私,脳科学者に分析してもらいたいくらい年齢
の割に,海馬が異常なようで70歳になっても,うん
十年前の記憶が,死ぬ直線でもないのに,走馬灯の
ように沸いてきます。
例えば5歳の幼稚園さくら組で隣の席のおカッパ
色黒で,ややサメ肌の難波S代ちゃんに好意を持って
いたとか,ちょっと考えると,脳裏に蘇えったりします。
また,絶対音感はないと思うけれど,その5歳の頃,
親にハーモニカを買ってもらって吹いてたのを,5年
くらい前に思い出して,Amazonでハーモニカ購入して
吹いてみると,音符なしでメロディーを知ってるモノ
は,ハーモニカの音域に入ってる限り,スグ吹けるよう
です。まだ,相対音感はあるのかな?
そういえば,小学6年のとき,小学校代表で「朧月夜」
を独唱し.カゼを引いてた雨の日に県の地区予選で
負けて銀賞をもらいました。(1位金賞以外は全員
銀賞)という記憶もあります。(※子供のとき,歌が
得意だったという記憶はないが),体育や図工の実技
以外のペーパーテストではその田舎小学校1学年50人
の2クラスでは,全科目トップで私立中学を受けて
入ったとき,音楽の女先生(小橋先生?)に,
「トシちゃん勉強もできたのね。」と言われました。
音楽の先生だけが担任の男先生と別でしたから。.
こうして自動書記的にいくらでも想い出の枝葉
が沸いてきて,キリがありません。。
私は人生の成功者でもない,どこかの馬の骨です
から,自伝のようなものを書いても,大して意味ない
自己満足ですが.「ホームレス中学生」でもなく,中学
時代に父が病死で母子家庭になってから,社会人になる
までを,つらつらと思い出して書いてみます。
1965年昭和40年,和や市が15歳の中3のときに,
父が病死しました。父は戦前は大阪高島屋で係長,
戦後は,岡山県税事務所間税課の地方公務員で,才一
係長から課長に昇進する直前だというのに,酒も
タバコもやらないのに肝硬変で亡くなりました。
私は4人兄弟(男女男男)の末っ子として1950年
2月1日(父31歳.母29歳)に生まれ,父死の当時,
岡山県の金光学園という6年制の私立校に在籍して
いました。高校入試はなく,そのまま,高校に入学
しましたが,当時の国立大の授業料千円/月よりも
高校の授業料の方が高かったらしいです。
生活が急に,中の上レベルから母子家庭で奨学金
をもらうという境遇に変わりました。
教育パパの死をいいことに,2年半くらい卓球部に
のめりこみ,成績は若干落ちました。
1968年に高校を卒業,一応,奨学金とアルバイトで国立
なら,大学に行けるだろう,というので,一期校の京大理学部
と二期校の静岡大学理学部を受けることにしました。
高校の担任教師は,京大理学部は定員280名程度で難しい
ので京大工学部か定員が1千人もいる東大理科1類を
受けるよう指導されました。
その当時は,まだ,日本人でノーベル賞をもらったのは
京大の湯川先生だけで.私は中学時代から「数式を使わ
ない物理学入門」とか「宇宙時代の常識」とかの物理
関係の啓蒙新書を読んでいて,何となく岡山から近い京大
それも理学部物理学科にあこがれていたため,教師は東大
とか工学部とか勧めても聞こえませんでした。
当時は今と違い京大理科系では不人気だった薬学部と
農学部が工学系より合格ラインが900点満点で100点
くらい低かったので。京大に入りたいというだけなら
志望学部を変えて,そこを受けるだけでしたが。
また,建設関係の大手S住宅から旧帝大の建築学科に
入って,卒業後にその会社に入るという条件付きで,学費
などを全て出す,という甘い話もありましたが,建築学を
やる気はなかったので,断りました
二期校も,ネームバrツーが欲しいなら横浜国大とか
もありましたが,残念ながら理学部物理学科がないので
眼中になかったです。
私,今も昔も,そういう目先の自己のやりたいことに
ついては,後の人生での有利,不利とか世間の見る目など
気にしない,という,要領が悪くあくまで自分に忠実で
不器用,かつ,頑固な奴なんです。
たとえ,失敗して後悔しようが,人生は1度しかなく,
失敗も含め糧としてっきた結果,現在の自分があるの
ですから,現在の自分を否定する必要がないなら過去
のやり直しがきかないことへの反省はなしです。
しかし,高3の3月4,5,6日頃,現役で私を含め
同級生6人で京大理系を受験し,sその結果,私だけ
が落ちました。後で点数が学校に戻ってくるのですが,
6人中4番目の成績でした。まあ,志望学部が違うので
仕方まいですね。
それで,1年は浪人するつもりでしたが,一応3月24
~25日頃,兄に付き添われて静岡大学を受け.こちらは
合格しましたが,入学手続きを蹴って浪人しました。
やがて1968年の4月から毎日,加計学園グループの
広島県境の福山英数学館という予備校に通いました。
卓球部との両立もないし,自宅浪人と違って講義を
聞いて模擬試験を受けたりしてればいい,だけなので,
放課後は福山城公園などで草野球などして遊んだり
と,高校時代より楽しい毎日で,試験成績も良くなり
いつも広島英数学館と合わせて約850人中で1番に
張り出されていました。
ただし,正月を過ぎた頃から4番に下がりました。
元々,あがり症で高校の卓球の試合も含め,本番には
弱い性格だったので,いざ受験近づくとダメでしたね。
そして3月京大受験日,待ち合わせても農学部を
受ける友人1人しか来ませんでした。
実は1969年は,全共闘の東大安田講堂占拠で東大入試
が中止となり,東大受験生が京大に流れてくるというので,
一緒に受ける予定の残りの数人は併願していた阪大とか
名大とか,要領よくレベルを落として受験したので待合
わせに現われなかったと後で知りました。
携帯もない時代で,待合わせスッポかされても待つしか
ありませんでしたが,2人だけで京都に向かいました。
京大の理系入試は問題がやさしいときでも900点満点
の7割の630点もあれば,医学部でも通るはずでしたが,
この年は問題が東大1次に似たや,さしさで,私も7割
くらいはできたのに,理学部合格の最低点が,確か690点
近くまで上がり,またも10日頃に「サクラチル」という
電報が自宅に着てガッカリしました。
気を取り直して3月下旬に1人で静岡大学を受けました。
ここの問題自体は,例えば数学は京大入試よりも難しく
5門中1問正解でも合格というレベルでしたが,私は
問題が難問の方が得意であったこともあり,こちらは,また,
合格しました。これ以上の浪人は経済的に無理ですから
大学入試はこれで打ち切りです。
長兄の付き添いで,当時できたばかりの東名高速の近く
で大学も近い家賃4800円の4畳半の長屋式アパートの部屋
を決めて4月には布団と机だけ持って入居しました、
しかし,大学はまだ封鎖中で入学式があったのは5月に
入ってからでした。実は受験も大学ではなく安倍川近く
の「元祖安倍川餅」と「本家姉川餅」が並んでいた当たり
の静岡商業高校校舎で受けたのでした。
(※京大も京都工繊大で受験)
その安倍川の端の上から覗いた中洲に,粗末な掘建
て小屋が並んでい,て何だろう?と思ったら在日
朝鮮人が住んでいる集落とのことでした、
巨人で活躍した静岡商出身の新浦投手も,この
当たりの出身だとか,受験とは関係ないけど,ぬるま
湯育ちの自分には,この光景は少なからず,ショック
でしたね。
さて,下宿生活は特別奨学生で月8千円(就職後に返す
のは5千円)を支給され,国立大授業料は年間で1万2千
円で半期ごとに6千円を納めるのですが,最初は私立より
安い入学金と6千円を実家でもらって払いました。
大体,大学には生協食堂しかなく,その日替わりのA定食
が80円,B定食が120円という時代で,朝飯抜きで日に2食
なら学食じゃなくても,1日200円くらいで,それだけなら
食費は6千円程度ですから家賃と合わせても1万1千円
くらいですが,それではギリギリ生きてるというだけで,
学費も間食も娯楽もなしの味気ない生活です。
当時,テレビは高価で岡山の自宅に父の月給以上の値段
で,それを買ったのが,私が小学5年の10~11歳の頃で,
洗濯機も冷蔵庫も電気釜もなく,お風呂はマキで炊く
五右衛門風呂,洗濯は洗濯板とたらい,水道もなく井戸水
を使い,ごはんはお釜,冷暖房はうちわと火鉢にこたつ,
やっと扇風機が1台あったぐらいでした
実家は風通しの良い昔ながらの開放的和室で夏や冬も
今ほど厳しい暑さ寒さはなく,岡山県南部は気候温暖で
冷暖房は不要でしたね。
というわけで,下宿した部屋にテレビや個人の冷蔵庫
があるのは,かなり金持ちの子女くらいで,私たち庶民
学生は,娯楽の電化製品など何もなく冷蔵庫は10部屋
ずつの2階長屋ての各階に共同で1個ずつ,洗濯機も
1階に共同で1個だけ,競合風呂もガスで沸かすのが
20名で,1つあるという生活でした。
最初3万円を持って,くにを出て月8千円の奨学金
の他は,8歳上でもう就職していた長兄と母を合わせて
ときどき,5~7千円が届く程度でしたから,7月前には
金欠となり,下宿の2階にいた甲府一校出身の人文学部
の同級生S君が家庭教師の口を紹介してくれて,自転車
で10分くらいの静岡済生会病院の医師夫婦の息子2人.
小5と中2の家庭教師を週3回,1回2時間で月7千円と
いう契約で始めました。末っ子の私,アルバイトは
生まれて初めてでしたが,やらないと食べていけません
からね。
当時の学生アルバイトの相場は,競輪場のガードマン
とか,デパートの棚卸しとか,単発仕事が日給2千円で
家庭教師は週2回で月8千円が相場でしたが,新米の
私は少し条hが悪くても手を打ちました。
それから,2年教え子2人がそれぞれ,中学,高校に
進学したところで家庭教師はやめました。
さて,大学入学後,まもなく,理学部1年甲(数学科35名,
物理学科45名),ほとんど男子でICU(国際基督教大学)を
中退してワサワサ静大数学科にきた.という異色のAさん
という女子がいたくらいのクラスで,当時大多数の日共
民青員とその親派やノンポリの暴力反対派の学生達に,
対抗して.私は非合法活動も辞さない新左翼(反日共系)
のP共闘(物理学科共闘会議)を少数派数名と共に作り
学生運動に邁進していきました。
丁度,1970年安保改定の時期で.ベトナム戦争や沖縄
返還問題もあり,今の香港のように,まわりの風潮に
流されず,ひたすら勉強して将来に備える,普通の自分
ファーストの個人主義的学生生活を貫くには,逆に
ある意味,強い精神力が必要で,当時,大学生なら誰も
が何らかの社会的立場を主張して学生運動に巻き込
まれる方が,むしろ普通でした。
ところが,普通に勉強して成績優秀だった同級生が
約80名のクラスから,入学の翌年にかなり消えました。
実は,東大入試が復活したので,国立二期校で我慢して
いた隠れ浪人たちがいて,大学を受け直して合格した人
がやめたのでした。イヤ,これには,アキレましたね。
(⤴※何と要領がイイんだ?)
私は,ベトナム戦争にしてもアメリカに追随していると
そのうち日本も巻き込まれる,という反米愛国の反対派に
対して,「革命樗木祖国敗北主義」とか「自己否定」とか
述べてアメリカ兵とか,ベトナム人民とかじゃなく,人が
戦争の犠牲になり不幸になる事態は,日本国や自分を犠牲
にしても反対という主張の新左翼に共感し,自分や自国の
家族同胞の安全のためでなく戦争に反対するのは偽善者
で金持ち子弟の青臭いお遊びの理想主義と批判されても,
私は金持ちのボンボンじゃないし,その少数派に属して
理想を主張して何が悪い?とか議論して,ヘルメットに
覆面,ゲバ棒,火炎ビンン等で武装.無駄な抵抗をしたモノ
でした。「べ平連(ベトナムに平和を市民連合)などのデモ
にも参加し,学内運動から外へと出ていき,20歳の3月
4月には,成田の「三里塚芝山連合空港反対同盟」の支援
のため,成田の芝山町公民館や近隣の農家に滞在して援農
や空港工事現場の座り込みなどしながら過ごし,結局,留年
して3年生を2度やる破目になりました。
当然,留年中は奨学金が出ません。三里塚から帰ったの
を機に,家庭教師のアルバイトはやめて,生活の金がある
うちは部屋でゴロゴロした生活で,生活費が不足すると
大学の掲示板にある人気のない残りものの仕事をして
日給をもらい,また,ゴロゴロ暮らすという自堕落な生活
形態になりました。
大学入学後,学内封鎖で講義も切れ切れの頃から理系
の勉強より,学生運動の理論武装の必要や純粋な興味から
当時の左翼主流だったマルクス主義関係の哲学や経済学
の書籍を読むことが多くなり,マルクス主義に対抗する
近代資本主義経済の書物も読み,シュールレアリズム,
ダダイズムなど文学書なども乱読したのは,この頃です。
ただし,この時期でも理系で独学が可能で実は物理より
好きだった数学の理論については,細々.コツコツと専門書
を読んで勉強をしていました。
物理学科は,物理学実験と統計力学Ⅰの必須2科目4単位
が不足していただけなので,大学に行ったときは時間が有り
過ぎて,1年間数学科の3年(1年後輩だが留年で同学年)の
講義を受けました。
物理の先生のチンプンカンプンで自学でやるしかなかった
講義と違って,数学科の先生は,何故か講義が丁寧で,わかり
やすく,聞いているだけで身に付きました。
転んでもタダでは起きません。このとき受けた物理学科
では受けることのない,専門数学の講義が後の自己満足的
ですが,理論物理の勉強に大いに役立っています。
さて,3年目から,色々とアルバイトをやりました。
給料が安かったのは,静岡新聞の高校生向け就職案内の
ビラ配りや競輪儒の警備ガードマンなど。。比較的賃金
高ぁめは,日東興業か東洋製缶という会社だったかで,
ベルトコンベアから降りてくる空のダンボール箱を
重ねるとか,箱造りをするとかの徹夜作業,東名高速
牧之原付近の昼間に摘んだ新茶の山を今なら機械で
やるのでしょうが,夜間にいぶしながら足で踏んで
つぶして新茶にするとかを数日泊まりで食事付き
1日1万円以上とかもありました。
春でも暑かったです。
また,「富士コカコーラボトリング」で,チャップリン
の映画じゃないが,コンベアで流れてくる使用済みの
ビンの栓抜きと洗浄,同じコンベアの別場所のコーラ
ビンを詰める木の箱の掃除とか,4つくらいの工程を
20分やっては10分休みの交代で一晩中やるとかは,
普通のバイトが日給2千円の相場なのに3200円で,それ
でも安いと,値上げ交渉もしました。,
また,日給は相場通りですが「今村白蟻研究所」で
民家床下でのヒ素の散布や,ヤマトシロアリの巣を
探すとかは,予定より早く終わり,残りの時間は当時
セミプロ級だったパチンコで稼ぐことも多かったです。
静岡警備保障の東名浜名湖パ-キングエリアの交通
整理ガードマンとか,東名高速のバイトも多かったです。
ガードマンは,これと競輪場の他にも運動場の体育館
での夜間宿直もやりました。
その他,ボウリング場の椅子の組み立て長崎屋の棚卸し
と,挙げるとキリがないです。
ただ,何人かの友人がやっていて収入がいいと聞いた
ウェイターやバーテンダーなど接客業だけはシャイな
ため不可能でした。家庭教師は子供相手なので例外
でしたね
そうして5年目は奨学金が復活,卒業見込み証明書
を持って,まず,大阪の富田林市の「理学電機工業」と
いう会社を受けて不採用になり,日立系の「NBC(日本
ビジネスコンサルタント)」を受けて採用内定した後
9月には,関西で,いくつか大学院を受験する予定でした。
2年間は,バイトに便利な大学から遠い静岡駅周辺に
住んでましたが,この23歳の春に最初に住んでいた大学
に近い最初の長屋アパートの近くで,同じ作りの長屋の
1室に引っ越してきたのが,間違いのもとでした。
それから,57歳の春に東京で心臓手術を受けて障碍者
プータローになるまでの33年間.仮面ウツ病で苦しみ,
トランキライザーを手放せない人生となったのでした。
わずかなキッカケで,学生全体のイジメ,大学周辺
でのムラハチに逢い,そのうち,イジメが妄想か現実か
区別できない精神状態のノイローゼになり,逃げること
もできなくて部屋に閉じこもるようになって就職を
考えるどころではなくなりました。
心を許せる友もいたのですが,大半は留年せずに卒業
していなくなっており,知らない学生が多くて残る友人
も(被害妄想かも知れないが),いく人かは,むしろ,
心を許していた故に,辛い敵となったため.以後人生
で表面的な付き合いの友はいても,心は許せなくなり
喜怒哀楽を隠すポーカー仮面となったのでした。
ともあれ,バイトはしないと飢え死にするので大学
周辺は避けて「イハラグリーン」で,東名高速の清掃
関係,掛川にジャスコデパートができたときに商品棚
の組み立て,また,高速パーキングのガードマンなど,
静岡や清水から遠い場所で仕事をしました。
この頃は,辛くて人生そのものからも逃げたくて
死にそうな心でした。この当たり70歳の今だにトラウマ
が消えてないので,よく覚えているけれけどあまり思い出
したくないです。
とにかく,夏休みに大阪の伯父伯母の家に逃げて滞在
し,そこを起点に計5つの大学の大学院院を受けました。
以前は,大学入試の敵討ちで,京大も受ける計画でした
が,そうした元気はなくて,阪大理.阪大基礎工,関学大
理,大阪市大理,神戸大理に願書を出しました。
受験は,この順だったか?はっきりしないけど最初の
3つまでは受験どころじゃなく,被害妄想で嘔吐しそう
になって途中トイレに閉じこもったりしました。
特に,蛍池で阪大を2回受けたときはヒドかったと記憶
しています。関学は私立で入学金,授業料など高い学費が
心配でしたが,冷やかしじゃなく,尊敬している今村先生
に逢って師事できればという期待もありました。
気分悪かったながらも,1次合格で面接を受け,何か失敗
したらしく,最終的に不合格でしたが,高い学費が心配
というのもあったので,これは少しホッとしました。
大阪市大も有名な中野先生を知っていましたから
素直に素粒子論をやりたいと言えばよかったのに,1次
合格の5名に入りましたが,面接で,病気のせいか?
何となく心と裏腹に確率過程のようなことをやりたい,
と言って「うちにはそうした関係の研究室はないよ」,
と言われたので失敗したのかもしれません。
神戸大も大阪市大と同じく物理は零点に近かったけど
数学の成績が抜群に良かったらしく,80名程度の受験者
で1次合格の8名?に入りました。
その後も,両方の発表を親戚の家で待っていて神戸大
合格の連絡がありました。大阪市大は博士課程もあり,
かなり行きたかったのですが,どうも私以外の4名は
合格したらしいので,よほど面接の言動がまずかった
のかな?と思います。ま,1つだけ引っかかったので
よかったです。
さて,神戸に入学するとしても.24歳の来春のこと
なので,就職も内定してたけど,精神の病のせいで学生
の方が楽そうなので,就職を断って,何とか神戸で学生
を続ける道を選び,辛いけれど静岡に帰りました。
相変わらずの,病気に耐えながらの隠遁バイト生活,
でも,先に希望があり,自殺もせず乗り切って,24歳
の春,大学を卒業,4月には神戸の6畳9千円の部屋
に引っ越しました。
アパートは,大学のある六甲駅に近い阪急西灘駅近く
の五毛天神というバス停のそばでした。2階奥端の部屋
で向かいが浪人生,隣が若い保母さんでした。
西灘駅は,今は名称が王子公園駅に変わったらしです。
当時も公園と動物園があったようでした。実家は新倉敷
最寄りで,そこから帰ってくるときは「こだま」で1時間
新神戸は,布引の滝のそばにあり,バスで五毛天神まで
直行できました。
(※32年ぶりの2008年に新神戸に行くと地震のため,滝
のあった当たりがコンクリート補強されていました。)
静岡大には,医学部がなかったけど,神戸大には医学部
と付属の大学病院があり,高速神戸という駅から歩いて
10人くらい,大学病院の精神神経科にかかりました。
精神科は人目をはばかる時代で,病院玄関から長い廊下
を経てポツンと遠い場所にありました。
とにかく診察の結果,強迫観念症?というような診断
で精神安定剤を処方され,飲むと辛い症状が軽減された
気がしました。
転地したからといって,妄想が消えて完治するような
簡単な病気じゃなく,薬で興奮した交換神経を休ませ,
周囲に鈍感で,いつも眠いという安定剤特有の効果
があります。しばらくして大学近くのバス内で嘔吐して
親切なおばさんに助けられました。薬が強すぎたようで,
再度受診して量を減らしてもらい,なんとか日常生活が
できました。
でも病気のせいで,気付かぬうちに,普通じゃない姿
をさらしていたようで,研究室事務の女性などに,変な
奴と誤解される行動などもあったようです。
とにかく,静岡では耐えてるだけでしたが,診察を受けた
安心感とプラシ-ボ効果もあって,少しはまともな生活
を取り戻しました。
1年先輩で東大出身のTさんに,大手重機会社重役の
孫で,灘高1年生H君の数学の家庭教師の口を譲り受け,
その収入が週1回で月3万円,そして大学院の奨学金が
3万2千円(前年までの2万5千円から増額),これだけ
でも暮らせましたが,さらに西宮北口の立聖館予備校の
非常勤講師,芦屋のマンションで,宝塚志望の中2女子
2名,逆瀬川で高2男子の家庭教師もあり,神戸にいた
3年は.大学時代のような,泥臭いバイトはしません
でした。
神戸は,当時,父が養子なので血のつながりはない
けど大伯父が兵庫県知事で,また,5つ年上の実姉が
伊丹の武田食品に勤務の夫と西宮北口にいて甥と姪
もいました。また,大阪市生野区には養子に行った
住友生命社員の次兄夫婦に甥,姪が,そして同じ西灘
の福住通りには父の実妹の叔母夫婦も住んでいて
親戚ばかりでしたが。西宮の姉の家以外は交流は
少なかったです。
山歩き,スキーなど,先輩に混じって経験なかった
レジャーもやり,やがて修士課程の2年が過ぎて,
別大学の博士課程を受けることにしました。
研究室は坂田・谷川2中間子論で有名な谷川安孝先生
の研究室でしたが,指導教官は北添徹郎助教授で,後に
宮崎大教授になったらしいです。
一応,指導を受け修士論文は年内にはできました。
谷川先生は,推薦状を2通しか書かないというので
大阪市大と北大の2つにしました。
当時,北海道の札幌は,私が京都の次に住みたい街
でした。修士課程の入試は9月でしたが,博士の入試
は春3月末でした。
大阪市大は普通に論文審査で,作ってあったOHP
スライドで説明し面接受けましたが,実験の先生の
質問に,ついトンチンカンな答したようで落ちました。
偉い先生が「どうせアインシュタインの受け売りだろう
」とかいうので.よほど「てめーらだってそうじゃねえか」
と言いそうになったけど思い留ままりました。
私の論文,自分でも大していいとは思ってませんでしたし。
北大はJR神戸駅で、復5千円途中下車OKの普通
乗車券を買って,まず東京で.東大大学院地球物理にいた
友人H君宅に1泊,翌日東京観光を案内してもらった後,
「八甲田」という夜行急行列車で青森に向かい,早朝
に着いて,青函連絡船で函館にわたりました。
そこからまた,列車で札幌に到着したのは16時頃
でした。札幌の春はまだ雪が残っていました。一応,
予想して雪で滑りにくい靴を履いてましたが,歩くと
ときどきキュッキュと音がするのが気になりましたね。
かなり疲れてましたが1泊するホテルを決めた後,大学に
行って下見をしました。
翌朝,試験会場に行くと,作業着姿の事務か清掃員のような
オジさんが出てきて,論文面接じゃなく,トイレの場所など
細かく紹介してくれ1部屋を与えられで,出入り自由,何を
見てもいいからと,5問くらいのペーパーテストの問題用紙
と答案用紙を渡され「帰るとき私の部屋のドアの封筒
に入れといて」と言われました。
実は,そのオジさんが,かなり有名な素粒子論の主任教授
だったのです。
予想外のことで参考書も持参してないし,大学外へ出て
本屋や図書館に行って同じ問題の答を見てもいいわけ
でしたが,そこまでやる気もなく.1問目から自力で記憶
にも頼って,完全解答をしようと力んだ余り時間を使い
過ぎて,昼食は軽食を用意してたけど,夕食は近くで
済ませた後,このままじゃ,もう1泊になり,そんなお金
ないので,夜8頃に切り上げて中途半端な解答を上の階
の教授室の封筒に入れて,また夜行電車で帰りました。
その夜は結局,仙台で途中下車して東北大大学院の縫う仁友人
K君宅に泊まりました。H君もK君も元P共闘の同志ですが
彼らは4年で卒業,希望の大学院に合格してました。
それから,1年奨学金はもうないけど,聴講生として
大学研究室の私の机のある3人部屋に前と同じく在籍
して,研究勉強を続け,また博士受ける浪人でしたが論文
は新たな論文は書けず,教授の紹介で東京の会社の就職
試験受けて,27歳(1977年)春に学生時代は終わりました。
学生最後の秋は薬のせいか?体重が30kgから74kg
と異常に増えました。身長は178~176bmのままです。
話は,変わりますが,父は大正7年に兵庫県
明石の貧しい家庭の4人兄弟(男男男女)の
長男で生まれ,小学5年で岡山の名家で子供が
いない伯母(実後の姉)の養子に行きました。
どうしれも中学校に行きたかったかららしい
です。それで,「中学なのかどうか岡山第一
商業学校(元岡山東商業高校)に入って
卒業後,大高島屋に就職しました。
そこで若山出身の母に出逢い,できちゃった
結婚をしたらしいです。
父の就職から4,5年後に日本は本格的戦争に
入り,父は病弱だったせいか乙種で招集され
ませんでしたが,日本の敗色が濃厚で学徒出陣
まで,総動員の頃には海軍に招集されました。
最後,護衛艦で沖縄決選に向かう途中肝臓病
で浜松か松山で降ろされたので戦死を免れた
のでした。そうでないと私生まれてません。
戦後は20年間券の公務員で肝臓病再発して
46歳で死にました。岡山済生会病院で真夜中
昏睡したままでの臨終に立ち会いました。
長年勤務しても大学での後輩たちが自分を
追い抜いて周世するのを見て,大学出てないせいと考え
子供たちには,いい大学に入れと,教育パパになったのでした。
しかも,父の義父の兄=私の大伯父が,その養子先で
兵庫県知事となっていて.自分もゆくゆくは岡山県知事
を目指し,息子たちにも法学部を出て代議士に」なれと
いうような教育をしてました
私も,その子供を大事にする優しさの余り,コワい父
に逆らう度胸はなかったので,もし生きてれば高校で卓球部
にも入れず,理科系にも進めず,ましてや学生運動などせず
別の人生となったでしょう。
1965年4月の父の死は,くしくも母校の岡山東商が平松
投手を擁して春の選抜高校野球で優勝した日でした。
また.父の養父(私の祖父)は戦前に亡くなってますが明治に
なる前は下級武士(郷士)で,明治になり造り酒屋を始めた
らしく,地元では大地主で,私の時代,母子家庭とは
なりましたが,土地はあったようです。
裏庭の壊れかけた土蔵などに酒造りの道具などありました。
父の死後,自宅の敷地の半分以上は,姉の結婚などの費用
で何度かに分けて売却し,子供時代広かった屋敷の塀の
中の遊び場も荒れて後を継いだ長兄夫婦が一部を近所の
駐車場としているらしいです。
(以上1977年に就職で上京する前まで)
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