« 温暖化ガス・原子力・ITなど諸刃の剣 | トップページ | 光の量子論15 »

2020年1月 1日 (水)

令和2年 一応オメデトウございます。

 とにもかくにも,年が明けました。2020年です。

明けましておめでとうかな。。冥土への旅の一里塚

私は1950年2月1日の生まれなので1951年以来70回目

の正月元旦です。来月には満70歳です。

ですが古希は昨年で.今年は数えで71歳ですね、昔は

1~3月の早生まれを7つ上がり,4~12月生まれを8つ上がり

と言いました。4月に小学1年に入学する数え年のことです。

私の故郷の岡山県玉島市(現:倉敷市)の田舎の小さな小学校

では,同じクラスに50人もいましたが,子供の頃の1年差は

身体的にも精神的にも大きな負担だったかもしれません。1年

得をしたなと思ったのは,後の受験で1浪したときくらいです。

今となっては,若いとき10年くらい足踏みして出遅れても人生

全体じゃ大したことないなお思います。

まあ,スポーツとか,子作りなどは,年齢が高いともはや,できなく

なるモノもありますから,何でもヤリ直しがきくとはいえないけど。

とりあえず,私はあと半年くらい生きれば2020年の東京での

オリンピック・パラリンピック見れそうです。

キミマロは「オリンピック終わると,それまで頑張るといってた

高齢者がバタバタ死ぬ。」というブラックジョーク言ってたなあ。

1964年の前の東京オリンピック当時、私は中学3年でした。

自宅には小学5年の1960年か1961年に高価なテレビがきて

いたので,女子バレーが金メダル取ったのとかを家族で見ました。

印象に残っているのは,中学の保健室にあったテレビで,

マラソンで円谷が国立競技場に2位で入ってきて,そこで

イギリスのヒートリーに抜かれたのを,集まった生徒たちで

手に汗をにぎって見ていたことが大きな思い出です。

その後,3月には卒業前に友人を交通事故で失くし,4月には

父が46歳で病死しました。くしくも,父の母校が甲子園で平松

投手を擁して優勝した日が命日でした。

そこからは母子家庭です。8歳上の長男,5歳上の長女は

ほぼ学業を終えて社会人になるところでしたが,次男は高校

3年,私は同じエスカレーター式の私立中高なので受験もなく,

高校1年入学して,下の2人は奨学金をもらう,という生活に

変わりました。

大学5年生の23歳から57歳まで長いウツ病で,それでも生きて

いくためには,好む好むまざるを限らない仕事をするしか,

ありません。

普通以上に金を得るという意欲も特技もないので,ただ,他人

に雇用されて自分にできることをやるという日本型年功序列

社会のサラリーマンとして生活してましたが,バブルが終わる

ころ勝手に転職して失敗し,やがてプータローからアルバイト

生活となりました。

40過ぎては就職難です。仕事を選んでは生きていけないので

アルバイトで食いつなぎです。49の暮れにやっと夜勤の派遣社員

になれました。平成2年1990年3月に依願退職した会社にも即戦力

ということで拾われて昼勤のアルバイトなども併用して,やがて病気

で倒れました。

上の兄2人は伴侶を得て子供が2人ずつで定年を迎え,長女も子供

2人を育て40代でガンで夫を亡くして以後遺族年金で暮らしていた

とはいえ,皆,普通の社会生活送り,まだ健在らしいです。

29歳上の母は93歳で亡くなりました。

なのに,末っ子の私だけは,精神病の負い目もあってか,伴侶と

暮らすよりも,とにかく自由であり誰を扶養することもなく自分だけ

のために好きなように生きる方のヤクザな道を選び,身体が不自由

で貧乏で老齢の今は寂しい思いありますが,寂しいとき人恋しいとき

はお金は必要ですが,一人で飲みにいき,マスター,ママ,従業員,と

隣の席の袖すりあう人たちが家族?という生活でした。

給料のほとんどは飲み代に消えましたが,私は受験などに失敗

したりしたときも含め何をやっても生きてる限り過去を後悔しない

ウツにも関わらず楽天的性格でしたが,独身という選択は間違い

だったかも。

あ,いまさら,そういう自分の身に春が来ることはないので,

サッカ-,ラグビー,野球,ゴルフ,テニスに,オリパラなどTV観戦

や将棋,音楽鑑賞,PCなどでヒトリアソビの趣味は多いので,束の

間の楽しみを感じるだけです。

足の指が全部無いのはともかく,原因不明の長セキと呼吸困難の

発作が1日数回起きなければ,他の客などに迷惑かけないので

,酒を飲んで家族モドキに会いたいのですがネ。元々,自宅で酒を飲む

ほど酒好きじゃなく,ツキアイ程度で,飲みにいくのは単なる個人的な

社交場だったのですが,あまり客も金も無さそうな飲み屋に奉仕

しすぎたかも。。

 イヤ,たとえ宝くじでアタルほど,お金ができたとしても恐らく飲み屋

とかも含め,無い人にアゲルだけでしょうが。。

口ダケなら何でも言える,金をつかめば豹変するのが小人のなせる

ワザですが。

ころで,忠臣蔵の討ち入りの元禄15年12月14日は今の暦では

実は翌年の1月20日くらいだったらしいです。

私の干支は1950年2月1日生まれ五黄の寅ですが,そもそも干支

ができた中国の旧暦では,明らかに正月より前なので,それだ

と六白の丑です。

まあ,要するに丑寅(ウシトラ)の鬼(ツノがあって虎皮パンツ)

干支なのでロクなもんじゃないのは確かです。

|

« 温暖化ガス・原子力・ITなど諸刃の剣 | トップページ | 光の量子論15 »

003. 日記・回想」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。