負エネルギー解と相対論的因果律
私が学生時代には東大教授であった"奇妙さ(strangeness)の
量子数"の発見者としても知られ,「Fields and Particles」の著者と
しても有名な西島和彦氏,が著わした和書「相対論的量子力学」
(培風館)には他の著書にはない興味深いことが書かれています。
"量子力学の相対論的波動方程式の解のうち,物理的粒子
であると考えられる正エネルギー解のみを採用して
負エネルギー解を捨てると,相対論的因果律が破れる"
ということです。
簡単のため,スピンがゼロで質量がゼロの粒子が存在すると
してその粒子の因果性を論じて,そのことを確かめてみま
しょう。
まず,質量がゼロなので,その粒子は光速度cで運動します。
そこで,ある時刻tに位置rにあった粒子が時刻t'に位置
r'に存在する確率密度を計算すると,因果律を正しく表現
した確率であるならば,|r'-r|2=c2(t'-t)2を満足
する時空点以外ではそれはゼロになるはずです。
以下では,簡単のためPlanck定数と光速を1,つまり
c=h/2π=1とする自然単位で計算することにします。
求める確率密度は,<x'|x>=<r',t'|r,t>という
遷移振幅で表わすことができます。
ここで,x=(r,t),x'=(r',t')です。
この遷移振幅はいわゆる自由粒子の"伝播関数=propagator"
で,1粒子の"Green関数=積分核"でもあり,Fourier表示では
<x'|x>=(2π)-4i∫d4pexp{-ip(x'-x)}/(p2+iε)
=(2π)-4i∫d4pexp{-iE(t'-t)+ip(r'-r)}
/(E2-p2+iε) と表わされます。
ここで,もしエネルギーEが正の値しか取れないと仮定
すると,被積分関数の分母の極E=±ωp=±(|p|-iε)
のうち,ωp=(|p|-iε)だけが効きますから,
∫d4pのうち,∫dp0=∫dEのみを実行すると,
<x'|x>
=-(2π)-3∫d3pexp{-i|p|(t'-t)+
ip(r'-r)}/(2|p|)
=-(2π)-2∫d|p|d(cosθ)|p|exp{-i|p|(t'-t)
+i|p||r'-r|cosθ}/2 となります。
さらに,cosθによる積分を実行し,その後|p|による積分を
行なうと,
-(2π)-2∫d|p|exp{-i|p|(t'-t)sin(|p||r'-r|)
/|r'-r|=(i/2π)[1/{(t'-t)2-|r'-r|2}
を得ます。
結局,正エネルギー解のみが許されると仮定したときの
遷移振幅は,
<x'|x>=(i/2π)[1/{(t'-t)2-|r'-r|2}
となります。
これを見ると,|r'-r|2=c2(t'-t)2が特異点になって
いて振幅はこの点で∞になり,これは確かに想定した質量ゼロ
の粒子が非常に大きな確率で光速度cで進むことを表わして
はいます。
しかし,それ以外の点を通る確率もゼロでない値を取る
ので,厳密には相対論的因果律を破っているといえます。
一方,エネルギーEは正の値だけでなく負の値も取る
ことができて負エネルギーの解をも認めるなら,分母
のEの両方の極:E=±ωp=±(|p|-iε)をとる
ことが可能です。
結果もそれぞれの閉経路の留数の和になります。
ただし,これらの極に対するp=Eの積分の複素平面内
での周回経路は,回る向きが正反対なので,ωp=(|p|-iε)
の留数には(2πi)が,-ωp=-(|p|-iε)の留数には
(-2πi) が掛かります。
(※-ωpを極として含む周回経路は上に示した図から
下半円を除き,逆に上半円を加えたもので,向きも反時計回り
で図の,ωpを極とする経路とは逆向きです。)
最終計算結果は,Diracのデルタ関数を用いて,
<x'|x>=<r',t'|r,t>
=(i/2π)[δ((t'-t)-|r'-r|)-δ((t'-t)
+|r'-r|)/|r'-r|]となります。
得られた遷移振幅を見ると,遅延波と先進波の両方を
重ね合わせたGreen関数の形式になっています。
つまり,|x>から|x'>への遷移確率振幅:<x'|x>は粒子
が光速で進むことを意味する点:|r'-r|=±c(t'-t)のみ
に集中し,それ以外の点では完全にゼロです。
これは見事に質量がゼロの光速粒子の相対論的因果的軌道を
正しく表現するものとなっています。
それ故,西島和彦氏著の「相対論的量子力学」に書かれていた
ように,
"相対論的波動方程式の正エネルギー解のみを採用して
負エネルギー解を捨てると相対論的因果律が破れる。"
という命題が確かに成立することを示すことができました。
参考文献:西島和彦 著「相対論的量子力学」(培風館)
PS:2007年8月31日(金)追記
本文ではその当時の直観で<x'|x>=<r',t'|r,t>が
Green関数,あるいは伝播関数であると説明なしで書きました
が,後付けながら一応説明しておきます。
|x>=|r,t>というのは普通は位置演算子の固有ベクトル
を表わすのに用いるケットベクトルの記法です。
実際,粒子が時刻tに位置rにいることを表現しているので,
それで間違いありません。
そして,もちろん|x'>=|r',t'>も粒子が時刻t'に
位置r'にいることを表現している位置演算子の固有ベクトル
を示しています。
しかし,"同じ演算子の固有ベクトル同士のスカラー積は通常ゼロ
(直交している)か,またはδ関数であるべきはず"なのに,この
場合は何故にGreen関数,または伝播関数になると主張している
のか?
という疑問が生じるでしょう。
確かにそれはもっともな疑問です。
<x'|x>=<r',t'|r,t>という表現におけるブラとケット
は確かに同じ表記をしており,共に位置演算子の固有ベクトル
であることは間違いありません。
しかし,それぞれの固有ベクトルが対応している位置演算子は
暗黙のうちに時間に依存しています。
そして,時刻tの位置演算子と時刻t'の位置演算子はユニタリ同値
ではありますが,異なる演算子であるという事実を含んでいます。
すなわち,時間発展のユニタリ演算子をU(t)で定義すると,
(Hを系のHamiltonianとすると,これは自然単位で
U(t)=exp(-iHt)と表現されます。)
|r,t>=U(t)|r> (|r>≡|r,0>)なので,
<x'|x>=<r',t'|r,t>=<r'|U(t')-1U(t)|r>
=<r'|U(t',t)|r> (U(t',t)≡U(t')-1U(t)
=exp{iH(t'-t)})となります。
そして,|Ψ(t)>を任意の状態ベクトルとすると,
|Ψ(t')>=U(t',t)|Ψ(t)>なので,
<r'|Ψ(t')>=∫dr<r'|U(t',t)|r><r|Ψ(t)>
となります。
ここで<r|Ψ(t)>は,位置表示の波動関数です。
したがって,
<x'|x>=<r',t'|r,t>=<r'|U(t',t)|r>となり,
これは確かに"Green関数=伝播関数"であることが示されました。
(以上)
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コメント
ども凡人さん,TOSHIです。
過去記事でも読んで理解して頂ける人がおられるだけでもありがたいことです。
これは確かに西島さんの本で指摘されていますが起源はディラックかファインマンかもしれません。とにかく本文では一行くらいでサラッと因果律が成り立たないと書かれていただけで最初に読んだころは気にも留めませんでした。
しかし10年以上前の旧パソコン通信のニフティサーブの「物理フォーラム」で誰かの質問に関連して私が西島さんを思い出して問題になり1ヶ月くらい?議論になりました。
当時初代のフォーラムスタッフであった年は10歳以上下ですが頭が切れて計算も得意な今もEMANさんのところでときどきお見かけするAさんとは,私はめったに意見が違うことはなかったのですが,これについては西島さんの話を疑問に思われたようで結局はモデルを設定しては2人でべ別々にそれぞれ裏づけとなる計算をしていたのですが,偶々この記事のような計算結果ができたので西嶋氏の言明を証明できたというわけでした。
まあ他の議論になった場合では抽象数学の話題以外では私のほうが間違いであると判明することが多くこれは私が正しいと判断された数少ない問題の1つでした。
いずれにしても自己主張でグチャグチャになるような掲示板ではなく一部のトンデモさんを除けば議論をすれば大抵正しい決着がついてお互いが納得するというような健全なフォーラムだったので今でもなつかしいです。
TOSHI
投稿: TOSHI | 2009年1月 4日 (日) 08時47分
「相対論的因果律」をキーワードにして検索したところ、今頃になってこの記事を発見したのですが、「さすがは西島先生」という外は無いと思いました。
未来に向かって伝播する遅延波と過去に向かって伝播する先進波の両方を仮定することによって、始めて相対論的因果律が成立するというのは、なかなか興味深い話だと思いました。
やっぱり、「常識」では理解できないものを切り捨てると、辻褄が合わなくなるわけですね。
本内容をご教示頂き大変有難う御座いました。
投稿: 凡人 | 2009年1月 3日 (土) 10時57分