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2020年7月

2020年7月21日 (火)

物理学の哲学(止まると死ぬ)(2)

「物理学の哲学」の続きです。

(※余談)私,若い頃のトラウマで人間不信になり,

子も孫もない寂しい老後で,今70歳でも自分の

ことを考えるだけの生活です。

44年も前の入試問題を執念深く思い出すという

世間ずれしたことをしています。若い頃も,誰より

も早く自分が発見したいとかじゃなく,誰が発見

しても,何故そうなるかを知りたい,という好奇心

さえ満たされればそれでいいという研究者に不向き

な性格で,もしか自分が発見に関われば.お金や名誉

がついてくるかもしれないという程度で,自分から

起業して積極的に金や名誉に向かう,というのとは

違う,後ろ向きで上昇志向とは無縁な奴でした。

精神病のせいもあり,生きているだけでも自分は

幸せと思っていますが,できれば自分以外の誰かの

役に立ちたいけど,自身の衣食足りてるのが,せい

いっぱいで,体不自由な今となっては無理です。

孤独も好きな人生ですが,後は今は信じてないが

自然的な神のような存在にでも会って,あの世

想像するのもいいかも。他人や政治を批判する

ほど偉くないしね。(余談終わり※)

 

さて,定常状態のSchroedinger方程式を微分方程式

として解き,解のψEを求めて固有値Eを得る,という

伝統的なSchroedinger波動力学の方法もありますが,

ここでは,H^=p^2/(2m)+mω2x^2/2に戻り,抽象的

に考察する(行列力学の)方法を用いて解いてみます。

まず,H^をH^={(p^-imωx^)(p+imωx^)

+imω[p^,x^]}/(2m)と因数分解して,最後の項

を,imω[p^,x^]/(2m)=hcω/2と書き直します。

ここでa^={ω/(2mhc)1/2)(p^/ω-imx^)

と置けば,p^,x^はHermite(実)演算子なので,

a^のHermite共役を取ると,演算子

a^={ω/(2mhc)1/2)(p^/ω+imx^)を得ます。

これらを用いると,H^は,H^=(a^a^+1/2)hcω

と表現することができます。

このとき,a^とa^の交換関係は,明らかに

[a^,a^]=1です。

それ故,(a^a^)a^=a^(a^a^)-a^,かつ,

(a^a^)a^=a^(a^a^)+a^となるので,

H^a^=a^H^-ahcω,かつ,

H^a^=a^H^+a^です。

よって,E>に対して,H|E>=E|E>が成立して

いるなら,H^a^|E>=(E-hcω)a|E>,および,

H^a^|E>=(E+hcω)a^|E>が成立します。

したがって,a^|E>は,固有値:(E-hcω)に属する

H^の固有状態であり,a^|E>は,固有値:(E+hcω)

に属するH^の固有状態です。

そこで,定係数をc1,d1としてa^|E>,および,

a^|E>を,それぞれ,a^|E>=c1|E-hcω>,

おとび,a^|E>=d1|E+hcω>と表わすことが

できます。

a^,a^は,それぞれ,エネルギー固有値をhcωだけ

上げ,下げした固有状態(エネルギー准位)に移動させる

ので,昇降演算子と呼ばれます。

そこで,a^|E>に,さらにa^を作用さると,

a^2|E>=c1a^|E-hcω>=c2|E-2hcω>と

なります。これを,反復して,H^の固有値が減少する

固有ベクトルの列:a^|E>=c|E-nhcω>

(n=1.2...)を得ます。

同様に.H^の固有値が増加する固有ベクトルの列:

(a^)|E>=d|E-nhcω>(n=1.2...)

も得られます。

ところが,量子論では物理的状態を示す量子状態|ψ>

は,そのノルムの2乗の確率解釈のため,Hildert空間

のベクトルである,とされています。

つまり,状態のノルムの2乗(絶対値の2乗)は存在確率

(確率密度)を示すので,非負でなければなりません。

言いかえると,状態ベクトル全体の作る空間を

すると,|ψ>∈なら,|{ψ>|2=<ψ|ψ>≧0であり

等号は|ψ>=0のとき,そのときに限られます。

それ故,H^=E|E>なら,E<E|E>=E||E>|2

=<E|H^|E>=hcω<E|a^a^+1/2|E>

=hcω|a^|E>|2+(hω/2)|E>|2は非負であり

|E>≠0なので,常にE≧hω/2>0となります。

言い換えるとH^の固有値:Eは,負とは成ることが

できません。このH^の対角要素が非負である性質は

H^の正値性といわれます。

そこで,列:a^|E>=c|E-nhcω>(n=1.2..)

には,H^の固有値をそれ以上下げると負になって正値性

に反するようになる最小の固有値(E-nhω)≧0を

与える自然数nが存在することになります。

このエネルギー固有値が最小の固有状態=基底状態を,

慣例に従って,|0>と記述します。

この|0>が,最小の固有状態であるためにはa^|0>=0

を満たす必要があります。さもないと矛盾が生じるからです。

そこで,特に,H^|0>=(hcω/2)|0>です。

故に,H^a^|0>=(3hcω/2)a^|0>であり,

さらに,H^(a^)|0>=(n+1/2)hcω(a^)|0>

(n=1,2..)となります。

そこで,<n|n>=1と規格化した状態|n>を,

|n>=α(a^)n|0>で定義します。特に|,0>

は<0|0>=1を満たす,とします。

そして,係数αを求めるため,交換関係:

[a^.a^]=1を用います。まず,a^a^|0>=|0>

であり,a^(a^)2|0>=(a^a^)a^|0>=a^|0>

です。さらに,a^(a^]3|0>=(a^a^)(a^)2|0>

=(a^a^)(a^)2|0>+(a^)2|0>=2(a^)2|0>

となります。それ故,帰納的に,a^(a^)|0>

=n(a^)n-1|0>です。

したがって,a^(a^)|0>=na^n-1(a^)n-1|0>

ですから,1=,<n|n>=|αn|2<0|a^(a^)|0>

=n|αn|2<0|a^n-1(a^)n-1|0>

=n|αn|2<n-1|n-1>/|αn-1|2 となります。

つまり,1=n|αn{2/|αn-1|2,あるいは,1/|αn{2

=n/|αn-1|2=n(n-1)/|αn-1|2

=n(n-1)..2・1/|α0|2=(n!)/|α0|2 です。

そして,<0|0>=1なので,|α0|2=1であり,結局,

n|2=1/n!が得られました。

係数αを実数に選ぶとα=(n!)-1/2であり

|n>=(n!)-1/2(a^)n|0>と書けることになります。

=(n+1/2)hcωと置くとH^|n>=E|n>

(n=0,1,2,,) ですが,これらが求めるH^の全ての

固有値と固有ベクトルです。解けました。

このモデルでは基底状態|0>の固有値E0はゼロでは

なく,hcω/2>0です。これが「零点エネルギー」です。

これは,単一の振動子では非常に小さい値ですが,

振動数の異なる全てのモードの振動子の集合では無限大

になると考えられます。

,前期量子論では,如何なる粒子も波動性を持っていて,

その振動数をν,角同数をω=2πνとすると,エネルギ-

はhν=hcωで与えられ,これを量子と呼んだことから

量子論が生まれるきっかけの1つとなったのでした。

そこで,nをエネルギー準位Eの指標ではなく状態

に存在する角振動数がω(エネルギーがhcω)の粒子(量子)

の個数を示すモノと考えると,演算子:a^は,そうした

量子を生み出す生成演算子,a^は消滅演算子と呼ぶこと

ができます。

すると,|0>には,エネルギー量子がないのにも関わらず,

cω/2というゼロでないエネルギー(零点エネルギー)を

持つという,最初の論理矛盾が現われます。

ここで,以前,論じかけた.第2量子化された電磁場の

表式:A^μ(x)=∫d3(2π)-3[aμ^()exp(-ikx)

+aμ^^()exp(ikx)] に戻って考えます。

この展開係数の演算子は,

[aμ^(),aν^+(~)]=gμνδ3(k-~)なる

交換関係を満たします。

 そこで,これらの空間成分ai^(),aj^(k)

(i,j=1,2.3)は,丁度,1次元調和振動子の場合と同様,

運動量hckを持つ光量子(光子)の生成演算子,消滅演算子

を形成していることがわかります。

この意味で,前に量子化された電磁場が1次元調和

振動子の(連続)無拳固の集まりに相当する,と述べた

のでした。

そこで,波数がの光子の個数をn=0,1.2,..

として,|nk,,μ>=(nk!)-1/2(aμ^)nk|0>により,

|0,k,μ>,|1,k,μ>,,,|nk,k,μ>.を構成し,

これらのあらゆるkによる超直積を作れば原理的には,

全てのk,μを持つ光子の個数表示の状態を張れます。

特に如何なるモードの光子も存在しない状態は基底状態

で,これを真空と呼びます。

しかし,電磁場の場合は,質量がゼロベクトル場でaμ^

の第ゼロ成分は,[a0^(),a0^(~)]=-δ3(~)

を満たすためa0^()|0>のノルムが非負でなくなり

それ故,特別な物理状態の選択や解釈を導入しないと

場理論が矛盾して成立しなくなります。

この問題を取りあえず回避するため,光子の場を考える

代わりに,単一成分のスカラー場:φ^(x)を考えます。

すなわちφ^(x)=∫d3(2π)-3[a^()exp(-ikx)

+a^^()exp(ikx)] を考えます。

μ^(x)は共変ゲージ:∂μμ=0で,□Aμ=の解でした

が,φ^はKlein-Gordon方程式:(□+μ2)φ^=0の解

ですから,exp(±ikx)のkxは,kx=k0t-kx

0=ω=(k2+μ2)1/2です。

そして,[a^(),a^(k~)]=δ3(~)です。

この質量がμのスカラー粒子の場では,計量が正定置で

なくなる,という不定計量の問題は生じません。

そこで,運動量hcのスカラー粒子の個数をn=0,

1,2,..として,|nk,>=(nk!)-1/2(aμ^)nk|0>に

より,|0,k>,|1,k>...|n,k>を構成し,これら

のあらゆるkによる状態の超直積を作って全ての

スカラー粒子の状態を張る部分空間とすることに

します。

すると「零点エネルギー」のために,粒子の存在

しない真空:|0>でも,無限大のエネルギー固有状態

にあることになってしまいます。

そこで,そもそも真空のエネルギーはゼロである,と

する規約,つまり,この零点エネルギーを切り捨て無視

する規約を採用します。後でこれは無理がある規約で

あることもわかりますが真空のエネルギ-がゼロである

としないと「対称性の破れ」とか,別の問題が生じます。

というのはゼロは座標系を回転しても不変なスカラー量

の中でも特別な不変量だからです。無限大もゼロと同じくらい不変,かつ,対称ですが,そもそも数でさえありません。

ところで,1次元調和新振動子では,そのエネルギーは,

H=p2/(2m)+(1/2)mω22/2あり,量子論ではHが

演算子で,その固有値:hω(a^a^+1/2)がエネルギー

を意味しました

同様に,自由スカラー場φのLagrangian は,

L=∫^d3,=(1.2)∂μφ∂μφ-(1.2)μφ2

であり、共役運動量は,π=∂/∂(∂0φ)=∂0φ

=φで与えられます。それ故,H=∫3,で

=πφ-=(1/2)(∇φ)+(1/2)μ2φ2ですが,

これも実はH^=∫d3[hcω{a^()a^(k)+1/2}

と,前の振動子の,H^=hcω(a^a^++1//2)と形と

して同じものに変形されます。

またまた長くなったので終了します。(つづく

 

 

「物理学の哲学(止まると死ぬ)(2)」

「物理学の哲学」の続きです。

(※余談)私,若い頃のトラウマで人間不信になり,

子も孫もない寂しい老後で,今70歳でも自分の

ことを考えるだけの生活です。

44年も前の入試問題を執念深く思い出すという

世間ずれしたことをしています。若い頃も,誰より

も早く自分が発見したいとかじゃなく,誰が発見

しても,何故そうなるかを知りたい,という好奇心

さえ満たされればそれでいいという研究者に不向き

な性格で,もしか自分が発見に」関わればお金や名誉

がついてくるかもしれないという程度で,自分から

起業して積極的に金や名誉に向かう,というのとは

違う後ろ向きで上昇志向とは無縁な奴でした。

精神病のせいもあり,生きているだけでも自分は

幸せと思っていますが,できれば自分以外の誰かの

役に立ちたいけれど,自身の衣食足りてるのが,せい

いっぱいで,体不自由な今となっては無理です。

孤独も好きな人生ですが,後は今は信じてないが超

自然的な神のような存在にでも会って,あの世を

想像するのもいいかも。他人や政治を批判するほど

偉くないしね。(余談終わり※)

 

さて,定常状態のSchroedinger方程式を微分方程式

として解き,解のψEを求めて固有値Eを得る,という

伝統的なSchroedinger波動力学の方法もありますが,

ここでは,H^=p^2/(2m)+mω2x^2/2に戻り,抽象的

に考察する(行列力学の)方法を用いて解いてみます。

まず,H^をH^={(p^-imωx^)(p+imωx^)

+imω[p^,x^]}/(2m)と因数分解して,最後の項

を,imω[p^,x^]/(2m)=hcω/2と書き直します。

ここでa^={ω/(2mhc)1/2)(p^/ω-imx^)

と置けば,p^,x^はHermite(実)演算子なので,

a^のHermite共役を取ると,演算子

a^={ω/(2mhc)1/2)(p^/ω+imx^)を得ます。

これらを用いると,H^は,H^=(a^a^+1/2)hcω

と表現することができます。

このとき,a^とa^の交換関係は,明らかに

[a^,a^]=1です。

それ故,(a^a^)a^=a^(a^a^)-a^,かつ,

(a^a^)a^=a^(a^a^)+a^となるので,

H^a^=a^H^-ahcω,かつ,

H^a^=a^H^+a^です。

よって,E>に対して,H|E>=E|E>が成立して

いるなら,H^a^|E>=(E-hcω)a|E>,および,

H^a^|E>=(E+hcω)a^|E>が成立します。

したがって,a^|E>は,固有値:(E-hcω)に属する

H^の固有状態であり,a^|E>は,固有値:(E+hcω)

に属syるH^の固有状態です。

そこで,定係数をc1,d1としてa^|E>,および,

a^|E>を,それぞれ,a^|E>=c1|E-hcω>,

おとび,a^|E>=d1|E+hcω>と表わすことが

できます。

a^,a^は,それぞれ,エネルギー固有値をhcωだけ

上げ,下げした固有状態(エネルギー准位)に移動させる

ので,昇降演算子と呼ばれます。

そこで,a^|E>に,さらにa^を作用さると,

a^2|E>=c1a^|E-hcω>=c2|E-2hcω>と

なります。これを,反復して,H^の固有値が減少する

固有ベクトルの列:a^|E>=c|E-nhcω>

(n=1.2...)を得ます。

同様に.H^の固有値が増加する固有ベクトルの列:

(a^)|E>=d|E-nhcω>(n=1.2...)

も得られます。

ところが,量子論では物理的状態を示す量子状態|ψ>

は,そのノルムの2乗の確率解釈のため,Hildert空間

のベクトルである,とされています。

つまり,状態のノルムの2乗(絶対値の2乗)は存在確率

(確率密度)を示すので,非負でなければなりません。

言いかえると,状態ベクトル全体の作る空間を

すると,|ψ>∈なら,|{ψ>|2=<ψ|ψ>≧0であり

等号は|ψ>=0のとき,そのときに限られます。

それ故,H^=E|E>なら,E<E|E>=E||E>|2

=<E|H^|E>=hcω<E|a^a^+1/2|E>

=hcω|a^|E>|2+(hω/2)|E>|2は非負であり

|E>≠0なので,常にE≧hω/2>0となります。

言い換えるとH^の固有値:Eは,負とは成ることが

できません。このH^の対角要素が非負である性質は

H^の正値性といわれます。

そこで,列:a^|E>=c|E-nhcω>(n=1.2..)

には,H^の固有値をそれ以上下げると負になって正値性

に反するようになる最小の固有値(E-nhω)≧0を

与える自然数nが存在することになります。

このエネルギー固有値が最小の固有状態=基底状態を,

慣例に従って,|0>と記述します。

この|0>が,最小の固有状態であるためにはa^|0>=0

を満たす必要があります。さもないと矛盾が生じるからです。

そこで,特に,H^|0>=(hcω/2)|0>です。

故に,H^a^|0>=(3hcω/2)a^|0>であり,

さらに,H^(a^)|0>=(n+1/2)hcω(a^)|0>

(n=1,2..)となります。

そこで,<n|n>=1と規格化した状態|n>を,

|n>=α(a^)n|0>で定義します。特に|,0>

は<0|0>=1を満たす,とします。

そして,係数αを求めるため,交換関係:

[a^.a^]=1を用います。まず,a^a^|0>=|0>

であり,a^(a^)2|0>=(a^a^)a^|0>=a^|0>

です。さらに,a^(a^]3|0>=(a^a^)(a^)2|0>

=(a^a^)(a^)2|0>+(a^)2|0>=2(a^)2|0>

となります。それ故,機能的に,a^(a^)|0>

=n(a^)n-1|0>です。

したがって,a^(a^)|0>=na^n-1(a^)n-1|0>

ですから,1=,<n|n>=|αn|2<0|a^(a^)|0>

=n|αn|2<0|a^n-1(a^)n-1|0>

=n|αn|2<n-1|n-1>/|αn-1|2 となります。

つまり,1=n|αn{2/|αn-1|2,あるいは,1/|αn{2

=n/|αn-1|2=n(n-1)/|αn-1|2

=n(n-1)..2・1/|α0|2=(n!)/|α0|2 です。

そして,<0|0>=1なので,|α0|2=1であり,結局,

n|2=1/n!が得られました。

係数αを実数に選ぶとα=(n!)-1/2であり

|n>=(n!)-1/2(a^)n|0>と書けることになります。

=(n+1/2)hcωと置くとH^|n>=E|n>

(n=0,1,2,,) ですが,これらが求めるH^の全ての

固有値と固有ベクトルです。解けました。

このモデルでは基底状態|0>の固有値E0はゼロでは

なく,hcω/2>0です。これが「零点エネルギー」です。

これは,単一の振動子では非常に小さい値ですが,

振動数の異なる全てのモードの振動子の集合では無限大

になると考えられます。

,前期量子論では,如何なる粒子も波動性を持っていて,

その振動数をν,角同数をω=2πνとすると,エネルギ-

はhν=hcωで与えられ,これを量子と呼んだことから

量子論が生まれるきっかけの1つとなったのでした。

そこで,nをエネルギー準位Eの指標ではなく状態

に存在する角振動数がω(エネルギーがhcω)の粒子(量子)

の個数を示すモノと考えると,演算子:a^は,そうした

量子を生み出す生成演算子,a^は消滅演算子と呼ぶこと

ができます。

すると,|0>には,エネルギー量子がないのにも関わらず,

cω/2というゼロでないエネルギー(零点エネルギー)を

持つという,最初の論理矛盾が現われます。

ここで,以前,論じかけた.第2量子化された電磁場の

表式:A^μ(x)=∫d3(2π)-3[aμ^()exp(-ikx)

+aμ^^()exp(ikx)] に戻って考えます。

この展開係数の演算子は,[aμ^(),ν+(^)]

=gμνδ3(k-~)なる交換関係を満たします

 そこで,これらの空間成分ai^(),aj^(k)

(i,j=1,2.3)は,丁度,1次元調和振動子の場合と同様,

運動量hckを持つ光量子(光子)の生成演算子,消滅演算子

を形成していることがわかります。

この意味で,前に量子化された電磁場が1次元調和

振動子の(連続)無拳固の集まりに相当する,と述べた

のでした。

そこで,波数がの光子の個数をn=0,1.2,..

として,|nk,,μ>=(nk!)-1/2(aμ^)nk|0>により,

|0,k,μ>,|1,k,μ>,,,|nk,k,μ>.を構成し,

これらのあらゆるkによる超直積を作れば原理的には,

全てのk,μを持つ光子の個数表示の状態を張れます。

特に如何なるモードの光子も存在しない状態は基底状態

で,これを真空と呼びます。

しかし,電磁場の場合は,質量がゼロベクトル場でaμ^

の第ゼロ成分は,[a0^(),a0^(^)]=-δ3(~)

を満たすためa0^()|0>のノルムが非負でなくなり

それ故,特別な物理状態の選択や解釈を導入しないと

場理論が矛盾して成立しなくなります。

この問題を取りあえず回避するため,光子の場を考える

代わりに,単一成分のスカラー場:φ^(x)を考えます。

すなわちφ^(x)=∫d3(2π)-3[a^()exp(-ikx)

+a^^()exp(ikx)] を考えます。

μ^(x)は共変ゲージ:∂μμ=0で,□Aμ=の解でした

が,φ^はKlein-Gordon方程式:(□+μ2)φ^=0の解

ですから,exp(±ikx)のkxは,kx=k0t-kx

0=ω=(k2+μ2)1/2です。

そして,[a^(),a^(k~)]=δ3(~)です。

この質量がμのスカラー粒子の場では,計量が正定置で

なくなる,という不定計量の問題は生じません。

そこで,運動量hcのスカラー粒子の個数をn=0,

1,2,..として,|nk,>=(nk!)-1/2(aμ^)nk|0>に

より,|0,k>,|1,k>...|n,k>を構成し,これら

のあらゆるkによる状態の超直積を作って全ての

スカラー粒子の状態を張る部分空間とすることに

します。

すると「零点エネルギー」のために,粒子の存在

しない真空:|0>でも,無限大のエネルギー固有状態

にあることになってしまいます。

そこで,そもそも真空のエネルギーはゼロである,と

する規約,つまり,この零点エネルギーを切り捨て無視

する規約を採用します。後でこれは無理がある規約で

あることもわかりますが真空のエネルギ-がゼロである

としないと「対称性の破れ」とか,別の問題が生じます。

というのはゼロは座標系を回転しても不変なスカラー量

の中でも特別な不変量だからです。無限大もゼロと同じくらい不変,かつ,対称ですが,そもそも数でさえありません。

ところで,1次元調和新振動子では,そのエネルギーは,

H=p2/(2m)+(1/2)mω22/2あり,量子論ではHが

演算子で,その固有値:hω(a^s^+1/2)がエネルギー

を意味しました

同様に,自由スカラー場φのLagrangian は,

L=∫^d3,=(1.2)∂μφ∂μφ-(1.2)μφ2

であり、共役運動量は,π=∂/∂(∂0φ)=∂0φ

=φで与えられます。それ故,H=∫3,で

=πφ-=(1/2)(∇φ)+(1/2)μ2φ2ですが,

これも実はH^=∫d3[hcω{a^()a^(k)+1/2}

と,前の振動子の,H^=hcω(a^a^++1//2)と形と

して同じものに変形されます。

またまた長くなったので終了します。(つづく

 

 

 

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2020年7月20日 (月)

物理学の哲学(止まると死ぬ)(1)

 物理学といいうのは不思議なもので,

吉本の間寛平チャンとか.マグロ回遊のように

「止まると死ぬー」というようなモノだといえます。

量子論には「Heisenberguの不確定性原理」という

根本原理があって,位置と速度を同時に確定したもの

として観測することができません。

この不確定性原理は,式で書くと,ΔxΔp~h

となります。ただし,h­=h/(2π)でhは作用量子

(Planck定数)と呼ばれる定数です。このhは,作用

=(エネルギー)×(時間)という単位を持つ非常に

小さい数ですが,ともかく,Δx=0,かつ,Δp=0と

すると.この原理に矛盾します。

そこで,mを物体の質量,vを速度の大きさとする

とp∝mvなので,上述のことは位置xと速度vが,

同時には確定できない,ことを意味しています。

それ故,例えば,どこかに静止している,つまり

v=0とvが確定している物体なら,それが存在する

どこかの位置座標xは確定してはいけない,のですから

モノが静止している,ことも,物理的に矛盾する現象

なのです。でも,常識では,私たち自身も,多くの物体も

確かに止まります。

しかし,実は止まれないのは,理想化された質点の

ような確実な点物体の話で,大きさがあればその限り

でないと考えられます。すなわち,1点に止まるのが

不可能なのは,厳密に大きさのない点と見なせるモノ

に対する話で,我々の体や野球のボールのような体積

があるものは,既にかなりΔxが大きく,存在位置が

ぼやけているので,全体(慣性中心)としてv=0に

確定していてもいい,というわけせす。

量子論,特に素粒子論の場理論では.様々な無限大

への発散現象に遭遇し,それらの発散を処理して解釈

する方法はあっても;数学の理論のように本質的な意味

で,それを納得できるか?というと,必ずしもそうでは

ないと,昔から思っていて今もスッキリとしていません。

そうした諸悪の根源は「零点エネルギー」というものに

あると考えられます。

例えば,先端に質量mの重りがついたバネが振動する

現象は1次元調和振動と呼ばれるものですが,その力学的

エネルギー:E=mv2/2+kx2/2は,弾性定数(バネ定数)

をk=mω2と置くと,kはゼロでないのでω≠0であり

E=E=(n+1/2)hcω(n=0,1,2..)という離散値

しか取り得ず,結果,最低エネルギーはゼロではなく

ω/2という正の値になりるとわかります。

ここで,座標変数xは平衡点からの距離を意味し速度は

v=dx/dtです。

そこで,先述したように止まること,つまり,v=0,かつ,

x=0が許されず,このバネは永久に振動して止まることが

できないことが理論的にも示されます。

ただし,これは粘性=摩擦がない理想的ケースですから,

粘性抵抗のある現実の世界では振動は減衰して,やがては

止まります。

では,止まれないのは,理想的状況が作れない技術的な

精度の限界のためか?というと,そうでもなく如何に

精度を上げても不可能な,本質的問題である,というのが

不確定性原理のミソです。

量子場の理論では,最低エネルギーの状態(基底状態)

を真空と呼び,それを|0>で記述します。,

そして,自然単位:c=1で対象とする物質場が光子

の場=電磁場:Aμ(x)=[φ(x),(x)]であれば,

古典的には,(x)=-∇φ-(∂/∂t)が電場,

(x)=∇×が磁場を与えます、

量子論では,これを無限個の1次元調和振動子の

集まりとして量子化します。すなわち,共変ゲージ:

μμ=0では,電磁場はAμ(x)=∫d3

[aμ()exp(-ikx)]+aμ*()exp(ikx)]

と陽に積分表現されます。

ただし,exp(±ikx)のkxは,kx=k0t-kx

であり,k0=ω={|.です。

展開係数:aμ()は光で言うと偏光ベクトルで

あり,kμμ(k)=0を満たします。(共変ゲージ)

この係数:aμ(i),aν*()を量子化して規格化

したものを,a^μ().a^ν+()と記し,それらが

交換関係:[a^μ().a^ν+(~)]=gμνδkk~

を満たす演算子である,とするのが電磁場Aμの

(第2)量子化です。

ここで,便宜上,先のバネと重りの1次元調和振動子の

問題をより深く掘り下げて考察します。

実は,これらは丁度,1976年の春,私が北大に大学院

の博士課程の受験にいったとき,思いもかけず,数問の

ペーパ-テストをやられた際の第1問目の問題そのもの

です。この問題は,興味深い量子論の根本的課題で,悪い

癖で,つい夢中になり「私はこんなことも満足に理解できて

ないのか?」と受験していることも忘れ集中したのに満足

できる解答に到達できず帰ったのを,克明に覚えています。

まあ,余談はさておき,まず,この問題の系を古典論で

考えます。

系の運動エネルギーをT=mv2/2,位置エネルギー

(ポテンシャル)をV(x)=kx2/2と書くと

系の.Laglangian:Lは,L=T-Vで与えられ,共役運動量

は,p=∂L/∂v=mvで与えられます。

そこで,系のHamiltonian:Hは,H=pv-L=mv2/2

+kx2/2=T+Vとなります

解析力学では,Hamiltomian:Hは,xとpの関数で

表現されるべきなので書き直して,k=mω2と置くと

H=p2/(2m+mω22/2 なる式を得ます。

ところで,物体に働く外力が物体の位置xのみで

決まり,ポテンシャルV(x)によってF=-∇V,と

表わせる場合,,Newtonの運動方程式がd(mv)/dt

=F=-∇Vから,(d/dt){mv2/2+V}=0となり,

力学的エネルギー:E=T+Vが,時間的に一定と

なって保存だれます。

この場合,Fは保存力で,系は保存力の系であると

いわれます。

これは,1次元なら,F=-∇Vが,F=-dV/dxで,

1次元調和振動子ならF=-kx=-d(kx2/2)/dx

なので,この系は,ポテンシャルがV=kx2/2の保存力

の系です。

そこで,先のH=p2/(2m)+mω22/2は,

H=T+V=Eであり,このHは,時間的に一定

(tに依らない)力学的エネルギーEをpとxの関数で

表わしたものです。

ここから,量子論に移行するには,変数:pとxを,

量子状態|ψ>に働く,量子条件:[p^,x^]=-ih

を満たす演算子:p^とx^に,読み換えるだけです。

(※実は,[p^,x^]=-ihがHeisenbergの

不確定性原理:ΔxΔp~hcを生じる根本的原因

です。)

もしも座標演算子x^の固有値xに属する固有

状態::|x>を,x^|x>=x|z>を満たす|x>

(ただし,|x>≠0)で定義してx表示の波動関数

というモノを,ψ(x)=<x|ψ>で定義すれば,

まず,明らかに,<x|[p^,x^]|ψ>

=-ih<x|ψ>=-ihcψ(x)です。

ここで,Diracに従って<x|d^|ψ>

=(d/dx)<x|ψ>=dψ/dxを満たす座標x

の平行移動演算子d^を定義すれば

,<x|x^d|ψ>=x(dψ/dx)であり,また

<x|d^x^|ψ>=(d/dx){xψ(x)}

=d(xψ)/dxです。

そこで,<x|[d^,x]|ψ>=ψ(x)となるため,

<x|[-ihc^,x^]=-ihψ(x) を得ます。

以上から,任意の|ψ>に対する|x>での展開要素

が常に,<x|[p^+ihc,x^]|ψ>=0を満足する

ことになり,演算子として,[p^+ihc,x^]=0 で

ある,と結論されます。,

それ故,f(x^)をx^の任意関数,つまり演算子x^

と交換する任意の演算子,とすれば,p^=-ihc^

+f(x^)と,書くことができます。

ここで,特にf=0として,p^=-ihc^とする

選択の表現を,Schroedinger表現と呼びます。

 ところで,1次元調和振動子の系の量子論での

目的は,H^=p^2/(2m+mω2x^/2に対して,

H^|E=E|E>という固有値問題を解いて,

(エネルギー)固有値Eと,固有ベクトル|E>を

具体的に求めることです。

そこで,もしもSchroedinger表現を採用する

なら,H^はH^=-{hc2/(2m)}(d2/dx2)

+mω22/2となります。

それ故,x^の固有ベクトルの系:{{x>}が,

<x|y>=δxyと正規直交規格化され,しかも,

Σ|x><x|=1なる完全性条件を満たせば,

|E>は,|E>=Σy|y><y|E>と級数展開

されるので,固有値方程式:H^|E>=E|E>は,

Σ<x|H^|y><y|E>

=E[Σ<x|y><y|E>=E<x|E>

と書き直せます。

したがって,H^の行列要素が,<x|H^|y>

=[-{h2/(2m)}(d2/dx^2)+mω2x^2/2]δxy

のように対角行列化されていれば,固有値方程式は,,

[-{hc2/(2m)}(d2/dx^2)+mω2x^2/2]<x|E>

=E<x|E> となります。

それ故,x表示でSchroedinger表現のHamiltonian

演算子を,H^(x,p)=-{}hc2/(2m)(d2/dx2)

+mω22/2と表わし,Hの固有値がEの固有波動関数:

<x|E>をψE(x)と表記すれば,固有値方程式は,

さらに,H^(p,x)ψE(x)

=[-{hc2/(2m)}(d2/dx2)+mω2x^/2)ψE(x)

=EψE(x) となり,定常状態のSchroedingerの

波動方程式に帰着します。

※(注1-1):上記では,簡単のため,x^の固有ベクトル:

|x>を,離散的状態とする表現を使用しましたが,

ここで総和Σの代わりに積分:∫dxを用いる

連続的表現でも記述しておきます。

このときには正規直交規格化条件は,<x|y>

=δ(x-y)であり,完全性条件は∫{x><x|dx

=1となります。

そして,固有摘方程式:H^|E=E|E>は,

∫<x|H^|y><y|E>dy

=E{∫<x|y><y|E>dy}=E<x|E>

を意味し,H^の行列要素が,<x|H^|y>

=[-d2/dx^2/(2m+mω2x^/2]δ(x-y)と

対角化されていれば,結局,先の離散的手続きと同様,

定常状態のSchroedingr方程式:H^(p,x)ψE(x)

=[-]hc2/(2m)}(d2/dx2)+mω22/2)

ψE(x)=EψE(x) に帰着します。

さらに,x^の固有ベクトルとして時刻tに依存する

x^|x,t>=x|x,t>を満たす|x,t>を採用して

波動関数を俯瞰に依存するψ(x,t)=<xt|ψ>の

形で定義すると,定常状態の波動方程式は,

H^ψE(xt)=EψE(x,t)(ψE(xt)=<x,t|E>)

となりますが,p^=-ihc∇に対応した時間平行移動の

表現:H^=ihc∂/∂tを採用して,時間を含む非定常

の微分方程式ihc∂ψ/∂t=H^ψを想定します。

これのt依存部分とx依存部分の変数分離解ψ(x,t)

=ψE(xt、)は定常方程式H^ψE(x=EψE(x)を満たす

ψE(x)によって ψE(x,t)=exp(-iEt)ψE(x)となる

ので一般解は,ψ(x,t)=ΣEc(E)exp(iEt))ψE(x)

となります。

こうしてSchroedingerの定常波動方程式が非定常方程式:

ihc∂ψ/∂t=H^ψに拡張されることがわかります。

 このH^の表現では,[H^,t]=ihから不確定性原理

として,ΔEΔt~hcが追加されますが,これは観測時間

Δtの間のエネルギーEが不確定と解釈されます。

(注1-1終わり※)

まだ,長くなりそうなので一旦終わります。(つづく※)

 

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2020年7月 7日 (火)

学生時代の回顧(どこかの馬の骨の自伝))

私,脳科学者に分析してもらいたいくらい年齢

の割に,海馬が異常なようで70歳になっても,うん

十年前の記憶が,死ぬ直線でもないのに,走馬灯の

ように沸いてきます。

例えば5歳の幼稚園さくら組で隣の席のおカッパ

色黒で,ややサメ肌の難波S代ちゃんに好意を持って

いたとか,ちょっと考えると,脳裏に蘇えったりします。

また,絶対音感はないと思うけれど,その5歳の頃,

親にハーモニカを買ってもらって吹いてたのを,5年

くらい前に思い出して,Amazonでハーモニカ購入して

吹いてみると,音符なしでメロディーを知ってるモノ

は,ハーモニカの音域に入ってる限り,スグ吹けるよう

です。まだ,相対音感はあるのかな?

そういえば,小学6年のとき,小学校代表で「朧月夜」

を独唱し.カゼを引いてた雨の日に県の地区予選で

負けて銀賞をもらいました。(1位金賞以外は全員

銀賞)という記憶もあります。(※子供のとき,歌が

得意だったという記憶はないが),体育や図工の実技

以外のペーパーテストではその田舎小学校1学年50人

の2クラスでは,全科目トップで私立中学を受けて

入ったとき,音楽の女先生(小橋先生?)に,

「トシちゃん勉強もできたのね。」と言われました。

音楽の先生だけが担任の男先生と別でしたから。.

こうして自動書記的にいくらでも想い出の枝葉

が沸いてきて,キリがありません。。

私は人生の成功者でもない,どこかの馬の骨です

から,自伝のようなものを書いても,大して意味ない

自己満足ですが.「ホームレス中学生」でもなく,中学

時代に父が病死で母子家庭になってから,社会人になる

までを,つらつらと思い出して書いてみます。

1965年昭和40年,和や市が15歳の中3のときに,

父が病死しました。父は戦前は大阪高島屋で係長,

戦後は,岡山県税事務所間税課の地方公務員で,才一

係長から課長に昇進する直前だというのに,酒も

タバコもやらないのに肝硬変で亡くなりました。

私は4人兄弟(男女男男)の末っ子として1950年

2月1日(父31歳.母29歳)に生まれ,父死の当時,

岡山県の金光学園という6年制の私立校に在籍して

いました。高校入試はなく,そのまま,高校に入学

しましたが,当時の国立大の授業料千円/月よりも

高校の授業料の方が高かったらしいです。

生活が急に,中の上レベルから母子家庭で奨学金

をもらうという境遇に変わりました。

教育パパの死をいいことに,2年半くらい卓球部に

のめりこみ,成績は若干落ちました。

1968年に高校を卒業,一応,奨学金とアルバイトで国立

なら,大学に行けるだろう,というので,一期校の京大理学部

と二期校の静岡大学理学部を受けることにしました。

高校の担任教師は,京大理学部は定員280名程度で難しい

ので京大工学部か定員が1千人もいる東大理科1類を

受けるよう指導されました。

その当時は,まだ,日本人でノーベル賞をもらったのは

京大の湯川先生だけで.私は中学時代から「数式を使わ

ない物理学入門」とか「宇宙時代の常識」とかの物理

関係の啓蒙新書を読んでいて,何となく岡山から近い京大

それも理学部物理学科にあこがれていたため,教師は東大

とか工学部とか勧めても聞こえませんでした。

当時は今と違い京大理科系では不人気だった薬学部と

農学部が工学系より合格ラインが900点満点で100点

くらい低かったので。京大に入りたいというだけなら

志望学部を変えて,そこを受けるだけでしたが。

また,建設関係の大手S住宅から旧帝大の建築学科に

入って,卒業後にその会社に入るという条件付きで,学費

などを全て出す,という甘い話もありましたが,建築学を

やる気はなかったので,断りました

二期校も,ネームバrツーが欲しいなら横浜国大とか

もありましたが,残念ながら理学部物理学科がないので

眼中になかったです。

私,今も昔も,そういう目先の自己のやりたいことに

ついては,後の人生での有利,不利とか世間の見る目など

気にしない,という,要領が悪くあくまで自分に忠実で

不器用,かつ,頑固な奴なんです。

たとえ,失敗して後悔しようが,人生は1度しかなく,

失敗も含め糧としてっきた結果,現在の自分があるの

ですから,現在の自分を否定する必要がないなら過去

のやり直しがきかないことへの反省はなしです。

しかし,高3の3月4,5,6日頃,現役で私を含め

同級生6人で京大理系を受験し,sその結果,私だけ

が落ちました。後で点数が学校に戻ってくるのですが,

6人中4番目の成績でした。まあ,志望学部が違うので

仕方まいですね。

それで,1年は浪人するつもりでしたが,一応3月24

~25日頃,兄に付き添われて静岡大学を受け.こちらは

合格しましたが,入学手続きを蹴って浪人しました。

やがて1968年の4月から毎日,加計学園グループの

広島県境の福山英数学館という予備校に通いました。

卓球部との両立もないし,自宅浪人と違って講義を

聞いて模擬試験を受けたりしてればいい,だけなので,

放課後は福山城公園などで草野球などして遊んだり

と,高校時代より楽しい毎日で,試験成績も良くなり

いつも広島英数学館と合わせて約850人中で1番に

張り出されていました。

ただし,正月を過ぎた頃から4番に下がりました。

元々,あがり症で高校の卓球の試合も含め,本番には

弱い性格だったので,いざ受験近づくとダメでしたね。

そして3月京大受験日,待ち合わせても農学部を

受ける友人1人しか来ませんでした。

実は1969年は,全共闘の東大安田講堂占拠で東大入試

が中止となり,東大受験生が京大に流れてくるというので,

一緒に受ける予定の残りの数人は併願していた阪大とか

名大とか,要領よくレベルを落として受験したので待合

わせに現われなかったと後で知りました。

携帯もない時代で,待合わせスッポかされても待つしか

ありませんでしたが,2人だけで京都に向かいました。

京大の理系入試は問題がやさしいときでも900点満点

の7割の630点もあれば,医学部でも通るはずでしたが,

この年は問題が東大1次に似たや,さしさで,私も7割

くらいはできたのに,理学部合格の最低点が,確か690点

近くまで上がり,またも10日頃に「サクラチル」という

電報が自宅に着てガッカリしました。

気を取り直して3月下旬に1人で静岡大学を受けました。

ここの問題自体は,例えば数学は京大入試よりも難しく

5門中1問正解でも合格というレベルでしたが,私は

問題が難問の方が得意であったこともあり,こちらは,また,

合格しました。これ以上の浪人は経済的に無理ですから

大学入試はこれで打ち切りです。

長兄の付き添いで,当時できたばかりの東名高速の近く

で大学も近い家賃4800円の4畳半の長屋式アパートの部屋

を決めて4月には布団と机だけ持って入居しました、

しかし,大学はまだ封鎖中で入学式があったのは5月に

入ってからでした。実は受験も大学ではなく安倍川近く

の「元祖安倍川餅」と「本家姉川餅」が並んでいた当たり

の静岡商業高校校舎で受けたのでした。

(※京大も京都工繊大で受験)

その安倍川の端の上から覗いた中洲に,粗末な掘建

て小屋が並んでい,て何だろう?と思ったら在日

朝鮮人が住んでいる集落とのことでした、

巨人で活躍した静岡商出身の新浦投手も,この

当たりの出身だとか,受験とは関係ないけど,ぬるま

湯育ちの自分には,この光景は少なからず,ショック

でしたね。

さて,下宿生活は特別奨学生で月8千円(就職後に返す

のは5千円)を支給され,国立大授業料は年間で1万2千

円で半期ごとに6千円を納めるのですが,最初は私立より

安い入学金と6千円を実家でもらって払いました。

大体,大学には生協食堂しかなく,その日替わりのA定食

が80円,B定食が120円という時代で,朝飯抜きで日に2食

なら学食じゃなくても,1日200円くらいで,それだけなら

食費は6千円程度ですから家賃と合わせても1万1千円

くらいですが,それではギリギリ生きてるというだけで,

学費も間食も娯楽もなしの味気ない生活です。

当時,テレビは高価で岡山の自宅に父の月給以上の値段

で,それを買ったのが,私が小学5年の10~11歳の頃で,

洗濯機も冷蔵庫も電気釜もなく,お風呂はマキで炊く

五右衛門風呂,洗濯は洗濯板とたらい,水道もなく井戸水

を使い,ごはんはお釜,冷暖房はうちわと火鉢にこたつ,

やっと扇風機が1台あったぐらいでした

実家は風通しの良い昔ながらの開放的和室で夏や冬も

今ほど厳しい暑さ寒さはなく,岡山県南部は気候温暖で

冷暖房は不要でしたね。

というわけで,下宿した部屋にテレビや個人の冷蔵庫

があるのは,かなり金持ちの子女くらいで,私たち庶民

学生は,娯楽の電化製品など何もなく冷蔵庫は10部屋

ずつの2階長屋ての各階に共同で1個ずつ,洗濯機も

1階に共同で1個だけ,競合風呂もガスで沸かすのが

20名で,1つあるという生活でした。

最初3万円を持って,くにを出て月8千円の奨学金

の他は,8歳上でもう就職していた長兄と母を合わせて

ときどき,5~7千円が届く程度でしたから,7月前には

金欠となり,下宿の2階にいた甲府一校出身の人文学部

の同級生S君が家庭教師の口を紹介してくれて,自転車

で10分くらいの静岡済生会病院の医師夫婦の息子2人.

小5と中2の家庭教師を週3回,1回2時間で月7千円と

いう契約で始めました。末っ子の私,アルバイトは

生まれて初めてでしたが,やらないと食べていけません

からね。

当時の学生アルバイトの相場は,競輪場のガードマン

とか,デパートの棚卸しとか,単発仕事が日給2千円で

家庭教師は週2回で月8千円が相場でしたが,新米の

私は少し条hが悪くても手を打ちました。

それから,2年教え子2人がそれぞれ,中学,高校に

進学したところで家庭教師はやめました。

さて,大学入学後,まもなく,理学部1年甲(数学科35名,

物理学科45名),ほとんど男子でICU(国際基督教大学)を

中退してワサワサ静大数学科にきた.という異色のAさん

という女子がいたくらいのクラスで,当時大多数の日共

民青員とその親派やノンポリの暴力反対派の学生達に,

対抗して.私は非合法活動も辞さない新左翼(反日共系)

のP共闘(物理学科共闘会議)を少数派数名と共に作り

学生運動に邁進していきました。

丁度,1970年安保改定の時期で.ベトナム戦争や沖縄

返還問題もあり,今の香港のように,まわりの風潮に

流されず,ひたすら勉強して将来に備える,普通の自分

ファーストの個人主義的学生生活を貫くには,逆に

ある意味,強い精神力が必要で,当時,大学生なら誰も

が何らかの社会的立場を主張して学生運動に巻き込

まれる方が,むしろ普通でした。

ところが,普通に勉強して成績優秀だった同級生が

約80名のクラスから,入学の翌年にかなり消えました。

実は,東大入試が復活したので,国立二期校で我慢して

いた隠れ浪人たちがいて,大学を受け直して合格した人

がやめたのでした。イヤ,これには,アキレましたね。

(⤴※何と要領がイイんだ?)

私は,ベトナム戦争にしてもアメリカに追随していると

そのうち日本も巻き込まれる,という反米愛国の反対派に

対して,「革命樗木祖国敗北主義」とか「自己否定」とか

述べてアメリカ兵とか,ベトナム人民とかじゃなく,人が

戦争の犠牲になり不幸になる事態は,日本国や自分を犠牲

にしても反対という主張の新左翼に共感し,自分や自国の

家族同胞の安全のためでなく戦争に反対するのは偽善者

で金持ち子弟の青臭いお遊びの理想主義と批判されても,

私は金持ちのボンボンじゃないし,その少数派に属して

理想を主張して何が悪い?とか議論して,ヘルメットに

覆面,ゲバ棒,火炎ビンン等で武装.無駄な抵抗をしたモノ

でした。「べ平連(ベトナムに平和を市民連合)などのデモ

にも参加し,学内運動から外へと出ていき,20歳の3月

4月には,成田の「三里塚芝山連合空港反対同盟」の支援

のため,成田の芝山町公民館や近隣の農家に滞在して援農

や空港工事現場の座り込みなどしながら過ごし,結局,留年

して3年生を2度やる破目になりました。

当然,留年中は奨学金が出ません。三里塚から帰ったの

を機に,家庭教師のアルバイトはやめて,生活の金がある

うちは部屋でゴロゴロした生活で,生活費が不足すると

大学の掲示板にある人気のない残りものの仕事をして

日給をもらい,また,ゴロゴロ暮らすという自堕落な生活

形態になりました。

大学入学後,学内封鎖で講義も切れ切れの頃から理系

の勉強より,学生運動の理論武装の必要や純粋な興味から

当時の左翼主流だったマルクス主義関係の哲学や経済学

の書籍を読むことが多くなり,マルクス主義に対抗する

近代資本主義経済の書物も読み,シュールレアリズム,

ダダイズムなど文学書なども乱読したのは,この頃です。

ただし,この時期でも理系で独学が可能で実は物理より

好きだった数学の理論については,細々.コツコツと専門書

を読んで勉強をしていました。

物理学科は,物理学実験と統計力学Ⅰの必須2科目4単位

が不足していただけなので,大学に行ったときは時間が有り

過ぎて,1年間数学科の3年(1年後輩だが留年で同学年)の

講義を受けました。

物理の先生のチンプンカンプンで自学でやるしかなかった

講義と違って,数学科の先生は,何故か講義が丁寧で,わかり

やすく,聞いているだけで身に付きました。

転んでもタダでは起きません。このとき受けた物理学科

では受けることのない,専門数学の講義が後の自己満足的

ですが,理論物理の勉強に大いに役立っています。

さて,3年目から,色々とアルバイトをやりました。

給料が安かったのは,静岡新聞の高校生向け就職案内の

ビラ配りや競輪儒の警備ガードマンなど。。比較的賃金

高ぁめは,日東興業か東洋製缶という会社だったかで,

ベルトコンベアから降りてくる空のダンボール箱を

重ねるとか,箱造りをするとかの徹夜作業,東名高速

牧之原付近の昼間に摘んだ新茶の山を今なら機械で

やるのでしょうが,夜間にいぶしながら足で踏んで

つぶして新茶にするとかを数日泊まりで食事付き

1日1万円以上とかもありました。

春でも暑かったです。

また,「富士コカコーラボトリング」で,チャップリン

の映画じゃないが,コンベアで流れてくる使用済みの

ビンの栓抜きと洗浄,同じコンベアの別場所のコーラ

ビンを詰める木の箱の掃除とか,4つくらいの工程を

 

20分やっては10分休みの交代で一晩中やるとかは,

普通のバイトが日給2千円の相場なのに3200円で,それ

でも安いと,値上げ交渉もしました。,

また,日給は相場通りですが「今村白蟻研究所」で

民家床下でのヒ素の散布や,ヤマトシロアリの巣を

探すとかは,予定より早く終わり,残りの時間は当時

セミプロ級だったパチンコで稼ぐことも多かったです。

静岡警備保障の東名浜名湖パ-キングエリアの交通

整理ガードマンとか,東名高速のバイトも多かったです。

ガードマンは,これと競輪場の他にも運動場の体育館

での夜間宿直もやりました。

その他,ボウリング場の椅子の組み立て長崎屋の棚卸し

と,挙げるとキリがないです。

ただ,何人かの友人がやっていて収入がいいと聞いた

ウェイターやバーテンダーなど接客業だけはシャイな

ため不可能でした。家庭教師は子供相手なので例外

でしたね

そうして5年目は奨学金が復活,卒業見込み証明書

を持って,まず,大阪の富田林市の「理学電機工業」と

いう会社を受けて不採用になり,日立系の「NBC(日本

ビジネスコンサルタント)」を受けて採用内定した後

9月には,関西で,いくつか大学院を受験する予定でした。

2年間は,バイトに便利な大学から遠い静岡駅周辺に

住んでましたが,この23歳の春に最初に住んでいた大学

に近い最初の長屋アパートの近くで,同じ作りの長屋の

1室に引っ越してきたのが,間違いのもとでした。

それから,57歳の春に東京で心臓手術を受けて障碍者

プータローになるまでの33年間.仮面ウツ病で苦しみ,

トランキライザーを手放せない人生となったのでした。

わずかなキッカケで,学生全体のイジメ,大学周辺

でのムラハチに逢い,そのうち,イジメが妄想か現実か

区別できない精神状態のノイローゼになり,逃げること

もできなくて部屋に閉じこもるようになって就職を

考えるどころではなくなりました。

心を許せる友もいたのですが,大半は留年せずに卒業

していなくなっており,知らない学生が多くて残る友人

も(被害妄想かも知れないが),いく人かは,むしろ,

心を許していた故に,辛い敵となったため.以後人生

で表面的な付き合いの友はいても,心は許せなくなり

喜怒哀楽を隠すポーカー仮面となったのでした。

ともあれ,バイトはしないと飢え死にするので大学

周辺は避けて「イハラグリーン」で,東名高速の清掃

関係,掛川にジャスコデパートができたときに商品棚

の組み立て,また,高速パーキングのガードマンなど,

静岡や清水から遠い場所で仕事をしました。

この頃は,辛くて人生そのものからも逃げたくて

死にそうな心でした。この当たり70歳の今だにトラウマ

が消えてないので,よく覚えているけれけどあまり思い出

したくないです。

とにかく,夏休みに大阪の伯父伯母の家に逃げて滞在

し,そこを起点に計5つの大学の大学院院を受けました。

以前は,大学入試の敵討ちで,京大も受ける計画でした

が,そうした元気はなくて,阪大理.阪大基礎工,関学大

理,大阪市大理,神戸大理に願書を出しました。

受験は,この順だったか?はっきりしないけど最初の

3つまでは受験どころじゃなく,被害妄想で嘔吐しそう

になって途中トイレに閉じこもったりしました。

特に,蛍池で阪大を2回受けたときはヒドかったと記憶

しています。関学は私立で入学金,授業料など高い学費が

心配でしたが,冷やかしじゃなく,尊敬している今村先生

に逢って師事できればという期待もありました。

気分悪かったながらも,1次合格で面接を受け,何か失敗

したらしく,最終的に不合格でしたが,高い学費が心配

というのもあったので,これは少しホッとしました。

大阪市大も有名な中野先生を知っていましたから

素直に素粒子論をやりたいと言えばよかったのに,1次

合格の5名に入りましたが,面接で,病気のせいか?

何となく心と裏腹に確率過程のようなことをやりたい,

と言って「うちにはそうした関係の研究室はないよ」,

と言われたので失敗したのかもしれません。

神戸大も大阪市大と同じく物理は零点に近かったけど

数学の成績が抜群に良かったらしく,80名程度の受験者

で1次合格の8名?に入りました。

その後も,両方の発表を親戚の家で待っていて神戸大

合格の連絡がありました。大阪市大は博士課程もあり,

かなり行きたかったのですが,どうも私以外の4名は

合格したらしいので,よほど面接の言動がまずかった

のかな?と思います。ま,1つだけ引っかかったので

よかったです。

さて,神戸に入学するとしても.24歳の来春のこと

なので,就職も内定してたけど,精神の病のせいで学生

の方が楽そうなので,就職を断って,何とか神戸で学生

を続ける道を選び,辛いけれど静岡に帰りました。

相変わらずの,病気に耐えながらの隠遁バイト生活,

でも,先に希望があり,自殺もせず乗り切って,24歳

の春,大学を卒業,4月には神戸の6畳9千円の部屋

に引っ越しました。

アパートは,大学のある六甲駅に近い阪急西灘駅近く

の五毛天神というバス停のそばでした。2階奥端の部屋

で向かいが浪人生,隣が若い保母さんでした。

西灘駅は,今は名称が王子公園駅に変わったらしです。

当時も公園と動物園があったようでした。実家は新倉敷

最寄りで,そこから帰ってくるときは「こだま」で1時間

新神戸は,布引の滝のそばにあり,バスで五毛天神まで

直行できました。

(※32年ぶりの2008年に新神戸に行くと地震のため,滝

のあった当たりがコンクリート補強されていました。)

静岡大には,医学部がなかったけど,神戸大には医学部

と付属の大学病院があり,高速神戸という駅から歩いて

10人くらい,大学病院の精神神経科にかかりました。

精神科は人目をはばかる時代で,病院玄関から長い廊下

を経てポツンと遠い場所にありました。

とにかく診察の結果,強迫観念症?というような診断

で精神安定剤を処方され,飲むと辛い症状が軽減された

気がしました。

転地したからといって,妄想が消えて完治するような

簡単な病気じゃなく,薬で興奮した交換神経を休ませ,

周囲に鈍感で,いつも眠いという安定剤特有の効果

があります。しばらくして大学近くのバス内で嘔吐して

親切なおばさんに助けられました。薬が強すぎたようで,

再度受診して量を減らしてもらい,なんとか日常生活が

できました。

でも病気のせいで,気付かぬうちに,普通じゃない姿

をさらしていたようで,研究室事務の女性などに,変な

奴と誤解される行動などもあったようです。

とにかく,静岡では耐えてるだけでしたが,診察を受けた

安心感とプラシ-ボ効果もあって,少しはまともな生活

を取り戻しました。

1年先輩で東大出身のTさんに,大手重機会社重役の

孫で,灘高1年生H君の数学の家庭教師の口を譲り受け,

その収入が週1回で月3万円,そして大学院の奨学金が

3万2千円(前年までの2万5千円から増額),これだけ

でも暮らせましたが,さらに西宮北口の立聖館予備校の

非常勤講師,芦屋のマンションで,宝塚志望の中2女子

2名,逆瀬川で高2男子の家庭教師もあり,神戸にいた

3年は.大学時代のような,泥臭いバイトはしません

でした。

神戸は,当時,父が養子なので血のつながりはない

けど大伯父が兵庫県知事で,また,5つ年上の実姉が

伊丹の武田食品に勤務の夫と西宮北口にいて甥と姪

もいました。また,大阪市生野区には養子に行った

住友生命社員の次兄夫婦に甥,姪が,そして同じ西灘

の福住通りには父の実妹の叔母夫婦も住んでいて

親戚ばかりでしたが。西宮の姉の家以外は交流は

少なかったです。

山歩き,スキーなど,先輩に混じって経験なかった

レジャーもやり,やがて修士課程の2年が過ぎて,

別大学の博士課程を受けることにしました。

研究室は坂田・谷川2中間子論で有名な谷川安孝先生

の研究室でしたが,指導教官は北添徹郎助教授で,後に

宮崎大教授になったらしいです。

一応,指導を受け修士論文は年内にはできました。

谷川先生は,推薦状を2通しか書かないというので

大阪市大と北大の2つにしました。

当時,北海道の札幌は,私が京都の次に住みたい街

でした。修士課程の入試は9月でしたが,博士の入試

は春3月末でした。

大阪市大は普通に論文審査で,作ってあったOHP

スライドで説明し面接受けましたが,実験の先生の

質問に,ついトンチンカンな答したようで落ちました。

偉い先生が「どうせアインシュタインの受け売りだろう

」とかいうので.よほど「てめーらだってそうじゃねえか」

と言いそうになったけど思い留ままりました。

私の論文,自分でも大していいとは思ってませんでしたし。

北大はJR神戸駅で、復5千円途中下車OKの普通

乗車券を買って,まず東京で.東大大学院地球物理にいた

友人H君宅に1泊,翌日東京観光を案内してもらった後,

「八甲田」という夜行急行列車で青森に向かい,早朝

に着いて,青函連絡船で函館にわたりました。

そこからまた,列車で札幌に到着したのは16時頃

でした。札幌の春はまだ雪が残っていました。一応,

予想して雪で滑りにくい靴を履いてましたが,歩くと

ときどきキュッキュと音がするのが気になりましたね。

かなり疲れてましたが1泊するホテルを決めた後,大学に

行って下見をしました。

翌朝,試験会場に行くと,作業着姿の事務か清掃員のような

オジさんが出てきて,論文面接じゃなく,トイレの場所など

細かく紹介してくれ1部屋を与えられで,出入り自由,何を

見てもいいからと,5問くらいのペーパーテストの問題用紙

と答案用紙を渡され「帰るとき私の部屋のドアの封筒

に入れといて」と言われました。

実は,そのオジさんが,かなり有名な素粒子論の主任教授

だったのです。

予想外のことで参考書も持参してないし,大学外へ出て

本屋や図書館に行って同じ問題の答を見てもいいわけ

でしたが,そこまでやる気もなく.1問目から自力で記憶

にも頼って,完全解答をしようと力んだ余り時間を使い

過ぎて,昼食は軽食を用意してたけど,夕食は近くで

済ませた後,このままじゃ,もう1泊になり,そんなお金

ないので,夜8頃に切り上げて中途半端な解答を上の階

の教授室の封筒に入れて,また夜行電車で帰りました。

その夜は結局,仙台で途中下車して東北大大学院の縫う仁友人

K君宅に泊まりました。H君もK君も元P共闘の同志ですが

彼らは4年で卒業,希望の大学院に合格してました。

それから,1年奨学金はもうないけど,聴講生として

大学研究室の私の机のある3人部屋に前と同じく在籍

して,研究勉強を続け,また博士受ける浪人でしたが論文

は新たな論文は書けず,教授の紹介で東京の会社の就職

試験受けて,27歳(1977年)春に学生時代は終わりました。

学生最後の秋は薬のせいか?体重が30kgから74kg

と異常に増えました。身長は178~176bmのままです。

話は,変わりますが,父は大正7年に兵庫県

明石の貧しい家庭の4人兄弟(男男男女)の

長男で生まれ,小学5年で岡山の名家で子供が

いない伯母(実後の姉)の養子に行きました。

どうしれも中学校に行きたかったかららしい

です。それで,「中学なのかどうか岡山第一

商業学校(元岡山東商業高校)に入って

卒業後,大高島屋に就職しました。

そこで若山出身の母に出逢い,できちゃった

結婚をしたらしいです。

父の就職から4,5年後に日本は本格的戦争に

入り,父は病弱だったせいか乙種で招集され

ませんでしたが,日本の敗色が濃厚で学徒出陣

まで,総動員の頃には海軍に招集されました。

最後,護衛艦で沖縄決選に向かう途中肝臓病

で浜松か松山で降ろされたので戦死を免れた

のでした。そうでないと私生まれてません。

戦後は20年間券の公務員で肝臓病再発して

46歳で死にました。岡山済生会病院で真夜中

昏睡したままでの臨終に立ち会いました。

長年勤務しても大学での後輩たちが自分を

追い抜いて周世するのを見て,大学出てないせいと考え

子供たちには,いい大学に入れと,教育パパになったのでした。

しかも,父の義父の兄=私の大伯父が,その養子先で

兵庫県知事となっていて.自分もゆくゆくは岡山県知事

を目指し,息子たちにも法学部を出て代議士に」なれと

いうような教育をしてました

私も,その子供を大事にする優しさの余り,コワい父

に逆らう度胸はなかったので,もし生きてれば高校で卓球部

にも入れず,理科系にも進めず,ましてや学生運動などせず

別の人生となったでしょう。

 

1965年4月の父の死は,くしくも母校の岡山東商が平松

投手を擁して春の選抜高校野球で優勝した日でした。

また.父の養父(私の祖父)は戦前に亡くなってますが明治に

なる前は下級武士(郷士)で,明治になり造り酒屋を始めた

らしく,地元では大地主で,私の時代,母子家庭とは

なりましたが,土地はあったようです。

裏庭の壊れかけた土蔵などに酒造りの道具などありました。

父の死後,自宅の敷地の半分以上は,姉の結婚などの費用

で何度かに分けて売却し,子供時代広かった屋敷の塀の

中の遊び場も荒れて後を継いだ長兄夫婦が一部を近所の

駐車場としているらしいです。

(以上1977年に就職で上京する前まで)

 

  

 

 

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