多原子系の方法論(分子軌道)(1)
前記事からの続きとして,いよいよ分子軌道の話題に入ります。
原子が多数ある系で個々の原子核の添字をA,B,..とし,それらの持つ正の電荷をZAe,ZBe,..;核の質量をMA,MB,..;位置ベクトルをRA,RB,..とします。
そして,原子核AとBの間の距離をRAB≡|RA-RB|で記述することにします。
また,この系を構成する質量mの全ての電子の添字をi,j=1,2,..として,その位置ベクトルをr1,r2,..とします。
そうして電子iとjの間の距離をrij≡|ri-rj|で表わすことにします。最後に原子核Aと電子iの間の距離をRAi≡|RA-ri|と表記します。
このとき系全体のハミルトニアン演算子H はH=Kn+Ke+Unn+Une+Ueeと書けます。
ここにKnは原子核の運動エネルギー:Kn≡ΣA{-hc2∇A2/(2MA)},Keは電子の運動エネルギー:Ke≡Σi{-hc2∇i2/(2m)},Unnは核間相互作用:Unn≡ΣA<B{ZAZBe2/(4πε0RAB)},
また,Uneは原子核と電子の相互作用:Une≡ΣA<B{-ZAe2/(4πε0RAi)},Ueeは電子間相互作用:Uee≡Σi<j{e2/(4πε0rij)}です。
ただし,hc≡h/(2π)はPlanck定数です。
核間相互作用Unnには,電気力による斥力とは異なる引力としての核力の寄与が含まれていません。
これは,分子内原子程度の核間距離のオーダーでは既に核力のレンジ(有効範囲)から,はずれていて事実上核力の寄与はゼロなので,核力のポテンシャルへの寄与は定数としての意味しかないため,無視できるからです。
原子核の質量MA,MB,..は電子の質量mに比べてはるかに大きく,上記の電子系のCoulomb相互作用による運動を問題にするときには,1/MA<<1/mにより,原子核系の運動エネルギーは電子系のそれと比較してはるかに小さいものです。
そこで,原子核は全て静止しているとして扱ってもいいと考えられるので,原子核の運動エネルギーKn=ΣA{-hc2∇A2/(2MA)}を,残りのハミルトニアンHe≡Ke+Unn+Une+Ueeと比較して,無視する近似が可能です。
この近似は,創始した人の名をとってBorn-Oppenheimer近似(ボルン・オッペンハイマー近似),あるいは断熱近似と呼ばれています。
この近似では系のハミルトニアンH=Kn+Ke+Unn+Une+UeeはH ~He=Ke+Unn+Une+Ueeと近似されます。
このときの系の近似ハミルトニアンHe=Ke+Unn+Une+Ueeは電子ハミルトニアンと呼ばれています。
そして,この場合にはRA,RB,..は空間に固定された原子核の位置を示す単なるパラメータになり,系の運動は電子の位置r1,r2,..のみで記述されるとされます。
この近似で固定された原子核に対する電子系の運動を考えるだけなら,単なる定数の核間Coulomb斥力のエネルギーUnn>0 は一見省いてもいいのでは?と思われますが,この項は原子核配置に依存した系のエネルギー的安定性を考察するために必要なので残しておきます。
以下では,本質的にはBorn-Oppenheimer近似を参考にしていますが多少異なるアプローチでの近似をめざして定式化しています。
まず,原子核の位置RA,RB,..をRで総称し電子の位置r1,r2,..をrで総称します。
そして全ハミルトニアンHから原子核の運動エネルギーのみ除いた電子ハミルトニアンHe=Ke+Unn+Une+UeeをHe(R,r)とし,これに対応する電子系を記述する定常状態波動関数をψ(R,r)と書きます。
こうすれば,電子系を支配する固有値方程式はHe(R,r)ψ(R,r)=u(R)ψ(R,r)なる形になります。
右辺のエネルギー固有値u(R)は,この原子核の集団内での個々の核の相対的配置Rに依存して決まる電子系のエネルギーに核間の斥力エネルギーUnn(R)を加えたものです。
固有値u(R)をRの関数と見て断熱ポテンシャルと言います。
全ハミルトニアンH=Kn+Ke+Unn+Une+Uee=Kn+Heに戻って,運動方程式をHΨ(R,r)=EΨ(R,r)と書けば,これはHe(R,r)Ψ(R,r)=(E-Kn)Ψ(R,r)を意味します。
(E-Kn)はrには依存しないので,これがu(R)に一致するとすれば,He(R,r)Ψ(R,r)=u(R)Ψ(R,r)ですから,Ψ(R,r)はψ(R,r)と同一の固有値u(R)に属するHe(R,r)の固有関数です。
そこでRのみに依存する比例係数をφ(R)と置けば,Ψ(R,r)=φ(R)ψ(R,r)と書けるはずです。
それ故,逆に個々のu(R)に対して,Rの関数として演算子Hn≡Kn+u(R)を定義すれば,結局元の方程式HΨ(R,r)=EΨ(R,r)はHnφ(R) =Eφ(R)なる形の方程式に帰着します。
したがって,この定式化では,まず,核配置Rごとに,He(R,r)ψ(R,r)=u(R)ψ(R,r)なる固有値問題を解いて,[電子の最小の束縛エネルギー+Unn(R)]=u(R)=(断熱ポテンシャル)と固有関数ψ(R,r)を求めます。
然る後に[Kn+u(R)]φ(R)=Eφ(R)を解いて,原子核のエネルギー+電子系の束縛エネルギー=総エネルギーの固有値E,および原子核の配置Rのみから決まる固有関数φ(R)を求めるという2段階の操作が必要です。
その結果として全体の波動関数Ψ(R,r)=φ(R)ψ(R,r)が得られることになります。
特に,系が2原子分子なら核配置Rによる固有値:[電子束縛エネルギー+Unn(R)]=u(R)(=断熱ポテンシャル)は,対称性を考慮するとき,2つの核A,B間の距離RAB≡|RAB|だけで決まると思われます。
そこで,u(R)を単にu(RAB)と書くと,Hn=Kn+u(R)=-hc2∇A2/(2MA)-hc2∇B2/(2MB)+u(RAB)と書けます。
これは中心力の2体問題ですから,2つの原子核の質量MA,MBから換算質量M≡MAMB/(MA+MB)を求め,相対位置RABを単にRと書いて相対運動の1体問題として扱うことが可能です。
この1体系の(相対)ハミルトニアンをHnrel≡-hc2∇2/(2M)+u(R)とすれば,断熱ポテンシャル:u(R)は原子核間距離Rだけで決まる核間に働く力場を与えるポテンシャル(位置エネルギー)を示すことがわかります。
参考のために水素分子イオン(原子核が2個で電子が1個の系)における具体的なu(R)のグラフを以下のホームページからコピーして掲載させていただきました。http://sparklx.chem.yamaguchi-u.ac.jp/lecture/docs/H_mol_ion.doc
結局,分子内で安定した状態として存在し得る原子の配置,すなわち原子核の配置を決める状態関数は,系内を運動する電子系を介して,それが束縛状態として安定な場合の電子と核,および電子同士の相互作用に支配された核間に働く力によって決定される,という基本的な結合構造のシナリオが得られました。
具体的に計算する方法は分子軌道法(MO)と呼ばれていますが,実際の計算は2原子分子程度なら割とスムーズなのですが,それ以上の多原子系では大変らしいです。
基本的には「多電子原子の構造」でも使用した変分法を多用するのですが,Hartree-Fock近似(ハートリー・フォック近似)を求めるのにも使用したRitz(リッツ)の変分法に頼って自己無撞着場の近似(SCF近似:self-consistent近似)を用います。
このとき変分法の出発点となる基底関数としては分子を構成する個々の原子における1s,2s,2p,..などの原子軌道関数の積を用います。
今日はこれで終わります。
参考文献:大野公一 著「(化学入門コース)量子化学」(岩波書店)
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