記事リバイバル「2012年の東北ボランテイアの思い出」
※今日は東北大震災8周年なので私が2012年62歳のときの4/7の過去記事「会津若松の仮設住宅集会所で唄ってきました。」という大熊町仮設訪問記を再掲載して当時を思い出したいと思います。
※以下 再掲載丸写しです。
表題の通り,4月5日8時半頃に,JR巣鴨駅から鈍行電車で会津若松まで,16時10分頃着きました。
(※今回カメラ撮影しなかったので,以下ホームページの画像から流用)
そして,駅前のビジネスホテル(駅前フジグランドホテル)に一泊後,
6日の午前10時過ぎから11時半頃まで福島第一原子力発電所近くの大熊町(おおくままち)から,避難されてきて会津若松駅付近の仮設住宅におられる方々の集会所で,ヘタな唄を披露しました。,
※下は福島県の地図概略です。
(HPからペイントでトリミング。。寝ぼけてたのでいいカゲンです。。)
。
東北地方大地震によって事故を起こした福島第一原発は福島県浜通りの双葉郡大熊町・双葉町にあります。
今回は,その事故で放射能汚染された双葉郡大熊町より,原発から離れた福島県内陸部の会津若松市の仮設住宅に避難・移動してきた方たちを訪問することが第一の目的でした。※
その後は,ミスター・ドーナッツで軽食の後,空腹感がないので本格的昼食はとらず,午後に少しだけ,市内観光に行って,酒造りを見学した後,一人で15時06分の会津若松発磐越西線の郡山行きに乗りました。
郡山からは東北本線上り普通で幾つかの乗り換えの後,21時過ぎに巣鴨駅に帰り着きました。
交通費として,行きは,当初予定していたJRバスの予約無効のため,巣鴨駅で障がい者槍引で通常乗車運賃の半額の2470円也で,東京都区内から会津若松駅までのJR片道切符を買いました。
,そし,て,帰りは喜多方に二泊していた相棒女性が予定変更で,もう一泊することになったため,
彼女が既に4月6日にも喜多方から会津若松駅まで来るのに使用していて,その後は不要になったという最後の5日目の4/6のハンコが押してあり,もう6日しか使えないという青春18切符貰ってそれで1人で帰ったのでタダでした。
(※帰りも2470円と思っていたので,そのお金でおみやげを買ってしまいましたが,よく考えるとタダでは悪いので,後で東京で会って金があったら1000円くらいは払おうかな?と思っていますが。。。)
行きは途中赤羽だけに停まる湘南新宿ラインで,池袋駅から大宮駅まで行きました。
それから東北本線で小金井,宇都宮,黒磯と乗り換えて最後に郡山,そこからは磐越西線で14ji51分発,会津若松駅に16時08分着に乗り,さらに3分遅れで終点会津若松駅に着きました。
予定外に,巣鴨から都合7時間半もかかったのは乗り換え駅での接続が悪かったからです
宇都宮駅11時12分発で12時丁度くらいに黒磯に着いたのですがそこから郡山行きが12時34分発で,郡山に着いたときはもう13時40分頃でした。
会津若松で携帯電話を持たない相方との待ち合わせ予定時間の12時~13時は既に過ぎていていて,郡山では少しあわてて,うっかりすぐ向かいのホームで出るばかりだった福島行きに乗ったのですが,
スグ間違いに気づきました。東北本線で乗るべきは磐越西線です。
次の駅で折り返そうと思いましたが,なかなか着かず,一駅がずいぶん長いな?と感じました。
5分余りで次の無人駅の日和田(ひわだ)という駅に着き,そこで降りて反対側の改札口があるホームに移動しました。
無人駅は初めてだったので,これもいい経験でした。
そこから,結局,下りに乗っての郡山駅へ帰ったのですが,日和田駅では1時間に1~2本しか電車がなくて,その駅に来てから,やっと14時13分出る電車に乗って帰った郡山では,次の会津若松行きは14時51分ということで,またまた,30分くらい待ちでした。
最後に16時08分の予定着時刻に3分遅れで,16時10分過ぎに目的地に到着して,それから20分後くらいして,やっと相棒に会えたのでした。
出発時は東京は朝でも晴れで暖かかったのに,会津は雪まじりの冷たい雨が降っていて,16時~17時頃でもかなり寒かったです。
駅のまわりにはカプセルでもネット喫茶でも何でもあって,テキトーに安く泊まれるだろうという都会的な安易な考えは通用しないことがスグ見てとれたので,取りあえず,今夜の宿を確保することにしました。
こんな冷たい雨の中,今から遠くまで行こうという気にもなれず,「駅前フジグランドホテル」というビジネスホテルで朝飯つき4500円という格安シングルを予約した後,そのホテル内の喫茶店で1時間ほどお茶をしながら翌日の打ち合わせをして,別れました。
何だか,旅先でのデートのようにも見えるけれど,お互いビンボーだし,年の差が30くらいの「美女とクソジジイ」では,ロマンなど有り得ませんね、
(※昔,30代の頃には,仕事でちょくちょく荒川沖駅から,つくばの気象研究所に行って,そこは近いけど不便な場所だったので,日帰りは無理なことが多く,現地の,ビジネスホテルによく泊まっていたのを思い出しました。
ビジホに泊まるのは,それ以来かなあ?
そういえば,当時,気象研では,東海村などで放射能漏れなどの事故が起きた万一のケースを想定して,放射能拡散の数値予測モデル(計算シミュレーションを用いて,放射性物質の5パーセント濃度コンターを描くetc. 今のIAEAの先駆け??)を作成する手伝いをしていましたね。※)
喜多方と会津若松は磐越西線の電車で20分くらいなのですが,上りも下りも1時間に1本しかないので,彼女が泊まっている喜多方の旅館で夕食を取る時間までに戻るには,17時22分の電車に乗る,という選択しかなかったのでした。
さて,翌日朝会津若松駅で待ち合わせをして,赤十字の支援者の車で仮設住宅の集会所に行き,そこで私たちが演奏して唄った歌というのは,メインでは沖縄の「安里屋ユンタ」と「十九の春」の2つだけです。
前者は「マタハーリヌ,チ(ツ)ンダラカヌシャマヨ(死んだら神さまよ?)」という掛け声が有名ですし,後者は田端義夫(通称:バタやん)のヒット曲ですから,年配というか,お年寄りならよくご存知のはずです。
私の方は,大抵の歌は歌詞さえあればアカペラでも,大体大丈夫ですが,メインの売りモノは,女性が伴奏の三線の方で,こちらの方は,先の2曲の他には,まだ練習中というのが,「ハイサイオジサン」と「涙そうそう」で,後は,もっと拙ないらしい,「てぃんさぐの花」があるくらいです。
(※ ↓下の写真は,上が我々が持参して演奏した手作りのカンカラ三線で,下は蛇の皮を使用している本格的な沖縄の三線です。)
東北の会津まで来て,我々2人も別に沖縄人ではないし,沖縄の歌ばかりでもないだろうと思い,伴奏抜きで会津地方にまつわる歌でも歌おうかな?と私が提案しました。
カラオケで「会津の小鉄」という演歌も少し知ってましたが,歌詞も覚えてないし用意もしていません。
,無難なところで,「小原ショウスケさん。ナンデシンショウツブシタ」という部分が有名で福島県の人なら恐らく誰でも知っている「会津磐梯山」なら,1番の歌詞だけ知ってるので,それをアカペラでやりました。
これは合いの手のカケ声も入り,ちょっと盛り上がりましたが,よく考えてみると,今いる場所は会津でも,集まっておられる方の地元故郷はここではない,ということに気付きました。
そうこうしているうちに,「まあプロでもないし練習中でもなんでもやっちゃえ」。ということで「ハイサイオジサン」をやりました。
そして,「涙そうそう」の方は,その場のみんなもよく知っているというので,全員で合唱となりました。
それから恐らく私より10歳以上年上の女性に「相馬ナントカ唄」という本格的な民謡をよく通る声で披露して頂きました。
そして,私も引いたことのない三線を1本持参していましたが,相棒も自分用の他に2本用意していたので,それらを記念にさし上げることにして,三線を一緒に練習してもらいました。
最後に持ち歌の2曲を再び,今度は全員で演奏したり歌ったりして,お開きになりました。
ここには,ホワイトボードがあったので,昔,西巣鴨で1年間だけ自営していた「理進ゼミ」という塾や,ほんの短期間ですが竹の塚駅付近や行徳駅付近の塾て小中学生,不登校児,大検受験生相手にこれを使っていたのを思い出し,
つい,「三線とは?沖縄音階とは?沖縄人は長寿でその沖縄の風を伝えて癒す」とか付け焼刃の薀蓄などを,このホワイトボード使って講義?したり,
また,イツモの飲み屋のノリで「刷毛(ハケ)に毛がありハゲに毛が無し」という自虐ネタなど,酔っ払っていると誤解されそうなテンションでダジャレなどを連発しましたが,少しはみんなの気晴らし癒しになったのでは?と思いました。
しょせん,生活の苦労がないからこそ,自腹を切ってまで,こういうところに来てボランティアのマネゴトができるゼイタクな身の上です。
自分ながら,「ヒマ人が人助けをした。。という自己満足感が得られるのためにヤッテキタのか?」という感もありましたが,そこまでヒネて曲解しなくても,お互いその場が楽しければ,それでいいだろう。というコトです。
下は,送り迎えしてもらった支援の「日本赤十字社」の方に駅までの帰りの車の中で渡して頂いた「つながっぺおおくま」と書かれた大熊町のバッジです。
(※帰宅した後,カメラを見つけて自宅ベッドのオレンジ色シーツの上で撮影。)
PS:6日の夜,帰宅してみる,どうも,5日がNTTの支払期限で,先月分の代金を払ってなくてネットが不通になっていました。
そして,平日に連休したので土日は出勤です。
7日(土)の今朝もメールも読めない状態でしたが,今日午前の出勤途中に,コンビニで支払って夜に帰宅するとネットができるようになってました。
(※ 生活費もギリギリなのに,ボランティア?これって結構金かかりますネ。
ネットは,生活必需じゃないですが,'。。。
13年間の最初の大型コンピュータ技術者(=こちらは仕事)を辞め,40歳(1990年,イヤ41歳かな?)で,パソコン通信を始めてハマリ以来,今の62歳まで22年間(=こちらは趣味・遊び),ほとんど中毒の私に限って,PCのネットは生きていく大きな糧の一つです。
,まだ見た目,新本でウン十年も積ん読で,いずれは読むぞと思いながら,買ったときに前書きと目次だけ見てその後,手をつけてない,"Peskin。。。",や定価が12000円の「リー群論」など,数冊を泣く泣く手放しました。
(※本は,それが絶版でなければ,いずれ金に余裕が有るとき,本当に読みたくなったらまた買い戻せます。(縮小再生産ですが。。)
ですから,今はそれらが私の胃袋に入っても仕方ないでしょうね。
それにいくら大切でも棺桶の中まで持っていくわけじゃないしネ。。。
しかし,昔のコトですから,手書きでコツコツ書いていて,恐らく300冊以上もある自作ノート。。
これが少しでも火事や災害などでなくなったとしたら,恐らくオイオイ泣いちゃうでしょうネ ※)
読まなくてゴミになるだけなのに付き合いだけで取っている新聞。。
ネットプロバイダ契約はしてないし,テレビだけの契約で月に番組を10時間程度しか見ないケーブルテレビ(3980円/月)など,
こういう無駄なものは,そろそろ辞退しなければ。。。
キレイゴトと揶揄されながら,詐欺師にまで奉仕する自分の行動原理。
やや,自分自身でも自己分析が不可能になっています。。
高々100年の人生で残りはわずか。。
計画はなく行き当たりバッタリ,思ったらまず行動し,後でその行為が失敗,アダ花とわかっても,それほど後悔も反省も無し。。
でも他人に迷惑であったなら,その部分はイササカ反省.謝罪です。
後付けで思ったのですが,今は「敵は本能寺!にアリ」 じやなくって,「今やるべきは東北にアリ」でしょうか。。
詳細は後ということで。。。 取りあえずは報告まで..
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