ノーべル物理学賞
本年度のノーべル物理学賞受賞の真鍋先生おめでとう
ございます。といっても私は存じ上げていませんでした、
今でこそ,科学分野での日本人のノーベル賞受賞者多勢
おられますが,私の学生の頃は素粒子論の湯川先生と
朝永先生くらいでした。
結局,このお2人に影響されて浅学非才な私も理論物理学
に魅力を感じたのが,71歳の今でも興味を持ち続けている
キッカケであったと思います。
気象力学や地震物理学なども地球物理学に属しますが
高校では「地学」という範疇で,私も物理学には違いない
と思っているのにノーベル物理学賞にはこれまで無縁でした。
私はコンピューターで環境アセスメントを仕事とする会社
に入社して13年在職していたので,気象も地震も仕事に必要
な知識だったのでしたが,学生時代は基礎物理に属するもの
しかやらなかったので,流体力学から始めて後に水理学とか
気象力学や地震学なども「門前の小僧」で知識が増えて
いきました。
そして当時のNECや富士通の大型コンピューターを使って
Fortrranのプログラムで差分法や有限要素法で数値モデル
を立てて計算することもやりっましたが,当時のスパコン
でさえ,今のPCよりはるかに遅くて,使用データも1600
フィート?(6000だったかな)のテープ5本などを回して
何日もかけて連続計算していました。
(おかげで計算が終わるのを待ってるだけで,ときどき,
テープ交換するだけの徹夜か泊まりというような,
ある意味で楽な(無駄な)残業もよくありました。)
今の気象庁の気象予測計算などは,もし数日かかると
したら無意味なので,あの頃から大した進歩だと思います
眞鍋先生は90歳ということで,私より19歳も年上なので
当時コンピュータでの数値計算は大変だったろうと想像
します。 日本はコンピュータI産業の保護で国産機械
しか使えませんでしたがア,メリカだともっと進んでいた
のでしょうね。。
私,1989年糖尿病で教育入院したのをキッカケに1990年
(平成2年)の3月に40歳で13年勤務した会社をやめたのですが,
そのころ会社で「地球温暖化」の計算プロジェクトをやると
いう計画がありました。眞鍋さんのではない研究者の英語の
論文など読みましたが,球体の地球全体は地図を作成するのでも
「メルカトール法」とか「モルワイデ法」とか,困難がある
ように,地球全体を差分メッシュに分解する座標系の取り方か
らかなり難しく,当時,ゴア副大統領著の「不都合な真実」が
出て注目された課題でも研究所でもない民間の1営利企業が
取り組む問題じゃないというわけか?消滅したようです。
当時,フロン(塩素,フッ素)やPAN(ポリアセチルナイトレート)
の増加によって,光吸収による酸素からのオゾン生成と光放出に
よるオゾンの分解の平衡が損なわれてオゾン層が破れ光化学
スモッグ(光化学オキヂダント)の発生,太陽からの紫外線やX線
による皮膚ガン被害などの原因の化学反応も問題となりこれら
は,単純に物理だけの問題じゃないのですがく温暖化やそれに
伴う気象変動があることは事実でしょうが,二酸化炭素が
その主な犯人であるかどうか?は疑問視されていました。
そういう計算結果があっても,数値計算法の信憑性も
疑われた時代でしたしね。
私自身も地球の最大の温室効果ガスは水(水蒸気や雲)で
人間や動物の活動が異常気象の原因だとは思っていても
高々2パーセント程度のCO2よりも,森林伐採による密林
の砂漠化,雨が降らないなどの方が異常気象の主犯だと
思ってました。いまも世間の常識とは違う見方も多い
です。例えば,ニュートリノ振動やニュートリノの
有質量も,まだ本当かな?と疑問視しています。
さて1990年に退職金でPCを買い,ベンチャー会社の
嘱託をしながら大学受験塾を始めましたがバブルが終焉
を迎えた1993年ころ,結局,プータローになりました。
オイルショックもある不景気な世の中,40歳を過ぎた
冴えないオヤジが約7年間,起業するでもなく職を選
ばない就職試験も落ち続けましたが,食べていくため
最初は交通ガードマンから始めて,予備校講師,専門
学校講師のバイトで食いつなぎ.2000年の50歳の直前
199年12月で採用されたのは正社員でなく派遣会社.
それも大会社の孫請けで隔日夜勤11.5時間(20時から
翌7時半)の拘束で10時間労働.時給1500円でした。
それから7年,心臓病で倒れるまではっここの派遣社員
でした。その間,平成13年12月,11年ぶりで最初正社員
だった会社に隔日アルバイト,時給2500~2200円で
朝9時から17時半までが通常勤務の会社に勤務しました。
科学計算する仕事は同じですが大型コンピュータじゃ
なくPCでの仕事でした。
つまり,夜勤10時間は,月水金と火木土の週交代でしたが
たとえば月が夜勤日なら,朝から神保町の会社で18時半
まで1時間残業で.夕食後は永代橋そばの会社で20時から
7時半の夜勤です。ときには(水t曜日)夜勤明けの朝から
池袋で朝食後,専門学校講師で昼過ぎに帰宅という生活
が結局4年も続きました。
平成17年(2005年)には,津軽湾の地球温暖化による海流
の時間変化を計算する,というのが最後の仕事で,計算困難
で解決できないまま,11月に55歳でクビとなりました。
そのころは3つの仕事掛け持ちででも最初の正社員時代
より収入はガタ落ちでした。
心臓病になったのは夜勤だけになり仕事時間も収入も
半分以下になった2006年の12月のことです。2007年
4月の心臓手術で夜勤もクビになりました。
意外と,温暖化やその数値モデルと個人的に縁が
あったな,ということを連想したという,ノーベル賞に
無理にコジつけたツマラナイ個人のお話です。
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コメント
私は地球を温暖化の主犯は、原発と再処理工場だと思っているのですが、
https://himajinnohimana.blog.fc2.com/blog-category-5.html
を見てもらえないでしょうか。
投稿: 放射能の暇人 | 2021年10月11日 (月) 23時27分