約1年前にシャイアン族大虐殺(1864年)と同じ日11月29日に書いた「 ソルジャー・ブルー再び(映画感想)」の中での間違いに気づいた。。というのもこの映画を中古ビデオから探してきて封切り(私が20歳のとき?)から38年ぶり?に見たからです。
よくできたフィクションだと思われるかもしれないけれど最後の光景は40年近くも前から頭に焼き付いていた程のものですね。。。まあ,感想はあまり変わらなくて観れば語る必要なしです。
主人公の1人キャンディス・バーゲン演じる女クレスタはシャイアン族と白人の混血と書いたのですが,そうではなく,白人ですがシャイアン族の"まだら狼"の妻だったのを白人に救出された?ので別れたということらしいですね。

今は違うけど,この頃の私の女性の好みは野性的な感じのキャンディス・バーゲンよりもむしろ「卒業」の可愛らしいキャサリン・ロスでしょうか?
私は丁度多感な年頃で精神的には若いというだけで充実していたと思いますが,生活自体は学生とはいっても今よりも悲惨で,マヨネーズや塩をなめて水だけ飲んだりして空腹を我慢という日もよくあったし,もちろんテレビはなし。。寒くてもコタツもなし 暑くてもウチワだけでした。。
一時期はお米屋の2階に宿直代わりに住んでいて家賃がタダで早朝に店員が来ると木戸を開けてあげるというのもありました。
まあ,学生だから普通の労働者よりも優遇されていてアルバイトは学校の掲示板にたくさんあって人気のない仕事であればアブれることはないので怠け者でなければ普通並みに食べられたのですが。。
別に学生アルバイトをするというのはいわゆる苦学生ばかりではなく,余裕で稼いで海外旅行をするとかが目的の人もいたのですが。。
私は,今と同じくキリギリスで持ち金が全部なくなるまではゴロゴロしていてどうしてもやらないと飢え死にするかも,という状況になって初めて渋々仕事を探し,ほぼ無一文だったので友人にアルバイト先までの交通費と食事代を借りて仕事をして,もらった金から借りた金を返すということの繰り返しでした。
今も同じことをやっていて反省しないから,40年近く経っても全く学習能力なしですね。
当時は学生なので生活費のほかに本代なども必要でしたがそれはほとんどはパチンコで稼いで買いました。
ときたまには生協の本のコーナーで万引きしたり図書館から盗みました(借りたまま着服,大学の印がついてたりします)。オイオイ。。
パチンコは普通はいきつけの店で毎週何曜日か忘れたけどその日よく出ている台の番号を手帳に記録するだけでその日はパチンコはやらず。。後日,朝10時に並んで記録してあって空いている台でやると今と違ってギャンブル性は小さく小額ですが大体勝てました。
パチンコ屋にはよく暴力団と学生お断りとかありましたがセミプロ級の友人もいまし た。
生活かかってたので,パチンコも下手では生きていけませんでしたからね。
いつの頃からかパチンコは全くしなくなりました。。勝ち負けの額が大きくコンピュータ制御だし,釘を見て天穴のどこかを狙うとかではなく全く別のノウハウが必要らしくて,ほとんど勝てないので,やめたのですね。
そういえば麻雀も学生時代は簡単なイカサマもやったことあったけど社会人になってしばらくしてやめました。こちらは初心者以下で下手でした。。
パチンコは初めてやったのは1年間予備校に通っていた浪人時代で,まだ初めてチューリップがついた頃で左手で握った玉を穴から転がして入れながら右手ではじくというローテクな時代でした。。うん,なつかしい。
アルバイトについては,もっと要領のいい奴,とはいっても同じく仕送りなどない奴らですが当時はホストクラブのようなものは田舎にはなかったけど何かカラーのスーツに蝶ネクタイでバーテンダーのような給料のいい仕事してたらしいです。
アルバイト関係の自分では面白いと思っている話も結構あるけど例えば今の普通の学生のようではなかったので親しいガールフレンドとかはいなかったけど,女性の話では以前アルバイトしてたガードマンの会社にいた年上OL女に街でバッタリあったのがきっかけでストーカーのようにつけまわされたとか,
白蟻駆除の会社の支店長のまだ高校に入ったばかりの娘婿になることを画策されたとか。。。
その白蟻の仕事では床下で仕事したので,「休憩してお茶いかがですか?」と呼ばれて「はい。]と見上げたら若奥様のパンツが見えたりとか。。。
入学して初めの2年半くらいは家庭教師もやっていたけど子供の誕生日に呼ばれて嫌いなものを嫌いと言えずに吐き出しそうなのを無理にビールで流し込んだりとかとかキリがないのでやめよう。。
いいことばかりじゃないし,「忘れない病」は辛いのですよ。。。
今からは信じられないかもしれないけど,当時私は全くシャイだったので家庭教師以外の接客業はできませんでした。
後に奥の院に進んでからは予備校などで教壇に立ちますがそれはノイローゼの後ですね。。
そういえば確か1050円の運賃で普通電車で夜中の2時40分に乗って2~3回乗り換えて丁度12時間後の昼の同じくらいの時刻に実家のある駅に着くように帰るのが長期休みのときの慣例でしたが。。。
あるときパチンコでつい帰る金なくし,近くの長崎屋の棚卸のバイトみつけて次の日だったか1日働いた後に旅費ができて2日遅れかで帰省した記憶ありますね。イヤ新幹線はもう既に博多まであったはずですよ。
しかし当時帰る前は大体浮浪者(きちがいと同様差別言葉でしょうが。。)に見える格好だったので毎回夜中に駅でおまわりの職質が来て学生だとわかると世間話のふりして学生運動の情報聞かれたりしたのは今思ってもウザイものでした。帰省から学校に戻った直後はコギレイでしたがね。。
また東京にデモに行く際には普通電車で3時間くらいだったか電車賃が800円くらいでした。泊まらなくてもいいけど泊まるなら宿泊費はタダでどこかに誰か友達がいたし,ダメでも例えば東大の地震研とかが封鎖中で門が開いてなくてもどこかを乗り越えればよかったし。。
そういうわけですから普通映画を観るのは最低クラスの7番館くらいの入場券130円と150円の名画座と小劇場だったかな?でもときどきは300円以上もした贅沢な封切りを観ましたが何故これを封切りで観たのか偶然ですかね。
正解でした。封切りでなければこの時代に7番館で観れたとは思えません。
自室にはテレビがなく映画館は冷暖房が効いていたので余裕があればよく映画を観ていましたね。
この頃は北富士の米軍演習場や成田三里塚に出かけて行った頃ですね。
その後同じ学生運動仲間や「親友」の"ムラハチ"に会ってノイローゼになってしまうのですが。。
この映画見た頃はまだいくらか凶暴(軽い犯罪行為は平気でやっていた)でしたが頭はまともでしたね。。
まあ。。ノイローゼか精神病かわからないけどここらへんの本当の事情だけはさすがに非公開日記でなければ書けません。
たとえて言えば今は冬ですから無理ですが,夏でも素っ裸で堂々と歩くことはまだできません。ケイサツに捕まるのは別として。.
これについては人間よりサルのほうが上だな。。
本題に戻ると,白人が元々の原住民だったアメリカ・インディアン(当時)に21人殺された(戦いだから相手も同じくらい死んでいる)復讐で女・子供がほとんどの500人を700人の青い服の騎兵隊(soldier blue)が惨殺した当時は大勝利としたが後日アメリカの白人自身が自らの汚辱的犯罪とした事件です。。。
白人(white)1人の命の重さが非白人(colored)数十人の命以上の重さだったわけでしょうか。。。WASPだな。。。
ヒロシマ,ナガサキ,ベトナム,アフガン,イラク。。今の合衆国は必ずしもホワイトだけの国ではないですが面々と歴史は受け継がれています?。。。
この映画はよくある西部劇の善人と悪人が逆転した記念碑的映画でした。。
背景には当時のベトナム戦争においてアメリカが味わうことになる初めての事実上の敗戦の直前の断末魔が影響していたと思います。
この映画でかつて見落としていて今回発見した重要な2つのうち
1つは,かつての夫,”まだら狼”が新しい婚約者の首に自らが贈った首飾りを見つけて殺すのをためらっているうちに取り囲まれて殺された場面と,
あまりの惨状に大ケガをして泣いているインディアンの女の子をホーナス軍曹が抱き上げて将軍に渡したらさすがに目の前の子供は殺せなかったというシーンです。。
近代兵器の特徴は大量殺戮をしても当人が相手の傷ついた身体を見ることさえもないということ,他人を傷つけた殺したということの結末を生で実感できないということです。
相手を殺しても自らが返り血もあびない。。
素手であれば作用と反作用は明らかで。。思い切り相手を殴れば自分の拳も痛く,心も痛いはずなのに。。
(官憲,権力とかあるいは皇室とかにしても,その組織としての存在は敵だと思って憎いと思っても個々の生身の人間には親兄弟,そして女房、あるいは夫や子供もいて決してその背景組織のせいで憎いとは感じないはずだ。。
極端な話例えば愛子さまが可愛いなあと思う感情は皇室が好きではないという思想的なものとは関係ないだろうと思う。。
彼女がそこに生まれたのは本人の責任ではない。。
昨日ブン殴ってやったのはナニワブシ人間なのに,そこがワカラナイ奴で右翼か?と抜かしやがったからだ。。
そこを曲げたら逆差別になると思ったからだ。。
罪を憎んで人を憎まず。なかなか言うは安くできないこととは思うけれど。)
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