揺動散逸定理
非平衡統計熱力学の1過程としてブラウン運動などに関わる揺動散逸定理(fluctuation dissipation theorem)について述べてみます。
この定理は誰が起源なのかよく知らないのですが,日本では線型応答理論の一環として統計物理学の重鎮であった久保亮五先生などが関わっていたと記憶しています。
一般に,ある物理量(示量変数の組):a=(a1,a2,..,an)があって,エントロピーSがaの関数であるとき,系の時間発展はaに対する1階微分方程式で表現されて,それはdai/dt=(dai/dt)rev+(dai/dt)irrのように,可逆な部分(dai/dt)revと不可逆な部分(dai/dt)irrの和として与えられます。
そして,可逆部分はさらに,(dai/dt)rev=Σj{ai,aj}(∂S/∂aj)という構造を持つとします。
ここで,{X,Y}はポアソン括弧のように,{Y,X}=-{X,Y}という反対称性を持ち,{X,f}=Σj{X,aj}(∂f/∂aj)という性質で規定される量であるとします。
こう定義すると,(dS/dt)rev=Σi(∂S/∂ai)(dai/dt)rev=ΣiΣj(∂S/∂ai){ai,aj}(∂S/∂aj)={S,S}=0 となって,可逆過程ではエントロピーは生成されないことになります。
実際には,断熱可逆変化か,あるいは可逆であって,かつサイクルである場合以外なら,可逆過程でもエントロピーの変化はありますから,これはどう解釈すべきなんでしょうか?
dai/dt=(dai/dt)rev+(dai/dt)irrは"可逆な部分と不可逆な部分の和である。"というよりもむしろ,"エントロピー非生成部分とエントロピー生成部分の和である。"と事実のままを述べた方がいいのかもしれません。
一方,不可逆部分については現象論的に(dai/dt)irr=ΣjLij(∂S/∂aj)と表わすことにします。
というのは,ajが示量変数のとき∂S/∂ajは示強パラメータであり,平衡の近傍では不可逆部分は示強パラメータ,あるいはその空間勾配に比例して進行するからです。
実際,問題としている系を局所平衡状態にある部分系の集まりと考えると,それぞれの部分系の物質密度をρ,単位質量当たりのエントロピーをsとしたとき,エントロピー密度(ρs)の変化は,一般に熱力学の関係式により示強パラメータFiと示量変数aiによって,d(ρs)=ΣiFidaiと表わされます。
この表式では確かに示強パラメータは,Fi=(∂S/∂aj)/Vと表わされています。
そして今,対象としている系が隣り合う2つの部分系A,Bだけから成るとし,A,Bが等しい体積Vを持つとするとき,各部分系のエントロピーS=Vρsは,Xi=Vaiの関数であると考えられます。
今,A,Bのエントロピーを,それぞれSA,SBとし,XiがAからBにΔXi=VΔaiだけ移動するとします。
Xiが系全体では保存する量であって,初めAにはXiがXiAだけBにはXiBだけあったとすると,AからBへのΔXi=VΔaiの移動による系全体のエントロピーSの増分は,ΔS=SA(XiA-ΔXi)+SB(XiB+ΔXi)-[SA(XiA)+SB(XiB)]~Σi(-∂S/∂XiA+∂S/∂XiB)ΔXi=Σi(-FAi+FBi)ΔXiとなります。
ここでFAi,FBiはそれぞれ部分系A,BにおけるFiの値を表わしています。
系全体を孤立系と考えると熱力学第二法則によって,ΔS>0 でなければならないので,1つの示量変数Xi=Vaiのみに着目してAからBへと微小量ΔXi>0 の移動が起こるためには,示強パラメータFiについてはFBi>FAiであることが必要になります。
このことから,示量変数Xi=Vaiが保存量のときはXiの輸送を引き起こす駆動力となるのは示強パラメータFiの空間勾配であると考えられます。
また,示量変数Xi=Vaiが非保存量のときはΔS=ΣiFiΔXiにおいてFi=(∂S/∂ai)/V>0 ならば,ΔXi=VΔai;Δai>0 なる変化が不可逆過程として進行し得ます。
つまり,一般にdS=ΣiFidai,Fi=(∂S/∂ai)と書けますが,量akが保存量のとき,その保存方程式は∂ak/∂t+∇Jk=0 であり,その流れJkは一般にJk=ΣjLkj∇Fjと,示強的な量Fj=(∂S/∂aj)の勾配を駆動力とする形に表わされます。
そこで,ak'≡akrとおくと,Jk=akv=ak(dr/dt)ですから,dak'/dt=d(akr)/dt~Jk=ΣjLkj∇Fj=ΣjLkj∇(∂S/∂aj)です。
そこで,もしもSがajの1次関数なら,∇(∂S/∂aj)~∂S/∂aj'となり,示量変数ak'の求める時間発展の形式dak'/dt=ΣjLkj(∂S/∂aj')が得られます。しかし正直なところかなり苦しいです。
こうして,はっきりと証明されたわけではないのですが,現象論的発展方程式はdai/dt={ai,S}+ΣjLij(∂S/∂aj)と表わされるとします。
これは非平衡な初期条件から平衡状態への緩和を表わしています。
そこでa(t)の時間発展は初期条件a(0)=aに対してai(t)=ai+t[{ai,S}+ΣjLij(∂S/∂aj)]+..で与えられます。
平衡状態においても,一般に巨視的な物理量a=(a1,a2,..,an)はゆらいでいます。たまたま,ある時刻にa(t)がa(t0)=aという値をとったとして,その後の時間発展を観測します。
a(t0+t)は初期時刻t0によってさまざまな値を取りますが,それらの平均を取ったものも現象論的発展と同じになるとします。
すなわち,初期条件a(t0)=aが与えられると短い時間では平均的に<ai(t0+t)>a(t0)=a=ai+t[{ai,S}+ΣjLij(∂S/∂aj)]となると仮定します。これを線型減衰の仮定と呼びます。
平衡状態におけるゆらぎの時間相関関数<ai(t0+t)ak(t0)>を求めるには<ai(t0+t)>a(t0)=aに初期値ak(t0)=akを掛けてakの分布について平均すればいいので,t≧0 に対して<ai(t0+t)ak(t0)>eq=<<ai(t0+t)>a(t0)=aak>eq =<aiak>eq+t[<{ai,S}ak>eq+ΣjLij<(∂S/∂aj)ak>eq]となります。
平衡状態におけるゆらぎに対するボルツマン・アインシュタインの原理,つまり,ボルツマンの原理S=kBlnWから,逆に微視的状態数WがW(a)=exp[S(a)/kB]と書ける,ことを用います。
全状態数をWとしたときにW(a)/Wが変数aの状態が実現する確率となりますから,平衡状態での関数f(a)の平均値は<f(a)>eq=(1/W)∫da1..danf(a)exp[S(a)/kB]で与えられます。
そこで,<(∂S/∂aj)ak>eq=∫da1..dan(∂S/∂aj)akexp[S(a)/kB]=-kBδkjとなります。
したがって,<ai(t0+t)ak(t0)>eq=<aiak>eq+t[<{ai,S}ak>eq-kBLik]となりますが,右辺の{ai,S}はdai/dtの可逆部分です。
ところが,平衡状態では物理量の任意の関数は可逆変化では変化しないので,<{f(a),S}>eq=0 です。もっともこれはその現象論の範囲で厳密に証明できるわけではないので仮説として導入するわけです。
そして,この式でf(a)=aiakを代入すると,<aj{aiδjk,S}+aj{aiδijak,S}>eq=0 :すなわち<{ai,S}ak>eq=-<ai{ak,S}>eqが得られます。
そこで、物理変数ai,akの時間反転対称性に関して次の2つの場合を考えます。:
(Ⅰ)変数ai,akが共に時間反転に対して対称である場合
このときは<ai(t0+t)ak(t0)>eq=<ai(t0-t)ak(t0)>eqです。さらに平衡状態の定常性から物理量の時間相関は時間差のみに依存しt0には依存しないので<ai(t0-t)ak(t0)>eq=<ai(t0)ak(t0+t)>eqです。
以上から,<ai(t0+t)ak(t0)>eq=<ai(t0)ak(t0+t)>eqが得られます。
そこで両辺に線型減衰の仮定を適用すると,<aiak>eq+t[<{ai,S}ak>eq-kBLik]=<aiak>eq+[<{ak,S}ai>eq-kBLki]となるはずです。
これが実際に成り立つためには,<{ai,S}ak>eq=<{ai,S}ak>eqかつLik=Lkiが満たされなければなりません。
前者は<{ai,S}ak>eq=-<ai{ak,S}>eqと組み合わせると<{ai,S}ak>eq=<{ai,S}ak>eq=0 となります。要するに,ai,akが共に時間反転に対して対称ならば,その時間微分{ak,S},{ai,S}は明らかに時間反転に対して反対称となりますから,時間反転対称なaiやakとの積は平衡状態ではゼロとなることを表現しています。
(Ⅱ) 時間反転に対して変数aiが反対称でakが対称の場合
このときは<ai(t0+t)ak(t0)>eq=-<ai(t0-t)ak(t0)>eqです。そこで(Ⅰ)と同様に考えて<ai(t0+t)ak(t0)>eq=-<ai(t0)ak(t0+t)>eqとなります。
したがって線型減衰の式から<aiak>eq+t[<{ai,S}ak>eq-kBLik]=-<aiak>eq-t[<{ak,S}ai>eq-kBLki](t≧0)ですが,これが成り立つためには<aiak>=0 でかつLik=-Lkiが満たされなければなりません。
かくして,変数ai,akが同じ時間対称性を持つときにはLik=Lki, 反対の時間対称性を持つときにはLik=-Lkiとなります。
さらに係数Likが時間反転に対して反対称な外部パラメータA(Aは例えば磁場Bや速度v)に依存するときには,それぞれLik(A)=Lki(-A),Lik(A)=-Lki(-A)となります。
発展方程式の不可逆部分を熱力学的力∂S/∂aで表現する輸送係数Lijについての上述の対称性をオンサーガーの相反定理と呼び,この係数Likをオンサーガー係数と呼びます。
さらに発展方程式の不可逆部分はエントロピー生成をするという熱力学第二法則の要請から係数行列(Lij)は正値行列です。
なぜなら,dS/dt=(dS/dt)irr=Σi(∂S/∂ai)(dai/dt)irr=ΣiΣj(∂S/∂ai)Lij(∂S/∂aj)>0 となるべきことが要求されますが,(∂S/∂ai)はベクトルとして任意の値を取ると考えてよいからです。
平衡状態での巨視的変数の現象論的な発展方程式がdai/dt={ai,S}+ΣjLij(∂S/∂aj)で与えられるので,必然的に存在する"ゆらぎ=揺動あるいは雑音"Ri(t)の存在を考慮すると,aの時間発展は一般的な確率微分方程式dai/dt={ai,S}+ΣjLij(∂S/∂aj)+Ri(t)で表わされると考えられます。
ここで通常はゆらぎRi(t)は完全にランダムであり<Ri(t)>=0 ,<Ri(t)Rj(t')>eq=2Dijδ(t-t')なる白色雑音(white noise)で与えられます。
こうすると,時刻tにおいて状態aが実現する確率P(a,t)に対して,次のフォッカー・プランク方程式(Fokker-Planck)が得られます。
∂P(a,t)/∂t=-Σi(∂/∂ai){ai,S}P(a,t)+ΣiΣj(∂/∂ai)[-Lij(∂S/∂aj)+Dij(∂/∂aj)]P(a,t)です。
一般に,1次元で考えたとき外力Fがないときのゆらぎも含めた粒子の運動は,その速度をuとするとき,次の"運動方程式=ランジュバン方程式(Langevin)"du/dt=-γu+R(t)/m に従います。
そして,ここでもゆらぎR(t)は白色雑音,つまり<R(t)>=0 ,<R(t)R(t')>=2Duδ(t-t')を満たしているとします。
このとき,時刻t1に速度u1を持っていた粒子が時刻tに速度uを持つ条件付の確率分布T(u,t|u1,t1)は,(∂/∂t)T(u,t|u1,t1)=γ(∂/∂u)[u+(kBT/m)∂/∂u+(Du/m2)∂2/∂u2]T(u,t|u1,t1)という方程式に従うことがわかります。
確率分布が従うこの方程式を,フォッカー・プランク方程式と呼ぶわけですね。
そして,先のaについての運動方程式dai/dt={ai,S}+ΣjLij(∂S/∂aj)+Ri(t)を上の1次元速度uに対するランジュバン方程式におきかえ,時刻tに状態aが実現する確率分布P(a,t)を上の確率分布T(u,t|u1,t1)におきかえれば,先述のP(a,t)に対するフォッカー・プランク方程式が得られます。
これが定常解として平衡分布Peq(a)=exp[S(a)/kB](あるいはこの定数倍)を持つためにはkBLij=Dijとなることが必要条件になります。
つまり,∂Peq(a)/∂aj=(1/kB)(∂S/∂aj)Peq(a)なので∂P(a,t)/∂t=-Σi(∂/∂ai){ai,S}P(a,t)+ΣiΣj(∂/∂ai)[-Lij(∂S/∂aj)+Dij(∂/∂aj)]P(a,t)においてP(a,t)=Peq(a)とおくと,kBLij=Dijが満たされる場合には右辺の第2項はゼロになります。
一方,第1項はΣi(∂/∂ai){ai,S}Peq(a)=Peq(a)[Σi(∂/∂ai){ai,S}+(1/kB)Σi(∂S/∂ai){ai,S}]となりますが,定義によってΣi(∂S/∂ai){ai,S}={S,S}=0 です。
これほど自明ではありませんが,Σi(∂/∂ai){ai,S}=0 も成立します。
実際,Σi(∂/∂ai){ai,S}=Σi[{1,S}+{ai,∂S/∂ai}]=ΣiΣi[{1,aj}(∂S/∂aj)+{ai,aj}(∂2S/∂ai∂aj)]=ΣiΣi{1,aj}(∂S/∂aj)=-ΣiΣi,k(∂1/∂ak){ak,aj}(∂S/∂aj)=0 となります。1という関数はδ-関数であり,∂1/∂akは汎関数微分ですね。
そこで,kBLij=DijはPeq(a)=exp[S(a)/kB]が解になるための必要十分条件であることがわかりました。
それ故,"揺動力=ゆらぎ"の時間相関関数<Ri(t)Rj(t')>(白色雑音の2Dは揺動力の強さと呼ばれる)と,輸送係数:Lijの間には<Ri(t)Rj(t')>=2kBLijδ(t-t')という関係が成り立ちます。
これはさらに∫0∞d(t-t')<Ri(t)Rj(t')>=kBLij:すなわち∫0∞dτ<Ri(t)Rj(t+τ)>=kBLijと書き直すことができます。
つまり,輸送係数あるいはオンサーガー係数:Lijはゆらぎの時間相関関数で与えられます。この法則を揺動散逸定理と呼びます。
こうして,数式的に表現された形の定理が示されても,これが実際の自然現象において物理的にどのような意味を持つのかを理解しなければ,こうした定理の重要性を認識することはできません。
そこで,1例として熱伝導に適用してみます。
平均流速vがゼロの1成分流体中の熱伝導方程式はeを単位質量当たりの内部エネルギーとして∂(ρe)/∂t+∇Jq=0 で与えられます。
ここでJqは熱流であり熱拡散の線形近似モデルではJq=λ∇(1/T)=-κ∇Tと表わされます。κ=λ/T2は熱伝導率と呼ばれています。
この現象論的方程式に対して,これのランジュバン方程式は∂(ρe)/∂t+∇Jq=-∇q(r,t)となります。ただしq(r,t)は熱流Jqのゆらぎです。
Jqは熱流ですから,流体の局所流速をv(r,t)とすると,Jq=ρev=ρe(dr/dt)です。
示量変数の1つとしてa=ρerとすると,aの不可逆変化部分に対する表式dai/dt=ΣjLij(∂S/∂aj)+Ri(t)は,dai/dt=d(ρeri)/dt~(Jq)i=ΣjLij[∂S/∂(ρerj)] +Ri(t)と書けますが,平衡状態ではρVde=TdS-PdVなので体積一定(dV=0 )ならS=ρeV/T+(定数)です。
それ故,結局(Jq)i~ΣjLijV(∂/∂rj)(1/T)となります。これをJq=λ∇(1/T):すなわち(Jq)i=λ(∂/∂rj)(1/T)と比較すると,輸送係数=オンサーガー係数についてLij=(λ/V)δijという表式が得られます。
そこで揺動散逸定理によると,λは平衡状態における揺動熱流q(r,t)の時間相関関数によって表現されることになります。すなわち,揺動熱流q(r,t)の時間相関関数は,∫0∞dt<qα(r,t)qβ(r',0)>eq=kB(λ/V)δαβδ(r-r')と書けます。
そして,熱流Jq(r,t)のゆらぎq(r,t)を体積Vの対象領域全体で空間積分したq(t)=∫drq(r,t)という量を定義して,これを時刻tでの"熱流のゆらぎ"と呼ぶことにすれば,熱伝導に対する揺動散逸定理の表現は∫0∞dt<qα(t)qβ(0)>eq=kBλδαβと書くことができます。
今は,平均流速がゼロの流体を考えており,平衡状態では<Jq(r,t)>eq=0 なので,熱流のゆらぎq(r,t)がエネルギー流そのものになります。そこで対流がない流体においての平衡状態ではq(t)はエネルギー流を空間全体で積分したもののゆらぎとなります。
この例では,輸送係数=オンサーガー係数の一種である熱伝導率がミクロな流れq(t)の時間相関関数で与えられるということが揺動散逸定理からの重要な帰結と言えます。
19日木曜日夜から風邪気味で,症状自体は軽いのですがあまり筆が進みません。
北原和夫 著「非平衡系の統計力学」(岩波書店)
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