最近の社会の動向について
物理や数学など自然科学系の話ばかり書くのにも少し疲れたので,
大学生の頃は必要に迫られて,むしろ勉強の主流だった経済学関係
の話をします。
このブログでは,大分以前の2006年7月28日に,
「労働価値説と効用価値説」という記事を書きました。
最近の社会の動向からマルクスが見直されているらしいので,
ちょっと薀蓄を語ってみます。
カール・マルクス(Karl Marx)というとフリードリヒ・エンゲルス
(Friedrich Engels)と共に秘密結社:共産党の綱領「共産党宣言」
を執筆し,「資本論」など多くの著書を書いた人物として有名です。
彼の資本主義に対する分析は次のようなものです。
すなわち,資本主義の社会では経済的な自由競争の果てに,必然的
に定期的な経済恐慌が起こり,その末に最終的には資本主義は破綻
して矛盾が奔出して取り返しのつかないことになる。
そして,こうした状況を止揚するためには社会革命を起こす以外
にはないが,その主体として"プロレタリアート=労働者"が組織
されて政治革命が起こり,さまざまな変革の末に.理想社会
(ユートピア)の1モデルである"共産主義社会"に落ち着くであろ
うというものです。
要するに,例外はあっても,基本的には経済という下部構造が,
"我々のイデオロギーや政治を含む生活活動全体=上部構造"を
支配しているという唯物論的な考え方,
"存在が意識を規定する" というわけです。
そして,下部構造を変革する社会革命を実行するためには,逆に
上部構造を変える政治革命が必要であると考えます。
マルクスの言う史的唯物論では,資本主義に限らず,下部構造に
よって社会は発展してゆき,その発展方法はヘーゲル(Hegel)や
フォイエルバッハ(Feuelbach)の言う弁証法論理に従うであろう
というわけです。
つまり,振り子のように行き過ぎては戻るというプロセスを繰り
返して,やがては淘汰されて安定な位置に落ち着くという,近代
では社会科学でも自然科学でもごく普通の考え方ですね。
弁証法では正,反,合といいますが,同時に同じ場所で正と反が
存在するとすれば,それは矛盾します。
しかし,実際にはタイムラグやポイントラグがあるので,結局は
安定な場所=合に落ち着く(止揚(aufheben)される)というわけ
です。
"存在が意識を規定する"という唯物論の考え方は,平たく言えば
例外はあるけれど,"金持ち,セレブに生まれた男女の観念,思想は
貧乏な家に生まれた男女とは違う"ってなもんです。
"育ちの良さ"や"血筋"は隠せない,争えないものなのですね。
いまどきの年金とか健康保険とかの問題などについていうなら,
保険など不要で年金などもらわなくても老後の心配など.ほとん
どなく,また,庶民のように,わずかな給料をもらうために,あく
せく労働したこともないような2世,3世議員で代表される"
お金持ちのボンボン"達が,自分たちには関係ない"対岸の火事を
どうするか?"って国会でワイワイと井戸端会議をしているわけ
ですから,
"名案など浮かぶはずがない"という感じでしょうか。
そもそも75歳以上とかいえば,税金にしろ何にしろ,もはや払う
側じゃなくて貰う一方の側でなきゃおかしいですよね。。
そのための年金ではなかったのでしょうか?
多重債務じゃあるまいし,財源がなけりゃ借金してでも他から
もってくるのが筋です。
ちょっと前には,たかが金貸しのなれの果ての大銀行の"自己責任
で生じたこげつき"を国民の税金でまかなったと聞いてますから,
それくらい朝飯前で可能かと思います。
例えば,戦争放棄しているのだから,必要ない"防衛費=軍事予算"
とか,一般会計の5倍以上もあると聞く使途不明の特別会計
(埋蔵金?)でもセッセと使いますか?
まあ,余談ですが,1960年代の終わりから1970年代初めの70年安保
時代の学生運動でもノンポリを除く当時の政治活動を行なってい
た学生の主体は"代々木系(日本共産党系)"と,私もその末端だった
"反代々木系"に分かれていたわけです。
いわゆる"反代々木系"というのは,私を含む少数の例外を除けば,
大体"お金持ちのボンボン"が多くて,"きれいごと(例えば自分の
ことは棚に上げて他人を批判するようなこと)"である場合も多い
し,理想的なことを主張していました。
それに対して"代々木系"の学生は,比較的貧しい家庭の子女が多く
て,そればかりが理由ではなかったでしょうが,生活観に根ざした
ことを主張する傾向があったと思います。
もっとも,"理想を言って何が悪いのか?"ってなもんで,それは
それとして筋は通っています。
逆に,自分の貧困や,不遇,不満を基に被害者意識に固まって行動を
起こした場合には,とりあえず自分と自分の関係者の不満が解消さ
れたなら,急激にモチベーションを失なうのでは?と邪推してしま
います。
実際,当時の"ベトナム戦争反対運動"について"反代々木系"の側
からの"代々木系"の非難をも含めた一方的な主張を述べるなら,
「"代々木系"の主張はこのまま米国に追随していったら,やがて
我々日本も昔のように戦争に巻き込まれてしまうのでは?」と
いう被害者意識が中心であると思っていました。
一方,一部「ベ平連」なども含む我々"反代々木系"の主張は,同じ
ようでも"日本が巻き込まれる"というのではなく,とにかく"戦争,
それも侵略戦争は悲惨で不幸を生む源だから反対"という単純な
ものでした。
"侵略をしている米国と,それに加担している日本,そして,そこに
住んでいる我々は被害者ではなく加害者である。"
そして,"侵略戦争をしかけているのは国という圧力団体であり,
彼ら=有閑階級は"この戦争でいくら儲かるだろうか?と"高みの
見物をしているのだろうが,現地や周辺で実際に戦争をしている
それ以外の人々にとっては彼らがベトナム人であるか,米国人で
あるかに関わりなく,とにかく悲惨なことだから,戦争は早く終わ
らせるべきだ"といういわゆる"きれいごと"の主張でした。
そして"革命的祖国敗北主義"などという言葉に自己陶酔すること
もありました。
しかし,たとえ"きれいごと"であると後ろ指を指されるような主張
であっても,当時は自分たちの主張の方に理が有ると思っていたし,
今もそうだと思うので,何も後悔はしていません。
現代でいうなら,イラクやアフガンに無用な攻撃を加えるアメリカ
資本の利益に肩入れするくらいなら,テロリストの爆弾でテロられ
たり,テポドンの攻撃などを受けて自国も,自分も滅んでしまえ,
というくらいのもんでしょうか。
また,同じく"金持ちのボンボン"の考えそうなことで,自分たちは
親の脛を齧って学生という贅沢な身分である,そうした"贅沢な在
り方=自己の存在様式"を否定して自己を対象化せよ,とも主張し
ていました。
まあ,自分というものを他人の目でみたらどうだろうか?という
ように"自己を客観視せよ"という考えから,自分が恵まれて飽食
な日本人の一人であることも含め,"自己否定"などという言葉が
流行りましたね。
まあ,"きれいごと"ですから,実際に親に勘当されたり,親が破産
したり死んだりして,お尻に火がついたときに,どのくらいが逃げ
出さずに留まっていられるかは疑問ですが。。。
それでも"理想を言って何が悪いのか?"ってことであれば,別に
間違っているわけではなく,むしろ崇高であるとさえ思います。
祖国敗北主義というのはグローバルに考えようということで,
ジョン・レノン(John Lennon)のイマジンじゃないけれど,
"国境はない,ただ地球があるだけ"というわけです。
だからと言って,"右の頬を打たれたから左の頬も差し出す"って
ほど人が良い人たちばかりじゃないですから,"借りは返せ"とい
うわけで,日本が昔侵略した当事者の国々からは"清算しろ",と言
われています。
それを,"同じ地球人なんだから,すぐに全てご破算にして仲良く
しよう"と言うのは,引っぱたいた後で手のひらを返して握手しよ
う,ってことなので,"世界連邦を作ろう,みんな同じ地球人なんだ
から"などというのも,一朝一夕にはうまくいきません。
卑近な例ですが,昔イジメを受けた経験から言えば,久しぶりに会
ってみると相手はイジめたことを覚えてさえいなかったけど,イジ
められた側には何十年経っても夢で寝汗を書く程のトラウマが残
っています。
ですから,同じ行為なのに,数十年経っていても侵略し迫害した側
と迫害された側の意識に雲泥の差があるのは当然だと思います。
そして,かつてや今もある独立戦争や民族解放戦争っていうのも,
別に地球人や世界連邦に向かう道筋を考えると逆行しているとか
じゃなくて,これらも必要なプロセスだと思います。
たとえ,地球人,世界連邦という目標が達成されたとしても,かつて
のイギリスからのアメリカの独立戦争が無駄だったという人はい
ないでしょう。
また,かつて旧ソ連のロシアでは大ロシアと小ロシアがあって
少数民族は差別迫害を受けていたらしく,ソ連が弱った際には
多くの人民が民族独立を主張して小国家が乱立したのも無理
からぬことです。
これらも全て必要なプロセスです。
急がなきゃいけないけど急いではいけないのです。
三歩進んで二歩下がるというべきでしょうか。。
私は,何でもかんでも戦争反対という絶対平和主義者ではなく
て,暴力革命も含めて過渡期には戦うことも必要なことだと思
っています。
もっとも,国家間の戦争はある種のお金持ちにとっての
"金の成る木"であり,火のないところに無理に火をつけようと
する人達もいるようです。
地球人という意味では,かつて"万国の労働者,団結せよ"という
言葉に感銘を受けていた頃から,私はといえば,
"どこの国の人か?"という区別よりも,"お金持ちか貧乏人か?"と
いう区別の方が気になっていました。
ナショナリズムが必要な場合もあるのでしょうが,
私自身はグローバリズムしか眼中にありません。
ナショナル,国家といえば,レーニンの[国家と革命」には丁度,
警察の実体が"おまわりさん"という描像とは違うごとく,国家
は人民を庇護するためにあるのではなく人民を支配する権力と
して存在し,その役目が終われば自然消滅すると書かれています。
国家が公共の福祉,国益を守るとか治安維持を行なうとかいう形
で出てきたときには,一体,公共の福祉,利益とか,国益というのは
誰の利益のことなのか?を良く考えてみたいものだと思います。
もっとも権力としての国家という意味の国ではなく,生まれた故郷
という意味での"くに"には天邪鬼の私でも愛着を感じています。
さて,マルクスやエンゲルスのいう"共産主義"という
"理想社会=ユートピア"の定義は,
"各人の能力に応じて働き,必要に応じて与えられる。"
という社会のことです。
要するに,原始共産社会の時代から連綿と続いてきた経済システム
であるところの,"労働の代価として給料をもらう"という私有財産
的な考え方を捨てるのです。
例えば,体格が優れているとか,計算能力があるとか,能力のある人
は他人の2倍でも3倍でも働くことを奨励し,一方,生来の障がい者
であるために労働の種類によっては,量的に彼の労働成果が健常者
の半分である場合もあるとしてもそれはそれでいいとします。
しかし,同じ労働時間で平均的な人の2倍,3倍働いたからといって
平均人の2倍,3倍の報酬をもらえるわけでもなく,半分の労働生産
物しかできなかったからといって平均人の半分の報酬というわけで
もありません。
では,報酬というのはないのでしょうか?
実は,労働,仕事とは全く関わりなく,自分の生活を維持するため
に必要な量であれば,十分な量が支給されるわけです。
そして,究極的には,貨幣で物を買うということも必要なくなる
ので.ごく身近な個人に属する必需品以外については,全ての品
が只と同じなのですから,誰のものということもなくて自然に
共有になります。
"他人のふんどしを使うのは気持ち悪い"というような個人に
属する他にはないものを除けば,謂わゆる"私有財産は禁止する"
という強制的,法令的な意味ではなく,そういうものは自然になく
なります。
しかし,"単なる"お人良し"じゃあるまいし,そんなことになった
ら仕事というのは全部ボランティアのようなものですから,
能力のない奴や怠け者は喜ぶでしょうが,そうでない人間は
"労働意欲=モチベーション"をなくしてしまうでしょうから
"それが理想なのかもしれないけど,俺は真っ平だ"という感想
も当然あるでしょうね。
しかし,仕事で考えるとわかりづらいと思うので,スポーツの話
をすると,ゴルフの上田桃子プロのように,
"バレーボールもゴルフも好きだったけど,バレーボールはお金に
ならないアマチュアスポーツだからゴルフをやることにしました。"
というような人ばかりじゃないでしょう。
タラレバですが,体格がよく運動能力もあってイケメンの,某ハンド
ボール選手(宮崎)が,もしも野球やサッカーをしていたら,今頃,松井
や松坂のように年間で10億円以上稼げたのじゃないだろうか?
という人もいますが,
彼は自分の今までの道を後悔しているのでしょうか?
高校野球を一所懸命やるのも,関係者にとっては所詮お金がから
む話かもしれないけれど,一番の当事者の高校生の方は,一部を
除けばそうではないと思います。
もっとも,アマチュアスポーツと言っても昔のような意味ではなく
なっているとは思いますが,お金にならなくてもモチベーションが
起きる例としてはこんなもんでしょう。
直接,仕事の話にしても,自分の選んだ道が金に結びつかなくても
意欲がなくなるとは限らないし,金に結びつかなくても好きな道
というのはあると思います。
もっとも,チャップリン(Chaplin)の映画の中の機械に使われる
ような労苦とも言える疎外された労働であれば,労働意欲が沸く
のは私のような変態だけかもしれませんから,当然,やり甲斐が
あって楽しんでやれるような人間的な労働にするべく,環境を
整えることも必要でしょう。
いずれにしても,"権力を握ったものは必ず腐敗する"ので,
トロツキーではないけど,永続革命がなされる必要があるだろう
し.結局は意味は違うと思うけれど,どこかの宗教団体のお方の
言われるごとく"人間革命"が完遂されなければ不可能であると
いう意味では確かに"絵に描いたもち"のような"きれいごと"の
理想です。
そして,具体的な政治革命の方法としては,暴力的に政治権力を
奪取することになると予想されています。
実際,"ベルリンの壁崩壊"などで,東欧ではそうした体制の国は
もうなくなりましたが,一国でなされたロシア革命では帝政から
資本主義を飛び越えて暴力的な革命がなされ,
お隣の中国でもそうでしたが,共産主義への過渡期としての社会
主義とは似ても似つかない独裁者と官僚主体の
"歪曲されたプロレタリア国家に成り下がって,
当然あるべき"民主化=プロレタリア民主主義"さえ実現されませ
んでした。
暴力革命といえば,日本の時代劇では,ねずみ小僧は
"義賊とは言っても所詮盗人は盗人"などと評されますが,
政治革命では経済的な意味では大勢の貧乏な労働者達が皆で
盗人になり,少数のお金持ちから財産を略奪するわけです。
それで,抵抗にあえば死傷者が出るという意味で,暴力革命に
つながるわけです。
そんなことを言って,貧乏だとか理由をつけてもそれは自業自得
で,皆でやってもやはり盗人は盗人だ,私は別に悪事をして財を
なしたのじゃなく,苦労して一代でこの富を築いたのだから,それ
を殺してでも奪うということに理があるとは思えない,という感想
もあるでしょうが。。。
お気の毒なことです。
あなたが,この時代環境で財をなしたのが,ひとえにあなたご自身
の努力のみに帰するとはいえない,とでもお答えしましょうか?
もしも,違う時代の違う社会体制,例えば江戸時代で生まれたとき
から身分が決まっている状況でも,同じような財を作れる自信が
おありでしょうか?あるいは,今ワーキングプアという言葉を
ご存知でしょうか?
逆に,人並み以上に労働したからといって,貧乏なのですから貧乏
人であることが,本当に全て自己責任,自業自得ということになり
ますか?
さらに私がグローバリストの目で,もっと言うなら,現代の日本
に生まれてきて,しかも孤児ではなかったということだけでも,
イラク,アフガン等の一部?の貧乏人の家庭の子として生まれる
よりも,既に物質的には恵まれていると思います。
"政治革命=暴力革命"とも言われますが,もちろん,暴力を奨励し
ているわけではなくて,銃を向けるまでもなく,お金持ち達が全員
おとなしく財産を放棄すれば無血革命になる可能性もあります。
実際にはその方がいいのでしょうが,一旦握った既得権益を理不尽
な輩のために,むざむざと放り捨てるというわけにはいかないでし
ょうから,奪う側からは暴力で差し押さえる以外にないということ
になるのでしょうね。
そして,過渡期では過去のお金持ちを全く排除して,労働者だけの
民主的機構,いわゆるプロレタリア民主主義によって,労働者に関
してはなるべく公平な制度を築こうとします。
誤解を招く表現かもしれませんが,この時期の体制は
"プロレタリア独裁"と言われます。
いずれにしても,共産主義社会は生産性が向上して全ての人間の
衣食住を賄って余りあるほどにならないと不可能なことです。
現在のように,全ての人間が食べられるだけの食糧の需給はないの
に小数の人々が食料を独占して過食した挙句,ダイエットだグルメ
だと抜かしているようじゃ,理想からは程遠いです。
そして,天才と思えるマルクスにしても限界があって,彼の考える
世界は自身が行動範囲としていたヨーロッパ,特に当時でも既に
先進的な資本主義社会であったドイツとイギリスという狭い社会
だけと思われます。
広い世界と狭い世界の違いというのは,交通手段の必要性ですね。
狭い世界での変化は一瞬で全てに行き渡りますが,広い世界,それ
も19世紀の交通手段では,ある場所での変化が全地域に行き渡るま
でには莫大な時間がかかりますから,変化は場所ごとに異なり.
まばらになるはずです。
こうしたことに着目してマルクス経済学を補ったのが,帝国主義
の不均等発展を論じたレーニンの「帝国主義論」です。
当然,上記の広い世界について述べたことから経済的,資本主義的
意味での先進国と発展途上国が混在することを考慮する必要があ
ります。
そして先進国での矛盾を,とりあえず発展途上国に押し付ければ,
当面の危機を回避して,恐慌の発生を遅らせることができます。
こうしたことを国家レベルで行なえば,経済的な意味では
「国家独占資本主義国」,政治的意味では「帝国主義国」
になります。
自由競争に任せるのでなく,様々な,国家や地方主導による緩やか
な資本主義への修正を行なえば,体制を永らえることもできるで
しょう。
旧ソ連や中国がマルクスやレーニンの言う通りにはならず,歪曲さ
れた国家になったのは,それぞれ一国革命であってそれからなだれ
的に世界革命が起こるということがなかったからでしょう。
周りを囲む他国のほとんどが資本主義国であって,もはや全てを自
国で自給自足して鎖国できるという時代でもないので,情報の流出
入を抑えた完全な秘密主義を貫くことは国際的に不可能です。
周りの資本主義国と交易することは,自国が存続するため,自国民
が生きていくために不可欠です。
それ故,ある部分には,そうした経済システムを導入する以外には
なく,そうした綻びから全体が侵されていったわけです。
経済的には侵されても,政治体制だけでも周囲の国家達の圧力に
抗して維持するためには,独裁や洗脳もやむを得ないというわけ
でしょう。
もしも,周り全部で政治革命が起こっていれば,そういうこともな
かったでしょうけど。。。
したがって,ベルリンの壁の崩壊でもってマルクスは終わった,など
とは私自身は当時も思っていなかったし,今も思っていません。
さて,以前にも書きましたが,一般に物には使用価値と交換価値が
あって,我々が経済学などで価値と呼んでいるのは貨幣で買ったり
する商品の価格を決める普遍的な尺度のことです。
それは後者の交換価値のことですが,例えば空気や水のように人間
が生きるためには不可欠で大きな使用価値があるのに,交換価値の
方はほぼゼロですが,逆にダイヤモンドなど使用価値はほとんどな
いと思われるものが,交換価値が莫大というのが現実です。
こうした性質の"交換価値=価値"を説明するのに,"その物を手
に入れるために必要とする平均的な人間の労働量=抽象的労働量
=価値"であるとしたのが,アダム・スミス'(Adam Smith)に始まり
マルクスに至る「労働価値説」ですね。
つまり,現在の日本では普通の水を得るには水道料金が必要で
ミネラルウォーターであれば安価ですけど購買する必要がある
ため,水の交換価値はゼロに近いけどゼロではなくそれなりの
お金が必要ですが,空気なら,きれいな空気とか贅沢言わなけれ
ば,未だに只です。
空気の薄くない地上に住んでいる限り,今のところ空気を手に入
れるのに労働する必要は全くない,つまり必要労働はゼロなので,
空気の使用価値はそれこそ量り知れないほど大きいけど,
"価値=交換価値"はゼロであるという「労働価値説」の論理には
納得できるでしょう。
一方,ダイヤモンドについては,アダム・スミスのの説明は
「労働価値説」とは違うみたいですが,
「労働価値説」の論理でダイヤモンドの価値が大きいことは
次のように説明されます。
すなわち,ダイヤモンドの鉱石を掘り出して加工したとしても,
他の安価な鉱石を掘り出して精錬するのと費やす
"労働量=労働時間"は同じくらいであるという気がします。
ところが,実は平均労働量という意味では,石炭や鉄などとは違って
希少にしか存在しないダイヤモンド鉱脈を発見するに必要な莫大な
無駄な労働量をも考慮する必要があります。
つまり,ダイヤモンドの鉱脈1つを発見するための労働量として,
例えば一生かかっても鉱脈を1つも発見できなかった人などの無駄
であった労働量も全て加算して平均するわけです。
そうすれば,宝石を売り出すまでにかかる平均労働量は莫大で価格
相応になるわけです。
要するに需要に対して供給が少ないという希少価値も「労働価値説」
で説明できます。
一方,マルクス経済学と対立していた近代経済学の流れを引く
ミクロ経済学などは新古典派経済学と呼ばれる流れを引いて
います。
マルクス経済学が機械的労働による人間疎外とか商品に対する物神
崇拝=物象化など,人間の欲望の機微に深く入った分析をしている
のに対して,こうした経済学はイデオロギー的側面,哲学的側面の
分析を極力避けて,需給バランスを中心とした価格の推移など数学
的な扱いに終始しているように見えます。
そして,新古典派経済によると商品の価値というのは効用関数を
基にした限界効用で与えられると考えられています。
数学的に言えば限界効用というのは効用関数をその商品の消費量
で偏微分したときの微分係数のことです。
効用関数というのは,現在の消費量の時点でトータルの効用,
つまり"どれくらいの満足度があるか?"というのをさまざまな要素
の関数として表現したものです。
そこで,"限界効用=商品の消費量で偏微分したときの微分係数"と
いうのは,他のあらゆる要因を全て固定したままで,その商品の消費
を1つ増やす,つまり,その品を1つ買ったときに,"効用=満足度"
がどのくらい増加するか?の度合いを意味しています。
そして,この場合,労働というのは,効用関数を決定する多くの要因
のうちの1つの要因に過ぎないというわけです。
しかし,この効用関数というものは何か胡散臭いです。
これは,普遍的なもの絶対的な評価基準を与えるものでしょうか?
それが存在すると仮定して,その数学的性質だけを分析したとして
も,効用関数として仮定した関数の数だけの結果があります。
人間が幸福になるべきという哲学を抜きにして,前提と結果の集合
について整合性,無矛盾性を追求するだけの学問としての経済学で
あれば,それは,論理学と同じく同義語反復という意味でのトート
ロジーです。
ですから,効用を決める多くの要因のうちのどれが最も効くという
ような"エコひいき",あるいは特殊な意味のあるモデル効用関数を
決定しなければ"船山に登る"ということになるでしょう。
スピノザの汎神論の神についてはよく知りませんが,
フロイトの汎性論の性,あるいはリビドーについては,活力の源が
性衝動にあって,それがなくなると人間としての活力も失われる
という意味で,他の要素因もゼロではないが,心理を生み出す主要因
は性であるという特定がなされています。
こうした特定は効用関数を決める要因にも必要なことだと思います。
理論が不可知論や形而上学に至らないためにも「労働価値説」の
ような,これが一番効くという主要因の特定が必要だと思います。
ただし,ポジティブな意味に取るなら,ひとたび正しい効用関数が
与えられると,それによる経済のミクロな動向を全て機械的に分析
できるような万能の方法論を提供するのではないか?
という可能性はあります。
(※マクロ経済はミクロ経済の集積という意味では,熱物理学,
物性物理学が原子分子物理学の統計平均という関係と同じです。)
これは例えば,株価予測において,マルチンゲールを示すという
意味では何も予測できないモデルと考えられるブラックショールズ
のモデルのようなものですね。
これも,株変動の特定の要素因が効くようなモデルを入れて,個々の
パラメータが決まれば実際の株価の予測モデルとなり得ます。
もっとも,商品を作るのに必要な労働量が価値を決める尺度になる
というマルクス経済学の「労働価値説」にしても,
"誰も興味を持たないもの=需要がないもの",
つまりTPOで決まる人間の満足度,あるいは効用(=使用価値)が
ないものを作るために,いくら労働時間をかけたとしても
"商品=交換価値"を作るという意味では無駄な労働です。
一方,一時的でも需要が多いものを作る場合だと,そのときには.
少ない労働でも大きな意味がありますから,逆に,その場,そのとき
の需要の多寡が,尺度と考えていた労働の価値を決めるという側面
もありますから,
"ニワトリが先か卵が先か"という構造になっているわけで,
決して威張れるほどのものではないとも思いますが。。。
理想社会は,何も共産主義社会だけというわけではなくて,
本当に理想的なのかはわかりませんが,何も計画する人のいない
エスペラント主義者などの目指す無政府主義社会,
あるいはコンピュートピアを含む修正資本主義社会
というのもあります。
コンピュートピアとは,つまりボタンを押したら食べたい料理など
がすぐにポンと出てくるという奴ですね。
いずれにしても,ユートピア以前に,労働が正当に評価されない
社会,何か生活にとって使用価値のあるものを生産する生産的労働
を行なうよりも,一部資本を持っている者がバクチに属するような
投機的な金融,マネー・ゲームをする方が楽に効率よく大きな収入
が得られると見える社会になりつつあると見えます。
日本もまた,自国の製造業をないがしろにして金融投棄に走った
末に工業国としては没落していった大英帝国のような形骸社会へ
の道を真っ直ぐ歩んでいるのでしょうか?
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コメント
ども,明男さん。TOSHIです。拙い薀蓄話におつきあい頂きありがとうございます。
マル経についての話には自信がありますが近経やミクロ経済などについては対立する側から見たような経緯もあるし,必ずしも正鵠なのかどうか自信がありません。
心理学については,そもそも精神分析というのは現況で主流なのかどうか知りませんが,臨床という意味では私自身も精神分析を受けたこともなくもっぱら投薬治療でしたから主流ではないのでしょう。
しかし心理学が実は唯物論に根ざしているということを述べた精神分析については注目していましたが,これは薀蓄を語れるレベルではありません。
精神分析もフロイトよりもユングの方が世間には受け入れられやすいように思いますが人々がタブー視するような考えのほうに引かれます。もっともいまどきはフロイトやユングだけではないと思うので,ちと古いですかね。
TOSHI
投稿: TOSHI | 2008年5月28日 (水) 08時58分
こんにちは。
普段なら興味の無いことなのですが、一気に読みました。
経済学も心理学も好みでなく、実はほとんど読んだことはありませんが、この記事くらい分かり易く面白く書いてあったら、読んでみたのになあ!
機会があれば、今度は心理学方面で蘊蓄をお聞きしたいものです。
投稿: 明男 | 2008年5月22日 (木) 21時08分