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2006年7月28日 (金)

労働価値説と効用価値説

かつてはマルキストを気取り"経済的な価値とは抽象的労働の量の多寡による。"といういわゆる労働価値説に基づいて,資本主義経済活動の結果として剰余価値というものが生まれる,

 

人民は資本家に搾取されている,そして資本主義では定期的に恐慌が起きるという,いわゆるマルクス主義経済学に心酔していました。

 

マルクス主義という哲学的,思想的側面では,今もマルキストではあるものの,経済学という側面では新古典派経済学から生まれたミクロ経済学,マクロ経済学という方法でいいのではないかという考え方に少し変わってきています。

 

別に,ベルリンの壁が壊されたから転向したというわけでもないし,いわゆる人々の欲望に根差した効用関数から導かれる限界効用で評価した商品の価値が,古臭い労働価値よりも優れていると急に目覚めたわけでもありません。

 

 また,効用というものが全時代的で普遍的と見えるのに対し,"富とは巨大な商品の蓄積である。"という論点から商品の分析から始め,資本主義の特殊性を考慮することで逆に普遍的理論になるという解釈をしているかに見える宇野弘蔵氏の「価値論」ほどの理解をしているわけでもないので,所詮は浅薄な思いつきですが。。。。

ただ,かつて考えていた剰余価値の搾取というのは現代的に言い換えると単に資本家の利潤追求に過ぎないと思うし,それが倫理的に善いか悪いという判断については,社会のTPOで決まるという程度の認識しか持っていません

物品の交換には,個々の商品間に"共通の基準=交換価値"が必要で,それがすなわち抽象的労働である,といっても間違いではないと思いますが,交換するには欲望に根差した使用価値の差異が必要です。

 

マルクスは,当然人間の欲望についても分析したわけですが,抽象化した労働といっても,商品の需要の多寡が逆に個々の労働の価値を決めるのである,ということもある意味ではその通りです。

 

このままなら,「ニワトリが先か?卵が先か?」という水掛け論になってしまうと思います。

一方,効用関数というものが実際に存在するか?とか,または存在しても普遍的であるか?ということもはなはだ疑問です。

 

それを基準にするといっても,それ自身がそれこそTPOによって変わるものだとも思えます。

 

まあ,ミクロ経済学をかじった程度で僭越ではありますが,確かに四則演算だけのマル経に対して微分・積分を使った現代経済学のほうが高尚には見えます。

 

こちらの立場では,結局,労働も効用を決める種々の要素の内の1つにしか過ぎないという見方でしょうね。

 

現代経済学というのは前提がこうであれば結果はこうなるはずだという予測をするものであり,メカニズムとか整合性とかを追及するもので倫理とか思想で価値判断をするわけではないものだと思っています。

 

そして,科学ですから,たとえ今の仮説に間違っている部分があっても,それなら別の仮説を立ててそこを修正していけばいいだけで,それで次第に発展していくようなものだと思っています。

まあ,メカニズムを考えるものとしてはそれでいいとして,私は効用価値説というのを含めて,そうした経済学はある意味で論理学の言うトートロジー(同義語反復)のようなものだと思います。

 

労働でも何でもかまわないけれど,ある要素因を特別視するとかの基準を公理として設けない限り,説得力のある実のあるものとはならないと思うのです。

    

だとすると,少なくとも労働を特別視する労働価値説の方がまだましなのかな?

ただ,"自分がどの階級,階層の,あるいは誰の利益を代表するのか,誰の利益を主と考えるのか?"という倫理的あるいは思想的側面では利潤を搾取と捉える経済的弱者の側の利益を代表するマルクス主義の方に未だに傾倒しています。

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