になって復元すると推察されます。

 では,水中の断面が正方形の角材だとどういう状態が安定なのか?を計算してみましょう。

 すなわち,縦と横がわかる角材なら,既に横に浮かべた方が安定であると上で結論しましたが,

 さらに,その横状態で浮かんでいる場合に,それを横から見た2次元断面が丁度正方形であるとしたら,どの角度で浮かんでいるのが最も安定な状態なのか?という向きを調べてみます。

 簡単のために,角材の比重は 0.5 であるとします。

 重心や浮心をどう計算するかというと,中学校で習うことですが,三角形の重心がどこにあるかについては我々は既によく知っています。

 横からみた断面が一般の多角形の場合には次のようにします。

 多角形を,幾つかの三角形に分けて,それぞれの三角形の重心に,それにかかる重力に相当する三角形の面積を掛け,一方,位置不明の全体の重心が全体である全面積を支えていると仮想して力のモーメントが釣り合う方程式を立てます。

 一般の四角形の重心の計算はかなり面倒なのですが,まず,角度αだけ水平から傾いた場合の正方形断面のうちの"水中部分の重心=浮力の中心(浮心)"をベクトルを使って求めます。

 そして,その x 座標から,自明な"正方形断面の重心=正方形断面の中心の" x 座標を引いたもの,つまり重心を原点としたときの浮心のx 座標を求めました。

 詳細な計算は省略しますが,重心を原点としたときの浮心のx 座標は正方形の1辺の長さを a とすると (a/12) sinα(1-tan2α)となります。

 これによると,αが正,
つまり左に傾いた場合,αが45度より小さければ,この浮心の x 座標は正になって浮心は重心より右下に移動して上向きの浮力が働くため,さらに左回転が加速されて復元せずに倒れます。

 また,αが負の場合(右に傾いた場合)も,逆に浮心が重心より左下になるのでやはり復元せずに倒れます。

 しかし,αが大きくなり,|tanα|>1になると,傾きとは逆向きのモーメントが働いて復元するようになります。

 結局,"αが45度のときに最も安定である。"という結論が得られました。

 ということは,角材は,45度傾いて角のとがっている部分が上にある状態の方が,面が水平になって浮かんでいるよりも安定ということになります。

 ,そこで,自然のままに任せるなら,"ほとんどの均質な角材は角を上にした状態で浮かぶ。"ということになりますね。

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2006年7月30日 (日)

気液平衡の統計力学

 温度Tと気圧Pが一定の下で,水と水蒸気が2相平衡にあるため

 の条件は,熱力学では水,水蒸気の"化学ポテンシャル=分子1

 当たりのギブス(Gibbs)自由エネルギー"が等しいことです。

 

 すなわち,水,水蒸気の化学ポテンシャルをμlgとすると,

 2相平衡の条件はμl=μgで与えられます。

 これは,分子論の統計力学ではどういう意味を持つのでしょうか?

 

 まず,水蒸気を理想気体と考えると,その気体分子としての

 エネルギーは,Eg=(∑p2)/(2m)です。

 

 一方,液体の水分子は,分子平衡位置においても分子間力等

 より,金属の仕事関数に相当して液体分子1個を格子点位置の

 付近に束縛するエネルギー(-χ)(χ>0)を持つため,

 エネルギーはEl=(∑p2)/2m+U+(-χ)と表わされます。

 

 ここで,∑は1個の分子の運動の全ての自由度にわたる和です。

 また,Uは分子平衡位置からのずれによる振動の位置

 エネルギーです。

そして,1モルの潜熱=蒸発熱をLとすると,Lはエンタルピー

i+PV (Ui内部エネルギー)で定義されているので

L=NAχ+PV=NAχ+NABです。

 

ここで,AはAvogadro数で,A~ 6.02×1023です。Vは体積です。

さらにλ≡L/NAと置いて,"1分子当たりの潜熱=1分子当たり

の蒸発熱"としてλを定義します。 

統計力学によれば,分配関数をZとすると化学ポテンシャルμは

μ=-kBlog(Z/N)で与えられます。

 

そして理想気体では,分子の自由度をfとするとCを規格化定数

としてZ=Zg=V(CkB)f/2=NkBT(CkB)f/2ので,

μ=μg=-kBT[(1+f/2)logT-logP+const.] となります。

 

特に水蒸気は3原子分子なので,f=6であり,それ故,

μ=μg=-kBT(4logT-logP+const.) です。

一方,液体の場合は固体の調和振動子モデル(運動エネルギーの

自由度が3で振動エネルギーU=(1/2)kr2の自由度も3)を

取るか,V=0(運動エネルギーの自由度のみで,それが6のモデル

を取るとします。

 

まあ,いずれにしても,自由度fはf=6です。

気体の場合との違いは体積V=Vl=Nvlを近似的に,温度T

も圧力Pにも依存しない定数であると見なせることです。

 

そこで,Z=Nvl(CkB)f/2,f=6,μ=-kBlog(Z/N)

から液体分子としての水の化学ポテンシャルμ=μlを求めれ

ばいいのです。

 

しかし,液体分子と気体分子の共通のエネルギーの原点として,

気相の静止した位置を基準に取れば,液体の原点は(-χ)になる

ので,気体分子の原点を基準にすると,

μ=μl=-χ-kBT(3logTconst.)となります。

 

したがって,結局μlμgという条件は,

logP=logT-λ/(kBT)-1+const. となります。

 

それ故,P=(const.)Texp{-λ/(kBT)}

=(const.)Texp{-L/(RT)} となります。

これは,相平衡を表わす有名なClapeyron-Clausius

(クラペイロン・クラウジウス)の公式;

dP/dT=LP/(RT2),あるいは logP=-λ/kT+const.

の修正式になっています。

 

(※PS:バックナンバーではなく後記事ですが,2010年12/20の

ブログ記事「水滴の成長と蒸発(2)」の中に,熱力学的な考察

に基づくClausius-Clapeyronの公式の導出があります。

 

この記事の中では,Clausius-Clapeyronの公式は

dP/dT=LeM/{T(Vg-Vl)}から,Vl<<VgよりVl

無視してdP/dT=eM/(TVg)という形で表わされています。

 

eは単位質量たりの蒸発の潜熱ですが,これから1モルの

潜熱LはL=MLe(Mは分子量)です。

故に,書き直すとdP/dT=L/{T(Vg-Vl)},

またはdP/dT=L/(TVg)ですが,理想気体の状態方程式

により,g=RT/Pなので後者はdP/dT=(LP/RT2)

と表わせます。※)

 

    (↓下図はネット検索で入手した図の転載です。)

 

  

 

 

ところで,分子論的には,相平衡とは分子の蒸発数と凝結数が

同じであることを意味します。

今,単位体積中の水の平均分子数をnlとし,これが単位体積中の

水蒸気分子数ngに移行したと見ると,運動エネルギーに差がない

なら熱平衡ではng=nlexp{-χ/(kB)}です。

 

水蒸気の方は理想気体の状態方程式P=ngBTを満足すると

してよいので,結局nlを定数として,

logP=logT-λ/kT+const.となり上述の結果と同じ式が

得られます。

 

 

結局,平衡状態で,"化学ポテンシャルの値が一致する。"という

熱力学での相平衡の条件の意味が,"分子の蒸発数と凝結数が同じ

である。"という分子論的,統計力学的な意味での相平衡と同じで

あることがわかりました。

 

参考文献:中村 伝 著「統計力学」(岩波書店),

原島 鮮 著「熱力学・統計力学」(培風館),

クドリャフツェフ著(豊田博慈 訳)「熱と分子の物理学」(東京図書)

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2006年7月28日 (金)

労働価値説と効用価値説

かつてはマルキストを気取り"経済的な価値とは抽象的労働の量の多寡による。"といういわゆる労働価値説に基づいて,資本主義経済活動の結果として剰余価値というものが生まれる,

 

人民は資本家に搾取されている,そして資本主義では定期的に恐慌が起きるという,いわゆるマルクス主義経済学に心酔していました。

 

マルクス主義という哲学的,思想的側面では,今もマルキストではあるものの,経済学という側面では新古典派経済学から生まれたミクロ経済学,マクロ経済学という方法でいいのではないかという考え方に少し変わってきています。

 

別に,ベルリンの壁が壊されたから転向したというわけでもないし,いわゆる人々の欲望に根差した効用関数から導かれる限界効用で評価した商品の価値が,古臭い労働価値よりも優れていると急に目覚めたわけでもありません。

 

 また,効用というものが全時代的で普遍的と見えるのに対し,"富とは巨大な商品の蓄積である。"という論点から商品の分析から始め,資本主義の特殊性を考慮することで逆に普遍的理論になるという解釈をしているかに見える宇野弘蔵氏の「価値論」ほどの理解をしているわけでもないので,所詮は浅薄な思いつきですが。。。。

ただ,かつて考えていた剰余価値の搾取というのは現代的に言い換えると単に資本家の利潤追求に過ぎないと思うし,それが倫理的に善いか悪いという判断については,社会のTPOで決まるという程度の認識しか持っていません

物品の交換には,個々の商品間に"共通の基準=交換価値"が必要で,それがすなわち抽象的労働である,といっても間違いではないと思いますが,交換するには欲望に根差した使用価値の差異が必要です。

 

マルクスは,当然人間の欲望についても分析したわけですが,抽象化した労働といっても,商品の需要の多寡が逆に個々の労働の価値を決めるのである,ということもある意味ではその通りです。

 

このままなら,「ニワトリが先か?卵が先か?」という水掛け論になってしまうと思います。

一方,効用関数というものが実際に存在するか?とか,または存在しても普遍的であるか?ということもはなはだ疑問です。

 

それを基準にするといっても,それ自身がそれこそTPOによって変わるものだとも思えます。

 

まあ,ミクロ経済学をかじった程度で僭越ではありますが,確かに四則演算だけのマル経に対して微分・積分を使った現代経済学のほうが高尚には見えます。

 

こちらの立場では,結局,労働も効用を決める種々の要素の内の1つにしか過ぎないという見方でしょうね。

 

現代経済学というのは前提がこうであれば結果はこうなるはずだという予測をするものであり,メカニズムとか整合性とかを追及するもので倫理とか思想で価値判断をするわけではないものだと思っています。

 

そして,科学ですから,たとえ今の仮説に間違っている部分があっても,それなら別の仮説を立ててそこを修正していけばいいだけで,それで次第に発展していくようなものだと思っています。

まあ,メカニズムを考えるものとしてはそれでいいとして,私は効用価値説というのを含めて,そうした経済学はある意味で論理学の言うトートロジー(同義語反復)のようなものだと思います。

 

労働でも何でもかまわないけれど,ある要素因を特別視するとかの基準を公理として設けない限り,説得力のある実のあるものとはならないと思うのです。

    

だとすると,少なくとも労働を特別視する労働価値説の方がまだましなのかな?

ただ,"自分がどの階級,階層の,あるいは誰の利益を代表するのか,誰の利益を主と考えるのか?"という倫理的あるいは思想的側面では利潤を搾取と捉える経済的弱者の側の利益を代表するマルクス主義の方に未だに傾倒しています。

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2006年7月27日 (木)

オゾンホール(訂正)

 以前書いた7/12の記事「オゾンホール」での南極でのオゾンホールの生成原因について私の認識は誤りではないか?という旨のご指摘を受けました。

 そこで私自身が複数のホームページなどで得た知識に基づいて,その記事の訂正をしておきます。(気象が本職の「AXIONさん」に指摘を受けました。)

 極地の「極夜渦」によって現象が起きる,ということは間違いないらしいのですが,どうも真冬にオゾンホールが拡大するわけではなくて,春先からホールが大きくなり,冬には縮小あるいは消滅するようですから,紫外線量が少ないのが主因であるというわけではなさそうです。

 まあ,気象関係の話では,日射が最大の夏至の頃よりひと月もふた月も遅れて真夏の暑い季節になるし,潮汐現象でも確かに新月と満月のときに大潮にはなりますが,通常満潮になる時刻は月の南中時刻よりも「約12時間=半日」もずれています。

 ですから,気象と現象の時期がずれるということに,それほど神経質になる必要はないと思うのですが。。。(まあ夏とか冬とか言ってもどこの夏とか冬?という話もありますが。。。)

 紫外線量が少ないためにオゾン生成が起きにくい,という私見が完全に間違いというわけではないでしょうが,実際にはオゾンホールは日射量の多寡のためというよりも,むしろ温度が極度に低いことが主因で生じる現象らしいです。

 オゾンホールの本当の原因は,極度な低温のため極地上空に「PSC(極地成層圏雲)」という雲が形成され,オゾン破壊物質で構成されたフロンなどの化合物が凝結物資となって冬場に極渦の内部に固定されるためということです。

 そして,春先からの日射量によって雲の中に凝結されていた,そうした化合物が分解されて,オゾン破壊物質が多量に生成され,それによってオゾン層の破壊が進行してオゾンホールが生成拡大するというのが本当らしいのですね。

 日射量はむしろオゾン破壊には必要であるということですから,私見の方はピントはずれであったということになります。

 オゾン生成が減少することよりもむしろ,オゾン破壊が増加して進むことの方に着目すべきであった,ということです。

 やはり,「日射量=紫外線」が少ないことよりも,温度が極度に低いことのほうが主因のようですね。

 北極については,気流のために「PSC」が起きにくい,ということについては前の考察と内容的には同じです。

 おわびして訂正させていただきます。

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2006年7月25日 (火)

働くことは美徳か?

 かつて,1960年代から70年代にかけての日本経済の高度成長期,つまり日本においてブルーカラーが減少し,ホワイトカラーが増加していきつつあった時代に,海外からは「日本人はエコノミックアニマルである,働き過ぎ=ワーカホリックである。」などと揶揄されていました。

 まあ,日本だけではないでしょうが,特に日本では昔からずっと「労働=働くこと」は一種の美徳である,という考え方が主流を占めています。しかし,果たして単純に働くことは美徳である,と言い切れるのでしょうか?

 「理想的社会=ユートピア」であれば,そこでは働く必要があるのかどうかわかりませんが,もし社会にとって必要だとしたら,確かに働くことは,それが報酬に結び付くわけではない,という意味で何の代償も求めないボランティアそのものですから,それは美徳である、と言っていいかもしれません。

 しかし,現実社会では多くの人々は営利を目的とした企業の手足となって働いているわけで,労働することは必ずしも社会的貢献をすることに結びつくわけではないし,今の日本のように就職難の社会では他人の2倍も働く人が多ければ、事実上人件費が半分で済むのだから,合理化,リストラをもくろむ経営者にとっては美徳と感じるでしょうね。

 同じ賃金でAさんがBさんの2倍働く働き者なら,Aさんはそれで自己満足を感じているとしても,Bさんは不要だからと解雇されるかもしれません。

 経営者に労働を提供する側にとっては働き者が好ましい美徳である,と単純に考えるわけにはいきません。

 かつてはブルーカラーを中心として労働組合が組織され,資本家を相手取ってストライキやサボタージュが企画され,ストライキ中でも働く働き者をスト破りと呼んで糾弾する場面もよくありました。

 こういうことを述べているからといって,別に私自身が働かずに報酬を得ようと思っている単なる怠け者であってそれを正当化しようとしている,わけではなくて,自慢じゃないけど,むしろ自分は働き者に属していると思っています。

 ただ,働き者と怠け者という構図で優劣を決めるのは,実は支配者,あるいは経営者の側のイデオロギーであるわけです。

 たとえ労働者の側がそういう働き過ぎない人や仕事の能力が劣っている人と同一賃金なのは不公平であると感じているとしても,実はそれも経営者側の意図するところで,彼らに好都合なイデオロギーに取り込まれている考え方であるだろう,と私は思うわけです。

 観念論ですが,ニーチェは「道徳の系譜」の中で「その時代の支配的イデオロギーは時代の支配者にとって好都合なものだけが淘汰されて残ったものである。」ということを見抜いていました。

 中世においては「忍従することこそ美徳である」ということを教えるキリスト教思想が支配的だった,のもそうしたことの裏づけになるでしょうね。

 そういうわけだから「我々も支配者=英雄になることを目指すべきだ。」と説いたのがニーチェだとしたら,支配される側の立場にたって同情道徳を説いたのがショーペンハウエルであると云えるでしょう。

 同じようでも「イデオロギーが淘汰される」ということを弁証法的に捉えて唯物論として「時代そのものが支配的なイデオロギー=観念を生み出すのである。」と考えたのがマルクスです。

 そして彼は社会の矛盾はやがてブルーカラーを主人とする政治革命を通じて結局は社会革命が完遂されることによって止揚されると考えたのですね。

 まあ,商品とすることだけが目的ではなくて衣食住の生活必需品を生産することが目的である労働なら,ある意味で有意義な美徳かも知れませんが,先進国であるほどそうした第1次産業に関わる人々が少ないのも現実です。

 やみくもに働き者が称賛される風潮を好み,労働意欲向上などと騒ぎ立てるのは,むしろ不労所得のほうがメインの収入である層の人々だけであると感じるのは私だけでしょうか?

 ヨーロッパだけが世界であると考え,先進国と発展途上国の格差が起きるという不均等発展までは見抜けなかったマルクスに対して,これを見抜いたレーニンの「帝国主義論」などもあります。

 実際,日本を含む帝国主義(あるいは国家独占資本主義)本国における社会矛盾は発展途上国にしわ寄せすることで解決できる,ということが少なくとも経済的には実現しています。

 具体的には,帝国主義本国ではブルーカラーが消滅してゆき,その労働力を発展途上国からの移民や発展途上国に工場をつくることによる安い労働力で代替し,本国では中流意識を持ったホワイトカラーが増えてゆくということになります。

 (日本は米国の植民地であるから主体的な独立国家としての意思を持っていないので帝国主義本国ではない,というようなどこかの政党の主張の受け売りのような意見を述べられる人もときどきいます。

 しかし,そうした被害者意識でものを考えるのはそろそろやめて途上国に対する加害者の国の国民であるというような加害者意識でものを考える習慣を身に付けたほうがいいと思います。)

 そして,これに伴ってブルーカラーを中心としていた労働組合は次第に解体してゆき,それを母胎としていた政党が消滅していったり,共産党とは名ばかりでブルーカラーを母胎としたのでは票が得られないため,市民という名前のホワイトカラーや中小企業者というプチブル(小ブルジョア,小市民)を母胎とせざるを得なくなり,自ら変容を遂げていく政党もあります。

 ロシアや中国など「一国革命」を遂げた国々も,元々まわりを囲む資本主義国の圧力に耐え,しかも自国の人民を統治してゆくためには独裁者が出現するほかはなく「権力を得た者は必ず腐敗する。」というわけです。

 かつてトロツキーは「永久革命論」を提唱していたのですが,こうした革命国家は社会主義とは名ばかりの官僚独裁の形態を持った「歪曲されたプロレタリアート国家」に成り下がり,やがてベルリンの壁が壊されて資本主義化してゆく道を歩むに至ったのです。

 話が脱線したので,ここらでやめますが,私のような考えでは,やはり「アナクロ=時代錯誤」なのでしょうかねえ。 

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2006年7月24日 (月)

負の質量

 世の中に負の質量の物体が存在すれば,それには反重力がかかるので斥力が働くから,その物体は落下しないで宙に浮く,どころか上昇していくだろう,と考えている人がいるかも知れませんが,それはちょっとした誤解ですね。

 そうではなくて地球の質量が負であったら,地上付近の物体には反重力がかかるので,正の質量の物体が上昇するのであり,こうした反重力のもとでは負の質量の物体は落下するのです。

 (まあ,すでに質量が正と負のときに一方では斥力が働いて,他方では引力が働いたりしているので,明らかに矛盾が露呈していますね。)

 物体の負の質量を(-m)(m>0)とし,働く力を F,加速度をαとすれば運動方程式はF=-mαです。

 地球上では等価原理によって,あるいはガリレイによって"どんな質量の物体も真空中のように,抵抗がないなら加速度g=9.8(㎡/s)によって落下する。"ということは,たとえ負の質量であろうとF=-mg であるということですね。

  つまり,運動方程式 F =-mg=-mαより,α=gであり加速度は同じで上昇するのではなくて,落下しますね。まあ,この論理では落下するから落下する,と言ってるにすぎませんが。。。。

 まあ,質量が負ならそれにかかる力も負なので,負割る負=正である,ということなどがを言いたかっただけです。

 (自分の質量が負なら何かを押して反作用を受けても,押し返されるのではなく反作用で引っ張り込まれますね。(押し返される力を(-m)<0で割ると加速度は力と向きが逆です。)

  ここで考えた「質量×加速度=力」というときの質量は慣性質量で,ニュートンの万有引力(重力)=F=-GMm/r2 のMやmは重力質量と呼ばれています。

 等価原理というのは,「慣性質量=重力質量」なので重力を慣性質量で割ったものは慣性質量がゼロ(例えば光)であろうと負であろうと同一だという意味ですから光でも負質量粒子でも同じように落下します。

 ただし,光の場合のように光速に近い運動をする物体ではニュートンの万有引力の法則はメトリック(計量)のうち,00 分だけを取り出した近似に相当します。

 実際には速度が光速に近くなると空間成分のメトリックgijも効いてくるため,一般相対性理論では重力による加速度の効果は2倍になると考える必要はあります。

 まあ,ここまで書けば負の質量の存在と等価原理とは矛盾する,ということがおわかりでしょう。

 だから反重力というものは存在しないだろう,と予測されます。

(重力が電気力の場合と違うのは,電気力ならそれを電荷で割っても加速度にはならないという点ですね。)

※追伸:これを書いているのは,ほぼ1年後の2007年6月29日ですが,この記事での私の最後の文章を中心として,私の「負の質量の存在と等価原理とは矛盾するし反重力というものは存在しないだろう。」というここでの論旨による主張は誤りであることが判明致しました。

 これは2007年6月26日のhirotaさんから受けた次のコメントによる指摘によって判明したもので,最初私はこのコメントを馬鹿にしていましたが,結局私の方が間違いであることが明白になりました。恥ずかしい話ですね。私の間違いと失礼についてお詫びします。

 以下,6月27日のhirotaさんのコメントです。

 なんか変なことを書いてますよ。

 始めの方の 「 地球の質量が負であったら地上付近の物体には反重力がかかるので,正の質量の物体が上昇するのであり,こうした反重力のもとでは負の質量の物体は落下する 」 は等価原理と矛盾してて間違ってますが,

 負質量物体では,力は,-負×負=負 つまり引力で,加速度は負/負=正 つまり上昇なので,「 地球の質量が負なら正負の質量も光も全部上昇する 」 に直してしまえば,負質量の存在と等価原理は矛盾しません。

 なお,負質量地球から正質量物体が上昇する場合は,地球が正質量物体に落下しますが,その加速度は微小ですから結果に影響しません。(質量の絶対値が等しい場合は無限の追いかけっこになるけど)

 そして6月29日に私の最終的な訂正コメントの一部です。

 m1=m>0,m2=-m<0 として,m(d21/dt2)=Gm2(22)/|12|3;-m(d22/dt2)=Gm2(12)/|12|3を辺々加えると,md2(12)/dt2=0 で相対位置ベクトル(12)の加速度はゼロになるということで,

 最初(12)の初速度がゼロであったなら距離は一定であるとして矛盾がないことがわかり,私の間違いであるということで納得しました。

 確かに無限の追いかけっこですね。

 「2つの物体に外力ならともかく内力が働いていて互いに回転しているわけでもなく遠心力もないのに相対距離が不変であるなどというのは有り得ないだろう。」という愚かな先入観にとらわれていました。

 反重力などという普通の常識とは別の存在を考えているのに余計な「物理的常識=先入観」を持って考えたのが誤りで,最初から数式に頼るべきでしたね。

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ポジトロニウムの安定性

 2007年の3月31日でもって,1987年にDOS全盛時代のパソコン通信として始まったniftyのフォーラムが全廃されると決まりました。

 物理フォーラムやサイエンスフォーラムは@nifty以外のところで存続させる企画もあるようですが,とりあえず過去ログで私が関わったもののうち,私が重要と考えるものをより整理した形で,このブログで残そうとしています。

 そういうわけで,このところそうした話題をとりあげています。

 今日は水素原子とほぼ同じ構造を持つポジトロニウム(positronium)(電子と,その反粒子=陽電子でつくった原子のような2体系)の安定性に関する話題です。

 陽子と電子の系=水素原子は安定なのに,なぜ陽電子と電子の系=ポジトロニウムは不安定ですぐに対消滅してしまうのでしょうか?
 
 換算質量が違うだけで,同じシュレーディンガー方程式にしたがうはずなのにどうして違いがあるのでしょうか?という「甘泉法師」さんからの質問があり,それに対する私の回答は次のとおりでした。
 

 一般に,水素原子は電子が陽子と衝突した場合に陽子に捕捉されて束縛状態になったものである,と考えられます。

 電子が原子核,特に陽子と衝突して散乱される問題であれば,それはクーロン電気力によるクーロン散乱とも呼ばれる弾性散乱であるところの,いわゆるラザフォード散乱がメインであり,

 もちろん,陽子と電子は粒子と反粒子の対であるわけではないので,散乱過程を示すファインマン・ダイアグラム(Feynman diagram)の中に対消滅するという図は存在しないので,その消滅の確率はゼロです。

 ところが陽電子と電子の場合,それらは粒子と反粒子の対なので接近衝突すると非弾性散乱であるところの,対消滅して2つの光子になるというファインマン・ダイアグラムがあり,そのダイアグラムの確率が非常に大きくてメインとなります。

 ところで
,このポジトロニウムでは電子の換算質量が電子自身の質量の約半分なので,ボーア半径が水素原子の場合の約2倍になるだけですから,基底状態の波動関数をψ(r)とすると,これは水素原子のそれと形は全く同じです。

 自由な電子と陽電子対が対消滅して崩壊する確率をWとするとき,ポジトロニウムの基底状態の波動関数をψ(r)とすると, P=W |ψ(0)|2のオーダーの確率 P で対消滅し,粒子の寿命はその逆数ですから非常に短いと思います。

  つまり,違いは"粒子-反粒子対"であることで素朴な量子力学のクーロン相互作用だけでは説明できない非弾性散乱振幅を伴うことにあります。

 こうしたことはフェルミオン(Fermion)のパウリ(Pauli)の排他原理などにもあることで,同種粒子でなければ成立しないような原理と同じく,粒子-反粒子のみに成立する性質があるということですね。

 具体的な対消滅のファインマン・グラフでいうと,

 電子-電子散乱での過去から未来への2つの軌道の間に仮想光子が交換されているものから,

 それを真横にひっくり返して,交換光子を2本にして,交換光子の真ん中をぶった切ると,"電子が過去に向かうことは陽電子が未来に向かうことになる"というディラック(Dirac)の空孔理論に基づく解釈が成立して,

 こうしたグラフが存在するということが理解されるわけです。

 粒子-反粒子の関係でないと,こうしたグラフは有り得ないので電子と陽子の水素原子の系は消滅することなく安定なのです。

 つまり,「水素原子が安定なのは,陽子と電子が接近しても消滅する道筋がないからである。

 ポジトロニウムが不安定なのは陽電子と電子が接近すると消滅する道筋があるからである。

 原子の安定性をいうのに電子の不確定性(狭いところに閉じ込めるとエネルギーが上がる)ことは十分条件でなく,さらにそのような高エネルギーを補償するような道筋(チャネル)が存在しないという条件が必要である。」と理解されました。

 すなわち,原子の安定性は電荷と質量をパラメターとするシュレーディンガー方程式だけでなく,粒子(陽子,電子,陽電子)の電荷,質量以外の性質を加味しないと説明できない。ということになります。

  電子と陽電子には粒子と反粒子の交換に対する対称性,つまり,電荷を持ったフェルミオンの"荷電共役変換対称性= CPT"のうちのCの対称性,があるということです。

 もちろん,クーロン(Coulomb)相互作用だけでなく,核力の弱い相互作用も考慮すれば,"ベータ崩壊の逆反応=陽子がニュートリノの力を借りて電子を捕獲して中性子となる"確率も,

小さいとはいえ,全く ゼロであるというわけではないので,陽子と電子の系=水素原子も100%安定というわけではないですが,ポジトロニウムの不安定性の比ではありません。

 まあ,このように粒子と反粒子が出会うと対消滅して,"その両者の質量和に光速の2乗を掛けたもの,プラス運動エネルギー"に相当するエネルギーを持った最低2つの光子が対生成します。

 なぜ,2つ以上の光子か?というと,光子1つではその質量がゼロなのでどのようにしても粒子と反粒子2体系と生成光子に関してエネルギー,かつ運動量が対消滅の前後で保存しないからです。

  もちろん,反陽子と陽電子の系=反水素原子は反粒子と反粒子の系なのでそれだけなら安定ですが,一般にこの世界では陽子や電子がいっぱい存在しているので,そうしたものはすぐに消滅するため,まず存在できません。

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2006年7月22日 (土)

黒体輻射(空洞輻射)と空洞の形状

今日は,空洞輻射の波数の分布が空洞の形状に依らないことを証明してみようと思います。

 

しかし,この説明だけでは私が何を目論んでいるかがわからないかも知れません。そこで,記事の動機を下により詳しく述べてみます。

 

通常,黒体輻射(黒体放射)の実験に使用する空洞の形は,別に立方体,直方体,または球など幾何学的に簡単な形状とは限りません。

 

しかし,この実験結果を説明する量子論では対象となる空洞の形を立方体や直方体と仮定して計算し,それで問題ないとしています。

  

それ故,計算の際は波が境界で接線成分がゼロという境界条件は非常に簡単化され,許容される波数の個数分布の計算は容易になります。

 

しかし,現実の実験では空洞の形は一般にそれらとは違うし,見かけ上はそうした単純な形の場合でも実際の壁は完全に滑らかというわけではなくフラクタル的に凹凸で満たされていたりします。

 

そうした凹凸壁の上では乱反射,乱回折があると予想されて境界条件は複雑であり,事はそれほど単純ではないのではないか?というむしろ常識的な?疑問が生じます。

  

そこで,空洞の形,壁がどうあろうと空洞が立方体と同じ容積Vを持ってトポロジー的に同じ形である限り,空間の半径がk=||とk+dkの間にある波の個数が(8πk2dk)(V/π3)であることを明確にすればこの種の疑問が払拭されるのでは?と考えた次第です。

 

さて,一般に自由電磁波の電場に着目するとそれは横波であり真空中のマクスウェル方程式(Maxwell equation)を満足します。

 

そして,まずは空洞を導体と考えてその形は一辺がLの立方体であると理想化しておきます。

 

その自由電磁波の電場の境界条件として境界での接線成分がゼロであるということが必要ですから,電場はsinやcos関数を用いてExE(t)cos(kxX)sin(kyX)sin(kzZ)etc.と表わされ,kx=mπ/L,ky=nπ/L,kz=pπ/L(m,n,p=0,1,2,.)となります。

 

つまり,波数ベクトルは(π/L)を格子定数とする格子点のみを許容値とするので,の個数分布は負でない整数m,n,pのみをとる8分球を仮想します。

 

横波の2つの自由度を考慮すると,波数ベクトルが連続的な値を取るとし,その半径がk=||とk+dkの間にある波の個数として(1/8)×{(4πk2dk)/(π/L)3}×2=(πk2dk)(V/π3)となります。

 

そして,この最終形では立方体であったという仮定はもはや消えていて容積Vが決まっていて有限でありさえすれば,波数ベクトルの個数分布には空洞の形状などはもはや関係ないという形になっています。

 

簡単のために2次元の空洞なるものを仮定し,立方体を正方形に変更するとkx=mπ/L,ky=nπ/L(m,n=0,1,2,.)であり,半径がkとk+dkの間にある波の個数は(1/4)×{(2πkdk)/(π/L)2}×2=(πkdk)(S/π2)となって体積Vの代わりに面積Sで表わした形になります。

 

そこで正方形ではなくて,一般の単連結な閉曲線で囲まれた任意の領域を空洞と考え,その面積をSとしても波数kの波の個数分布が,やはり(πkdk)(S/π2)となることを証明したいと思ったわけです。

まず,この閉曲線を(f(t),g(t))(0≦t≦1),(f(0),g(0))=(f(1),g(1)))で定義します。

 

f,gは微分可能であって,tによる微分係数をf'=df/dt,g'=dg/dtとし,これらはtの連続関数であるとします。

 

この閉曲線を一辺がLの正方形を反時計回りに1回転する閉曲線に変換する写像を汎関数(=関数の関数):F,Gによって(u,v)=(F(f,g),G(f,g))とします。

 

微小変換は線形変換であり,F,Gのヤコービ行列をJ=(∂(F,G)/∂(f,g))とすると,変換は t(du,dv)=Jt(df,dg)となります。

 

そして,微小面積要素を外微分形式を使って表わせば,

dS=df∧dg=|J|-1du∧dvとなります。

 

ここで,|J|はJの行列式:detJです。

 

電場の波数ベクトルの境界条件は,kxdx+kydg=0 ,

つまり,(kx,ky)t(df,dg)=0 です。

 

したがって,(kx,ky)J-1(du,dv)=0 であることから,ベクトル'を成分(kx',ky')≡(kx,ky)J-1で定義すれば,これは一辺Lの正方形の(u,v)空間に対応する波数ベクトル'の分布となります。

  

そこで,先の考察により'についてdkx'∧dky'=(π/L)2dm∧dnの分布形となるはずです。

  

dm,dnは個数空間の微分dm∧dnを1つの格子,つまり1と同一視できます。そして,dkx∧dk=|J|dkx'∧dk'=|J|(π/L)2dm∧dnです。

 

(kx',k')の空間は格子間隔が(π/L)であり,(u,v)空間の逆格子空間=フーリエ(Fourier)変換でいう座標空間と双対な運動量空間としていいわけです。

 

dkx∧dk=|J|(π/L)2dm∧dnは(kx,k)の空間が(f,g)空間の逆格子空間であって,その格子定数の平方が(π/L)2|J|=π2/(L2|J|-1)であると考えるべきことを示しています

 

ところで,L2=∫du∧dvであり,∫|J|-1du∧dv=∫df∧dg=Sですから,Lの値の任意性を考慮してdkx∧dky=(π2/S)dm∧dnと結論していいことになります。

 

すなわち2次元空洞の自由電磁波の波数ベクトルの半径がkとk+dkの間にある波の個数は(πkdk)(S/π2)となって面積Sだけに依存しており空洞の形状には依らないことが示されたと考えます。

 

このように,黒体輻射,あるいは空洞輻射は空洞の壁面の形状の多様性や面の乱雑さなどがあれば無限に多様でランダムな乱反射のモードあるいは分布を持つであろう,という予測は誤りであって,そのモードの個数分布は空洞の体積のみで決まります。

 

そしてモードが連続的でなく離散的であるのは"大きさ=体積"が有限であるためである,と云えると思います。

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2006年7月21日 (金)

他人(ひと)の不幸は蜜の味(社会的抹殺)

 このところの秋田殺人事件での畠山鈴香容疑者などへのマスコミ報道の過熱ぶりにはいささか辟易している。

 秋田の片田舎で起きた単なる事件の一つに過ぎないではないか。昔だったら離れた地域にいる人々はほんの新聞の片隅の三面記事としてちょっと読む程度ですぐ忘れるような記事であろうと思われる。

 本当に殺人の犯人であるとしても彼女はやがて服役したり,死刑になることで罪をつぐなうことになるのである。

 自供といってもウソかホントかわからないような状況で勝手に警察や検察の流すことを鵜呑みにして身勝手な母親だとか,男たらしだとか,想像で人格を決め付けて非難し,子供虐待の社会問題である,とか言って評論家なども想像で論評している。

 彼女は,すでに社会的には抹殺されているのと同じだ。たとえ殺人犯である、としても私は可哀想だと思う。

 社会的制裁・抹殺は特に有名人の性犯罪にはきびしい。

 つい先日の極楽トンボの山本とか,田代まさし,元早大の植草某などがいい例だ。有名人ではなくても痴漢の冤罪で人生を棒に振った男たちもいっぱいいるらしい。

 社会的に抹殺された彼らは今後どうして生きていったらいいのだろう。

 警察,検察,マスコミなどが正義面,聖人君子面をして,自分達が当事者,被害者でもないのに平気で彼らを非難しているが「下半身に人格はない。」のだ,おまえらも同じだよ。

 ホリエモンや村上世彰のときもそうだった。

 「他人(ひと)の不幸は蜜の味」なので,ニュースバリューがあるというわけだから,この時代では仕方ないのだろう。だけどエゲツないぞ。

 昔,戒律の一つである姦淫を犯した女を人々が石打ちの刑で殺そうとしていたとき,イエスも言ったではないか。

 「まず,罪なき者から石を投げるがよかろう。」と。。。。

 「罪なき者=神」であるから人々は冒涜というより大きい罪を犯すことを恐れてちりぢりに離れていったという。

 この聖書の故事を知らないのだろうか?

 まあ,加害者ばかり擁護しているようだが,加害者を非難できるのは被害者とその身内くらいのものだと私は思う。

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2006年7月20日 (木)

人口増加とロジスティック曲線

 今日は軽い話題を一つ述べましょう。

 全世界,または比較的出入りの少ない閉じた地域の現在の人口をN 人とし,Δt 年間に人口 N 人に比例して(kΔt)N人だけ人口が増加するとします。

 今の時刻(年)を t として,年間の人口増加率kが k =b-d (bは出生率,dは死亡率)で与えられる単純なモデルを想定するわけです。

 kは一定であると仮定すると,(t+Δt)年の人口:N1= N+ΔNはΔN /N=kΔtにより,N1=N (1+kΔt)となりますから,結局,時刻(t+nΔt)年での人口Nn人はNn=N(1+kΔt)nになると予測されます。

 k>0 であれば,正に人口はネズミ算的に増えてゆきますね。

 Δt が無限小:dtであるとすると,ΔN /N=kΔtはdN/dt=kN となります。

 この微分方程式を解けば,t=0 での人口をN(t=0)=N0人として時刻:tにおける人口はN=N(t)=N0exp(kt )で与えられるということになります。

 これを見ると,k>0 なら t → ∞ ではN → ∞ ですが, 逆にk<0 なら t → ∞ で N → 0  なのでやがて絶滅してしまいます。

 しかし,実際には Δt の間にはいろいろな災害や環境の変化などあって,人口増加率 k は一定ではなくかなりの変化を受けると考えられます。

 一般に人間をも含む生物個体の増加は個体総数Nが増えれば増えるほど妨げられる傾向がありますから,それは増加率がk=(一定)から k(1-αN)(α>0 )となるような効果で表わすことができます。

 このモデルをロジスティックモデル(logistic model)といいます。

 増加率:k(1-αN)(α>0 )においてαN>1なら人口(個体総数)Nは増加し,逆ならNは減少しますね。

 このモデルは,Nに対する微分方程式の形ではdN/dt=kN(1-αN)という非線型微分方程式になります。

 具体的にこれを解くと,dN/N(1-αN)=αdN/(αN)+αdN/(1-αN)}=kdtより,ln(αN)-ln(1-αN)=kt+CですからαN/(1-αN)=Aexp(kt),つまりαN=Aexp(kt)/{1+Aexp(kt)},またはN=Aα-1/{A+exp(-kt)}です。

 そしてαN0=A/(1+A)によりA=αN0/(1-αN0)ですから,N=N0/{αN0+(1-αN0)exp(-kt)},結局,N=N(t)=N0/[αN0{1-exp(- kt)}+exp(-kt)]が得られます。

 あるいは,N(t)=(1/α)/[1+{1/(αN0)-1}exp(-kt)]です。

 これの描く(N-t)曲線をロジスティック曲線(logistic-curve)と呼びます。

 これを見ると, t → ∞ の極限ではN → 1/αとなって,人口(個体総数)Nは,あ

る一定の極限値に到達します。それ以上は増加も減少もしません。

 ロジスティックモデルは実際に生態学(ecology)において個体の増加減少の履歴と一致する例が多々あり,人口にもこれが適用できると考えられます。

 これは,正に「増え過ぎた生物は抑制される。」という自然の摂理(神の摂理)を体現するモデルになっています。

 人類は天敵がいないことや医学の進歩,そして軍縮などによる戦争の減少?etc.によってこの摂理を破壊し,結果的に生態系を破壊しつつあります。

 やがては,この神の摂理の破壊の報いを受けるかも知れません。

 ところで,ロジスティック微分方程式のdt=Δt の刻みを調節して中心差分の差分方程式として離散化すると ,k の値によってはt が大きいところで不安定な人口増減の振動をするカオス現象を起こすことが知られています。

 この不安定性は数値解析の目的で「離散化=差分化」を行なったために生じたものですが,現実の現象のモデルとしては時間刻みが無限小の微分方程式よりも時間刻み有限の差分方程式の方が適切かも知れません。

 カオス(chaos)の例としては,ロジスティック模型:xn+1=axn(1-xn)は典型的なものであり,上式で時間刻みに相当するaの値によっては「リー・ヨーク(Li-Yorke)の定理」でのカオスになるべき条件を満たします。

※(注):ロジスティック差分方程式:N+ΔN=N+kNΔt(1-αN)=N(1+kΔt)(1-αN)において,xn=αN, xn+1=α(N+ΔN)と置いてパラメータをa=1+kΔtとして簡単化すれば,xn+1=axn(1-xn)に帰着します。※

参考文献;山口昌也 著「カオス入門」(朝倉書店),山口昌也 編著「数値解析と非線型現象」(日本評論社)

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2006年7月18日 (火)

今日の一言

 自分の国のみならず,世界中に今にも死にそうな不幸な人々がいっぱいいるのに,ひとりで悦にいってはしゃいでいる天上天下唯我独尊な,ある国の首相なるものは,まったく必要ない。。。

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数学遍歴について

 学生時代の専門科目は理論物理学の素粒子論という,いわば"物理学の王様"でした。

 これ自体は他には応用が効かない,つまり何の役にも立たない代わりに物理,数学を含め,あらゆる知見がこれに役に立つ,あるいはこれを理解するためにはほとんど全ての知見が必要である,

 という意味では,

 "素粒子論は数学の女王様である数論(整数論)によく似ている。"

と感じます。

 大学生の頃には数学を全てマスターした後でなければ理論物理学には着手できないなどという思いがあって,学生運動やそれに必要な社会科学系の勉強の合間には全く物理はやらず,数学ばかりやっていました。

 しかし,やがて数学を全てマスターすることなど無理である,不可能である,ということがわかってきたので,そのときどきに必要な数学をつまみ食いするようになりました。

 しかし,純粋数学へのあこがれは強く,物理学科で2科目だけ足りなくて大学を留年した1年間は,ほとんど数学科の専門講義に出席していました。

 そのころは連続体仮説が解決していたことを知らず,これに挑戦しようなどという不遜な考えもありましたが,

 まあ,一応,本業は物理屋だったので物理数学として必要な解析学の勉強が主となり,W.Rudinの「Principles of Mathematical Analisys」(後に日本名「現代解析学」として翻訳出版)から始めました。

 まず,これで集合,写像,実数の連続性(デデキントの切断)を学びました。

 函数解析に類するものは,W.Rudinには有限次元空間の解析しかなかったのですが,数学科の解析学の講義ではバナッハ空間etc.にも言及していました。

 それから,フーリエ(Fourier)解析,ルベーグ・スティルチェス(Lebesgue-Stieltjes)積分で解析は終わりでした。,測度論はW.Rudinの本では詳しくなかったので別の本で学びました。

 特に,コディントン・レヴィンソンなどの「常微分方程式論」を読んで微分方程式の存在定理にはまったことがありました。

 微分方程式の解の存在に関しては,特にリプシッツ条件を仮定せず,アスコリ・アルツェラの定理を用いたペアノの存在定理や直接,折れ線近似の極限が解になるいうコーシーの折れ線法に凝ったり,コワレフスカヤの優級数の方法によってべき級数解の存在定理を証明することなどに夢中になった時期もありました。

 もちろん,函数論や線形代数学,そして素朴な物理数学の意味で成分の変換構造だけを扱うベクトル解析やテンソル解析を履修したのもその頃ですね。

 その後,古典物理学を幾何学化してやろうと思って着手したけれど挫折し,後にアーノルドなどが力学系という数学の一分野で既にかなりの部分をやった後だということを知りました。

 一時期はアーベルやガロアの代数学のうちの代数方程式のベキ根による可解性にのめりこみました。

 アーベルの方は高木貞治の「代数学講義」の中にあるラグランジュの方法によるところが大きく,結構わかりやすいものでした。

 しかし,ガロアのほうはアーベルのように泥臭いアプローチではなく,簡単にいえば「方程式の係数のつくる体にベキ根を添加する,ことによって拡大していった体が,やがてその方程式の根をすべて含むようになるならば可解であるというものでした。

 そして体の拡大には群(ガロア群)が伴ない,上記の体の言葉で可解というのは,それらに伴なう『群の正規部分群の縮小列において商群がアーベル群となって最後に単位群になること=可解群であること』と同値である。」というものです。

 係数体を不変に保つ群が代数方程式の根に関する"置換群=対称群"と同型である,というものですね。

 そのうち,微分方程式のフックス群に興味が移り,メビウス変換での保型形式と線形常微分方程式の解とかの関係から,久賀道郎の「ガロアの夢」を読み返した頃もありました。

 これは,現在はペンディング中です。

 それに出会った当時は,ガウス(Gauss)やポアンカレ(Poincare')の天才ぶりに驚愕したものでした。

 こうした関係からゼータ函数に関するリーマン予想にたどりついても不思議はありません。まあ,数論の素数定理には驚いたものでした。

 ゼータ函数は物理学のくりこみとも関連しているらしいし,超伝導のボーズ・アインシュタイン凝縮にも関係があります。

 まあ,数論のほうは入門書を数冊読んだ程度ですが,これに関連して最近,公開鍵暗号についての理解は深まりましたね。

 もちろんフェルマー予想(=現在では予想ではなく定理ですが)にも興味はありますが,証明の経緯はわかっても,その全貌は私の力ではまだ理解できません。(ちまたには未だ怪しげな書物が出回ってるようですね。)

 量子論とはディラックの変換理論がほとんど全てのエッセンスである,と考えるようになり,超選択則と関わる素粒子の分類も,その抽象空間の大域的対称性からくるものであるとかの関連性から,リー群の線形表現は不可欠なのでそれを勉強したりしました。

 また,一般相対論の幾何学性との関連や,局所的対称性とゲージ理論との関係から,微分幾何学や多様体論,弦理論(ひも理論)との関係からホモロジー,コホモロジーの関係でトポロジーをやるとか留まることを知りません。

 これから挑戦しようと思っているのはリーマン予想は夢ですが,ウェーブレット解析や途中になっている確率微分方程式などですかねぇ。

 いや物理もやらなくちゃ寿命は待ってくれません。

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2006年7月17日 (月)

集合の濃度(可算,非可算)

 今日はカントール(Georg Cantor)が創設した集合論において,集合の元(要素)の個数=濃度(cardinal number)というものが数学にとってどんな意味を持つのかについて若干の考察をしてみたいと思います。

 有限集合の濃度というのはまさに元の個数のことですから実際に数えればそれはわかります。

 一方,集合が無限集合,すなわち元の個数が有限でない集合の場合には,その元の個数=濃度を決めるには,濃度が既知の集合の元との1対1対応や上への写像の存在などを調べるという方法を取ります。

 もしも,自然数の集合 N={1, 2, 3, 4, ...}と 集合Aの元との間に全単射の対応がある場合にはAは可算集合(数えられる集合)である,といわれ,その濃度は \aleph_0(アレフ・ゼロ)で表わされます。

 一方,実数の集合のように数えられない集合のことを非可算集合と言います。ただし\aleph(アレフ)という記号はヘブライ語の文字であり,ギリシャ語のα(アルファ=最初という意味)と同じ意味です。

 無限集合とは不思議なもので,例えば整数の集合Z={...-3, -2, -1, 0, 1, 2, 3, 4, ..}はN を含む集合なのに,その濃度はN と同じ\aleph_0なんですね。

 これは数えるときに 0, 1, -1, 2, -2, 3, -3, 4, -4, ..と数えていけば,Nの 1, 2, 3, 4, 5 ..と1対1の対応ができるからなんです。

 また,正の偶数の集合はZ に含まれる部分集合なのですが{ 2, 4, 6, 8, ..}は,もちろん{ 1, 2, 3, 4, ..}に対応つけられますから 濃度はN と同じで\aleph_0です。奇数の集合も同じですね。

 だから,\aleph_0は何倍しても\aleph_0だし,それどころか\aleph_0×\aleph_0もまた\aleph_0なんですね。これはたとえば有理数集合Qの濃度も\aleph_0であることを意味します。

 これはQの元を1/1, 1/2, 2/1, 1/3, 2/2, 3/1, 1/4 ,2/3, 3/2, 4/1, ..というように分母と分子を足した数が同じである順番に数えていってダブルカウントやトリプルカウントした数などを全て間引きすれば数えられる,という意味ですね。

 これの濃度が \aleph_0×\aleph_0と同じことは自明ですから,上述のことは\aleph_0×\aleph_0\aleph_0を意味しています。

 上のことから帰納すると,一般にn次元の座標で成分が整数だけから成るもの ( k1, k2, k3, ..kn );ki∈Zの全体も可算無限集合ですから\aleph_0 のn乗も \aleph_0であるということになります。

 ところが集合Aの濃度が\aleph_0のとき,そのベキ集合の濃度,つまり集合Aの空集合φを含む全ての部分集合の個数は\aleph_0より"大きい"のです。

 一般に有限集合Pの元の個数をnとするとその部分集合の個数は各部分集合がPのn個のそれぞれの元についてそれを含むか含まないかの2通りしかないので2n個であるということになります。

 このことからのアナロジーで,可算無限集合Aのベキ集合の濃度をも2の\aleph_0乗であるといいます。これとは別に\aleph_0より"大きい"濃度が存在するとしたときに\aleph_0の次に"大きい"濃度を\aleph1(アレフ1)と定義します。

 そして以下同様に,\aleph2,\aleph3,...etc.をも定義していくするわけです。

 そしてカントールは実際に2の\aleph_0乗が\aleph_0よりも"大きい"ことを証明しましたから,\aleph_0より"大きい"濃度は確かに存在します。

 2の\aleph_0乗が\aleph_0より"大きい"ことを証明したカントールの方法は対角線論法と言われます。これはゲーデル(Gödel)の不完全性定理の証明にも利用され方法ですが,私もこの手法を使った証明を追体験してやってみます。

 Aのベキ集合の濃度,つまり,べき集合の元の個数は2の\aleph_0乗ですが,これは1と2だけで作った小数 0.121121222112..の全ての個数と同じであることは明らかですね。

 仮に,こうした小数の総個数が\aleph_0であるとすると,これらを1から順番に並べることが可能です。

 そこでこうした小数から次のような小数を1つ作ります。小数第1位は1番目の小数の第1位が1だったら2に,2だったら1にします。小数第2位は2番目の小数の第2位が1だったら2に2だったら1にします。

 これを繰り返して"最後までいく"ことができるとするとそのときできた小数は並べてある全ての小数と異なりますから,これは1と2だけで作ったすべての小数が順番に並べられるという仮定と矛盾します。そこで2の\aleph_0\aleph_0より大きいことが証明された。ということなんですね。

 でも,なんだかいかがわしいですね。私は未だに受け入れられないという気分も少しあります。"最後までいく"というあたりですね。

 まあ,ともかく証明はできました。そして閉区間[ 0 ,1]の間の全ての小数は,2進法で0 と1の2つの数の小数だけで表わすことが可能ですから,結局上の証明で小数を構成していた1と2を 0 と1 に変えるだけで閉区間[ 0 ,1]に属する全ての実数の濃度も2の\aleph_0乗に等しいということができます。

 そして,関数 y=tan(πx/2 ),x=(2/π)arctan(y),(x ∈[ 0 ,1], y∈ (-∞, ∞)) でのxとyの対応関係によって,全ての実数の集合Rは閉区間[ 0 ,1] と全単射の対応をつけることが可能です。

 そこで,実数全体Rの濃度も2の\aleph_0乗であり,しかも先に\aleph_0のときに述べたように,Rで作ったn次元の座標もRと同じ濃度ですから,n次元ユークリッド空間Rの濃度も2の\aleph_0乗ですね。

 2の\aleph_0乗はデデキント(Dedekind)が切断という有理数の集合である,として定義した連続な実数=実数連続体の濃度ですから連続無限個,あるいは連続濃度と呼ぶこともあります。

 そして,\aleph_0の次の濃度の\aleph1についても2の\aleph1乗は\aleph1より"大きい"はずなのでこの論法を繰り返し適用していくことにより,濃度には上に限りがない。ということもできます。

 これらをどのように数学の諸分野に適用するかについては,いろいろと考えることができます。

 まず,ヒルベルト(Hilbert)が問題として呈示した仮説である「連続体仮設(連続体仮説)=\aleph_02の\aleph_0の間には濃度は存在しない。つまり2の\aleph_0乗こそが\aleph_0のすぐ次の濃度\aleph1である。」という命題については,コーエン(Cohen)とゲーデルによって「現在の公理系からは証明することが不可能である。」と否定的に解決されています。

 そこで,公理論的集合論=ZF集合論(Zermelo-Fraenkel)を構成する際に,これを公理として採用するかどうかで数学そのものが変わってしまうということがあります。

 幾何学の第5公準=平行線公理を採用するかどうかでユークリッド幾何学になるかそうでないか,というようなものである,という意味ですね。

 しかし,まあ,一般的な話としては「ルベーグ測度=長さ,面積・・・」を考える際には濃度が可算か非可算かで大きな差があります。

 例えば閉区間[ 0 , 1]の長さは1ですが有理数=有理点の個数は可算,つまり\aleph_0個なので長さはゼロです。したがって,連続無限個2の\aleph_0個の無理数=無理点のみの長さは差し引き1ですね。

 これの証明は各有理点の長さはどんな小さな正の数εよりも短いのでそれらを全部(つまり\aleph_0個=可算個)加えてもε+ε/2+ε/22+ε/23+・・・=2εよりも短いので合計でゼロである,ということでなされます。

 つまり,無限小を可算個集めても無限小のままですが,非可算個集めると有限な大きさになることもある,というわけですね。

 2次元の面積や3次元の体積でも同じような話ができます。

  その他には,コンピュータはどうしてもアナログでなくディジタルであるということですが,コンピュータの2進桁数をいくら増やしても,現実的にはチューリングマシンであること,

 つまり,連続的な実数の演算をしているように見えても,それは仮想であってやはり高々可算個の離散的な演算で近似しているだけで,そこには大きな違いがあるだろうということとか。。。

 また,集合論と同じく数学の無矛盾性と関わるゲーデルの完全性定理や不完全性定理に関するものもあります。

 これは数理論理学や,数学基礎論の話ですね。証明)の回数が可算個=\aleph_0個であるようなツリー構造についてしか記号論理学は論及できないとかいうのもあったと思います

 ,まあ,ゲーデルの証明が対角線論法によるものですからね。これらは証明論の話です。

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2006年7月16日 (日)

二酸化炭素の比熱比(物性)

  今日は,理想気体の断熱過程での気体法則であるポアソン(Poisson)の公式PVγ=一定,または TVγ-1=一定で使用される比熱比 γ= Cp/Cvの値について,考察します。

 統計力学によれば,比熱比は対象とする気体1分子を構成する原子の個数,つまり気体分子が単原子分子,2原子分子,3原子分子etcのいずれであるかによって決まります。

 ここで, Cv は定積比熱,Cpは定圧比熱です。

 (理想)気体に対する定積比熱,と定圧比熱の間にはマイヤー(Mayer)の法則というルールがあり,nモルの気体に対してはCp=Cv+nR (1モルなら Cp=Cv+R )が成り立ちます。

 ただし,Rは気体定数と呼ばれる定数で,R≒8.31J/(mol・K)です。

 そして,気体の定積比熱 Cvは絶対温度をT,内部エネルギーをUとすると Cv=dU/dTで与えられます。

 理想気体ではUは温度だけの関数なので,T=0 での零点エネルギーを無視すると,気体の内部エネルギーはU =CvT と書けます。

 古典統計力学によると,物体の常温での内部エネルギーUは,1粒子の運動する自由度1つごとに kBT/2 だけの値を割り当てられます。

 ここで kB はボルツマン(Boltzmann)定数と呼ばれる気体分子1個当たりの気体定数です。

 kBは気体1分子当たりの気体定数ですから,R=N0B,またはN0=R/kBとすると気体1モルというのはN0個の分子の集合体を意味することがわかります。

 N0はAvogadro数と呼ばれる物理定数で6.02×1023 なる値です。

 nモルの気体を構成する分子数はnN0個ですから,それの1自由度あたりの内部エネルギーはnN0BT/2=nRT/2 です。

 以上の事実はエネルギー等分配の法則といわれますす。

 単原子分子気体では分子1個の自由度は並進運動の自由度3だけなのでnモルの気体の内部エネルギーはU=3nRT/2 です。そこでCv=3nR/2, Cp=Cv+nR =5nR/2です。

 また,2原子分子気体は回転の自由度2 が加わるので,分子1個の自由度は並進運動(重心運動)の自由度3と合わせて5となります。そこでnモルの気体の内部エネルギーはU=5nRT/2となります。Cv=5nR/2, Cp=7nR/2です。

 3原子分子以上では重心の周りの回転の自由度が最大の3になるため,これを並進運動(重心運動)の自由度3と合わせると分子1個の自由度は6となります。

 それ故,nモルの内部エネルギーはU=3nRT で,Cv=3nR, Cp=4nRです。

 そこで,比熱比γ=Cp/Cvは単原子分子気体なら1.67で2原子分子気体なら 1.4,そして3原子分子以上なら特別な対称性がない限り1.33になるはずです。

 そこで本当にそうなっているのかどうか?を理科年表で確かめてみると,He  1.66, Ar  1.67, H2  1.40, N2 1.40, H2O 1.31, NH3 1.33 とありました。

 これを見ると,必ずしも近似的に理想気体と見なせる希薄気体ではないような実在気体でも,かなり良く適合値を示しているようです。

 ここで,ニフティ「物理フォーラム」でのある方からの質問を呈示してみます。

 "3原子分子であっても,二酸化炭素 CO2が典型例であるように,一直線に並ぶ3原子分子の場合にはどうなるのだろうか?

 もし厳密に一直線なら回転の自由度は2なので2原子分子と同じγ,つまり 1.4になるはずですが,理科年表によると二酸化炭素 CO2のγは1.30でしたから,これは普通の3原子分子に近い値です。"

 上記が質問の内容です。

 そこで,これに対する答えを見出すために,これまで考えてきた並進や回転の自由度だけではなく,振動の自由度も考慮するとどうなるかを考えてみます。

 重心の並進運動や回転の運動とは異なり,振動の自由度なら1方向の調和振動に対しては,位置エネルギーと運動エネルギーの2つの自由度があるので,1方向についての平均エネルギーは 1分子当たりkBTになります。

 たとえば静止した固体は3方向に熱振動しているので,常温では1モルにつき,比熱は気体定数をRとして固体の種類によらず3Rとなります。(デュロン・プティ(Dulog-Petit)の法則)

 つまり,1次元調和振動子のエネルギーは E=p2/(2m)
+(1/2)kx2であり,"Maxwell-Boltzmann分布=古典確率分布"によれば,振動子の座標が(x,p)である確率密度はGibbs因子exp{-E/(kT)}に比例します。

 そこで,エネルギー Eを表わす式の中の1つの変数の2乗を与える変数自由度について,それぞれ平均をとると kBT/2 となりますが, E=p2/(2m)+(1/2)kx2の右辺にはp2と x2 の2つの2乗項があるので振動のエネルギーを考えた場合には,平均エネルギーへの寄与は 1分子当たり一つの方向(1次元)について kBTとなります。

 これに対して,重心の自由な並進運動とか,回転運動では位置エネルギーの項はなくて運動エネルギーの項しかない,つまり p2の項しかないので,平均エネルギーへの寄与は1分子当たり1次元について kBT/2 となるのですね。

 とにかく,古典統計力学ではax2 exp {- ax2/(kT)} なる式をx で積分したものを,exp{-ax2/(kT)}をx で積分したもので割ると,必ずkBT/2 になるということを直接計算で確かめることができます。

 これは自由度が1つでもあればそうで,係数aの大きさには無関係です。

 ところで常温での固体では,格子を構成する原子のイオンの熱振動がメインになる(電子振動は無視される)のに対して,気体では、原子の重心運動と回転運動のみがメインとなり,熱振動の自由度や電子の運動の自由度が何故無視されるのかという問題があります。

 これは量子論ではエネルギーが量子化され,統計分布がPlanck定数hに関係した量子確率分布で与えられるためです。

 こうしたことの理由を簡単に言うなら,物質内部のエネルギーを E としその構成粒子の主要な振動数をνとすると,Eは量子論では大体においてhνの倍数で与えられ,量子統計分布では,先のGobbs因子exp{(-E/(kBT)}がexp{-nhν/(kBT)}という形で現われるからです。

 常温のTでは固体の電子の振動や気体での原子振動の振動数や電子の自由度に関わる周期運動の振動数νに対しては,一般にhν>>kBTが成立するので,exp{-nhν/(kBT)} ~ 0 となるためこれらは内部エネルギーにはほとんど寄与しないのです。

 ところが,問題の二酸化炭素:CO2について「甘泉法師さん」から得た情報によると,"二酸化炭素分子の振動データは,次の振動モードのそれぞれについて,全対称伸縮は実測=1333/cm,計算=1373/cm(12CO2),逆対称伸縮は実測=2349/cm,計算=2420/cm(12CO2),変角振動は 実測=667/cm,計算=669/cm(12CO2)となっているそうです。

 一番エネルギーの小さい変角振動について,そのエネルギーを温度に換算すると赤外線温度 1.4387752・667 = 953Kで,常温(300K)の約3倍"なので,振動を無視できないそうです。

   実際,変角の振動モードに対して,例えば摂氏(Celsius)16度:T=289Kで x = E/(kBT)=3.32を用いて量子論でのモル比熱を求める式(固体のEinsyeinモデルと同じ式)であるCvib=R x2 exp ( x2 )/[exp ( x2 )-1]に代入すると,Cvib=0.43Rとなります。

 変角振動は横波なので縦振動を除き自由度が2 であるため,結局Cvib=0.43R ×2=0.86Rであり,比熱比はγ=1+ R/ (5/2R+Cvib)=1.30となって,めでたく理科年表の値と一致します。

 ただし,こうして正しい値が得られたのは,振動を除く自由度としては原子が1直線状であることを考慮して2原子分子と同様,定積モル比熱がCv=5/2Rの場合に対応する自由度を想定して計算した結果ですから,やはりCO2では回転の自由度は2である,と考えるのが正解のようです。

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2006年7月15日 (土)

一筆書き(トポロジー入門)

 今日は,また,頭の体操です。

 昔,ケーニヒベルクの橋(Königsberg bridge=seven bridge)という数学の問題がありました。

 「大きな河が流れていて,その中に中州のような島が一つあり,そこから少し下流で2本の河に枝分かれして,その間は陸地になっている。

 その島には両岸から2つずつと,枝分かれした2本の河の間の陸地から1つの合計5つの橋がかかっており,分かれた2本の河にもそれぞれ陸地と岸との間に1つずつ橋があって,合計7つの橋がかかっている。

 この7つの橋をちょうど一回ずつわたる道筋があるのかどうだろうか?」という問題でした。(下図)

           

 これはスイスのオイラー(Euler)によってはじめて解かれた問題で,これがトポロジー(位相幾何学)という幾何学の始まりであるとされています。

 まあ,「平たく言えばある図形について一筆書きができるかどうか?」という問題です。

 一般に連結した図形,つまりどこかで必ず線でつながっていてところどころ交差した頂点になっているような図形についてのこうした問題はオイラーによって既に結論が出されています。

 こうした図形のどの頂点にも必ず,それにつながる線が何本かあるわけですが,対象としている図形が一筆書きできるものなら,着目した頂点が出発点でも終点でもない場合,それに"つながっている線=連結線"の数は必ず偶数になります。

 こうした連結線が偶数の頂点を偶頂点と呼びます。

 なぜなら,一筆書きの途中の頂点では必ず,入ってくる線と出ていく線があって,それぞれ1回ずつしか通れない線ですから,それらは同じ本数だけなければならないため,その頂点につながる連結線の合計本数は偶数になるしかないわけです。

 しかし,出発点と終点では,それらがもしも同じ頂点でないなら,必ず入ってくる線か出て行く線かのどちらかが他方より1本多いわけですから,その頂点につながっている連結線の合計本数は奇数になります。

 これは連結線が奇数の頂点="奇頂点"です。

 そこで,出発点とか終点であるような頂点(奇頂点)は2つあるか? またはそれらが一致する場合,つまり1つだけあるか?のどちらかです。

 もしも,1つだけしかない場合は,その頂点でも入ってくる線と出て行く線の数は同数ですから,つながっている連結線の本数は偶数となり,このときは連結線の本数が奇数の頂点の数は まったくないことになります。

 というわけで,一筆書きができるかどうかは,"図に「連結線の本数が奇数である頂点=奇頂点」の個数がゼロであるか,2であるかのいずれかである。"ということになります。

 今得たのは,この条件が一筆書きができるための必要条件であることの証明ですが,これが十分条件であることもほぼ自明です。

 これでケーニヒスベルクの橋の場合は,奇頂点が4つ,偶頂点がゼロなので一筆書きできないということがわかりました。

 これはオイラーがはじめて証明したことです。(下右図はケーニヒスベルクの橋を模式図にしたものです。)

                         

 これから,オイラー数の公式などに始まるトポロジーという幾何学が生まれ,フランスのポアンカレ(Poincare')などによって発展させられてゆきました。

 解決したとかいうニュースもあったと思うのですが,そうなのかどうかはっきりしないポアンカレ予想(Poincare' conjecture)という問題などが有名なトポロジーの問題として残っています。

 ポアンカレ予想とは「単連結な3次元閉多様体は3次元球面に同相である。」というものです。

 多様体というのは通常のわれわれのユークリッド世界の点,曲線,曲面,立体とかいうものを一般次元でかつ非ユークリッドなものに拡張したものの総称です。もちろん,われわれの目に見える形あるものも多様体の一種です。

 同相あるいは同位相というのは,一方から他方へとある連続写像でお互いに完全に1対1で重なって移すことが可能である,という意味で,合同という概念とは異なり,形や大きさにはこだわらないという特殊な幾何学的概念です。

 単連結なとは,言ってみれば穴が開いていないという意味ですね。また閉多様体であるとはいわゆる閉曲面のように閉じているという意味です。

 われわれの世界の球面は3次元空間の中に埋め込まれた2次元球面であり,3次元球面というのは4次元以上の「空間=多様体」の中に抽象概念として仮想したものです。

 われわれの単連結な2次元閉曲面が普通の2次元球面と同相なのは一見して明らかなことなので,3次元だと何故むずかしいのかは数学の専門家ではないのでよくわかりません。

参考文献:瀬山士郎 著「トポロジー(柔らかい幾何学)」(日本評論社)

PS:「ポアンカレ予想」はロシアの数学者グレゴリー・ペレルマン(Grigory.Y.Perelman)氏によって2003年に提出されていた証明論文が2006年7月に査読を通過した,ということで解決されました。

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2006年7月14日 (金)

花見の思い出

 この時期に花見の話題でもないだろうとは思いますが,私の頭の中は年中,盆と正月と花見が同居したような状態なので,つい思い出した会社員新人から中堅時代である1970年代後半から1980年代ごろまでの花見の思い出を書いてみたいと思います。

 新人1年目のときは会社に入ったばかりで,花見のときは研修中でまだ配属されていなかったし,そうした余裕もなかったのですが,2年目にはさっそく幹事にされて場所取りなど色々やらされました。

 特に,今から思えば冗談だったのですが,先輩たちに「社長から酒を一本もらってこい。」と言われたのを真に受けてしまった私は,会社の3階の総務部の先にあった社長室に入ろうとして総務部社員に「コラコラ」と引き止められたのに,もみ合いから無理矢理部屋に押し入りました。

 そして,天下りの社長に向かって「花見をするので酒を一本ください。」と言ったら,社長が「酒を飲めないものに酒をくれっていっても。。」とか言ったので,「お中元とかお歳暮とかあるでしょうに。。」と言って,結局無理に新しい日本酒の五合瓶をもらって意気揚々と戻っていったことがありました。

 これは,後にも先にもなかったことらしく,豪傑話のようなエピソードの1つとして語り継がれたようです。

 まあ,社長といっても当時はせいぜい社員150人程度の新興の会社でしたから大して恐れる必要はなかったという事情もあったのですが。。。

 そして,当時の私は,新人にもかかわらず,技術屋系の男子社員と庶務の女子社員の集まっている4階フロアの一角の自分の机に,今ならセクハラものの「山口百恵の水着写真集」などが,「ロートレアモン詩集」と並んで,堂々と本棚にささっていました。

 また,新人1年目にもかかわらず,新宿の「オレンジハウス」というお店での先輩のMさんの送別会で,当時はやっていたピンクレディの「UFO」をでたらめな振付けで,床を転げまわって唄いながら踊りまわって,みんなにあきれられたことなどもありました。

 そういったわけで,私があまり酒は強くないくせに,ほぼ素面の状態でも平気でハメをはずすのを先輩連中はよく知っていました。

 そこで,毎年千鳥ヶ淵でやったお花見では,初めの頃にでもちょっとトイレで席をはずして帰ってくると,もう全員手拍子で"チャンチャンチャン"と伴奏が始まっていました。

 そうすると,私は性分で,もうノラざるを得なくなって,リクエストに応えて「UFO」をフルで3番まで唄い踊りまくったものでした。

 それ以外にも,いろいろと「焼酎の歌」や春歌である「お万さんの歌」や「金太の大冒険」,「吉田松陰」,「ヤッターマンの子供」など,まだ,カラオケもない時代でもありましたし,知っている花見用の歌を全部唄いまくったり,おヤマのまねで日本舞踊をまねたりして余興で場を盛り上げました。

 そこで,既に女子だけは配属されていた新人社員達は,前日までは私のことを「真面目で誠実そうな人」という目で見ていたとしても,花見の翌日からは「この変態野郎」という目つきに変わるのを毎年のように感じていました。

 しかし,私のほうは翌日には,けろっとして知らないふりをして,むしろくそ真面目に仕事をしていましたね。

 酒に関しては,酒の力を借りて,というのは嫌いだったので,「素面でできないことを酒の勢いでやるな。」というのがモットーのようになってしまいました。

 しかし,素面でやるとさすがに変態と思われるので,今では少しでも酒を飲んでからやるようになりました。

 カラオケはもちろんやりますが,それだけでは面白くないので詩吟や浪曲,落語や歌舞伎の一節などでお茶をにごしたりしています。

 実は,46歳(私が15歳のとき)で死んだ今でも尊敬している私の親父が酒もタバコもやらない(養命酒しか飲まない)人間なのに,会社といっても公務員でしたが,宴会では腹に顔を書いて目を剥いて腹踊りなどをしている写真を子供のころよく見せられたりもしたので,その影響があるのか,または兄姉の中で私だけがそういう血を引いてしまったのかもしれません。

 私の残り3人の兄姉は酒もタバコもやらず,しかも文科系人間で,いたってまともな人生を送っているのに,私だけが悪い血を全部受け継いでしまったかな,という気持ちもあります。

 まあ,自分がそうした変態なのは自己責任だから仕方ないし,極楽トンボなのも悪くはないですね。

 まあ,自己を客観的に見ると,未だに見掛けと行動のギャップを売り物にしている,イヤらしい自分が見え隠れしているようでもありますね。

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2006年7月12日 (水)

オゾンホール

 "フロンガスなどのオゾンを破壊する物質は南極で排出されているわけではないのに,なぜ極地のオゾンを破壊し特に南極にオゾンホールができるのだろうか?"という疑問がありましたが,それに対しての若干の考察をしてみたいと思います。

 もちろん,その原因についてのこうした考察を自分独自で構築したわけではなくて,例によっていくつかの定説なり知見なり,を見聞きして自分なりにまとめたものですが。。。

 オゾンO3は酸素O2よりエネルギー的に準位が高い物質なのですが,安定な酸素O2に光(紫外線領域の電磁波)hνが当たると,そのエネルギーを吸収して,1つの酸素分子が2つの発生期の酸素原子Oに分解され,それが酸素O2と結合するためにに生じます。

 したがって,オゾンは酸素状態より,エネルギーが高く不安定なのですから,それ自身,自然に酸素に変化してしまう,つまり破壊されるのですが,太陽から紫外線がそそがれている限りは再びオゾンが作られて結局オゾンの方が卓越した形で平衡状態になり,オゾン層ができているわけです。

 自然に酸素になるとは書きましたが,実際にはオゾンが酸素原子と酸素分子に分解されるにも光(紫外線)を吸収することが必要です。

 オゾンはエネルギー的には酸素より不安定なのですが,それでも"酸素原子+酸素分子"の状態よりは安定なので,オゾンを分解するには,"光=電磁波"のエネルギー hνが必要なのです。

 まとめると,O+O→O2やO+O2→O3は触媒は必要でもエネルギーは必要でなく,むしろ自然に反応が進んで発熱するのですが,O2→O+O,O3→O+O2には紫外線エネルギー hνが必要で,このため紫外線はこうした反応によって吸収されて地球にそそぐ量は減るわけです。

 つまり,オゾン層で多量の紫外線が吸収され,その結果として人体に有害で特に"皮膚ガンの原因となる放射線=紫外線"からシールドされているのですね。
 
 しかし,上層大気中にフッ素や塩素などフロンガスが多く蓄積されると,それらがオゾンからの酸素原子と結合しては酸素を作るということを繰り返すので,オゾン層内部で先述の"平衡状態=バランス"が崩れて,オゾンが減少する反応,つまりオゾンが酸素になる反応の方が超過して,オゾン層が破壊されてゆきます。

 そして,"なぜ極地においてその破壊が著しいか?"の回答は,

 "極地では極夜といって冬には昼がなく夜だけになってしまう現象があり,夏では昼の時間が長いですからオゾンホールはやや小さくなるようですが,太陽高度が低く日射量が少ないので,太陽による"紫外線などの電磁波"の量が周りよりもかなり少ないため,酸素からオゾンがつくられる反応が少なくてバランスが崩れるからではないか?"

 と思われます。

 南極では"極夜渦"という非常に低温の領域ができていて,まわりに大きな大陸などないために,よそから気流が流れ込みにくい状態となり,オゾン層の破壊がよそからの気流によって解消されにくい状況にあります。

 それに対して,同じ極地でも北極でも,もちろん極夜はあるのですが,南極とは異なり,それ自身は大陸ではないのに,近くを複雑な地形のユーラシア大陸が取り囲んでいます。

 そのため,大気に温度差が生じやすく,他の部分から"気流=風"が流出入する関係で,そこだけに孤立した渦ができる可能性が少ない,つまり周りからオゾンが流れ込むため,南極のようにはオゾンホールとして孤立しにくい状況にあるのでしょう。

 話は変わりますが,地上付近では,一般に人体に有害なオゾンが少ないのは,逆に上空のオゾン層の影響で紫外線が少ないからだと思います。

 それでも真夏など紫外線が比較的強いときには地上付近でもオゾン濃度が増えていわゆる"光化学スモッグ"が発生しますね。

 まあ,平たく言えば,紫外線量とオゾン量は,一方が多ければ他方も多く,一方が少なければ他方も少ない,という関係でバランスしているようです。 

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2006年7月11日 (火)

血も涙もない裁判官

 地位も名誉もあって,何不自由なく暮らしているバカヤローが,貧しくてどうしようもなくて,うわ言で「殺してくれ」とつぶやいた母親を殺した人間を,どうしてマジで裁けるのかよぉ。そんな資格がてめえにあるのか。。。

 「衣食足りて礼節を知る」なんだよ,そりゃあ裁判に感情は禁物なのは承知だけど,てめえは神かぁ,かぐや姫か,羽衣の天女かよ。。。バカヤロー

 話は変わるけど英雄ジダンも人間だったねぇ。。。。

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2006年7月10日 (月)

フィボナッチ数列を解く

1,1,2,3,5,8,13,21,34.55,...,と続いていく数列をフィボナッチ(Fibonacci)数列といいます。

 
これは前の2つの数を加えたものが次の数になるという数列

であり,漸化式:an+2=an+1+an(n≧1,a11,a21)で定義

されます。

  
図形的には,環状列石(StoneーHenge;ストーンヘンジ)や生物

巻貝(アンモナイトetc.)などに見られるファイ螺旋,美術に

おいて有名な黄金分割の構成を示すものでもあります。

 
この数列のnによる一般項の表現を,高校生のときのような

方法で解いても面白味がないので,関数方程式の行列表現として

解いてみます。

  まあ結局は同じことで,内容は陳腐な試みですが。。

  
先に述べたようにフィボナッチ数列を定める漸化式は

n+2=an+1+an(n≧1,a11,a21)で与えられますが,

これは行列形式では次のように書けます。

  
すなわち,nt[an,an+1],P≡[1,2];1t[0,1],

2t[1,1]と置けば,フィボナッチ数列の漸化式はn+1=Pn

と書けます。

 

それ故,n=Pn-11となります。

 

ただし,上添字tは転置行列(transport matrix)を意味します。

 

例えばt[0,1]は行(横)ベクトル(1×2行列){0,1]を転置した

列(縦)ベクトル(2×1行列)を意味します。

ここで,固有値問題P=λを解きます。

 

これの解の固有値は固有値方程式:det(λE-P)=0 を解けば

得られますが,この方程式は謂わゆる数列の特性方程式:

λ2-λ-1=0 です。

 

この2次方程式の2つの根はλ±≡(1±√5)/2ですが,このλ±

が固有値問題P=λの固有値λの2つの値を与えます。

一方,固有値λ=λ±に属する固有ベクトルを±とすると定数倍を

別にして±t[1,λ±]と書けます。

 

これらにより,P±=λ±±(複号同順)が成立します。

そこで,2×2行列BをB≡[,]で定義すると,

PB=[λ+]です。

 

したがって,Λを固有値λ±を対角成分とする2×2対角行列

とすると,PB=BΛが成立します。

 

これから,Λ=B-1PB,P=BΛB-1であり,それ故,

Λn=B-1n,Pn=BΛn-1が成立します。

n=Pn-11に戻り,これの左からB-1を掛けると

-1n(B-1n-1)B-11=Λn-1-11を得ます。

 

1 t[1,1], B-11 t[1-λ,-1+λ]/√5

t,-λ]/√5ですから,B-1ntn,-λn]/√5 です。

以上から,nt[an,an+1]=Btn,-λn]/√5より,最終的に

n(λn-λn)/√5 が得られます。

(ネタがないからといって,16年前に予備校でやった計算を蒸し返して

いるなんて,我ながら全然進歩がないですね。) 

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2006年7月 8日 (土)

2台のロケットのパラドックス

 特殊相対性理論の話題を1つ提供したいと思います。(@nifty物理フォーラム過去ログ→ http://sci.la.coocan.jp/fphys/log/sotai/9.html )

 "2台のそれぞれ長さLのロケットA,Bが,最初間隔Sだけはなれていて,同時に加速を始めて同じように加速を続けた場合,そのロケットの長さと間隔を,静止観測者と,ロケット搭乗の観測者が見るとどのように見えるでしょうか?"

 という問題です。

 これに関して,松田卓也氏と木下篤哉氏の「相対論の正しい間違い方」でのほぼ同じ問題:車両と連結器の話があります。

 そして,この著書での回答に対して,原田稔氏が反論しています。

(原田稔 「反論:相対論の正しい間違え方」に対する回答への反論」(雑誌:パリティ;2001年4月号)参照)

 私見ですが,これは私には"ピントはずれな"反論にみえます。

 すなわち,原田氏の言辞は別に間違っているというほどのことはなく,ある意味で正しいのですが,

 松田氏と木下氏もそのような単純な間違いをするはずがなく,彼らが主張していないことに原田氏が反論しているので噛み合わず,結果として無関係な主張となっているようにみえるのです。

 ローレンツ収縮の問題ですが,もちろん静止慣性系から運動慣性系をみれば2台のロケットのみならず,その間隔も収縮するのは当たり前のことですね。

 問題は静止していたものが加速していくという設定です,もちろん,「加速系だから特殊相対論では扱えない。」というような馬鹿なことを主張するつもりは全然ありません。
 
 静止系の観測者からみれば,先頭のロケットAの頭と2
番目のロケットBのお尻は観測者の同時刻であれば,加速が終わった段階では同じ速度になっているはずですから、ロケット系はいわゆるローレンツ収縮しているはずです。

 しかし,時空図を書いてみれば明白なことなのですが,それぞれのロケットはたとえば加速度 ∞ で瞬時に速度vになったとしても,その長さとか間隔とかはもとのLやSと変わるものなのか?という問題があります。

 実は時空図を書いてみると,加速の前後でロケットの先端点も後端点も同じ加速度運動の世界線を描くので,ロケットの長さも間隔も静止系から見て加速の前後で変わらないと見るのが正しい,ということがわかります。

 (※↓琉球大のいろものさん(前野さん)の図を頂きました。

 ロケットの先端と後端が速度ゼロから同じように加速されて同じ軌道(世界線)を描いて一定速度になるなら長さLは変わらりません。 )

 

 
 一方,ロケット系の観測者にとっては,静止観測者の同時刻は同時刻ではありません。

 ロケット系の同時刻は静止系の時刻では前の方が,後ろより進んでいるので,加速の途中ならば,加速によって前のロケットの速さのほうが,後ろのそれより大きくなっているはずです。

 

 

 これに対して,通常の特殊相対論のケースである,観測者に対してロケットが等速直線運動している,あるいは静止したロケットに対して,観測者のほうが等速直線運動をしている場合は,観測者にとってはロケットの長さもその間隔も共にローレンツ収縮しています。

   つまり,静止観測者から見て「ロケットの長さも間隔も加速度運動の前後で変わらない。」のにも関わらず,特殊相対論では「それらはローレンツ収縮していなければならない。」のです。

 ということは,ローレンツ収縮の結果として,静止観測者の見る運動中の長さはLやSのまま変わらないのですから,加速を終わったロケット自身の慣性系では静止時のロケットは元の長さLや間隔Sではなくて収縮の逆数であるγ倍である,γLやγSに伸びていなければならない,ということになります

 ここで,もちろんγ=1/{√1-(v/c)2}=1/√(1-β2)です。

 したがって,もし数台のロケットとか車両を連結して加速しようとすると,静止系から見たローレンツ収縮に対応するために伸びる必要があるので,連結器のところも伸びなければならないことになります。

 その効果として,ある加速度以上では,ローレンツ収縮による収縮に反する力がかかる結果として耐えることができずにバラバラに破壊されることになります。連結を分子間力とみれば分子がバラバラになると見てもいいわけです。

 「ローレンツ収縮というのは,単に座標系間の運動学的なみかけの問題であって力学は関係ないから,実際に物体に力がかかって収縮するわけではない,つまり収縮して見えるだけであって,物理的に力がかかって収縮するわけではない。」とお考えの方が大勢おられるはずです。

 (かつては私もそうだったのでこの話題が@niftyで出たときに「冗談だろう」と思った口です。)

 だから,こうした話はトンデモではないか?と考えられるかもしれませんが,私は今は正しい捉え方である,と思っています。

 つまり,現実の運動では静止状態から運動状態に至るときに,収縮に抗する力が働くわけです。

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2006年7月 6日 (木)

音(弾性波)の伝播

 先日の記事「電気の伝わる速さ(分布定数回路)」では,一般に運動速度の遅い電流に対し,「電気の伝わる速さ」は"電流=電子流"などよりもはるかに速く,電子などの行列した塊についてトコロテン式であり,実は"光=電磁波"という波動の伝わる速さである,と述べました。

 実は,こうしたことは金属などの棒の一方の端をたたいたり押したりする場合の作用の伝達についても同じです。

 こうした作用が原因でたたいた信号が反対側の端まで届いたり,押された影響で反対側の端が動きはじめるのも,やはりトコロテン式です。

 これも,"瞬時=速度 ∞で"伝わるように思えますが,その伝わる速さは実は"弾性波=音波"の伝わる速さ,つまり音速に等しいわけです。

 "音=弾性波"の伝わる速さvは,媒質の弾性率,つまりバネ定数やヤング率などで代表される係数をk,媒質の密度をρとすると,√k/ρに比例します。( v ∝ √k/ρ)

 それ故,ρ= 0 であるか ,k = ∞ でない限り,棒の端を押しても,それが瞬時,または速度v=∞で他方の端に届くことはありません。

 媒質が必要でない光波とは異なり,音波は媒質が振動することによって伝わるわけです。しかも媒質が軽くて硬いほど音速は大きいので,光とは逆に音は,空気中などよりも硬い物質中でより速く伝わります。

 k= ∞  というのは真に硬い物体である剛体を意味します。

 この世に理想的な物体である剛体というものがあれば,"音波=弾性波"の速さは光速を超えてしまいますが,実在する物体はタキオンではありませんから,相対性理論に基づいた"実質的に光速を超える速さの信号は有り得ない。"という原則によれば,音速が光速を超えてしまう剛体なるものは現実の世界には存在しない,ことになります。

 つまり,物の硬さ(kの大きさ)や密度ρにも,"(弾性波の速さ=音速)≦(光速)でなければならない。"という限界があるということですね。

 横波と縦波の違いはありますが,金属などの一方の端から他方の端まで伝わる信号は電気的信号であれ,弾性的信号であれ,実は波動によって媒介されて伝わるものである,ということができます。 

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2006年7月 5日 (水)

可逆と不可逆のはざ間(エントロピー増大則)

 「覆水盆に還らず。」というように,この世の中では"逆に戻ることができない現象=不可逆過程"が数多く存在します。

 熱物理学では,"何も仕事をすることなく,ひとりでに冷たい物体から熱い物体へと熱が流れることはない。"という表現で「熱力学第二法則」という経験則が原理とされています。実際,それを破る事実は見つかっていません。

 これは数式的には,"孤立系ではエントロピーは減少することはない。増大する可能性しかない。"という形で定式化されています。

 実際,冷蔵庫やエアコンなどでは,モーターによる電気的仕事をすることによって低熱源から高熱源へと熱を移動させているわけで,冷えているものをさらに冷やすには仕事(熱以外の力学的エネルギー)が不可欠なのです。

 しかし,例えば,コップから床に水をこぼした映像を逆回しして映写すれば,こぼれた水はコップの中に戻っていくのが見られます。こぼした水の1粒,1粒をつまんで戻せば逆行可能なのではないか?とも思えます。

 まあ,人事をつくせば可能かもしれませんが,もう一つの例である,水の入った容器に少しだけ赤インクをこぼして放っておいたら拡がっていって,水はうすい赤色に変わった,とかいう現象を映像のように逆に戻すのは大変ですね。

 そもそも,元の現象はひとりでに起こったものです。仮にそれを逆行させることが可能だとしても,その逆行はひとりでに起こるものではありません。

 こうした現象過程のことを不可逆過程と呼ぶわけです。

 そしてこうした事実が,一般に向きに関して対称な空間と,非対称で決まった向きにしか進まない時間とを区別していると思います。いわゆる「時間の矢」というものが存在する原因とも考えられるわけです。

 しかし,通常の力学的現象をつかさどる古典的なニュートン(Newton),あるいはアインシュタイン(Einstein)の運動方程式は,時間反転に対して全く対称な形をしています。

 また.量子論の方程式も,波動方程式の複素共役を取るなど工夫することで,時間反転対称と考えられます。

 したがって,古典論,量子論のいずれにしても,時間 t を-t に変えても本質的に方程式の形は変わらないわけですから,普通の軌道上である時刻に位置は同じで速度の向きだけを逆転した初期条件を与えてやると,その時刻,その点から後は,逆回しのように,元来た道筋を戻っていくわけです。

 ところが,もしも摩擦などの散逸があれば力学的運動方程式の力を与える項に変数として巨視的な速度が含まれるため,方程式が時間反転に対し非対称になることがあります。

 しかし,摩擦などによる散逸の構造も,微視的レベルで分子論的に考察すれば,時間反転対称になります。

 そして,全ての物質はこうした時間反転対称な挙動しかしない分子,の巨大な集まりからできている,ということを考慮するなら,"全ての事象は可逆である=逆行可能である。"ということを否定できません。

 では,どこから不可逆という時間の向きが生じたのでしょうか?

 19世紀にボルツマン(Boltzmann)は,次のようにして微視的な可逆力学から巨視的不可逆性が生じることを証明しました。

 簡単のため,特定の気体などが容器に込められているような状況を考え,ある時刻 t に位置 の付近の単位体積当たりに速度が +Δの間にある気体分子数を f (, とします。 

 衝突によって速度 +ΔのΔ から毎秒出て行く分子数を A , このΔ の中に入ってくる分子数を B とすると,Δ の中で1秒当たりの分子数の増分は,B-A= (∂f/∂t )Δ です。

 ただし,(∂f/∂t )Δ は衝突による変化のみを問題にしているとします。

 つまり,∂f/∂t は分子の軌跡( , )を通じての時間微分,つまりラグランジュ微分であって,衝突以外の移流による効果は既にこれに含まれており,分子の正味の流出入は衝突の効果しかないわけです。

 2つの分子を考察し,衝突前の速度をそれぞれ , 1衝突後の速度を ', 1' とします。

  衝突断面積をσとし,運動量とエネルギーの保存を考慮します。

 さらに,"時折繰り返される衝突は完全無秩序である"という仮定=「分子数無秩序の仮定」を導入し,一方の分子の速度領域Δを固定して他方の分子の領域Δ1で積分するという式で(∂f/∂t )Δを表わすと,(∂f/∂t )Δ =-∫σ ( f ・ f1-f' ・ f1')d1Δとなります。

 ただし,f = f ( , ) , f1= f ( 1, 1), f' = f (', ' ),  f1' = f ( r1',1')と略記しました。

 ここで,BoltzmannのH関数:H≡∫( f log f ) d を導入します。このHを t で微分すると,dH/dt =∫(∂f/∂t ) ( log f +1)d ですから,先の式を代入して,dH/dt =-∫σ ( f ・ f1-f'・ 1' ) ( log f +1)d1 となります。

 この表式で1 を入れ替えても値は変わらないし,さらにその2つの式で v' ,11'を同時に入れ替えても値は変わらないので,同じ値を表わす4つの式が得られます。

 それら,4つの表式を全て加えて4で割ると,dH/dt=(1/4)∫σ ( f ・ f1-f'・ 1' ) log [f '・f1'/ (f ・f1)] d1 となりますが,容易に証明できるように,これは決して正にはならない量です。

 つまり,どんな時刻 t であろうと dH/dt ≦ 0 であり,Hは時間と共に減ることはあっても増えることはありません。

 これを「BoltzmannのH定理」と言います。

 ところで,別の統計力学的考察から, f を∫f d = n ( n は系の単位体積当たりの分子数)となるように規格化したとき,系の単位体積当たりのエントロピーをS としkをBoltzmann定数とするとS=-kHとなることがわかります。

 そこで,「BoltzmannのH定理」は「エントロピー非減少(増大)の原理」を証明したことになります。

 Boltzmannは元の個々の分子の可逆な(時間反転不変な)方程式から,"時間が1方向にしか進まない"="エントロピーは増大するのみで減少することはない"という不可逆性の法則を導いてしまったことになります。

 一体,どんなマジック(魔法)を使ったのでしょうか?

 当然のことながら,彼は方々から激しい批判を受け,結局Boltzmannは自殺してしまう,という悲劇を迎えるのですが,特に「Loschmidtの逆行性批判」と「Zermelo-Poincare'の再帰定理(recurrence theorem)」というのは有名です。

 このうち,再帰定理というのは大したものではなく,水に赤インクの例でいうと,"非常に長時間=宇宙の年齢よりもはるかに長い時間"が経った後には最初の状態に戻る可能性もある,という定理です。

 これは,そもそも逆行性=可逆性についての批判ではありません。また,巨視的現象の時間スケールとしても,妥当なものではありません。

 例えば,量子論では分子,原子という粒子も確率の波ですから,どこに存在する確率もゼロではありませんから,檻の中にいるライオンでもそれを構成する1つ1つの分子に着目すると,全ての分子が檻の外に出る確率は全くゼロではないということになります。

 これは,"ほんのたまにはライオンはひとりでに檻の外に出てしまう",ということもある,ということを主張しています。

 実際,ライオンが檻の外に出る確率はゼロではありませんが,計算するまでもなく,そんなことは宇宙が誕生してから今まで,を1億回繰り返しても,1回も起きない事象であることは明らかです。

再帰定理の時間スケールは,こうした話と大差ないと思えます

 一方,「Loschmidtの逆行性批判」は正に当を得ていて,今この瞬間に全ての分子で時間を逆行させる(つまり全ての分子で速度を逆転させる)と,全ての分子はその向きを逆に変えて運動するわけですから.ボルツマンのHは過去に向かっても減少するしかないわけです。

 そうすると,"どの時刻でも今のHが最大である。"ということにしかなりませんから,これは明らかに深刻なパラドックスです。

 ランダウ(Landau)の「統計物理学」では,"今のエントロピーが最低である=エントロピー増大則も時間反転不変である。"ということを主張しています。

 そして,それを説明するのに,何事にも始まりがあり,測定を始めた,あるいは宇宙が始まった時刻をゼロとして負の時刻(それより前)は考える必要はない,という説明をしています。

  

 しかし,どんなマジックにも種があります。実は導入した「分子数無秩序の仮定」,あるいは「衝突数算定の条件」というものから確率という要素が入ってくるというのが種なのです。

 これは微視的には,"時折繰り返される衝突は完全無秩序である"とか,"衝突前には2粒子間に統計的相関がない"というものです。

 これには,既に時間は無秩序の向きに進むという非対称性が含まれているわけで,無秩序であるということには大きい体積にいる方が確率的に可能性が高い,など確率の条件が含まれた結果として,H定理が得られたわけです。

 そして,元々エントロピーは伝統的な熱統計物理学では平衡か局所平衡の場合に限って定義される量ですが,ボルツマンのH関数は,より普遍的なものなので,S≡-kH で逆に非平衡なときのエントロピーの定義を与えることができる,と解釈することもできます。

 情報理論では情報エントロピーの定義は,正に f を∫f d = 1と1粒子分布関数,つまり,確率密度として規格化したときのBoltzmannのH関数に負号をつけたものに一致するわけです。

 そして,情報エントロピーが大きい,というのは情報量(知っていること)が少ない,ことに対応します。

 初め,何らかの情報を持っていても"何もしなければ"時間とともに情報量は減っていきます。情報は古くなるとひとりでに価値が減少していきますからね。

 時間の向きは,"何も知らない向き=無秩序の向き"に向かって進むというわけです。知らないことが多いほどエントロピーが大きいというのは通常の物理学でも同じことです。

 例えば,地球上で普通に暮らしているときは近くの景色を見ると,その詳細である家や人や道などが細かくわかりますが,次第に遠ざかって東京タワーの展望台などから見ると塊にしか見えず,さらに宇宙旅行すると"地球は青かった"程度の情報しか得られないことになります。

 こうして遠くから俯瞰した状況を"粗視化する"と言います。「分子数無秩序の仮定」というのは正に"ディテールを無視して粗視化せよ"と述べていることに相当するのです。

 というわけで,結局,不可逆性が生じるのは微視的な巨大な個数の分子はその個性を失い,"確率的=粗視化"した状況と見た結果だということになります。

 しかし,天気予報や地震予知などは初期条件,境界条件のカオス(混沌)的な無知の効果を受けて,完全な予測計算が不可能である,とは言っても,流体における乱流と同じく,もし完全な知識があれば全く誤差のない実験などと同じように,原理的には完全な予測が可能です。

 このような意味で,"カオス=無知"でもって「ラプラスの悪魔(Laplace's demon)」を完全に退治することはできません。

 「Laplaceの悪魔」というのは,"我々個人が,どのような決断をしたつもりであっても,宇宙開闢の初めから人間を含む全ての物質はそれを構成する分子,原子の基本的な運動方程式に従って動くだけで,運命は決まっていてどうすることもできない。"という運命論(人間機械論)を悪魔になぞらえたものです。

 人間の自由意志が「Laplaceの悪魔」を完全に退治するためには,量子論の粒子と波動の二重性,すなわち,分子も原子も確率の波であって,その軌道すら原理的には決められない,という実在主義の否定が必要だと思います。

(参考文献;テル・ハール著「熱統計学」(みすず書房)、一柳正和著「不可逆過程の物理」(日本評論社)、豊田正著「情報の物理学」(講談社)  )

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2006年7月 3日 (月)

電気の伝わる速さ(分布定数回路)

  以前,電流というのは電子などが流れる速さを意味しており,通常の家庭電器の中を流れる電流は数アンペア程度で,これは電子の速さにして秒速何ミリとか何センチ程度の遅いものですと書きました。

 そして,それでも電荷のキャリアがトコロテン式に押し出される結果として,遠いところに電源やスイッチがある場合でも,電灯などはほぼ即座に点くというような内容のことを述べました。

 それでは,ほぼ即座といっても,直流回路でスイッチを入れてから,電流がほぼ一定になって安定するまでに,実際どのくらいの時間がかかるのでしょうか?

 回路全体の抵抗をRオーム(Ω),電池など電圧源の直流起電力をEボルト(V)とします。

 導線には必ず変動電流によって誘導される起電力,つまり,自己インダクタンス(自己誘導係数)= L ヘンリー(H)があると考えられますが,電流 i アンペアが一定な安定状態では,それによる逆起電力は起きません。

 しかし,電流 i がゼロから定常値のE/Rに達するまでは電流は一定ではなく,次第に大きくなるように変化するため,その際僅かな間でも"逆起電力=自己誘導起電力"が働くはずです。

        

 そこで,回路方程式はL (d i /dt )+R i=E という形に書けます。

 t=0 には i=0 であったという初期条件で,この方程式を解くと, i =(E/R ){1-exp(-t /τ)} となります。ただしτ=L/Rです。

 この式によれば電流が定常電流の i =E/R になるには,時間 t が ∞ になる必要がありますが,実際にはt=τで既に i =(E/R )(1-1/e),つまり定常電流の約 2/3 にまで達し, t=3τで は定常電流の95 % 以上にもなります。

 そして円形断面の均質な導線の場合,透磁率をμ,長さをℓとして自己インダクタンスLを計算すると,L=μℓ/(4π)であることがわかります。

 真空では透磁率はμ=4π× 10-7Hです。そして抵抗はR=ρℓ/Sですが通常の半径が0.1mm程度の断面の銅製の導線ではρ=13.6ΩmでS=π× 10-8m2ですから,τ=L/RはμS/(4πρ)~  10-15秒程度になります。

 それ故,導線の材料が銅より抵抗の大きい金属だとしても,ほんの一瞬で電流はほぼ100%までの定常に達するはずです。

 こうした非定常電流の現象を過渡現象といいます。

 例えば2本の平行導線回路が無限に延びていて左端に電圧源Eボルトがあるだけの閉回路を想定します。

 これは,単位長さ当たり,抵抗R,インダクタンスLと2本の導線間のキャパシタ(コンデンサ容量):C,と内部コンダクタンス(アドミッタンス=インピーダンスの逆数の実部)Gがあるような等価回路としてよいと考えられます。

 ( Z=R+jX , 1/Z=Y=G+jB です。R=0 ならG=0 )

         

 こうした回路を分布定数回路といいます。

 分布定数回路において,R=0 かつG=0 の極限の理想状態の回路,つまり,無損失回路を考えます。

 x から x+Δx までの間の電圧変化をΔe とすると ,e+Δe =e-(LΔx) (∂i/∂t) であり,また電流上昇をΔi とすると i+Δi= i-(CΔx) (∂e/∂t) と書くことができます。

 これら2つの式は,∂e/∂x=-L(∂i/∂t),および∂i/∂x=-C(∂e/∂t)となります。これらの式をまとめると,∂2i/∂t2={1/(LC)} (∂2i/∂x2)となりますが,これは位相速度がv=1/(LC)1/2の波動方程式です。

 したがって,電流は波動として,この速度 v で伝送されます。

 電圧も全く同様な方程式に従う波として伝送されますから,この v が「電気の伝わる速さ」と同定されます。

 特に2本の平行導線の断面が同じ半径 r (m),の円で,それら導線間の中心間の距離が d (m)なら,導線の表面だけを電荷が流れるとして計算すると,

 L=(μ/π)log(d/r) (H/m), C=πε/log(d/r) (F/m) なので, v=1/(LC)1/2=1/(με)1/2となることがわかります。

 ここにεは誘電率です。

 特にμとεが真空中と同じ値(μ=μ0,ε=ε0)なら ,v は光速 cに一致します。

 つまり,電流は実質的には蟻の歩く速さのように遅いにも関わらず,回路に何のエネルギー損失も無い理想的な場合なら,「電気の伝わる速さ」は真空中の光速cに等しいことになります

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2006年7月 2日 (日)

ある日

 日曜日の巣鴨の街,梅雨の生あたたかい雨の中を,屈託のありそうな人ばかりが歩いている。

 俺もそんな顔をしているのだろうか?もはや,やせ過ぎて人間ではなくなっている。鏡を見るのもイヤだ。

 金もないのに買い物中毒の俺は今日もセゾンのクレジットカードで食べ物だけでいいのに,余計なものまで買っている。

 しかし,休日なのに何で色々とやることが有り過ぎて,イライラしてるんだろう。

 予定通りに事が進まないと,自律神経までおかしくなってくる。空腹なときに大好物を食べているのに,途中で嘔吐をもよおすし,眠りたいのに眠れない。末期症状だ。。。

 一時しのぎの暇つぶしとしてネット将棋で気を紛らす,負ければまたやりたくなるし,勝てばなんだこんなものかと思って,すぐやる気がなくなる。

 ということは睡眠不足などで負けだすと止まらないので,落ちるときは,またたくまにレーティングが落ちるが,勝つたびにすぐやめるのでレーティングが上がるのにはとても時間がかかるということになる。

 休日など,まいっか,とネット将棋をやめると,とんでもない時刻だったりする。

 過去オーディオ気違いだったときのオーディオで音楽を聴きながら,自分の本分(だと思っている)物理の専門書を読んでメモを取ったり計算したりする時間などはほんの1,2時間だけだ。

 まいっか,とうたたねすると,ブログを書く暇もなくなっている。1日が24時間じゃあ短すぎる,と今日も思う俺であった。

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2006年7月 1日 (土)

ユダの福音書(つづき)

  6/25の記事「ユダの福音書」で紹介した「ユダの福音書」を神学者の解説も含めて読み返してみました。

 どうも正統派から異端派とされているグノーシス派の福音書のようです。

 ユダ以外の12使徒はイエスをこの世を創造した創造神の神の子と誤解していて,ユダだけが違うと思っているというわけです。

 創造神は劣悪な神で,この地上世界はいわゆる失敗作だから,イエスやユダにとっては,こんな世の中はいらないということらしいですね。

 一神教どころか,天使を含めて神は無数にいるが,その中でも唯一の聖なる神にイエスが属しており,アダムとイブの第3の子であるセツの一族だけが,この世の肉の身を捨てたのちに魂として神の国に帰れる。

 そしてセツ以前の邪悪な神と関わる人間達もセツの家系であるイスカリオテのユダの仲介で救われる,というもので,イエスは肉の身で復活などしないし,誰も肉の身で復活するとも述べていません。

 この世を全知全能の神が創ったなら,なぜ邪悪な世界となったり,悪魔が存在するのか?というグノーシス派の主張なら私も知っていました。

 彼らグノーシス派とか,この「ユダの福音書」とかの主張は,「この世という邪悪な世界を完全に否定していて,肉の身で復活することなど必要はなくて神の国で魂として復活することのみが重要である」というわけです。

 したがって,勝ち組であるところのいわゆる正統派のカトリックの見解とは,ほぼ正反対の主張であるようです。

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