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2007年10月 4日 (木)

形式論理学(1)

 数回に分けて,真理の木による方法での形式論理学のエッセンスについて述べていきたいと思います。

形式論理学は演繹の科学です。

 

それは,それぞれの論証について,結論として主張されているものが,本当にその前提から帰結するかどうか,つまりその論証が"妥当"なのかどうかを判定するための系統的な手段を与えることを目指すものです。

まず,論証が妥当であるとは,どういう意味なのかについて,その定義を与えます。

 

[妥当性の定義]:

妥当な論証とは,その前提が全て真であるようなあらゆる場合に,その結論も真になるような論証のことである。

つまり,妥当な論証というのは前提が全て真なのに結論が偽になるような場合がない論証のことです。

 

以下では,前提が全て真なのに結論が偽になるような場合を反例と呼ぶことにします。

 

こうすれば,"妥当な論証とは反例がない論証のことである。"と言うこともできます。

我流で考えると,形式論理学というのは次のことを目指す学問です。

 

すなわち,「前提がこうだから結論はこうだ。」というような混乱しそうな具体的な論証について,頭の中であれこれ論理をめぐらして思案して迷うことなく,

  

与えられた前提や結論の命題,そして論理展開の各々を記号化して,その記号が従うべき規則の通りに文章を機械的に展開していくことです。

  

頭を悩ませることなく,自然にそうした論証が妥当かどうか?という情報を得る方法を与えてくれるものだ,と考えられます。

まず,例として"Mは家と船の両方にいることはない。Mは家にいる。だからMは船にはいない。"という簡単な論証を表わす文を考えます。

 

これは,いわゆる真理関数的論理の立場から見ると,妥当であることがわかります。

 

前の2つの文が前提で"だから"という言葉が結論を示すしるしになっています。

この程度の三段論法なら別に悩む必要もないのですが,記号論理化の出発点としては,この程度の単純なものから始める必要があります。

 

そして,これら単純なものから,複雑なものを構築するわけです。

そして今,"Mが家にいること"をA,"Mが船にいること"をB,として記号で表すと,上の論証は"¬(A∧B),かつA→¬B"と書けます。

 

この論証が"妥当である,あるいは反例がないこと"を示すための素朴な方法としては真理表を用いる方法があります。

すなわち,ある命題が真なるときは,T(=true),偽なるときはF(=false)なる文字,つまり真理値を与える,という約束の下で,あらゆる場合について,前提と結論の全てに関する真理値の表を作り,反例の有無を調べる方法です。

(1)A:T,B:Tの場合は¬(A∧B):F,A:T,¬B:F (2)A:T,B:Fの場合は¬(A∧B):T,A:T,¬B:T (3)A:F,B:Tの場合は¬(A∧B):T,A:F,¬B:F (4)A:F,B:Fの場合は¬(A∧B):T,A:F,¬B:Tとなります。

 

これを見ると2つの前提が共にTなのは(2)だけで,そのときは結論もTで,それ以外の場合で2つの前提が共にTなのに結論がFの場合という反例が全くないので,妥当性の定義によって,これは妥当な論証である,と結論されるわけです。

次の例として,"Mは家にいるか船にいる。MまたはHは家にいる。Mは家にはいない。"という前提から,どのような結論が得られるか? について考察してみます。

 

今度は"Mが家にいること"をA,"Mが船にいることをB"とする他に,"Hが家にいること"をCで表わすことにします。

前提は,"A∨B,A∨C,¬A"です。

 

これに対する真理表で,これら3つの前提が全てTとなる場合を調べると,それは,A:F,B:T,C:Tの場合で,それ以外にはありませんから,結論は"B∧Cである"ということになります。

 

前提が全て真の場合には,"B∧CがTである"という例しかないので,結論は間違いなく,"Mは船にいて,Hは家にいる。"ということです。

偽の前提から出発した論証は,たとえそれが妥当なものであっても,そして仮に結論が真であったとしても,欠陥があると思われます。

 

例えば,"月は惑星である。したがって地球または月は惑星である。"というようなものがそうです。

 

この論証は妥当であり,結論も真ですが偽の前提から出発しています。そこでこうした論証は"健全ではない。"と言います。

そして,「健全な論証」とは,"妥当でありしかも偽の前提を持っていない論証である。"と定義されます。

 

こう定義すれば,健全な論証なら結論が真なることが保証されます。

次の論証の妥当性は認めることにします。

 

すなわち,"もしAならばBである。Aである。だからBである。"という文です。

 

これの妥当性を認めるということは,"AがT,BがFなるときには,A⇒BはFでなければならない。"という言明が成立するのを認めることを意味します。

ここで,今までは定義しないで使ってきた記号たち:結合子を整理しておきます。結合子というのは文に働いて新しい文を生み出す文法上の道具を言います。

まず,"否定(but):でない"は ¬,"連言(and):そして(かつ)"は∧,"選言(or):または"は∨で表現します。

 

A∧Bを"連言肢",A∨Bを"選言肢"と呼びます。これらが否定と組み合わされた文は,¬A∧Bとか,¬(A∨B)と書かれます。

 

括弧(bracket)は,それでくくられた文全体を示しますから,¬A∧Bが,"Aでなく,かつBである"という意味なのに対し,¬(A∧B)は"AかつBである"の否定を示すものです。

次に,条件法ですが,これは,"もし~ならば"を含む言明のことです。

 

論理的表記法ではこれを2つの言明の間に⇒を書いて作ります。

  

つまり,A⇒Bという表記によって,"もしAならばBである"という文を表わすわけです。

 

このときAを前件,Bを後件と呼びます。

ここで,A⇒Bと¬(A∧¬B)は,全く同じ言明を示していること,つまり,両者がいかなる場合も同じ真理値を持つことを示しておきます。

すなわち,¬(A∧¬B)がTになるのはA∧¬BがFのとき,つまりAがT,かつBがFなる文が否定されるときだけです。

  

これは,"AがTならば必ずBもTであること",あるいは,"BがFならばAもFであること"を意味するので,"A⇒BがTであること"と同じです。

 

¬(A∧¬B)がFになるのは,A∧¬BがTのときですから,

A⇒BはFです。

次に,"AならばBである。"と"Aであるときに限ってBである。"という2つの条件が同時に言明されている文章を考えます。

 

前者はA⇒Bということですが,後者は¬A⇒¬Bを意味していますから,B⇒Aなることと同じです。

 

そこで,全体として"(A⇒B)∧(B⇒A)"と表記することもできますが,これを論理的表記法では,A⇔Bと書き,双条件法と呼びます。

双条件法:A⇔Bが真(=T)になるのは,AとBが論理的に同値なとき,つまりAとBが全く同じ真理値を持つときです。

 

一応後付けながら「論理的同値の定義」を述べておくと,

 

"「2つの文が論理的に同値である」と言われるのは,あらゆる場合にそれらが同じ真理値を持つときである。"ということです。

 

ただし,これは「論理上の同値性」の意味でのことであり,現実の「事実としての同値性」を意味するものではありません。

ここで,論理形式に適した文の形成規則を与えます。

 

0:出発点.アルファベット,ただし添字がついていてもよい。

 

1:否定.文の先頭に¬をつける。

 

2:連言.2つ以上の文の列において隣り合う文の間に∧を書きそうしてできたものを括弧でくくる。

 

3:選言.2つ以上の文の列おいて隣り合う文の間に∨を書き,そうしてできた文を括弧でくくる。

 

4:条件.2つの文の間に⇒を書き,できた文を括弧でくくる。

 

5:双条件.2つの文の間に⇔を書き,できた文を括弧でくくる。

実際上は,より長い文の一部としてではなく,単独で現われているものについては両端の括弧は省きます。しかし,それでは文の判断がつかない場合は判断のため,規則通りに補助的に括弧を付けることにします。

 

こうした文法規則に従って作られる文を論理式と呼びます。

 

また,この形成規則の出発点となるアルファベットの大文字で表わされる文,結合子を一切含んでいない文は原子文,または原子式と呼ばれます。

次に,幾つかの文の集まりを考えます。

 

この"集まりが整合的である(無矛盾である)"というのは,そこに含まれる全ての文が真になる場合があることを意味します。

 

逆に,この集まりが矛盾しているというのは,そのような場合が全くないことを意味します。

例えば,"A⇒C;A⇒¬C;A"の3つの文の集まりは,矛盾した集合になります。

 

単独の文についても,それが真になる場合があるかないかに応じて整合的である,矛盾している,と言われます。

 

矛盾した単独の文のことは自己矛盾的な文,単に矛盾と言われます。

上述の整合性と矛盾の定義によれば"A∧B,¬A,故にB"のような前提と結論を有する論証の妥当性は,前提と結論を含む集合{A∧B,¬A,¬B}の矛盾を示すことに相当します。

 

つまり,前提A∧B,¬Aが共に真で結論Bが偽になるような場合は論証の反例ですが,集合{A∧B,¬A,¬B}が矛盾することはこうした反例がないことを意味します。

われわれが普通に真理と読んでいるものは,一方では理性的真理,あるいは論理的真理,もう一方は事実的真理と呼ばれるものであると思われます。

形式論理学の対象となるのは前者のほうで,論理的真理は現実の事象とは無関係にどんな場合でも真です。

 

"論理的真理の中で最も単純な種類のもの"="真理関数的論理"の範囲での論理的真理,つまり,"その文の最小構成単位となっている文たちの真理値がどんな組み合わせになっても,全体としては常に真になる文"をトートロジー(tautology:恒真,同義語反復)と言います。

 

正しくは,"トートロジーとはその真理表にFになる場合が全く出てこないような文を言う。"と定義されます。

トートロジーの実例としては,"A∨¬A","A⇒A","A∨B∨¬(A∧B)"があります。

 

次のような形式の論証が妥当になるのは,これに対応する1つの条件文:2がトートロジーであるときです。

 

すなわち,1."前提1,前提2,..,前提n,それ故,結論"に対応する1つの文 2."(前提1)∧(前提2)∧..∧(前提n)⇒(結論)"です。

なぜなら,2が偽になるのは1の前提が全て真であるにも関わらず結論が偽になるという場合ですが,これは論証1の反例ですから2がトートロジーであるということは,こうした反例が全くない,つまり論証1が妥当であることを意味します。

 

それ故,文2がトートロジーであるということ,恒真であること,と論証1が真理関数的に妥当であること,は同じことを意味するわけです。

この意味で,"形式論理学=真理関数的論理学"は演繹の科学であり,反証の科学であると同時にトートロジーの科学であるとも言えます。

今日はここまでにします。 

 参考文献:Richard Jeffrey著(戸田山和久 訳)「形式論理学」(その展望と限界)(産業図書)

 

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302. 論理学・数学基礎論」カテゴリの記事

コメント

この記事を、参考に記事をかきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/kafukanoochan/54695176.html
また、屁理屈で、TOSHIさんの逆鱗にふれそうですが、
お怒りにならないで、下さいね。

投稿: kafuka | 2008年2月10日 (日) 10時10分

>まあ、哲学、特に自然哲学などどうでもいいし、全ての現象を万物は流転するなどという哲学的な1文にすることも実は興味ありません。
私もその通りです。今私が知りたいのは、宇宙の全ての現象を説明できる、数学的に無矛盾な理論だけです。

投稿: 凡人 | 2007年10月 6日 (土) 21時11分

 こんにちは、凡人さん、TOSHIです。

 中学校で習ったことですが、理科の先生が自然は変化を嫌う、とか説明して暗闇で電灯のスイッチを切ると逆電流で光る現象とか、電磁誘導も磁場を消そうとするとそれを拒否するように働くとか教えてくれました。

 カオスはよく知りませんが普通はエネルギーの散逸があると減衰するでしょう、例外は零点振動だけです。

 普通の自然現象は不安定な励起状態にあればほっといてもエネルギーレベルの低い安定な状態に移行するとか、あるいはエントロピーが最大の、最も一様で等方的な対称状態=最も乱雑な状態からずれて、ゆがみ=濃淡ができて不均質になってエントロピーが小さいほうにあると、エントロピーが大きくなる傾向があると思いました。

 自発的対称性の破れも逆に最も乱雑=対称な状態の方が真空のエネルギーが高く、乱雑ではなくて規則正しい配列,例えばスピンの向きがそろって磁性体になるなどの濃淡のある不均質状態の方が真空のエネルギーレベルが低いので、ほっといてもひとりでに相転移が生じて非対称になる方へと向かうという現象ですから、要はエネルギーとエントロピーのどちらに依存するかという相克で結局はギブスの自由エネルギーで評価することにつながるような話だと思いました。

 カオスとか散逸過程で減衰よりもむしろ増幅がおきるという現象も、それは閉じていない局所的な部分部分の不均質な集まりであり、孤立した総体としての全体系がひとりでに動く方向としてはエネルギーなどを供給されないので減衰傾向でしょう。

 局所的構造においてもそれらは少なくと止まっているわけではなく、ある基準に従って運動しています。その運動の向きが弁証法に従っているかについては考えようとは思いませんが。。。

 まあ、哲学、特に自然哲学などどうでもいいし、全ての現象を万物は流転するなどという哲学的な1文にすることも実は興味ありません。エンゲルスの自然の弁証法にしたって間違いだらけだから、何も擁護する必要もないのに、つい長冗舌になってしまいました。。

              TOSHI

投稿: TOSHI | 2007年10月 6日 (土) 16時18分

>同時に同じ場所での話でなければ別に矛盾ではないわけで、そうした振動的不安定な状態は解消されて合に向かう、ということでしょう。
哲学の話しは良く分かりませんが、動力学的に考えれば、時空が離散化、或いは、量子化していなければ、カオス状態は永遠に続くと思うのですがいかがでしょうか?

投稿: 凡人 | 2007年10月 6日 (土) 14時30分

 どもTOSHIです。

 真面目にコメントする必要もないのですが、上に述べているのは理論の内容に関してではなく、単に整合性=て,に,お,はとか文法に合っているかとかいう程度の話です。

 高度な論法といわれる弁証法も、形式論理を満たさなければならない、という条件からは逃れることができないとかね。

 具体的には弁証法で正,反⇒合(aufheben;止揚)とかいっても形式論理から、素朴に正∧反であるとするとこれは矛盾ですから決して真とは成り得ません。

 そこで結論が真であるとしても不健全な論証ですが、史的唯物論などを見ればわかるように、正と反は同時に同じ場所で,成立しいるわけではなく,振動的なものであって時間や場所にずれがあります。

 同時に同じ場所での話でなければ別に矛盾ではないわけで、そうした振動的不安定な状態は解消されて合に向かう、ということでしょう。

             TOSHI

投稿: TOSHI | 2007年10月 6日 (土) 13時23分

kafukaさん
http://maldoror-ducasse.cocolog-nifty.com/blog/2007/09/post_6215.html
もそうだと思いますよ。

投稿: 凡人 | 2007年10月 6日 (土) 01時03分

どうも、この記事も、僕のために書かれたようですね。
屁理屈と理論の違いがわかりました。

投稿: kafuka | 2007年10月 5日 (金) 11時01分

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