カルネアデスの舟板
「究極の選択」,あるいは「正当防衛」の例として「カルネアデスの舟板」というのがあります。概ね次のようなものですね。これはこの通りの題名の松本清張氏の著書もあります。
「1人の人が1枚の舟板をつかんでかろうじて漂流しながら生きている。その板は2人が乗ったりつかまったりすると沈んでしまうけれど,1人だけならつかまっていても沈まないので,彼はそれにつかまっていれば生き延びられる。
ところが,そこへもう一人の人が流れてきてその舟板につかまろうとしたとき,どちらかが相手を蹴落として1人だけ生き残った場合,生き残った側の相手を蹴落としたという行為を罪に問うことが出来るだろうか?」という問題です。
普通の民主的な地域での裁判であれば,彼は「正当防衛」とされて無罪放免とされるはずです。カンダダ(蜘蛛の糸)にも似てますね。。
これを初めて知った昔から,私の頭の中に何故かこの課題が残っているのは,相手を蹴落とすという話とは逆のことで,偽善と慈善の判別に関連していて,自分を犠牲にしても他人を助ける行為の方です。
カナヅチに毛の生えたような自分ですが,相手を殺して生き残るのは確かに世間の評価では無罪であっても,私にとっては有罪なのでできたら左の頬を差し出したい気分なのですね。
自分が飢え死にするのを覚悟で微々たるものでも財産の大部分を施すのが慈善,2人以上つかまっても大丈夫だからとつかませる余裕の部分を施すのは偽善に近いかなという意味です。ま。。どうでもイイ話ですが。。。
PS:いや,実は慈善,偽善よりもっと大きな描像である「食物連鎖」あるいは「弱肉強食」のことも考えていました。資本主義経済で言うなら単なる「自由競争」ですが。。。 (キリスト教なら原罪?)
舟板が大きく立派で漂流者全員がつかまっても沈まない。。。。国全体,イヤ地球全体(全世界)に全員がつかまって生きていける程の十分な「生産性」があれば本来振り落とされて沈む人はいないはずなんですが。。。
(自民から民主に変わっても同じだとかブツブツ言わずに,取りあえず1回でも政権交代させてみろよ!。。。
同じような店だろうと何だろうと,お店が2つ以上あって競争相手になるようでなけりゃ,商品の安売り合戦とかサービス合戦なんてのは決して起きっこないんだぞ。。。)
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コメント
船縁に掴まったのが、3才の我が子だったら?
(それでも 乗せたら船は沈む とします)
世間一般の場合の話は、置いて、
船に乗っているのが 公儀介錯人 拝一刀 だったら、、、
ある時、拝一刀が、大五郎を人質にとられて「刀を捨てろ」と言われました。
一刀は、答えます「私が死ねば、この子 育たず」で、刀を捨てませんでした。
たぶん、拝一刀なら、、、
(いや、違うかな。やっぱり わからんなぁ)
論点が えらいズレましたがお許しを。
投稿: kafuka | 2009年5月29日 (金) 10時15分
TOSHIさん
見破っちゃいけません。そこは、それ、大人の事情というものです(武士の情けとも言う。笑)。
でも、冗談は兎も角、今や私は妻に居候する身ですし、シャツのボタンさえ留めて貰う始末(手根管症候群なんもので)。頭どころか何も上がらない状態なのです。TOSHIさんがうらやましい、などとは言いませんが、頼るよりは頼られる方が気楽ですね、やはり。
善悪の話は全くその通りと思います。ただ、本音を言えば、善悪の区別が無いというより、気にならなくなったと言う方が正確でしょう。善人なおもて往生す。況や悪人をや。
本来の意味は違うことは承知ですが、拘りながらも囚われない、そうありたいと思っています。
投稿: 明男 | 2009年5月17日 (日) 13時18分
ども。。TOSHIです。
過去に何度も書いてますが善悪というのは普遍的でも何でもなく所詮相対的な価値観ですね。。
もちろん,それを承知で書いてます。一応相対的でも私に大切なのは美というか美学です。私の主観的な美です。。
例えば,「卑怯な」というのは非難するときに用いられます。
かつて,今メジャーにいる松井が高校生で高校野球で全打席で敬遠されて相手高校は主に卑怯だと非難されました。
でも,敬遠は野球のルールにあって,高校野球でなく日本のプロ野球やメジャーでどうしても勝たないといけない試合なら卑怯と非難されることもないでしょう。
この場合,「卑怯な」という価値観もルールやTPO次第の相対的なものです。こうした行為が主観的に見て美しいかどうかの価値判断の方が善悪よりも私にとって上位の価値判断ですが相対的であることに違いありません。
結局,主観の話ですが,結局は誰の利益の味方をするかだけでもちろんエゴに近い方の味方ですが,ちょっと相手のエゴに味方することがマゾの自分にとってのエゴだったりするので(^^;)
明男さん。。
>子供や家内が沈みそうだったら迷わず自分が手を離します。
ひょっとして「家内」の方には疑問符がつきませんか?(^^;)
TOSHI
投稿: TOSHI | 2009年5月17日 (日) 10時28分
この話を聞くと私はつい家族がみんな縋っている家庭を思い浮かべます。子供や家内が沈みそうだったら迷わず自分が手を離します。親や兄弟なら涙を飲んで許して貰います。では赤の他人だったら。ゴメンネとは言うけれども、手を剥がすでしょうね。偽善というのが存在するのかどうか疑わしいと思っています。善を装う事はあるでしょう。しかし、純粋に善なるもの、悪なるものがあるとは思われないので、偽善もまた然りではないかと思うのです。昔は偽善者と言われることにはすごく腹が立ちましたが、今なら従容として受け容れますね。その通り、善を愛するが、所詮偽善者ですよってね。
投稿: 明男 | 2009年5月16日 (土) 12時11分
あの2年間だけは,やたらに東京に出向く機会があった(文部省に呼ばれた)のですが,今ではさっぱり。オフ会が懐かしいです。
繊細って言うより,小心者って方が当たってると思います。(^_^;)
投稿: かんねん | 2009年5月15日 (金) 21時47分
どもかんねんさん。。コメントありがとうございます。TOSHIです。
基本的に私は他人を批判しようとは思ってなくてほとんど自戒のために書いています。一種のマスターベーションです。
この課題も私であれば有罪ですが一般には無罪です。。
確かに例えば襲われて殺されそうになって正当防衛で相手を殺したとして無罪であるとしても,その相手にも家族はあるでしょうから寝覚めは悪いでしょうね。
かんねんさん,お会いする機会は何度かあったのに未だにお会いしてませんが,察するにどうも繊細な方みたいですね。。
TOSHI
投稿: TOSHI | 2009年5月15日 (金) 21時00分
相手を蹴落として生き延びた後,自戒やら後悔の念で苦しむ人生を送るかどうかは,まったくもってその人次第かもしれませんね。私は心の病に陥って早死にするであろうタイプなので,「鈍感力」なるものを持つ人々が羨ましくて仕方ありません。
でもTOSHIさんの文章を読んで,自分は偽善者なのかもしれないと思ってしまいます。
投稿: かんねん | 2009年5月15日 (金) 07時35分