以前2006年8月6日(日)の「花火大会」という記事で,その前日の土曜日に板橋の花火大会に行ったことを書きました。
今日,5月26日(土)には,そのときに一緒に花火を見に行った巣鴨のスナック「花曜日」のママに誘われて,前から約束していたのですが,午後1時過ぎから5時頃まで,上野の不忍池にある野外音楽堂でジャズのライブを楽しみました。
ライブは「やねせんJAZZ FESTIVAL」という名称でした。
"やねせん"というのは,谷中,根津,千駄木の頭文字を取ったもので,その近辺にある酒や飲食の店やクリニックとかに所属しているらしい,数組のジャズのセミプロのグループが13時から1時間ずつ出演するという内容でした。
ジャズに限らず音楽を生で聴くのは,ずいぶん久しぶりです。
音楽でなく観劇であれば,昔は島氏との関連で新宿ゴールデン街の「ゲットー(Getto)」のマスターであった「高橋征男氏」の作,演出によるものを良くみていました。
つい数年前も「草薙良一氏」が主演の舞台を新橋で見ました。
また,かなり昔には西武線の新桜台駅の近くだったかにあった,「麿赤児(まろあかじ)氏」が主催の裸に白塗りで踊る舞踏集団の「大駱駝鑑」の公演を何度も見に行きましたね。
でも、音楽のライブについては私自身がメジャー志向ではないこともあるし,例えばオペラは好きなんですが,行きたいと思っても入場料が高額だし,規模の小さいライブ公演については積極的に行こうという気が起きなくて,なかなか見に行く機会がありませんでした。
今回のライブは,私は別に耳は肥えていませんが,総じて素人が聴いても下手なプロはだしの,かなりレベルの高い内容だと思いました。
大体のグループは,インストゥルメンタルのみで,スウィング系の演奏が中心であり,メロディ-のはっきりした素人受けしそうな演目が多かったようです。
中に,1グループだけ女性ボーカルがいて,やはりわかり安いバラードが中心の内容でした。
アランフェスのアレンジとか,ボサノバとかを含んだ,明るい内容ばかりでしたから,私の好みのブルース系とはちょっと違うかな?とは思いましたが,それなりに楽しめました。
特にベースは前から生で聴きたかったので,良かったです。
マッキントッシュのアンプなどを使っていたせいもあるでしょうが,オーディオでベースを聴くと,大体低音が出すぎてブーミーな感じがあり,これは演奏とは違うといつも不満を持っていましたが,生演奏を聴くと正に描いていたイメージ通りで音が澄んでおり,オーディオのブーミーな再生が忠実なものではない。ということを再確認しました。
やはり,生のベースはいいですねえ,中の一人がチェロかヴァイオリンのように弓で弾くのを見ましたが,これははじめて見ました。
意外といい音が出ますね,驚きました。
ピアノとか管楽器とかは生でなくても,それなりの音は聴けますが、ベースとかパーカッションとかは生が格別です。ドラムも迫力があって音が澄んでいました。
ところでジャズでピアノフォルテを聴くとピアノが弦楽器であることを改めて思い知らされますね。
とても天気が良く風もあったので,夕方西日が当たって暑く感じるまではとても快適で,ジャズは「子守唄」としては最適なようで,ワインを飲みながらということもあったのでしょうが,何度か居眠りを繰り返していたようです。
真ん中の方の席は招待席で座れなかったので,私達はカブリツキで左側のスピーカーのすぐそばの席にいました。
こんなに近くてもさほどうるさく感じなかったのは,室内と違って野外であったせいか,それとも演者が上手で耳に心地よかったせいなのでしょうか。
野外音楽堂といえば,昔,学生時代に70年安保関連のデモに参加するため私の通うS大学のあるS駅から800円の運賃で国鉄の各駅停車に乗って東京まで行き,日比谷の野外音楽堂での集会によく参加していたのを思い出します。
当時の日比谷野外音楽堂は,あまりキレイではありませんでしたが今もそうなのでしょうか?それに比べると,不忍池野外音楽堂は屋根もあるし雲泥の差を感じました。
また,やねせんの1つ千駄木もなつかしいです。
S大学から東大の大学院に数名が入学したのですが (私ではありません ),そのうちの3名は当時の私の親友でした。
そして,そのうちの2名はこの千駄木周辺に住んでいました。
その1人はH君で,彼は確か地球物理学の竹内均氏の研究室にいました。
彼は大学生時代には数少ない同じクラスの私の同志の1人で,S大:P共闘(物理学科共闘会議)の一員でした。(35人くらいいた物理学科の同学年で当時いわゆる「暴力学生と呼ばれていた反日共系の異端者」は私も含めてほんの4~5名くらいでしたね。)
P共闘は当時,デモ隊の最前列を任された最強の武闘派だったのですが,物理など勉強の話をしていることも多かったので,「宿題共闘か?」と揶揄されたこともありました。
物理学科の学生が物理の話をしていると白い眼で見られる時代だったのですから,今の学生から見るとかなり違和感を感じるでしょうが,当時はそれが普通でしたし,そもそも共闘会議の前にP=Physics=物理学などという名称を入れていたのも白眼視される原因の1つでした。
そういえば,やはり同じクラスにいた同志の1人で,群馬の前橋だったかの出身のS君は顔は無邪気でかわいい感じだったのに,どこか頭のタガがはずれていたようで,やることは全く無茶苦茶でしたから,当時はかなり無茶な方だった私もついていけませんでした。
学内集会の最中に,校舎の屋上からテープ代わりにトイレットペーパーを数本垂らしたり,市内での普通のデモ行進の最中に一人だけ竹竿を持って県警に突撃して捕まったりという予定外の行動をしていました。
彼とマージャンを囲むと,積み木のように暗刻や順子は縦に3枚重ね,対子は縦に2枚重ねという感じで並べるので,だいたい手がわかってしまうというおバカなゲーム内容でした。
彼は精神病院に入退院を繰り返していましたが,噂によると大学に8年いて結局卒業できなかったらしいです。彼のお父さんは彼を心配してよくS市に来て,いろいろと話をしたものでした。
話を戻しますが,千駄木に住んでいた,もう1人の友達K君はかなり変人で政治思想的には当時はむしろ珍しいノンポリでした。専門に関しては物理学から,かなり畠の違う分子生物学に転向し,「ホヤ」を解剖したりしていたようです。
忘れられないのは,政治思想的には日共系で私とは相反していたのですが,それでも私とは親友関係で,私が東京に就職してからも,まだ東大大学院の博士課程にいて,三鷹だったかの寮に住んでおり,ときどき新宿などで落ち合って映画を見たり食事をしたりしていたT君です。
彼は愛媛県の大洲高校の出身で専門はプラズマ物理でしたが,結局は夭折してしまいました。
晩年は夜中に寮の壁をよじ登って落ちて骨折したり,「四谷駅の近くですれ違う反対向きの電車の一方から他方へ瞬間移動した。」などということなどを全く普通の口調で述べたりして,いろいろと奇行が目立っていました。
いろんなストレスが原因で精神病か神経症にかかり,それがひどくなっていたようです。
ついには,寮を出て埼玉の方に下宿して風の噂で非常勤の高校教師をしていたとも聞きましたが,部屋の入り口に未読の新聞がたまりすぎていたので,不審に思った大家さんか誰かが部屋を開けてみたら,変死していたそうです。
自殺かも知れませんが,事件ではなかったということなので,あまり詮索はされず死因は不明です。
彼が以前から自分の博士論文に関わる研究テーマと同じテーマで研究をしていた他人(外国の論文らしい)との確執で悩んでいるのは少しは知っていましたが,私はそんな問題では神経症などにはかからない性格なので共感することはできず,理解はできませんでした。
彼の場合は,他の世界を知らないこともあり,少し真面目過ぎたんでしょうね。
(残酷映画が好きで,新宿で「徳川牛裂きの刑」という映画に付き合った直後に,海老天丼を食べに誘われたのにはちょっと閉口しました。)
私も,今は長年共生してはいるけれど,もうほとんど症状は出ないうつ病の,かなりひどかった初期のトラウマのせいで親友どころか友達もいないし,未だに友達を作ることには抵抗があってできませんが,20代のころはまだ親友がいたんだなあとジャズを聴きながら,なつかしく思い出していました。
かなり,脱線してしまいました。今日はこれで終わります。
http://folomy.jp/heart/「folomy 物理フォーラム」サブマネージャーです。
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