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2008年6月18日 (水)

インモラルと人間の解放(再掲記事)

 このブログを始めた2006年の3月の終わりには,ブログを開始したばかりで少し張り切っていたこともありますが,2歳だけど今より若く,心臓手術を受けて障がい者のはしくれになった今とは違って普通に仕事もできていました。

 そのころの考え方を振り返ってみて,まあ2年しかたってないので当たり前でしょうが,今もほとんど心境は同じです。

 裏を返せば何の成長も進化もないわけですが,たまには手抜きをして過去の代表的な記事をそのまま再掲してみようと思います。

 以下,2006年3月24日の記事「インモラルと人間の解放」の再掲です。

 今日は,人間の解放とか倫理,モラルなどについて書きたい放題に書こうかなと思います。

 私が大嫌いな価値観(言葉)のひとつにモラルというものがあります。私自身はこのことに関連しては,自分は反社会的人間ではなく非社会的人間であると思っています。

 思えば,自分は,ものごころついてから高校卒業まで,あるいは浪人までは,子供であったせいもありますが,現状の社会の価値観を意識的にも無意識的にも自動的に受け入れ,自慢ですが体育の実技以外のペーパーテストでは,いつも成績トップクラスでした。

 そして,当時ではそういう子供がやるのが当然の学級委員などを毎回やる,世間でいわゆるところの優等生であり,性格なのかわかりませんが無口でもあったため,「おとなしいいい子ね。」とほめられて喜ぶ今思えば「やな奴」でした。

 たまたま,大学入学前後の時代が東大安田講堂攻防戦などもあって,大学に入っても学内は封鎖中であったり,スト決行中であったりして,学生運動や当時の学生の流行でもあったマルキシズムの洗礼を受けたのが結果的には現在の「価値観=思想」の形成を決定づけた主要な原因になったと思います。

 まあ,時代のイデオロギーや環境にあまり影響を受けず自分を貫くような人もいるだろうことは否定はできませんが,私自身はモロに影響を受けました。そもそも唯物論を示す有名な言葉「存在が意識を規定する」とマルクス自身が言っているではありませんか。

 「国際勝共連合=統一教会」の歌に「人は決して物じゃないトコトットット云々」というのがあったと思いますが,唯物論は決して物質(至上)主義ではありません。

 極端な話,ユングやフロイトなどにはじまる心理学ですら,「ア・プリオリ(先験的)な意識があって,存在(あり方)を規定している。」とするわけではなく,「彼にそういう心理が生じたのは,実は何らかの"原因=事件"があったからである。」ということを追求する学問であると思っていますが,それは科学であるし近代的な唯物論そのものですよね。

  ともかく,そうした運動にまきこまれた結果,無口な性格,優等生的価値観はガタガタとくずれていきました。

 今ではそれでよかったと思います,後悔はしていません。むしろ,そのまま上を向いて生きていったとしたら,と思うとゾッとします。

 無口ではなく,しゃべること,自慢もふくめて自己主張することは決して悪いことではない,純粋にアメリカ的個人主義というわけではないけれど,どんどんしゃべるようになりました。

 そう,今は,むしろ,おしゃべりですね。自分としては耳が悪いわけではなくて「聞かれて困るようなことなんか何もないから声が大きいんだ,コソコソ小声でやってたら,むしろ陰口でも言ってるのじゃないかと思われるじゃないか。」というのが口癖になりました。

 もっとも,スパイだの秘密諜報員だのをやってるんだったら,おしゃべりだの声が大きいだのは,それこそ聞かれると困るわけですから駄目なんですけどね。それに「口外しないでくれ」と頼まれれば,もちろん,しゃべりません。

 TPOはあります。学生運動,社会運動などでも官憲に聞かれて困ることは多いので,やはり,のべつまくなしにしゃべるのはどうかなと少し反省することもありました。

 まあ,そのほかにも,余談ですが同じ下宿にいた人でT大の理系を1年で中退して私の入っていた大学の哲学科に入学し直したという奥野さん,という変人の先輩と仲良くなり卒業してからもつきあっていて,しゃべるとか自己主張する,とかいう意味ではずいぶん,影響を受け,お世話にもなりました。

 今は会いたいけれど,どこでどうしているか知らないし,音信不通です。

  「沈黙は金なり」,「口は災いのもと」,「無口なのが男らしい」(「男は黙って○○ビール」)などというのは,そればかりではないですが,すべて当時の権力者,為政者が,庶民には忍従していてもらいたい,何か批判や主張を声高に演説などされてはたまらない,ということの現われだと思っています。

 西洋ではキリスト教などの,忍従してなんでも甘受する宗教がローマ帝国以来保護,優遇されていったのもそういうことでしょう。

 ニーチェの「道徳の系譜」ではないですが,その時代の支配的イデオロギーはその時代の為政者に都合のいいものが淘汰されて残り流行していく,というわけですね。

 もっとも,自分はニーチェの「英雄道徳」ではなくてショーペンハウアーの「同情道徳」のほうが好きですが。。。

  同情とか慈善とかいうと「上に立っている,見下している」,「慈善=偽善」ということだからやらないほうがいい,卑近な話,電車の中で老人などがすわっている席の前に立っていても席を譲ってあげるのは偽善だ,「席を譲るという行為で快感を感じたと同時に,既に報いを受けている。」と思っていました。

 若い頃は敢えてそうした行為をした直後にも,その頃の若さに特有な恥ずかしさと同時に後ろめたさをも感じていたものでした。

 しかし,今となっては,「たとえ偽善でもそれは偽善という名前の善には違いない,やらないよりまし」と思うようになりました。

 金持ちのはした金,あるいは売名行為とも思える庶民には多額の寄付金と,子供などがコツコツと貯金した金をふんだくる某テレビ局などの「慈善」とを,比べて,子供の寄付金のほうが多額の慈善より上だ,なんて思っても,現実の話,受ける側にとっては多額のほうがいいに決まっているのですよねえ。悲しい。。。

  いずれにしても,そうしたことも含めて,「上を向いていく=上昇志向する,出世したい,金持ちになりたい,名誉が欲しい」という生き方を否定し,「下を向いていく、下には下がある,世界には飢え死にしそうな人たち,先進国のエゴのために,戦場と化し悲惨な状況にある人を見て,微々たる力でもたまたま帝国主義本国に生まれてきたという理由だけで,幸福を享受している我が身を役立てたられたらいいな。」という生き方をめざすようになったわけです。

 私は,過去にやったことを"若気の至り"とかいって言い訳はしません。

 それはともかく,善悪というのは普遍的倫理でも何でもなく単なる一つの相対的な価値観に過ぎないですから,ときたま「性善説」とか「性悪説」などという言葉を説明用の術語ではなく真面目に論じている大人がいたりすると,本気で言ってるのか,と首をかしげることが多いです。

 善悪というのはイデオロギーであり,国によっても地域によっても,時代によっても違うものです。極端な話,人殺しは絶対悪かというと,戦場では敵である人をたくさん殺すと英雄になったりもするし,肉親を惨殺された人が報復として殺すことが本当に悪なんでしょうか。

 ただ,私自身,愛するものを理不尽に殺されたりしたことがないのでこれらのことは他人事ではありますが,権力によって代わって報復してもらうのは正直言ってイヤですね。私であれば自分でカタキをうちたいです。

 「ペストなどの疫病が流行ったり,戦争が起こったり,ホモ,レズが増えたりするのは,人が多くなりすぎて地球全体の生態系がこわれるのを防ぐ,"神の摂理"が働いている。」のだとすると,せいぜい法律とそれを支える罰則とか,"拘束力=暴力装置"としての国家だとか,による善悪の判断などは,結局,人間のサル知恵で考える相対的なものでしかないでしょう。

  これで,表題のモラルという話に戻るわけですが,どこかの教授ではないですけど「下半身には人格がない」ですね.

のぞきとか盗撮とか痴漢とかもあるわけですが,私自身も変態なのでそうした欲望はあります。写真とかビデオとかでそういうものを見て楽しんでもいますが,話によると実行したほうがより大きい快楽が得られるそうです。

 まあ,おそらく実行することはないと思いますが,実行した人がつかまって,家宅捜索でいろいろな変態的写真などが見つかって社会的に非難されていることがよくあります。

 しかし,そもそもそうしたものを個人で楽しむ分には何を言われる覚えもないでしょう。

 のぞき,盗撮にしても,それを受けた当人が気づかなくて社会的影響などの意味も含めて実害を全くこうむらないのであればアリだと思います。

 昔,感動を受けた題名には平岡正明 著の「すべての犯罪は革命的である」というのがありました。「造反有理」に通じるものを感じたからかもしれません。

 そもそも,人間はサルの一種なんです,真に解放されるには毛皮がないサルにはむずかしいけど,衣服を脱ぐ必要があります。

 変態の私は最高に解放されるということは男ですから最高に勃起する,最高の射精をする,ということでもあります。もっとも,歳のせいか,弱くて困ります。

 ところで,ある人に「俺はプライドなんか持ってない」と言ったら,「プライドのない人間なんかいるはずがない」と言われました。

 「そりゃそうだな,俺はプライドなんか持ってないというプライドをちゃんと持っているんだ。」ということに気づきました。。。。

 ということで脱線しそうだからやめますが,ライヒではないですが「インモラルは解放への最大の道だ」と断言して終わります。(再掲記事終わり)

 まあ,今思うと,現時点で刹那的に最大の快楽を得ることが私にとって最良であること,早く言えば,もちろん将来まで続いていけばいいのは当たり前ですが,先のことなど関係なく今さえ良ければいい=「いいじゃないの今が良けりゃ(←盗作?)」という生き方の方がいいと述べているだけです。

 先々の栄冠(=快楽?)に目標を定めるなどして,ストイックにコツコツと忍耐努力するような生き方よりも動物としての生態にマッチしていていいだろうという,社会的モラルからはずれているだろうことを述べているのです。

 しかし,このこと自体は最初に書いた上昇志向性を捨てることや同情道徳が好きであるという思想とは矛盾しています。

 当時も気付いていましたが,私は別に意識しなくても,自分の実存と社会性の矛盾した面を承知の上で使い分けるという,ある意味では二枚舌を使う姿勢を既に肯定してしまって開き直るような人間になっています。

 ところで,モラルというのは政治を行なおうとする側の発想であって,現状の秩序をこわすような争いを避けようとするものです。

 そこで,少なくとも精神的意味では人間は悟性である,あるいは理性そのものであることを求めるのですね。

 人間の動物ではない部分を強調しようとするあまり,感性的なもの,赤ん坊の頃には誰しもがそればかりで,それ故,むしろ若者に属する部分である人間の動物的な部分,本能に属する部分を顕わにすることを極端に恥かしいと感じて無理に隠そうとするような規範を与えるものをモラルと呼ぶのであろうと思います。

  そして,私の求める「人間の解放=幸福」は,動物であることを恥ずかしいなどとは思わず,個々人が感じるままに動物として忠実に生きていけること,ある意味で赤ん坊に回帰することを意味しているので,モラルに反するのは当然ですね。

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http://folomy.jp/heart/「folomy 物理フォーラム」サブマネージャーです。 

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