Diracの空孔理論(1)
「水素様原子の微細構造」(補遺)」から続く話題として,反粒子の存在を予言した「Diracの空孔理論(Hole theory)」の概説に入ります。
§1.負エネルギー解の問題 (序文)
Dirac方程式の負エネルギー解については,初期の議論のいくつか
で触れてきました。
例えば,1つの局在化された波束の構成においても,その中には
必然的に負エネルギー解成分が存在することを計算で確かめ
ました。
しかし,これまではそれらを解釈したり,その含蓄する意味を理解
するという問題については何とか避けて通ってきました。
しかし,今から後はこうした疑問に直面していきます。
負エネルギー解の存在は,原子内の電子が輻射を伴なって
負エネルギー状態へと遷移し,これまで想像もしてなかった
"無間地獄"状態へとなだれ的に落ちてゆくことを可能にし
ます。
こうした現象を避けるためには,Dirac理論の再解釈が必要
とされます。
もしも電子と光子(輻射場)の相互作用を完全に無視するなら,
こうしたことは何の問題もなく,以前の記事で書いたような定常解
が計算できて,実験と非常によく合致するエネルギー固有値や遷移
振幅をも見出すことができます。
しかし,もしも輻射相互作用(光子との相互作用)をも含むことが
要求される正確さまで原子内電子の微妙な性質による結果をも
計算したいなら,
実際的のみならず原理的に,"電子が負エネルギー状態に転げ落ちる
のを防ぐ"という問題が存在し,これを避けては通れません。
水素原子の基底状態にある電子が負エネルギー状態まで落ちる
遷移率は,半古典的輻射理論を適用すれば先に見出した波動関数
を用いて容易に計算することができます。
すなわち,電子が負エネルギーの準位:-mc2から-2mc2の間
に遷移する率(単位時間当りの遷移確率)は,
約(2α6/π)(mc2/hc) ~ 108sec-1です。
もしも,この準位区間だけでなく全ての負エネルギー状態への
遷移を含めれれば,こうした全遷移は大爆発を起こします。
しかしながら,これは,明らかにナンセンスです。
こうした状況下でもなお,Dirac理論,Dirac方程式が生き残れる
としたら,
それは1粒子Schroedinger理論の単なる相対論的拡張として示唆
されるのとは別の負エネルギー状態の取扱いを見つける必要に迫
られます。
ところが,Diracはこうした見解を見出すことを既に1930年には
成し遂げました。彼は「空孔理論(Hole theory)」という新理論
を定式化してこれに臨んだのです。
その理論は,負エネルギー解によって提示されたジレンマを単に
「Pauliの排他原理」に従って負エネルギー状態を満たし尽くす
ということによって解決するものです。
この解釈によれば,真空状態(vacuum;基底状態)は
全ての負エネルギー電子状態は電子で満たされていて
正エネルギー電子は全く空の状態です。
「Pauliの原理」によれば,もはやこれ以上の電子はこうした
"負エネルギー電子の海"に収容することが不可能です。
それ故,水素原子の基底状態の安定性は保証されることになります。
この"負エネルギー電子の海'(Dirac sea)"という新しい仮説から,
多くの帰結が従います。
まず,負エネルギー電子が輻射(光子)を吸収して正エネルギー状態
に励起されることが可能となります。
これは下の図5.1に図式的に示されています。
図5-1
この現象が生じると,新たに電荷がe<0 でエネルギーが+E>0
の1電子の存在が観測され,かつ負エネルギー電子の海に1つの
負エネルギー電子の抜けた抜け殻の空孔(hole)が観測されること
になります。
この空孔は,電荷がe<0 でエネルギーが-E<0 の
"1電子の非存在=負エネルギー状態の占拠電子の欠如(absence)"
を示しています。
これは観測者にとっては,真空状態に相対的に電荷が-e>0 で
エネルギーが+E>0 の1つの粒子状態が存在すると見えるはず
です。
そこで,この電荷が-e>0 でエネルギーが+E>0 の粒子を
電子の反粒子(anti-particle)である陽電子(positron)と解釈
するわけです。
これが,電子-陽電子の対創生(生成)(pair-production)に対する
空孔理論的解釈の基礎です。
これと対照的に,負エネルギーの海における空孔,or 陽電子は
正エネルギー電子が落ちる落とし穴(trap:罠)となり,輻射(光子)
の放出を伴なって電子-陽電子の対消滅(pair-annihilation)
へと導くことがいえます。
これは下図5.2に図示されています。
図5-2
空孔理論によって,Dirac理論は正負両符号の電荷を持つ粒子たち
を記述する多粒子理論へと移行することが認識されます。
そして,解の波動関数(spinor)は単に1粒子理論の確率解釈を
有するという性格のモノだけではなくなります。
何故なら,それらはまた電子-陽電子対の生成や消滅をも記述する
役割を有するからです。
歴史的には,Klein-Gordon方程式が廃棄されてDirac方程式が
発見され,その理論の発展が1粒子理論を確立するということが
望まれるように動機付けられたという経緯が思い起こされます。
それ故,何故,Klein-Gordon方程式のケースと同様,解釈の困難
が生じたDirac方程式もまた捨てるという選択が取られないのか?
という疑問が生じるのも当然なことです。
しかしながら,Dirac方程式については,次の簡明な理由からその
廃棄を渋ってきたという経緯があります。
つまり,これまでのところDirac方程式における"真理"の印象的な
実体物がどんどん明らかになってきており,
それは水素原子の超微細構造と呼ばれる正確なエネルギースペクトル
を予言したり,電子の"g因子=磁気回転比"も非常に正確に予測して
きているからです。
そして,この空孔理論において予言される陽電子についても実際に
観測にかかっています。
元は,Diracによって合理的に写し出された推論の歴史的経緯に
従って,電子に対する望ましい方程式へと導かれてきたわけです。
もっとも,今となっては理論を再解釈することにより元々の発展
への出発点となった動機は捨てられる結果になっていますが。。
物理学の歴史では,こうした理論の進歩の試行錯誤的プロセス
パターンは他にも山ほどの例があります。
したがって,Dirac方程式の空孔理論解釈を支持して,最初遂行して
完成しかかっていた"素朴な"1粒子の確率解釈は排斥することに
します。
ここで,また2階線形のKlein-Gordon方程式に帰ることも可能です。
そこでもまた波動関数の適切な再解釈によってこの方程式を救済
することも可能であることに着目しておきます。
Klein-Gordon方程式を超えたDirac方程式の利点は,それがspinが
1/2で,g=2 の電子を正確に記述できることにあります。
後述する予定ですが,一方のKlein-Gordon方程式はπ中間子(pion)
のようなspinがゼロの粒子を記述できます。
これら両方の相対論的波動方程式について共通なことは,不変な
2次のエネルギー・運動量の関係:pμpμ=m2を記述している
ことです。
両方のケースで安定な基底状態を保証するためには,
負エネルギー解の再解釈をする必要があります。
そして,これはFermi粒子とBose粒子の双方について粒子(particle)
だけでなく反粒子(antiparticle)が存在することを不可避にします。
(※↑もっとも,Bose粒子では「Pauliの排他原理」は成立しない
ので,Bosonにより占拠された負エネルギーの海という同じ解釈
では破綻します。
Dirac spinorやKlein-Gordon scalarが単純な確率振幅を意味
する波動関数でなくFock空間の状態ベクトルに作用する第二量子化
された場であると再々解釈すれば,Dirac seaのようなものを仮想
する必要性からも解放されて新たな地平を築くこともできます。
例えば,正エネルギー解の部分は正エネルギー粒子の生成,
負エネルギ-解の部分は正エネルギー粒子(実は反粒子)の消滅
に関わる振幅の部分と考えれば,負エネルギー粒子の存在を仮想
する必要はなくなります。
しかし,今は歴史的経緯に従って空孔理論を概説しています。
個人的には,これを理解することも必要なプロセスであると思って
います。※)
結局,粒子は正エネルギー解によって記述されますが,反粒子は
負エネルギー解の非存在(空孔)によって記述されます。
今の例では,Dirac方程式に従う粒子は質量がmで電荷がe<0 の
電子であり,他方,反粒子は質量は同じmなのですが電荷が反対符号
:-e>0 の陽電子です。
今日は.序文(introduction)として短いですがここまでにします。
(※関連過去記事として,2006年12/21の
「電子の自己エネルギーとDiracの海」があります。※)
参考文献:J.D.Bjorken S.D.Drell "Relativistic Quantum Mechanics" (McGrawHill)
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コメント
電子の"g因子=磁気回転比"も非常に正確に予測してきているからです。
↓
電子の"g因子≒磁気回転比"も概ね正確に予測してきているからです。
投稿: 凡人 | 2013年4月11日 (木) 17時56分
収容が可能です ⇨ 収容が不可能です
投稿: hirota | 2013年4月11日 (木) 15時25分